BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:20--年--月--旬


神奈川県 横浜市(港北区/新横浜)~ 市内人口 377.5万人、一人当たり GDP 337万円(横浜市全体)


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  小机城跡
  亀之甲山陣城跡(太田道灌の 野戦陣地跡)
  横浜国際総合競技場(日産スタジアム、「横浜 F・マリノス」本拠地)、横浜アリーナ
  雲松院(小机城代・笠原氏の菩提寺)、土井谷砦
  鳥山城跡(鳥山館、鳥山八幡宮)、瑞雲山・三会寺、馬頭観世音(駒形明神)、城郷地区
  大豆戸城跡(八杉神社&本乗寺)
  篠原城跡(金子城)、長福寺
  矢上城跡(中田加賀守館)、保福寺、岩屋堂、慶応大学 日吉キャンパス、日吉地下壕
  加瀬城跡(夢見ヶ崎 動物公園、太田道灌公 碑、北加瀬&南加瀬地区)
  井田城跡(井田山緑地 神庭緑地)、蟹ヶ谷 古墳群(神庭遺跡)



神奈川県下を旅する際、藤沢市、厚木市、鎌倉市横須賀市相模原市、小田原市などの郊外都市に投宿するよりも、大都市「横浜駅」前とか、南隣の横浜関内、新幹線が停車する「新横浜駅(横浜駅から JR横浜線で北へ移動)」前のホテルの方が安価で(ツインルーム含)、コスパも非常によい。コンフォートホテル横浜関内、レンブラントスタイル 横浜関内(旧ホテルウイングインターナショナル 横浜関内)など。
鎌倉横須賀大船駅前 などへは都度、電車訪問し、日帰り往復の範囲内で視察を繰り返せばよいだろう。神奈川県西部の小田原城や一夜城跡、石橋山古戦場などへの訪問時には、また別に宿を手配すべきだろう。

こうして横浜駅前か新横浜駅前に 7~8連泊する中で、一日を割いて横浜市内の城跡を散策してみた(下地図)。

横浜市

まず、JR横浜線で「小机駅」へ移動し、北口から徒歩 15分ほどの「小机城址市民の森公園」を目指す。

この標高 42 m(麓からの高低差 22 m)の丘陵上に、かつて小机城が立地していたわけだが、現在は第三京浜高速道が南北を縦断し、城跡は東西に分断される状態となっている(下絵図)。このため、城郭遺構もそれだけ喪失されているわけだが、それでもほとんど手が加えられていない 遺構(土塁、大きな空掘、土橋など)は見ごたえ抜群で、戦国時代当時の北条氏特有の「土の山城」を堪能できた。城郭全体を二重の土塁と空堀で防備する、大規模な縄張り設計であった。

目下、本丸跡とされる場所は野球グラウンドぐらいの面積があり、毎年 4~5月に開催される小机城址まつりでは、そのメイン会場となっている(下絵図)。この本丸周囲に残る空堀は特に大規模なもので、堀幅の上辺 12.7m、底辺部 5 m、深さ 12 mの台形型で掘削されていた。

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また、この小机城跡からは、室町時代中期に太田道灌が小机城攻めの際、本陣を構えたという「亀之甲山(今の 横浜市港北区新羽町)」が見通せる(下地図)。ちょうど鶴見川の対岸に位置する丘陵で、当時は木々を伐採し、土塁の城塞が対峙し合っていたことだろう。

さらに、この小机城の周囲には、支城である 茅ヶ崎城跡(横浜市都筑区茅ケ崎東)や、荏田城跡(横浜市青葉区荏田町)なども点在するので、周囲の遠景も撮影しておきたい。


小机城の造営時期については不明な点が多く、平安時代末期~鎌倉時代に関東で武士団が勃興し出したタイミングで築城されたという説や、室町時代前期の 1430年ごろに関東で勃発した兵乱の最中に上杉家により築城された、とする説などが提唱されている。その地名から、室町時代に存在した 在地土豪・小机氏に関連する城塞だった可能性も指摘される。
鶴見川沿いに形成された丘陵部の先端に築城されており、当初は堀切で台地を切断する形で簡易な 避難用城塞(根小屋スタイル)が構築されていたようである。

本城がはっきり史書に言及されるのは、 室町時代に 関東管領・上杉氏の家中紛争がきっかけで戦乱が勃発した際、上杉家筆頭家老の 太田道灌(1432~1486年)によって攻め落とされた、という記録であった。この頃はまだまだ小規模な城塞のままだったと考えられる。

この時代、相模・武蔵・上野国守護は関東管領・上杉家が独占しており、当然、この鶴見川沿いも上杉家のテリトリーであったが、山内上杉家の 家臣・長尾景春が一門の家督争いで武装蜂起すると(1476年)、上杉家の家臣団を二分する大騒乱へ発展してしまう。この時、小机城には景春に組した矢野兵庫助が籠城し、上杉家に抵抗することとなった。

これを鎮圧すべく、江戸城 から太田道灌が攻め込んできたわけである(1478年1月)。
この時、道灌は鶴見川の対岸にある亀之甲山に陣城を構築し(下地図)、約 2ヶ月ほど対峙したとされる。当地への攻撃は、武蔵国南部の 旧領主・豊島泰経(生没年不詳。石神井城を本拠地とする 名家・豊島氏の当主だったが、 1477年春の 江古田・沼袋原の合戦で大敗し、南武蔵の本領を喪失していた)を匿った、という背景が指摘されてきた。なお、実際には、旧領を追われて以降の豊島氏の消息ははっきりしておらず、泰経自身がこの小机城まで逃亡してきたのか、もしくはその一門の誰か、有力家臣などが逃走してきただけだったのかもしれない。

結局、小机城は落城してしまうわけだが、この時の戦役で討死した将兵を供養した「九養塚」や「十三塚」、太田道灌が小机城の捕虜を処刑したという「磔原」、その血で谷戸が赤く染まったといわれる「赤田谷戸」などの地名が、かつて城跡の南側にあった城郷地区に残っていたという(今は現存せず)。

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その後、太田道灌の活躍で関東の兵乱はいったん平定されるも、 1486年夏、主君・上杉定正によって道灌自身が暗殺されてしまうと、再び、関東は戦火に包まれることとなる。そのまま関東で一気に下剋上が広がり、群雄割拠の戦国時代が本格化していくのだった。この落城直後の混乱期、小机城は一時的に廃城となっていた。

このタイミングで伊豆から台頭した 北条早雲(1456?~1519年。下家系図)により、 100年以上もの間、関東管領として君臨した上杉家も相模国の領地を浸食されるようになる。早雲の後を継いだ 北条氏綱(1487~1541年。下家系図)は、さらに攻勢を強め武蔵国南部の併合にも成功するのだった。このエリアは、鶴見川と多摩川に挟まれた小机郷を中心とする地区で、併合当時の 1522~1524年には、北条氏の最前線地帯として特に 拠点網(のろし台や見張り台など)の構築が進められることとなった(1524年には 江戸城 も北条氏に占領される)。

この時、在地土豪らを大小 29の 武士団(小机衆)に編成し、その統括を担ったのが家老の 笠原信為(?~1557年。北条早雲に従い駿河から伊豆討ち入りに随行した 譜代家臣・笠原信隆の子)であった。同時に、放棄されていた小机城を復興し、まだ 2歳だった北条氏堯 (1522?~1562年。北条氏尭。北条氏綱の子)が城主として派遣されてくると(1524年)、その後見役として笠原信為が統治の全権を委ねられたのだった。

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この時に小机城は大規模に改造され、巨大山城へ生まれ変わることとなった。丘陵地帯の先端部だけだった曲輪を、さらに二か所増築すべく、台地を平面に削って整地する大工事を手始めに、それら三曲輪を守備するように、丘陵斜面上に腰曲輪、帯曲輪が複数設けられ、連郭式の巨大山城となっていったようである。上絵図。
以降、北条領内にあって、江戸城玉縄城、榎下城などの中継拠点として活用され、同時に鶴見川の河川交易を監督する重要拠点ともなっていく。

1542年5月、玉縄城主・北条為昌(1520~1542年。北条氏綱の三男。下家系図)の死去に伴い、北条氏綱の 末弟・北条幻庵(1520年ごろ~1589年。北条早雲の末子。下家系図)が三浦衆と小机衆を統括することとなり、その嫡男だった 北条三郎(時長。?~1560年。下家系図)が小机城主に配置される。

1560年、北条三郎が死去すると、実子がなかったことから、実弟の 北条氏信(綱重。北条幻庵の次男。?~1569年。 1569年末に東駿河へ今川方の援軍として駐屯中、武田軍との合戦で戦死。下家系図)が家督を継承するも、まだ若年だったことから、再度、氏康の弟・北条氏尭(氏堯。1522~1562年。下家系図)が小机城主に派遣されてくることとなった。
しかし、間もなく氏尭も死去してしまうと、北条幻庵の婿養子に入っていた 北条三郎(1554~1579年。北条氏康の七男で、北条氏政の弟。下家系図)が城主を継承する。しかし、北条三郎は越相同盟により上杉謙信の養子となったため(1570年、上杉景虎へ改名。最終的に、11578~79年の謙信の 後継者争い「御館の乱」で敗れ、自刃に追い込まれる)、幻庵は娘を離縁させ、北条氏光(北条氏康の末子。?~1590年。下家系図)に嫁がせて、そのまま小机城主を継承させるのだった。

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こうして城主が目まぐるしく交代する一方で、家老の笠原氏は永続的に城代として小机衆を統率し続け、南武蔵の実質的支配者として君臨することとなった。1557年に 笠原信為(?~1557年。北条早雲に従い駿河から伊豆討ち入りに随行した譜代家臣・笠原信隆の子)が死去すると、実子の 笠原康勝(生没年不詳)が継承し、その後は子の笠原照重が継ぐ予定であったが、1581年末に武田方に寝返った 義兄・笠原政晴(?~1590年)により討ち取られてしまったことから、幼少だった照重の 子・笠原虎千代が最後の当主を継承することとなる。

こうした背景から、小机城の周辺では城主・北条氏に関する史跡や伝承はほとんど伝わっていないが、城代だった笠原氏に関する伝承は複数伝えられており、笠原氏こそが小机領の実質的統治者だったことの証左となっている。長期間にわたって小机城下に居館を構え、直接的に所領経営や寺社造営を手掛けるなど、城主の北条家よりも地元に密着した存在だったわけである。

しかし、1590年の豊臣秀吉による小田原征伐では、城主の北条氏光ら小机衆の主力はすべて小田原城守備に駆り出されてしまい、小机城の守備は放棄され、城代として残された幼少の笠原虎千代はそのまま戦わずに開城したか、脱出したと考えられる。

戦後、北条氏光は北条氏直らと共に高野山へ追放され、同年中に死没する。虎千代は成人後、笠原重政と名乗り、関東に入封した徳川家康の配下に組み込まれ、5 kmほど離れた 台村(今の 横浜市緑区台村町)へ移住して家系を存続させている。小机城はそのまま廃城となったようである。



見学後、再び「小机駅」へ戻る道中、ついでに東隣にあった 横浜国際総合競技場(日産スタジアム)に立ち寄ってみた(下地図)。Jリーグの強豪「横浜 F・マリノス」の本拠地であり、FIFAワールドカップやアジア大会などの国際試合の会場として、度々、メディアで目にしてきた施設だった。

いったん「小机駅」に帰着すると、さらに南側の鳥山町一帯を散策してみることにした(下地図)。

この駅すぐ南側にある「雲松院(うんしょういん。下地図の左端)」は、小机城主・笠原信為(?~1557年。北条早雲に従い駿河から伊豆討ち入りに随行した譜代家臣・笠原信隆の子)が 主君・北条早雲と 父・信隆を追悼するために建てた寺院で(1525年)、以降、城代・笠原氏の菩提寺となってきたという。境内の一番奥の高台に、笠原氏一族の墓所が現存する。

その東隣の丘陵上には、かつて小机城の支城だった土井谷砦があったという。下地図。

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さて、鳥山町の中心部を目指し、県道 12号線を東進すると、瑞雲山・三会寺があった(上地図)。鎌倉時代初期、佐々木高綱が源頼朝の命により建立したという寺院で、「小机城址まつり」の 開催時(毎年 4~5月。下写真)には、約 500名から成る武者行列パレードの出発点となっている。

ここから 5分ほど南進すると、鳥山公民館の裏手にある「鳥山八幡宮」に行き着いた。上地図。
平安時代末期~鎌倉時代初期にかけて、源頼朝の御家人だった 佐々木高綱(1160~1214年)の築城した緊急避難用の城塞があったとされる場所である(このため「鳥山城」とも別称される)。現在、全く城塞遺構は残存しておらず、その跡地に設けられた八幡神社は、古くから地元の鎮守として大事に祀られてきたという。
なお、彼の 居館(鳥山館)自体は、この高台の西側の山麓に造営されていたようである。周囲には複数の小川が流れ、古くから豊かな土地柄だったとされる。

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この八幡神社から東へ徒歩 5分の場所に、「馬頭観世音(ばとうかんぜおん)」(駒形明神)のお堂がある(上段地図)。ちょうど南から東へ流れる鳥山川沿いに立地し、かつては井戸もあったと伝えられている。ここは、佐々木高綱(1160~1214年)が宇治川の合戦時、先陣争いで乗っていた愛馬「生月(いけずき)」が死んだ後に供養した場所、と言い伝えられているという。

最後に、当地の地名「城郷」であるが、1927年に横浜市へ合併される前に存在した村名で、今でも学校や幼稚園などの名称に冠されて使用されている(上段地図)。現在は、横浜市下の 小机町・鳥山町・岸根町の 3町に分割され、全く行政上の地名には残っていない。この「城」は「小机城」を指し、「城郷」とは「小机城のある村・地域」を意味した名残りという。


佐々木高綱(1160~1214年。下家系図)は、源頼朝が伊豆に配流中から近侍しており、 1180年に頼朝が打倒平氏で挙兵すると、真っ先に参陣した古参の部下であった。

そもそも父の 佐々木秀義(1112~1184年。下家系図)は近江国蒲生郡佐々木荘の領主であったが、 1159年の平治の乱で源義朝に組するも、義朝方が敗れると、伯母の夫である藤原秀衡を頼って奥州へ落ち延びる途中、相模国の渋谷重国に引き止められ、その庇護を受けて 20年余りを渋谷荘で生活していた。高綱自身は父らの近江脱出時には幼少だったことから、京吉田の叔母の下で養育されたとされる。十代に至ると父に関東へ呼び出され、源義朝の長男・頼朝の近侍に付けられた、といわけだった。
以降、佐々木家の 4兄弟ともに頼朝の信頼厚く、特に 4男だった高綱は、1184年に勃発した木曾義仲との宇治川の合戦で 梶原景季(1162~1200年。梶原景時の嫡男)と先陣争いを演じたことで名を馳せる。並走中、景季に馬の腹帯が緩んでいることを指摘して時間稼ぎし、宇治川対岸への一番乗りに成功した、というものだった。

そのまま幕閣として頼朝に近侍しつつ、長門国と備前国の守護職に任命という大出世を遂げる。しかし、基本的には、高綱はこの鳥山館や鎌倉府内の邸宅に居住し続けたようである。 1195年、35歳の若さで隠居すると、家督を 長男・重綱(下家系図)に譲り、自身は諸国を巡回したとされ、最期は 信濃国筑摩郡(長野県松本市島立)で死去したという。

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なお、佐々木高綱の父・秀義は、息子らの活躍を高く評価され、再び故郷の近江国蒲生郡佐々木荘への帰還を許可される。そのまま秀義の 長男・佐々木定綱(1142~1205年。上家系図)が近江国守護職に任じられて、佐々木氏一門は全国に多くの知行地を有する一大名家へとのし上がるのだった。これが、全国に伝わる佐々木系源氏の由来となっていくわけである。

定綱の死後、その 四男・佐々木信綱(1181?~1242年。上家系図)が近江国守護職を継承する。 その死後には四人の 息子(長男・重綱、次男・高信、三男・泰綱、四男・氏信。上家系図)に近江国内の知行地が分与されることとなり、彼らの子孫がそれぞれ大原氏、高島氏、六角氏、京極氏へ分家していくわけである。

そして、佐々木(六角)泰綱(1213~1276年。上家系図)が近江守護職を継承し、その佐々木六角家は 次男・頼綱へと引き継がれ
、三男・頼起、四男・長綱、五男・輔綱はそれぞれ佐々家、西條家、鳥山家へと分家していくこととなる(上家系図)。この五男・佐々木輔綱の家系が、関東へ戻り鳥山館とその知行地を継承したことから、鳥山輔綱を名乗っていったと推定される。

鳥山館を造営した本人である佐々木高綱は早々に出家し(35歳)、家督を長男・重綱に譲ると、この鳥山の知行地も譲渡していたが、 1203年に延暦寺衆との戦役で重綱が戦死してしまうと、高綱は次男の光綱にこの領主を継承させたようである。
しかし承久の乱以降、ますます幕府内で北条氏の力が増す中、高綱の末弟である 佐々木義清(生没年不詳。上家系図)が出雲・隠岐両国の守護職に任じられて山陰へ異動することとなると、後ろ盾喪失の危機感を抱いた佐々木光綱はこの養子に入り、共に山陰へ移住することを決意する(彼らが「出雲源氏」の祖となっていく。上家系図)。こうして佐々木高綱の家系が鳥山地区から離れると、代わって甥の一族だった佐々木輔綱が近江国から鳥山に入封し、鳥山輔綱と名乗ったというわけである。その後の鳥山氏の動静は不明だが、戦国時代にはすでに廃城となっていたようである。



再び「小机駅」に戻ると、JR横浜線に乗車し「菊名駅」で下車する。
そのまま駅から徒歩 5分ほどの場所にある「大豆戸(まめど)城跡」を訪問してみた。下地図。

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横浜市港北区大豆戸町の「八杉神社」と「本乗寺」を含む、丘陵上に築城されていたというが(上地図)、現在は完全に宅地開発され、全く城館遺構は残っていない。駅から続く急な登り坂だけが、往時の要害ぶりを今に伝えていた。八杉神社の脇にある細い路地を上ると、高台からは鶴見川流域が一望できた。


天文年間(1532~55年)に、北条氏の家臣だった 小幡泰久・政勝父子が、一帯の知行地支配のため本城館を居城としたようで、小机城から東へわずか 2 kmの距離にあったことから、小机衆に組み込まれていたと考えられる。1590年に北条氏が滅亡すると、関東に入封した徳川家に仕え、江戸時代を通じ旗本として存続したという。

なお、小幡泰久は小畑久重の子で、もともと今川家の家臣だったが、北条家に鞍替えし、1558年、伊豆戸倉での反乱鎮圧戦で討死したとされる(ただし、死亡年代は 1566年とする説もあり)。先の「本乗寺」はこの泰久が開基した寺院とされ(1554年)、彼の墓石が今も保存されている。また「八杉神社」であるが、もともとは八王子神社といい、第二次大戦後、字大西にあった杉山神社と合祀され、現在の名称へ変更されたという。



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さらに、JR新横浜駅方向へ 5分強ほど進むと、「篠原城(金子城)跡」があった(上地図)。菊名駅から直行だと徒歩 11分、JR新横浜駅(東口)からだと徒歩 15分、ほどの位置関係だった。この一帯も急坂の続く地形で、アップダウンを繰り返しての移動となった。

城跡は高低差 30 mほどの小高い山上にあり、横浜市の管理下で緑地公園として保存されていた。麓の正覚寺付近から細い坂道が通じており、城跡に関する解説板があった。敷地内には土塁や曲輪がはっきりと残存しており、見ごたえ抜群だった。なお、公園の周囲は完全に宅地開発されてしまっており、西側には新横浜駅前に林立する高層ビル群が見渡せる。


相模や武蔵国に数多く存在した丘陵上に築城された城塞群の一つで、古くから「金子城」と呼ばれていた。もともと付近に鎌倉街道が通っており、交通の要衝だったことから、平安時代末期にはすでに、金子十郎家忠という地侍が居館を構えていたという。
その後、金子氏は戦国時代まで生き残り、北条氏の支配下に組み込まれて、小机城の支城として機能したようである(この頃には「篠原城」と称されていた)。 最後の 城主・金子出雲守は 1590年の北条氏滅亡後は帰農し、この地の名主として江戸時代にも命脈を保ったようである。

JR横浜線の南側にある「長福寺」には、この金子出雲守が寄贈した薬師如来像が安置されているという。上地図。



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再び「菊名駅」に戻り、今度は東急線東横線に乗車して「日吉駅」で下車してみる(上写真)。
そのまま駅南側にある慶応大学日吉キャンパスの銀杏並木を通過し、日吉記念館(入学式、卒業式などの開催場。上写真)の右脇の階段を降りて行くと蝮谷テニスコートに至る。このテニスコートの周りには合気道部、空手部、ボクシング部などの部室が点在しており、弓道部の部室方向をさらに南へ進む(下写真)。

その麓あたりに日吉町宮前自治会公会堂があり、真横に、矢上城主・中田加賀守が建立したという岩屋堂が保存されていた(下写真)。戦国時代後期、外堀を成していた矢上川の洪水で、矢上城の崖面が崩落した際、聖観音像が出土したことから、その場所に観音堂を建て安置したという由来が紹介されていた(下古地図)。

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再び丘陵を登り、北端にある慶応高校野球部グラウンドを目指す(上写真)。その野球場下に「保福寺開基中田加賀守累代墳墓之地」と刻まれた石碑が設置されていた。ちょうど高台へ上がる階段の登り口に位置し、真横には東海道新幹線のトンネル入り口があった。上写真。

そして、この野球場とハンドボール場の一帯が、城主・中田氏の 居館跡(中田加賀守館と称される)と考えられている。複雑な地形だった丘陵状の 台地(高低差 20 mほど。地元では「慶応山」と呼ばれているらしい)の先端部分を切断する形で堀切が掘削され、中世関東のセオリー通り、避難用城塞(根小屋スタイル)として丘陵上に造営されていたわけだった。ただし、城主らは日常的に丘下の谷間に居住したと考えられ、家臣団の屋敷や 保福寺(城主・中田加賀守が一族の菩提寺として開基したとされる)が立地していたようである。この保福寺は、今も現役で同じ場所で存続されている。

そして、この丘陵エリアと谷間を取り囲む形で城下町や村落が展開され、その外周を北から東へ流れる矢上川が天然の外堀として取り囲んでいたわけである。現在、城郭遺構は全く現存していないが、台地上から目に入る風景は平野ばかりで、非常に見通しの効く天然の要害であり、領内は豊かな水田地帯が広がっていたことが伺い知れた。

なお、先の「保福寺開基中田加賀守累代墳墓之地」の石碑は、江戸時代に当地を領有した 名主・渡辺氏により設置されたもので、かつての主君の居館跡、墓地跡として「不可侵の禁忌」を込めて建立されていたものという。戦国期の旧臣が江戸時代を通じて忠義を守り抜いた名残り、というわけだった。

矢上城は、北条氏の家臣だった中田加賀守の居城として知られる。
もともと中田家は 江戸城主・太田氏 に仕えていたが、北条氏の武蔵国進出によりその軍門に下ると(1522~24年ごろ)、以降、北条氏一門が城主を務めた小机城の 奉公衆(「小机衆」と呼ばれた)に組み込まれていた。

当時、中田家は 3万石ほどの領主で、矢上村から稲毛一帯の郡代を務めていたという。知行地の矢上村に居館を構え、城下町や村落、寺院や神社などを整備していたようである。かつての矢上村の 鎮守・熊野神社や、城主・中田家の菩提寺・保福寺などが現存するが、これらは中田氏支配時代の名残りというわけだった(下古地図)。逆を言えば、この丘陵の麓一帯が矢上村の中心地というわけで、慶応大日吉キャンパスの東側、矢上キャンパスの南側に集落が集中していたようである。

そして、この矢上城下を鎌倉古道が貫通していたとされる。現在まで継承されている熊野神社はこの鎌倉古道沿いにあったというから(上地図、下古地図)、かなり丘陵の麓ギリギリを通行していたようである。鎌倉~室町時代にかけて、この古道は 鎌倉 から江戸湾沿岸へ出る重要な 街道(鎌倉街道下ノ道)を成しており、交通の要衝だったという。現在の矢上橋あたりに矢上川の渡河ポイントが開設されていたことから、この矢上城が立地する高台は、街道と渡河ポイントを監視するに絶好のロケーションだったことが分かる。下古地図。

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しかし、1590年に豊臣秀吉による小田原征伐戦が勃発すると、中田加賀守は他の小机衆と共に小田原城へ詰めるも、その落城後に矢上村へ落ち延び、同年中に亡くなったと伝えられている。その亡骸は保福寺に埋葬されたという。
その後、子の中田藤左衛門は別の知行地だった川島村へ移住し、父・加賀守の分骨を持参して正観寺を建立し、塚を築いて石碑を立てたされる。江戸時代に入り、中田藤左衛門の長男が幕府に召し出され、500石の知行地と神田於玉ヶ池で屋敷地を与えられるも、後継ぎなしで断絶してしまうと、追加で召し出された藤左衛門の次男が川島村の領地を継承し、その家系は今日まで続いているという。

北条時代から支配した川島村を、江戸時代もそのまま知行地とした中田氏は、矢上村にあった陣屋を川島へ移し、名主となって帰農したようだが、その屋敷には当初、周囲に堀が掘削されていたといい、武士の魂を失っていなかったようである。



さらに南進し、夢見ヶ崎動物公園を目指す。上段写真の後方。

ここも独立した丘陵となっており、西半分は無料の市営動物園、東半分は夢見ヶ崎公園として整備されていた(下地図)。この丘陵上には、10基ほどの古墳が残っており、それらの解説板はあるものの、加瀬城跡に関する石碑や解説板、遺構は皆無だった。その他、園内には 富士見坂、富士見デッキ、天照皇大神、冨士浅間神社、熊野神社、了源寺などが点在していた。下地図。

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なお、園内には室町時代の 名将・太田道灌の 石碑(太田道灌公碑)が建立されており(上地図)、地名「夢見ヶ崎」の由来となったエピソードが綴られていた。曰く、武蔵国西端の沿岸部を統括する拠点として、平野が続く一帯にぽつんと立つ細長い 独立丘陵「加瀨山(標高 35 m、高低差 30 mほど)」上に城塞建造を計画し、道灌自らこの地に宿営していた際、ネズミ(白い鷲、という説もあり)に兜を盗られる夢を見たことから、縁起が悪いということで築城計画自体が中止されることとなった。以降、一帯は「夢見ヶ崎」と称されるようになった、というわけらしい。

こうした逸話もあって、加瀨山には大規模な城塞が造営されることはなく、古墳時代からの古墳がそのまま今日まで残存し得たわけだった。鎌倉時代~室町時代にあったという加瀨城も、かなり小規模なもので丘陵全域を大規模に改造することもなく、近くを通過していた鎌倉街道をにらむ見張り台程度の施設だった、と考えられる。矢上川を挟んで対岸に立地する矢上城の支城群の一つだったようである。
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鎌倉時代中期、山城国相楽郡加瀬から転封されてきた加瀬左近資親がこのエリアを与えられ、居館を構えたと伝承されている。平野部に居館を設け、小山だった加瀬山には簡単な 避難用城塞(根小屋スタイル)が設けられたと考えられる。
この名残りから、夢見ヶ崎公園の西側一帯は、今も「北加瀬」「南加瀬」という地名が継承されている。

その後、室町時代中期に至り、関東管領上杉氏の内紛を発端として兵乱が各地で勃発すると、筆頭家老だった 名将・太田道灌がこの鎮定に奔走するわけである。その過程で、武蔵国西端の沿岸エリアの拠点として、鎌倉時代からあった加瀬城跡を大規模に改修する計画を立てるも、先の夢のエピソードがあり、結局、改修工事は中止されるのだった。その際、太田道灌に敵対した加瀬氏は、下総国へ逃亡したと伝えられているが、詳細は不明という。
以降、加瀬城はそのまま放棄されたようである。



ここから国道 14号線沿いに北へ向かい、東急東横線の「元住吉駅」南口まで徒歩移動する。木月四丁目の交差点を右折すると、国道 2号線(綱島街道)に入り、 ここにバス停「木月四丁目」があるので、このバス停から、1時間に 4~6本が運行されている路線バス(杉01/杉02、川崎市営バス)に乗車する。10分ほど乗車し、バス停「井田営業所前」か、次の バス停「中央療育センター前」で下車する(下地図の黄色ライン)

ここから矢上川沿いにある「神庭緑地(川崎市中原区井田 3)」を目指す。この竹林公園の北端に、高さ 2 m、長さ 100 mほどの土塁跡が残っていた。もともと円墳、前方後円墳、円墳の 3基(蟹ヶ谷古墳群。6~7世紀の古墳時代後期のもの)が連なる地形で、それらを土塁として連結させていたという。
なお、かつての主な城塞跡地は現在、南東にある県立中原養護学校の敷地となっている。ただし、一帯では、縄文~古墳時代にかけての古代集落の遺構や遺物が発見されているものの(神庭遺跡)、はっきりとした城塞遺構が発見されたことはなく、実際は、古墳跡地を物見台か狼煙台施設に転用した程度のものだったのかもしれない。

横浜市



多摩地方から続く丘陵地帯が、多摩川沿いに東京湾へと続く高台上に、複数の城塞が配置されていたわけだが(上段地図。鎌倉の防衛ライン。 小沢城、亀井城、枡形城作延城有馬城、井田城、加瀬城など)、いずれも丘陵の先端部を改造する形で築城されていた。井田城も標高 40 m(麓からの高低差 33 m)の丘城で、北麓を矢上川が流れ、東面と西面には谷が横たわる、要害の地形だったという。

鎌倉時代から一定規模の城塞があったと推定されているが、詳細は全く不詳という。一時期、赤堀入道某が支配したというが、はっきりと史書に言及されるのは、戦国時代に北条氏家臣の矢上城主・中田加賀守が守備した、という記述であった。矢上城の支城の一つであったと考えられる。中田加賀守は小机衆に組み込まれ、矢上城(港北区日吉:慶應義塾大学日吉キャンパス内)や 川島(保土ケ谷区)一帯を領有したが、 1590年の小田原城落城後に死没したとされる。



井田山緑地を見学後、再び路線バスか、徒歩で元住吉駅まで戻り、東急東横線で「横浜駅」へ帰着した(元住吉駅 → 横浜駅、16分、220円)。


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