BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:20--年--月--旬


神奈川県 相模原市 ① 緑区(津久井 / 串川)~ 区内人口 17.5万人、一人当たり GDP 330万円(県)


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  小倉橋、相模川、小倉の津、「東京 2020五輪」自転車ロードレース競技大会コース跡
  串川、串川橋
  信玄道(三増峠の合戦直後に、武田軍が一斉撤退したルート)
  隠し沢公園(三増峠の合戦時、武田方の一部隊が隠れていた場所)
  富士塚(1590年の豊臣秀吉の小田原征伐時、落城した津久井城兵の遺体を埋葬した伝承地)
  尻久保川、功雲寺、津久井城主・内藤景定の墓
  津久井城(山麓の居館跡、物見櫓跡、腰曲輪、堀切跡)
  信玄首洗池(三増峠の合戦後、武田軍が勝鬨を挙げ、首級の論功行賞を実施した場所)
  相模湖
  小松城(宝泉寺城。相模湖 北岸に立地。八王子城~津久井城間の中継拠点だった)
  川尻八幡神社古墳(扇塚。同じく相模湖 北岸に立地。平安時代初期の墳墓)



前日まで新宿 2泊、調布 2泊した後、夕方に「調布駅」から京王線で「橋本駅」まで移動し、ここから JR横浜線で「八王子駅」に到着した。この駅西側にある 2軒のアパホテルは、駅から距離がある分、非常にリーズナブルな価格帯で重宝した。3~5連泊する。
なお、羽田空港から東京到着の際は、空港バス「八王子行(1時間30分)」「調布駅行(1時間10分)」で直接、現地入りしたい。もしくは、羽田空港から京急線で「京急蒲田駅」を経由し、京急「川崎駅」「横浜駅」「横須賀中央駅」へ移動後、JR線に乗り換えることもできる。この場合、横浜駅前か、新横浜駅前に投宿したい

翌日、「八王子駅」から JR横浜線を南進し「橋本駅」で下車する。
JR八王子駅 → JR橋本駅 → 三ヶ木 → JR相模湖駅 → JR八王子駅 というバス周遊ルートを計画しており、その過程で「串川」「長竹」エリアと、「信玄首洗池」や信玄の退路であった相模川上流も見てみたかったので、朝早めに橋本入りした。

なお、この日は「神奈川中央バス」を乗りまくることを前提とし、一日乗車券を購入したい(一人 1,050円。バス車中で直接、PASMO / Suicaカードに課金されるスタイル)

相模原市

JR橋本駅 → 三ヶ木のルート的には、城山の南周りか、北周りルートかで、選択する散策ルートや見学スポットが異なってくるわけだが、今回は「長竹、串川、根小屋エリア」のマイナーな史跡群を網羅したかったので、あえて移動手段が限定される南周りで当日に臨むことにした。

JR橋本駅北口の「2番乗り場」から、橋03 路線バス(神奈川中央交通)に乗車する。午前中の出発便は、週末、平日ともに、9:05、9:32、10:05の三本しかない

小倉橋を撮影してみたかったので、 9:32発の橋03路線バスに乗車し、運転手に告げて一日乗車券を購入する。進行方向左側の窓際に座り、新小倉橋を渡って相模川を渡河する車窓風景を撮影したい(相模川内にできた巨大三角州など)。新小倉橋を通過後、対岸一つ目の バス停「宮原」にて下車する(9:50着)

このバス停からバスと同じ進行方向へ進みつつ、信号がある三叉路を東進して、相模川の方へ向かう。ちょうど途中に バス停「小倉」があった。30分後に、この場所で次の路線バスに乗車することになる。
ここは急な蛇行道となっており、「東京 2020オリンピック」自転車ロードレース競技大会のコース跡という横断幕が掲げられていた。そのまま小倉橋を撮影し、橋上も徒歩で進んで写真を撮ってみたい。橋下には河川敷が広がり、キャンプ場となっていた。下写真。

相模原市 相模原市

30分ほど周辺を散策後、 先程の バス停「小倉」に戻り、10:05に橋本駅前を出発していた橋07 路線バスに乗車する(10:22)。

10分ほどのドライブ後、串川を撮影すべく、バス停「串川橋」で下車する(10:33)。なお、このバスルート上は、かつて武田軍が津久井城下に布陣していたエリアなので、適宜、車窓の風景を撮影しておきたい(県道 65号線 = 三増峠道との交差点など)

バス下車後、県道 412号線を少し戻る形で「串川橋」から、串川を見物する。

再び県道 412号線を西進し、先程のバス停を通り過ぎて、串川中学校と串川小学校の間の通りを北上する。すると、県道 513号線の四つ角(公園運動前)に出る。この道路を北へ渡ると、「串川グラウンド」とその駐車場が広がっており、その脇の道が「信玄道」であった。1569年10月8日の三増峠の合戦後半、峠道を越えて相模川の上流へと撤退する武田軍が一斉に通過したルートである。

続いて、この県道 513号線沿いを 500 mほど東進すると、「隠し沢公園」という広場がある(下段地図)。ここに設置された解説板には、「三増合戦の折、津久井城には 2千人から 3千人の城兵が守備していた(城主・内藤景定)。この城兵の出撃に備え、武田方の別動隊 1,200名の兵がこの隠し沢に待機していた」と案内されていた。下絵図。


戦国期には「小倉の津」と呼ばれ、河川沿いの交易集落が形成されていた場所で(下絵図)、1569年10月6~8日、武田信玄が小田原城攻めから甲斐へ撤退する際、北条軍が籠る津久井城への備えとして、武田の別動隊を率いた 小幡(上総守)信定(信貞)、加藤景忠ら上野原衆の 1200名が、ちょうど串川から城山下までの麓部分に布陣していたという。下絵図。

この時、津久井城には、北条方の内藤景定・景豊父子 2,000~3,000が籠城していた。武田軍が撤退するに及び、城中から追撃軍が発せられたようだが、逆に武田軍によって迎撃され、一門の内藤周防が討ちとられた記録が残されている。

相模原市

なお、上地図は三増峠の合戦が終結した 直後(10月8日)の各将配置図である。本来は、武田軍 2万が下半分にいて、山中には北条氏邦・氏照兄弟の北関東軍 12,000が陣を構えていたが、戦闘中に山の手を取られて逆転されてしまった様子が描かれている。



さらに 500 mほど東進すると、「富士塚」があった(下地図)。

1590年の豊臣秀吉による小田原征伐の際、城主・内藤景豊ら主力は小田原城に詰めたが、その部下らが津久井城を守備したという。北関東の拠点・松井田城、厩橋城、鉢形城が次々と落城し、八王子城、津久井城も豊臣方に包囲される。 上杉景勝、前田利家、真田昌幸らの連合軍 15,000の総攻撃をうけた八王子城が数日で陥落すると、徳川配下の 平岩親吉(1542~1611年)らの攻撃にさらされた津久井城も、数日で諦めて開城することとなる。その戦闘で戦死した津久井城兵らが埋葬された場所、と言い伝えられているという。そのまま津久井城は放棄され、荒れるがままに荒廃したようである。小田原城内に籠った 城主・内藤景豊のその後の消息は不明となっている。

相模原市

続いて、次の東隣の三叉路を北上し、尻久保川を渡って功雲寺を訪問する(約 500 m)。この境内には、津久井城主・内藤景定(三増峠の合戦時、津久井城主を務めていた人物)の墓が残るという。上地図。
高さ約 135 cmの宝篋印塔で、江戸時代に建立されたものとされるが、詳細は不明という。

寺を後にすると、そのまま城山を目指す。すぐに山麓にあった「津久井湖城山公園パークセンター」に行きつくことができた。(下段地図)。このセンター内にある津久井城の 模型(下写真)は必見だ。
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この山城の南面山麓は、現在、「(神奈川県相模原市緑区)根小屋」という住所となっており、この山城が現役バリバリだった戦国期、城主や家臣団らがこの山麓に居住していたことに由来する(下地図)。平時には山麓の居館群に住んで半農生活を送り、戦時に山上に立て籠る、という 二重生活(東国では「根小屋式城郭」と称されたパターン)を送っていたことが背景にある。

現在、その山麓居館の一つとして「御屋敷跡」が発掘され、宝ヶ池、掘立柱建物、空堀、土塁、焔硝蔵などが確認されているという。下地図。

相模原市

そのまま最短距離で山頂まで登ってみた(上地図の赤ライン=城坂、車坂、男坂)。山頂付近では、物見櫓跡地や 腰曲輪、堀切の遺構が残っていた(上地図)。眺望は最高だった。

下山は、城山の西面からの最短ルートを選んだ(上地図の赤ライン=小網登山道)。
そのまま西回りで山麓を進み、陸橋(築井公園橋。上地図)を使って県道 413号線を渡る。そして、眼前のダム湖畔に開設されていた「津久井湖観光センター・津久井観光協会」を訪問してみた。ここは、主に軽食やお土産が販売されている休憩施設だった。周辺はバーベキュー場なども併設され、文字通り「津久井湖城山公園」の様相だった。



 津久井城(筑井城)

平安時代後期の前九年の役、後三年の役の際、源頼義・義家父子の東北遠征に多くの関東武士団が従軍していた。その遠征に 三浦為通(1010?~1083?年)・為継(生没年不詳)父子も参陣しており、この時の武功から相模国三浦郷を下賜され、以降、現在の神奈川県東部に勢力を拡大することとなる。

その後も恩義ある源氏とのつながりを保持し、続く三浦義明(1092?~1180年。為継の子)・義澄(1127~1200年)父子の代で、源頼朝の鎌倉幕府創設に尽力する。しかし、さらに次世代の三浦義村(1168?~1239年。義澄の子)・泰村(1184/1204?~1247年)の父子が執権北条家と対立したことから、三浦氏は滅亡に追い込まれたわけだが、分家していた 津久井(筑井)氏はそのまま存続を許され、後に同家出身の津久井三郎によって津久井城が築城された、というわけであった。
相模原市

以降、代々にわたり津久井氏の所領となり、戦国時代に北条氏が関東一円を支配するようになると、これに帰順することとなった。この時、北条氏は西隣の武田氏と抗争を続けており(上地図の赤色✖✖✖✖)、その国境を接する相模川沿いに位置した、津久井城と津久井衆を重視するようになる。

しかし実際には、この相模川上流域は「敵半地」とみなされたエリアで、西半分の 奥三保(現在の裏丹沢)などは武田氏の 勢力下(小山田氏をリーダーとする郡内衆)に従属しており、津久井衆といっても一枚岩ではなかったようである。こうした背景から、国境防衛を重視する北条氏は、津久井城主として内藤氏を送り込み、津久井衆の直接支配を強化させたのだった。
そんな中で勃発したのが、三増峠の合戦というわけである(1569年10月8日)

この合戦を通じ、武田軍の脅威を見せつけられた北条氏は、さらなる国境防衛に力を入れるべく、津久井城から北 17 kmの地点に 八王子城 を築城することとなる。

1590年、豊臣秀吉が全国の大名を動員して小田原征伐をスタートすると、北条氏は 津久井城主・内藤景豊ら主力を小田原城に呼び寄せ、津久井城には残りの津久井衆で守備させるだけとなった。しかし、徳川家康配下の 平岩親吉(1542~1611年)らによる攻撃を受け、わずか数日の籠城戦で開城に追い込まれる(6月25日)。

その後、徳川家康が関東に移封されてくると、津久井城は廃城となり、この相模川上流域は徳川家の直轄領に組み込まれる。以降、八木家などが代々代官職を継承し、この地を管理したという。

相模原市

なお、この津久井城へ自転車訪問する場合、JR横浜線の「相模原駅」で下車し、 この駅南口に、相模原市が運営する レンタサイクル・サービス窓口があるので、ここで自転車を借りることができる(一日 200円。必要書類などを電話で事前確認要)
そのまま駅南の直線通りを南進し、県道 503号線(国道 16号線)と交差すると、これに沿って西進し「小倉橋」を渡ることになる。

ついでに 三増峠古戦場 を含めて視察してみることも可能だが、かなりの移動距離となる。また、せっかく自転車を借りたので、相模原駅前に 市立歴史博物館 などがあれば出向きたいが、実際はかなり南部にあり遠いので、これは 100%無理だろう。



そのままダム上の橋から相模川を渡り、「津久井湖記念館(9:00~17:00、無料)」を訪問する。
ここでは、相模川が堰き止められて形成された津久井湖に関する 展示(相模川総合開発事業)や、ダム建設前の地元の生活史などを学ぶことができた。
建物から出ると、対岸に見える津久井城跡の遠景も写真撮影しておく。

続いて、 その道路向かいにある バス停「城山高校前」から路線バスに乗車し、終点の三ヶ木まで移動する。下地図の赤色 →。

相模原市

バス終点「三ヶ木」で、相模湖駅行の路線バスに 乗り換え(1時間 2~4本あり)、途中の バス停「津久井消防署前」か、その次の「寸沢嵐」で下車する(乗車時間 4分)。そのまま道路沿いにある「信玄首洗池」を訪問してみる。下段地図。

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1569年10月8日夕刻、三増峠を突破し、串川を越えて相模川沿いに上流まで撤退してきた武田軍は、ようやく この地(反畑)で陣を敷き、勝利の勝鬨を挙げたとされる。あと 5 km南まで小田原城からの北条方援軍が迫っており、南北から挟撃される絶対絶命のピンチの中での撤退劇であった。

このタイミングで、討ち取った首級の首実験も行われ、その数は 3,269もあったとされる。その際、多くの首をこの池で洗ったことから「首洗池」と呼称された、というわけだった。現在、その池は存在せず、単に慰霊のお堂が立つだけとなっている。下地図。

相模原市

周囲を散策後、 再び バス停「津久井消防署前」か「寸沢嵐」から乗車し、そのまま 終点「相模湖駅」へ向かう(平日、週末と運行本数が異なるが、だいたい 1時間に 2~4本はある)

16分ほどのドライブで、終点「相模湖」に到着する。
そのまま JR中央線「相模湖駅」前に到着し、ここから 八王子駅 まで電車で戻ることにした(20分弱、330円)。バスの一日乗車券があるので、このまま路線バスで八王子駅北口まで無料で帰ることもできたが、時間を優先した。


もし、さらに南進し「三増峠古戦場」へバス訪問する場合、バス停「上長竹」から(三51)路線バス(三ヶ木 ⇔ 半原)に乗り換えて、終点「半原」まで移動する。続いて、「半原」から厚木バスセンター行の(厚02)路線バスに乗車し、11分ほどのドライブ後にバス停「田代坂上」で下車する。ここから北へ 20分ほど歩くと、三増峠の古戦場跡に行きつくことができる
もし、途中でバス接続時間が悪いときは、時間節約のため、ためらわずタクシーを探したい。


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