BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
『大陸西遊記』ホーム 中国王朝年表

訪問日:20--年--月--旬


神奈川県 横須賀市 ~ 市内人口 38.5万人、一人あたり GDP 320万円(神奈川県 全体)


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  ペリー上陸記念碑、ペリー公園、ペリー記念館
  千代ケ崎砲台跡
  浦賀燈明堂(江戸時代の灯台跡)
  浦賀奉行所跡、船番所跡(陸軍桟橋)
  浦賀の渡し(西渡船場、東渡船場)2分、200円
  徳田屋跡(東浦賀の筆頭宿屋。幕末期、ここで吉田松陰と 師匠の佐久間象山が議論した)
  浦賀城跡(明神山。戦国時代に北条氏康が水軍基地を整備した際、物見用の要塞を築城)
  東叶神社(勝海舟の祈祷&断食した場所)、西叶神社
  浦賀ドック(浦賀造船所)
  浦賀コミュニティセンター分館(郷土資料館、浦賀文化センター)
  横須賀市立自然・人文博物館
  記念艦・三笠 と 司令長官・東郷平八郎像
  米軍横須賀基地
  軍艦長門碑、逸見波止場衛門跡、戦艦陸奥 第四主砲 砲身、開港碑
  三浦按針 塚(当地に所領を与えられていた、ウィリアム・アダムスとその妻の供養塔)



投宿先の 大船駅前 か、横浜駅前 から、JR横須賀線で 終点「久里浜駅」まで移動する(横浜駅 → 久里浜駅、39分、運賃 430円)。
この日の前半は、久里浜~浦賀の海岸線を踏破する、という予定で乗り込んだ(下地図の赤ライン)。後半は、電車で横須賀市中心部へ移動し、無難に博物館や沿岸の記念艦 三笠、米軍基地を散策してみるつもり。

「久里浜駅」下車後、徒歩で「京急久里浜駅」を通過して海側へ向かって進み、イオン久里浜店までたどり着く。この道路沿いに「ペリー上陸記念碑 道標」があった(下地図の赤ライン左端)。

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その道を海岸まで南進していくと、「ペリー公園」があった(駅から徒歩約 20分)。上地図。
この園内にある「ペリー記念館(入館無料。9:00~16:30、月曜休館)」は、 1987年に横須賀市制 80周年を記念して開設されたもので、1Fは 4隻の黒船を再現したジオラマ模型が、 2Fにはペリー上陸に関する資料や絵巻物が展示されている。黒船来航当時の生々しい様子を伝える貴重な資料類は、見ごたえ抜群だった。
また、公園内には 1901年に建立されたペリー上陸記念碑も立地するわけだが、そもそもはこの記念碑が先に設置され、後に周囲が公園化されて、そして博物館までもが併設された、という経緯で今に至るという。


当初、このペリー上陸記念碑を建立するという発想は、江戸幕府、その後を継承した明治政府ともに全く有していなかった。
しかし、日清戦争(1894年7月~1895年4月)を経て欧米列強の仲間入りを果たす一方で、 ロシアの南進が中国東北地方や日本海沿岸で進み、ロシアとの間で軋轢が生じつつあった 1900年当時、日本は他の欧米列強国に同等に認められようと、国境画定と不平等条約の改正、中国大陸・朝鮮半島への進出にまい進していた。この国際協調主義の真っ最中だった 1900年10月、ペリー艦隊の一員として来航経験のあったアメリカ退役海軍少将ビアズリーが来日し、「一行が上陸した久里浜に、ペリー提督の上陸を記念する碑すら無いのは残念だ」と演説すると、政府としても動かざるを得なくなったというわけだった。民間からの募金や明治天皇の御下賜金などを基に記念碑が完成すると、翌 1901年7月14日(ペリー上陸と同じ日)にその除幕式が開催される。この式典には、前月に就任したばかりだった 桂太郎首相(1848~1913年)や閣僚一同の他、ビィアズリー自身やペリーの孫など、総勢約 1,000人もの人々が参列したという。また、この時に除幕された石碑の 碑文「北米合衆国水師提督伯理上陸紀念碑」は、初代内閣総理大臣・伊藤博文の直筆であったという。

しかし、太平洋戦争中に反米感情が高まり、1945年2月にこの記念碑が引き倒されてしまう。戦後に至り、未だ破壊されずに残っていた碑を復元する形で、終戦直後だった同年 11月に再設置されることとなる。そのまま「ペリー記念公園」となっていた中で、さらに 1987年に「ペリー記念館」という博物館まで併設する運びとなったわけである。

そもそもペリーの久里浜上陸であるが、当初は北隣の浦賀湊の沖合に停泊し、江戸幕府への国書手渡しの交渉を行っていたが、度々、測量と称しては江戸港岸まで接近して圧力を加えてきたので、幕府は仕方なく南隣の久里浜への上陸を許可した、という苦渋の対応であったという。

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この時のペリー艦隊の移動ルートは、上地図の通りである。
前年の 1852年11月24日にアメリカ東海岸を出港したペリー一行は、大西洋を横断し南アフリカ・ケープタウンを経由して、インド洋を通過後、 シンガポール(1853年3月25~29日)広州・香港・マカオ(4月7~28日)上海(5月4~17日)へ寄港しつつ、琉球王国の 首都・首里へと上陸していた(5月26日~6月9日)。いったん東の太平洋側を航行し、未だ無人島だった小笠原諸島を探索した後(6月14~18日)、再び琉球に戻って、ついに 江戸 へ向けて北上してきたのだった。上地図。

そして 7月8日(旧暦では 6月3日)17時ごろに浦賀沖に到着し、そのまま勝手に停泊する。この時に来航したアメリカ艦隊は、旗艦「サスケハナ」、「ミシシッピ」、「サラトガ」、「プリマス」の 4隻で、合計 73門の大砲を装備し、日本側からの襲撃にそなえ、臨戦態勢をとっていた(しかし、実際には半年にわたる航海により、船中では病人が続出し、また途中の寄港地では 食料、水、燃料調達もうまくいかず、ギリギリの状態であったという)。

外国船侵入の急報を受けた 浦賀奉行・戸田氏栄(1799~1858年)は、奉行所の与力だった 中島 三郎助(1821~1869年)とオランダ通詞の 堀 達之助(1823~1894年)を即刻派遣し、番船で旗艦「サスケハナ」に漕ぎよせて、オランダ語で交渉させる。すぐに、アメリカ艦隊側も 上海 で雇用したばかりだったオランダ語通訳者ポートマンを出して交信し、とりあえず、政府役人ということで乗船を許可する。来航目的を確認すると、アメリカ合衆国大統領親書(貿易要求、石炭と必需品供給のための港の開港要求、捕鯨船の遭難者の保護要求などが具体的に列挙されていた。上海で雇用した通訳者を通じ、大統領親書はすでに漢語とオランダ語に翻訳されていた)を手渡したいので、日本国の政府高官との面会を要求するものだったが、日本側は長崎へ迂回するように要請するだけが精一杯であった。結局、日米双方の主張は平行線をたどり、この日、日本側は引き下がることとなる。

翌 7月9日、別の 奉行所与力・香山栄左衛門(1821~1877年。蘭学者だったので、自らオランダ語を話せた)を派遣し、長崎港へ迂回するように再三要求するも、再び拒否される。この日、アメリカ側は浦賀湊の測量と称し、小型船をつかって港に接近するなど、圧力を加えてくる。奉行所側も番船で抗議するも、完全に一地方奉行所レベルではキャパオーバーな状態であった。その後、日本側の要請により 3日間の協議時間に合意するも、その間もアメリカ側は江戸湾岸に接近するなど、圧力をかけ続けることとなる。

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ついに 7月11日、老中首座の 阿部正弘(備後福山藩主)ら幕閣たちは、とりあえず国書を受け取ることを了承し、7月14日(旧暦では 6月9日)にペリー一行の久里浜上陸を許可する。幕府側は突貫工事で 100畳ほどの会見場を設営し(主に天幕を張りめぐらせただけ)、日本側全権として浦賀奉行の戸田氏栄に手渡されることとなる(上絵図)。この時、12代目将軍の徳川家慶が病床にあったことから(この日から 12日後に病没する。享年 60)、国書の回答は一年待つように要求し、会談は短時間で終結したという。特に、双方は会話らしい言葉は交わされず、淡々と事務処理的に執り行われたようである。

さらに軍事的圧力を見せつけたいアメリカ側は、翌 7月15日にミシシッピー号だけを江戸湾岸まで接近させ、江戸市民にもその威容を見せつける。そして、二日後の 7月17日にようやく江戸湾を離脱し、再び琉球へ移動して 香港 経由で帰路に就いたのだった。

翌 1854年2月13日(旧暦では 1月16日)、まだ半年しか経過していなかったが、ペリーが 7隻の艦隊を率いて再来日する。ついに 幕府(この時の将軍は、家慶の 四男・徳川家定。30歳)は恫喝外交に屈し、日米和親条約が締結させられることとなり(3月31日)、 200年以上に渡って継承されてきた鎖国体制が解除され、開国時代がスタートするわけである。

その後の浦賀奉行所の人事であるが、奉行・戸田氏栄(1799~1858年)は、1847年2月から当地に赴任しており、ペリーが翌 1854年に再来航した際も、幕府から日米交渉の全権を命じられ、日米和親条約に署名することとなる。そして、1857年2月、大坂町奉行へ栄転を遂げるも、翌 1858年に病没する(60歳)。一説には攘夷派による毒殺説も指摘されている。

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そもそも、最初のペリー艦隊との接触から日米和親条約の締結までの、ほとんどの実務を担った人物は、この 奉行所与力(応接掛)の 中島三郎助(1821~1869年。上写真左)だったわけだが、1837年のモリソン号事件で幕府沿岸守備隊が大砲を発砲した際、砲手を務めた経歴を持ち、自身も砲術の免許皆伝を受けていたことから、アメリカ艦隊旗艦「サスケハナ」に乗り込み艦内を案内された際、その船体構造、搭載中の大砲、蒸気エンジンなどを入念に調査していた、とアメリカ側の記録に残されている。ペリー一行の帰国後、老中首座の 阿部正弘(備後福山藩主)に意見書を提出し、日本側でも軍艦を建造し、アメリカ側に匹敵する蒸気船を含む艦隊の編成を主張すると、すぐに日本初の 洋式軍艦「鳳凰丸」の製造責任者に抜擢され、完成後にはそのまま艦隊副将に任命されることとなった。

1855年に幕府が長崎海軍伝習所を新設すると、第一期生 37名の一人として中島三郎助も入所することとなり、勝海舟、五代友厚らと共に、造船学・機関学・航海術を習得する。3年後の 1859年、浦賀の長川を塞き止め、日本初の乾ドックを建設し、遣米使節に随行する「咸臨丸」の修理を手掛ける。しかし、間もなく持病が悪化し、 奉行所与力などの職務を 長男・中島恒太郎へ継承させ、自身は暇を願い出るも、幕府から再度、召し出され、将軍直属の上席軍艦役に抜擢される。
1868年1月に戊辰戦争が勃発すると、海軍副総裁の榎本武揚らと共に 江戸 から蝦夷地へ渡海し、箱館戦争を戦い抜く中で、 長男の 恒太郎・次男の英次郎らと共に戦死している(上写真右。49歳)。

対して、オランダ通詞だった堀 達之助(1823~1894年)であるが、翌 1854年1月にペリーが再来航した際、日米和親条約の翻訳にも関与し、以降、アメリカ側が領事館を開設した下田に駐在することとなる。その後、1859年に蕃書調所対訳辞書編輯主任となり、外国新聞の翻訳作業を担当して、1862年に「官板バタビヤ新聞」という日本初の新聞発行にこじつけることとなる。 1862年には『英和対訳袖珍辞書』という日本初の英和辞書を刊行する。その後、開成所教授(1863年)、つづいて 箱館奉行通詞(1865年)へ抜擢され、以降、函館を活動場所とし、英語通詞の育成や洋書収集を手掛ける。明治時代に入っても公職に就き、裁判所参事席、文武学授掛、開拓大主典、一等訳官などを歴任する。 1872年に退職後、大阪 に移って死去する(享年 71)。

最後に、蘭学者だった 香山栄左衛門(1821~1877年)は、 1853年の黒船来航直後に決定された 大型洋式軍艦「鳳凰丸」の建造責任者に抜擢されるも、翌 1854年4月に富士見宝蔵番へ昇進すると浦賀の地を離れる。その後、歩兵指図役頭取(1863年)、歩兵組改役(1864年)へ昇進し、幕末を迎える(特に、大阪湾の台場建設を担当)。明治時代に入って公職を離れ、茶園の農園主へ転身し、事業家として大成したという(享年 56)。



そのまま海岸線まで出てから沿岸を北上し、浦賀湊を目指すことにした。
途中、平作川を渡り(開国橋)、県道 208号線を直進していくと「京急バス 久里浜営業所」を通過する。この道路向かいに「千代ケ崎砲台跡(無料、土日祝日のみ見学可。9:30~15:30)」があった。冒頭地図。

この入り口自体は海側にあったことから、さらに県道を進んで トンネル「長瀬隧道」を越え、浦賀地区からアクセスする必要があった(ここまで徒歩約 20分)。そのまま右折し、「浦賀燈明堂」という江戸時代の灯台跡を見学するルート途中から、長い坂道を登り切ると到着できた(冒頭地図)。
この小山(標高 65 m)からの東京湾の景色はすばらしく、浦賀水道の後方には房総半島も見通せた。冬季には西側に富士山も遠望できるという。砲座と 地下施設群(弾薬庫、給排水システムなど)をセットで見学でき、無料ガイドも付いてくれた。

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江戸湾防禦の担当になっていた 会津藩(当時の藩主は松平容衆。二代目将軍・徳川秀忠の 四男・保科正之の子孫にあたる)が、現在の千代ヶ崎の先端部にある平根山上に、海防施設として「平根山台場」を建造する(1811年。上地図)。その後、三浦半島東岸は 川越藩(西岸は 彦根藩)が守備を担当することとなり、 1837年に日本人漂流民 7人を乗せ、 通商と布教の交渉も兼ねて浦賀沖に接近してきた アメリカ商船「モリソン号」に対し、川越藩管轄の砲台陣地群が砲撃を加えて追い払う事件が発生するわけである。この時、「平根山台場」が砲撃のメインを担ったのではないか、と考えられている。
ペリー艦隊が 1853年、1854年に江戸湾に出現した際も、引き続き、川越藩がこの砲台を守備していた。

明治時代に入り、日本陸軍が管轄を継承する。そして、朝鮮半島を巡って清国との対立が増しつつあった 1892~1895年にかけ(1894年7月~1895年4月に日清戦争勃発)、首都を防衛する観点から東京湾要塞ネットワークが整備され、その一環でこの「平根山台場」も大規模に改修されて、西洋式の砲台陣地が建設されることとなる(上地図)。
その後、一度も使用されることなく任務を終えたことから、現在でも全面改修当時の状態を良好に保持しており、近代日本の軍事および建築技術の実態を具体的に残す貴重な遺跡として、猿島砲台跡(横須賀港の対岸に浮かぶ小島)と共に、近代軍事施設分野で日本初の国指定史跡となっている(2015年)。



「千代ケ崎砲台跡」の見学後、そのまま江戸時代の灯台が復元されている「浦賀燈明堂」の岬先端に立ち寄ってみた(下写真)。ここから、当時の風景を妄想しながら、浦賀沖や浦賀湊の遠景を写真撮影したい。

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さてさて、再び先程の県道 208号線に戻り、浦賀市街地へと進んでいくと、西浦賀の集落地の中に「浦賀奉行所跡」があった。下絵図。

奉行所跡地として、東西 86 m、南北 75 mの敷地がそのまま残っているものの、内部の建物群は一切現存せず、周囲を取り囲んでいた堀跡の石垣と、伊豆石で組み上げられた石橋のみが残る史跡公園となっている。
2019年に行われた発掘調査では、奉行所当時の 屋根瓦や茶碗、お白州(おしらす。江戸時代、奉行所の裁きを受ける庶民が露座した場所)の跡が出土したという。

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また現在、「陸軍桟橋」と呼ばれる場所に、「船番所」が開設されていたという(今は、解説板が設置されるのみ)。「船番所」とは浦賀奉行所の出先機関で、江戸湾に出入りする船舶のすべてを検査した現場であった。上絵図。


1603年3月に江戸幕府が成立し、大坂の陣 以降には平和な時代が続いたことから、全国的に人口が増加するとともに、農産物などの生産力も上がり、全国各地から 巨大消費地・江戸 へさまざまな物資が流入するようになっていく。幕府は江戸城下の物価安定を重要視しており、市中に流通する各種物資の在庫量の管理を徹底すべく、それらの 98%以上が船で搬入されていたことに目をつけ、江戸への航路上に奉行所を設けて、船の積み荷などを検査していたわけである。

当初、伊豆の下田にこの奉行所が開設されていたが、港の入り口付近に岩礁が多く、船舶の入出港でトラブルを発生させていたこと、また東北地方からの船舶は江戸湾を迂回して遠回りしなければならなかったことから、船乗りたちから度重なる陳情が出されていた。これに対し、より航行と停泊に安全かつ合理的な港町を調査した結果、すでに中継拠点として一定の港町が形成されていた浦賀湊に目がつけられ、ここに奉行所が移転されて「浦賀奉行所」が誕生するわけである(1720年12月)。下写真。

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当時、奉行所は幕府直轄領に開設され、地元の徴税や 訴訟、治安維持、海難救助など、幅広い行政業務を担当しており、さらに浦賀奉行所では、江戸 を往来するすべての船舶の 検査業務(「船改め」=船の積み荷と乗組員の検査)が課されたことから、出先機関として「船番所」が港湾エリアに開設されることとなった(上写真左)。
このため、浦賀奉行所に所属する役人数は、他のエリアよりもはるかに大規模で、トップである奉行 1~2名、与力(部課長クラス。乗馬が許可されていた)10~18名、同心(係長クラス)50~100名が配置されていたという。この与力と同心クラスはほとんど転勤がなく、代々地元の武士が世襲していた。彼らは、奉行所の表門前から海岸に向けた街道沿いに官舎や邸宅を有し、皆が集まって生活していたという。

こうして奉行所の出先機関「船番所」が”海の関所”として「船改め」業務を担当したわけだが、船舶や商品類が膨大な数で多岐にわたったことから、実際の 検査作業(その仕事は、昼夜を問わず実施されていた)は、「廻船問屋」と呼ばれた 105軒の問屋(下田と東西浦賀に立地したことから、三方問屋と通称されていた)に委託されていた。彼らの手により、「入り鉄砲に出女」の検査はもちろん、すべての商品の流通が記録されたのだった。特に生活必需品 11品目については、3ヶ月ごとに集計された数字が、すぐに江戸町奉行へ報告される仕組みになっていたという。

こうして江戸湾を通行する全ての交易船を検査したことから、浦賀沖には日本全国からの船舶が検査待ちのため一時停泊することとなり、自ずと港町は水夫らの寄港地として大いに繁盛したという。

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また、同時に江戸時代中期以降は、江戸近海に異国船が接近するようになったため、江戸を異国船から守る海防任務も課されていた(1837年のモリソン号事件など)。この流れから、1853年7月にペリー艦隊が浦賀に来航した際、この浦賀奉行所の役人たちがすべての交渉と排除を担当し、久里浜で親書を受け取ることとなるわけである。なお、浦賀奉行所の記録では、1818年6月に来航したイギリス船への対処から数えて 7度目の異国船対応であったという。

そして江戸幕府が終焉し、1868年5月に奉行所は明治新政府に接収されることとなる。なお、船奉行が担当した「船改め」業務だけは、江戸から「東京」へ改めた首都の市場管理のため、1872年3月まで継続されていたという。



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見学後、さらに道路(県道 208号線)沿いを北上していると、「陸軍桟橋(上地図⑧)」と「西渡船場(浦賀の渡し。上地図⑨)」に行きつく。渡し船の船主に手を振って合図すると、すぐに接岸し対岸まで移送してくれた(乗船時間 2分、200円)。

「東渡船場(浦賀の渡し)」へ到着後、すぐ目の前に「徳田屋跡」があった(上地図 ⑩)。ペリーの黒船来航直後に、吉田松陰(1830~1859年)が、師匠の 佐久間象山(1811~1864年。当時、日本随一の蘭学者で、西洋式砲術や兵学を教える私塾を経営し、松陰や勝海舟、坂本龍馬らを門弟としていた)と合流し、激論を交わした宿屋である。現在は民家となっており、脇に解説板が立つだけだった。

さらに岬に立地する「浦賀城跡」にも立ち寄ってみる。
麓に(東)叶神社があり、その左脇の 223段もの急な石階段を登り切ると、明神山(標高 55 m。下写真左端の小山)の山頂に至る。この高台上に、勝海舟の断食に関する解説板があり、その裏手に浦賀城跡の記念碑が立っていた。この本丸(南郭)跡地からは房総半島や浦賀湊が一望でき、抜群の景色を堪能できた。

なお、この叶神社は浦賀湾を挟んで東西両岬に鎮座しており、男女や家族の人間関係、夢成就など、古くから”縁結び”の神社として崇められてきたという。さて、この東叶神社の裏にある城跡の山中で、江戸幕府海軍操練所教授方頭取だった 勝海舟(1823~1899年)が断食していたわけだが、それは日本の使節団が初めて太平洋を渡海するにあたり(1860年。37歳)、旅路の安全を祈っての行動だったという。この時、咸臨丸は浦賀ドックで最終整備中で、その作業の間、勝海舟は無事にアメリカ到着が叶うように 水垢離(みずごり)しつつ、祈祷していたのだった。当時、彼が使ったとされる古井戸が今も保存されていた。
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 浦賀城跡

この浦賀湊の先端にある明神山は、浦賀水道から房総半島が一望できる好立地だったことから、房総半島から攻め寄せてくる里見氏への 前線拠点&見張り台として、北条氏康が浦賀城を築城していたという。北条水軍があった三崎城 の支城の一つとして活用されていたようである。もともと浦賀湊は海岸から奥まった天然の良港で、早くから北条水軍の一部も配置されていたことだろう。
その後、里見義弘との和議の際、その約定に基づき廃城とされたか、もしくは、1590年の豊臣秀吉による小田原征伐後に、三崎城ともども廃城となった、と考えられている。

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 徳田屋跡

蘭学者として大砲鋳造やガラス製造などに自力で成功し、当時、日本随一の洋学者として名声を博していた 佐久間象山(1811~1864年)は、1851年に 江戸 に 私塾「五月塾」を開き、門弟らに洋式砲術・兵学を教えていた。この門下生として、勝海舟(1823~1899年)、吉田松陰(1830~1859年)、坂本龍馬(1836~1867年)らが入門していたわけだが、 1853年7月にペリー艦隊が浦賀に来航すると、象山は 松代藩(今の長野県長野市)の軍議役として浦賀へ派遣されることとなる(ペリー到着翌日 7月9日から11日までの 3日間)。この時、自力で浦賀へ駆けつけてきた門弟の吉田松陰や 津田真道(1829~1903年)らと、この 宿泊所「徳田屋」内で和議か戦争か、今後の日本のとるべき方向に関し激論を交わし合ったという。その過程で、吉田松陰は象山から暗に外国行きを勧められたとされる。

その他、「徳田屋」には、浦賀を訪れた多くの武士や文化人らが投宿したようである。
下田から奉行所が転入されて以降、浦賀湊が江戸湾防衛の最前線となったことから、従来の商人や文化人に加え、情報収集のため、各藩の武士らも町を訪れるようになっていた。この時代、商人や文化人は親類縁者を頼って宿泊し、さらには浦賀の商人と取引のある知人などのツテを頼りに宿を確保していたという。当時、浦賀湊は宿場町ではなかったので、船乗り以外の旅人を宿泊させることは原則として禁止されていたため、親類や縁者、人脈のない人の場合、宿の手配はかなり困難な土地柄であった。しかし、あまりに訪問者が増加したことから、幕府側も旅籠屋の開業を許可するようになる。
こうして 1811年3月、初めて東浦賀に 3軒の旅籠が開業する(西浦賀の記録は現存せず)。以降、複数の開業が続く中にあって、東浦賀の徳田屋と西浦賀の吉川屋は両岸 No .1 の宿として認知され、特に、徳田屋は番所の「船改め」を受けずに、房総半島へ直行できる船便を自前で保有しており、かなり特権が付与されていたようである。
最終的に、吉川屋は 1900年ごろに、徳田屋は 1923年の関東大震災時に閉館することとなる。

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 浦賀ドック

ペリーの来航を受け、同年中にも洋式軍艦の建造が幕府により即決されると、奉行所与力の中島三郎助により、すぐに浦賀駅下を流れる「長川(現在は暗渠となっている)」の河口を改造する形で造船用ドックが整備され、日本初の 洋式大型軍艦「鳳凰丸(蒸気船ではなく、旧式の帆船タイプだった)」がスピード建造される(1853年10月22日に起工、翌 1854年6月6日に完成)。三郎助はそのままこの副艦長に任命されることとなる。

その翌 1855年には幕府は長崎海軍伝習所を開設するとともに、オランダに 洋式軍艦「咸臨丸」を発注し、1857年4月に納品される(他に 2隻の艦船も同時納品される)。この咸臨丸は、洋式の蒸気船スクリューを装備していたことから、太平洋を横断しアメリカで日米修好通商条約の批准書を交換するため、 1860年に派遣されることとなり、その前年の 1859年にこの河口ドックで最終整備が手掛けられたのだった(このタイミングで勝海舟も当地を訪れ、浦賀城跡に籠って祈祷したわけである)。

そして明治時代となった 1891年、戊辰戦争の最後の地、函館で戦死した中島三郎助の 23回忌にあたって、かつて函館戦争に同行した 戦友・荒井郁之助(函館では海軍奉行だった)が「中島三郎助の残した浦賀造船所を再活用したい」と提言すると、同席していた 農商務大臣・榎本武揚も即座に賛成し、政府内で即決される。すぐに地元の有力者への働きかけが進められ、陸軍要塞砲兵幹部練習所の敷地及び民有地の取得が実行されて、本格的な近代造船所の建設が着手されることとなった。

5年の歳月を経て、1896年に完成すると、翌 1897年6月21日、浦賀船渠株式会社として創業が開始される。すぐにドイツ人技師ボーケルが雇用され、さらに 2年の歳月をかけてレンガ造りのドライドックが追加建造される(1899年完成)。以降、地元では「浦賀ドック」と通称されることとなる。下絵図。
この時代、日本は 日清戦争 を経て、ますます世界的な海運国へと飛躍を遂げるべく、他国から多くの船舶を買い集めていた。しかし、造船業は技術面や設備面で未だに大きく立ち遅れたままだったことから、積極的に外国人技師を雇用しては国内各地の造船所へ次々と派遣していた。当地に派遣されてきたドイツ人技師ボーケルも、そのうちの一人だったわけである。

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1902年10月には、米国領フィリピンへ沿岸警備用砲艦 ロンブロン号(350排水トン)を納品し、創業以来 14隻目にして、初めて外国から受注した艦船を完成させたのだった。ますます力をつけた浦賀船渠株式会社は、いよいよ浦賀湊の地元経済そのものを左右するまでに巨大化し、浦賀町の命運を握る一大産業となっていく。

その後、浦賀船渠株式会社は、浦賀重工業株式会社となり、最終的に住友重機械工業株式会社の傘下に入る(追浜造船所浦賀工場)。この間、戦前期には駆逐艦「長月」など、戦後には 青函連絡船「十和田丸」、護衛艦「はるさめ」「はつゆき」「たかなみ」、大型練習帆船「日本丸」「海王丸」など、一世紀以上にわたり約 1,000隻にのぼる艦船の建造・修理を手掛けたのだった。
そして、2003年3月に営業を停止し、近代遺跡「浦賀ドック(創業時からの通称)」として保存されることとなったわけである。今でも 1945年に設置されたクレーンや、 1899年に建造された総レンガ造りのドライドックを目にすることができる。 2021年には、ドックを含む周辺敷地一帯が、住友重機械工業株式会社から横須賀市に寄贈されている。



再び渡し船で対岸まで移送してもらい、そのまま西叶神社を参拝してみた。
そして、県道 208号線を 5分ほど北上すると、「浦賀ドック(上段地図③)」にたどりつく。見学は、自由行動ではなくツアー形式だった。

道路向いには「浦賀コミュニティセンター分館(郷土資料館、浦賀文化センター。8:30~21:00」があり(上段地図 ④)、その展示室で浦賀奉行所の模型、中島三郎助の資料、鳳凰丸・咸臨丸・ペリー艦隊の模型などを閲覧できる。

最後に、この郷土資料館から徒歩 10分ほどで「浦賀駅」に到着できた(久里浜駅から実に約 3時間の散策となった。冒頭地図の赤ライン)。そのまま京急急行本線に乗車し、「横須賀中央駅」で下車する(10分、160円)。
続いて、この駅西側の平和中央公園内にある「横須賀市立自然・人文博物館(開館 9:00~17:00、月曜休館)」を訪問してみた。下地図。

横須賀市

その後、港エリアまで出て、まずは記念艦・三笠(観覧料金 600円)を訪問してみる。下写真。

戦艦・三笠は、1902年にイギリスで建造されたもので、日露戦争時の 日本海海戦(1905年5月27~28日)で 司令長官・東郷平八郎(1848~1934年)が乗艦し、連合艦隊を大勝利に導いた旗艦である。現存する世界最古の鋼鉄戦艦という。 1926年に記念艦として横須賀に保存され、第二次世界大戦後、主砲、マスト、煙突などが撤去されるも、1961年に現在の姿に復元されることとなる。艦内では、日露戦争当時の資料や遺物が展示され、ビデオ鑑賞もできる。

そのまま西進して、米軍横須賀基地周辺も散策してみたい。アメリカ海軍の空母も遠望できる(上地図)。さらに西へ移動すると、臨海公園(ヴェルニー公園)内に保存されている、軍艦長門碑、逸見波止場衛門跡、戦艦陸奥 第四主砲 砲身、開港碑なども見て回ることができた(上地図)。

そのまま「横須賀駅」から JR横須賀線に乗車し 横浜駅 まで戻ることにした(45分、570円)。

横須賀市

なお、もしまだ体力と時間に余力があれば、横須賀駅南側の塚山公園にある「三浦按針塚(ウィリアム・アダムスとその妻の供養塔)」も訪問してみたい。 1600年4月に九州に漂着した英国人 ウイリアム・アダムス(1564~1620年)は、そのまま徳川家康に召し抱えられ、 1605年に三浦郡逸見村に二百五十石を与えられていた。1620年に平戸で没した後、その自領に塚が設けられた、というわけだった。なお、日本人妻との間に息子ジョゼフと娘スザンナが生まれており、息子は(二代目)三浦按針(1605~?)と称し、そのまま知行地の相続を許可されて、鎖国直前まで幕府お抱えの航海士を務めたという。

また、海岸沿いにある砲台遺跡(米ヶ濱砲台跡、走水低砲台跡、三軒家砲台跡、観音崎砲台・北門第ニ砲台跡、観音崎砲台・北門第一砲台跡、観音崎砲台・北門第三砲台跡、観音崎砲台・腰越堡塁跡など)を丁寧に散策する場合は、自転車を借りて(ただし、 横須賀市内のレンタサイクル店は値段が高い。 3時間 1,650円、6時間 2,200円、12時間 2,750円)、一泊二日の旅程を組んだ方がいいだろう。もし、 横須賀駅前に投宿するなら、サウナ&カプセルホテル『サウナトーホー』あたりが費用対効果がいいかも

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