BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:20--年--月--旬


東京都 練馬区 ~ 区内人口 74万人、一人当たり GDP 800万円(東京都 全体)


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  江古田古戦場の 碑(江古田ヶ原・沼袋原の戦い) 1477年4月、太田道灌 vs 豊島氏
  石神井城跡
  愛宕山砦跡
  練馬城跡
  右馬頭屋敷跡(将軍就任前の徳川綱吉の御殿跡 ①)、練馬城の 出城「栗山城」跡
  徳川綱吉 御殿跡(将軍就任前の徳川綱吉の御殿跡 ②)
  江戸時代の 街道宿場町「川越街道」「下練馬宿」「上練馬宿」



今回、安宿が集まる新宿周辺に連泊しつつ、練馬区、中野区世田谷区 の史跡を巡ってみた。

練馬区

まず西武新宿線に乗車し、「沼袋駅」で下車する(下地図)。
そのまま駅の東隣にある「中野沼袋 氷川神社」に立ち寄ってみる(下地図)。ここは、1477年4月14日(旧暦)の 江古田・沼袋原の戦いに際し、太田道灌(1432~1486年)が戦勝祈願のため杉を植樹した、と伝承される場所という。現在でも、境内に広がる杉林が有名な神社だそうだ。

さらに東進し、妙正寺川にぶつかると、この川沿いを真っすぐ北上する。そのまま 江古田公園(中野区松が丘 2-35)に到着できた(下地図)。この公園は、妙正寺川と江古田川とが合流する地点にあり、公園自体が川によって南北に分断された形となっている。そして、その両岸を接続する江古田大橋脇に「史蹟 江古田原・沼袋 古戦場」の記念碑が設置されていた。下地図。

練馬区

公園を見学後、新青梅街道を西進し(合戦時、この街道沿いでも広く戦闘が行われていた、という)。中野区立歴史民俗資料館(9:00~17:00。月曜日休館)にも立ち寄ってみたい。上地図。



 江古田ヶ原・沼袋原の戦い

平安時代後期~室町時代中期にかけて、武蔵国東部は豊島氏の支配地であった。
律令体制が導入された奈良時代から開設されていた豊島郡役所の郡司に、平安時代後期、豊島常家(秩父平氏の 祖・平将常【将恒。1007?~1057?年】の孫)が着任する。以降、豊島氏は代々にわたって、この豊島郡を支配することとなった(そのまま地名の豊島姓を名乗る)。下家系図。

そして、次にその名が史書に登場していくるのが、源頼義(988~1075年)・義家(1039~1106年)父子が、前九年の 役(1051~1062年)、 後三年の 役(1083~1087年)で東北地方へ遠征した際、豊島家当主だった 豊島清光(清元。生没年不詳。下家系図)も軍勢を率いて参陣し、武功を挙げたという記述であった。

当時、豊島清光は 平塚城(今の 東京都北区)を居城としており、後三年の役後に関東へ帰国した源義家らを平塚城で饗応した記録が残されている。こうして源氏と深い関係を築いた豊島氏は
、そのひ孫にあたる 源頼朝(1147~1199年)が鎌倉幕府を開く際、大いに尽力し、有力御家人として名を連ねることとなった(清光の子の 豊島朝経・有経父子、葛西清重、葛西重元ら。下家系図)。

練馬区

こうして、以降も武蔵国東部の支配権を代々継承してきた豊島氏であったが、室町時代中期に至ると、相模国・上総国守護だった 関東管領・上杉家が武蔵国守護も兼務するようになり、地元旧勢力の代表格だった豊島氏との関係がギクシャクし出す(武蔵守護代として代々、二宮城主の大石氏が就任した)。上杉家は武蔵国 支配権の完全掌握を目指し、筆頭家老だった 太田資清(1411~1488?/1492?年)・道灌(1432~1486年)父子に、河越城(埼玉県川越市)や 岩槻城(埼玉県さいたま市岩槻区)、江戸城(現在の皇居)などを築城させて、南北から豊島氏への圧迫を強めていくのだった。下地図。

この 関東管領・上杉家の牽制に対抗すべく、豊島氏はこれと敵対関係にあった鎌倉公方・足利家に接近し、両陣営の騒乱に巻き込まれていくこととなる。「関東管領」とは、名目上は鎌倉公方の補佐役であったが、実質的には 京都の足利将軍家 と通じた監視役を意味しており、京都の室町幕府と 鎌倉府 が犬猿の仲だったことに起因していた。こうして室町時代を通じ、足利将軍家は外戚にあたる上杉家を使って、代々、関東管領職を継承させていたわけである。

こうした構図の中、いよいよ 享徳の 乱(1454~1482)が勃発する。
古くから関東武士に支持されてきた 鎌倉公方派(当時、当主は足利成氏)と、関東管領・上杉氏との、関東を二分した武装闘争がスタートするわけだが、当初は 京都の室町幕府 から支援をうけた 関東管領・上杉家が優勢で、武蔵国・相模国・西上野をおさえるも、上杉家の 家臣・長尾景春が裏切り、鎌倉(古河)公方側について挙兵すると、武蔵国守護の上杉家による圧力に危機感を募らせていた豊島氏も呼応し、大義名分を得て、正式に反上杉氏で挙兵することとなった。

ここに、武蔵国の旧勢力筆頭の豊島氏と、武蔵国に新秩序を確立しようとした上杉家の 筆頭家老・太田道灌との間で戦端の火ぶたが切られ、 1477年4月14日(旧暦)の 江古田ヶ原・沼袋合戦へと突き進むわけである。下地図。

この時、豊島氏当主は 豊島泰経(上家系図)で、居城を 石神井城(現在の石神井公園)に構えており、実弟・豊島泰明(上家系図)に 練馬城(旧としまえん)を守備させていた(史書では「平塚城主」と言及されているが、現在は誤りとする意見が多い)。これらと、元々の豊島家本拠地だった平塚城を加えて、東西に流れる石神井川沿いで防衛ラインを敷いた豊島氏に対し、太田道灌は本領地の 河越城東京湾岸の江戸城 という、南北に分断された立場にあり、兵力的にも不利となっていた。下地図。

練馬区

それでも「攻撃は最大の防御なり」を実践すべく、太田道灌は豊島氏へ先制攻撃をしかける。まず練馬城へ進軍し、城内へ矢を放つとともに、城下町や周囲の田畑を放火し、いったん撤退に見せかけると、この挑発行為に乗って石神井城と練馬城から豊島軍本隊が追撃してくる。こうして妙正寺川と江古田川の合流する湿地帯におびき出された豊島軍であったが、まだまだ兵力的には圧倒的に優位であった。
この時、太田道灌は現在の哲学堂公園付近に、豊島軍は現在の歴史民俗資料館あたりに布陣し対峙したという。

両軍は、この間の広い 空間(哲学堂公園~野方六丁目に至る、新青梅街道一帯)で、散発的な局地戦を繰り広げることとなった。この合戦前半、太田軍はわざと敗走に敗走を重ね、豊島軍を伏兵のあるエリアまで誘い込む戦術をとり、そこで一気に集中攻撃を繰り出し、敵の武者らを圧倒したと考えられている。この時、太田軍がとった作戦は、当時の武士同士の一騎打ち作法を完全に無視したもので、一人の武者を集団戦で殲滅する足軽軍法だったとされる。この戦いにより、豊島軍は 副将・豊島泰明はじめ、多くの武士を討ち取られてしまうのだった。

なお、この合戦にまつわるエピソードから、「招き猫」伝説が生まれたとされる
初戦の誘導作戦の最中、敗走したはいいものの、道に迷ってしまった太田道灌は、突然現れた猫に導かれ、なんとか西落合の 自性院(新宿区西落合 1-11-23)に逃げ込むことができたという。そのまま残兵を集め、追撃戦に転じることができたとされる。
この時、かなり広い範囲が戦場となったことが分っている。合戦後、各地で戦死した両軍の将兵らを弔うべく、所々に塚が設けられたようで、現在でも付近のマンション建設などで地面を掘り起こした際、度々、人骨や武具が発見されているという。

さて、合戦に敗れ、石神井城まで敗走した豊島泰経はここに籠城するも、追撃してきた太田道灌に城を完全に包囲されてしまう。すでに敗走の過程で、多くの将兵らが脱走してしまい、到底、城内を守り切れる軍勢は残されていなかった豊島軍は、愛宕山(下古写真)に陣城を構築し石神井城を完全包囲した太田道灌に対し、降伏交渉を進めることとなった。豊島泰経は自ら城外に出向いて会談し、城側の武装蜂起を約束するも、期日になっても開城しなかったことから力攻めされ、そのまま落城してしまうのだった。
城主・豊島泰経は夜陰にまぎれて城を脱出し、いったん 平塚城 へ落ち延びるも、これも太田軍によって攻め落とされると、泰経は行方不明となり、いよいよ 名門・豊島家も滅亡してしまったとされる。こうして武蔵国の支配権は、完全に 関東管領・上杉家のものとなった。

練馬区

なお、この 江古田ヶ原・沼袋原の合戦場一帯には、太田道灌(1432~1486年)に絡む多くの神社や塚が残されており、彼が戦勝を祈願したとされる 北野神社(旧片山村の鎮守社。中野区松が丘 2-27-1。拝殿がムクリ屋根となっている)や、須賀稲荷神社(中野区江原町 1-44)、上高田氷川神社(中野区上高田 4-42-5)、江古田氷川神社(中野区江古田 3-13-6)などがある。

こうした事実から、この江古田原合戦は、あらかじめ戦場地として選んだ場所のあちこちに伏兵を忍ばせ、豊島軍をうまく誘い込んだ、太田道灌の作戦勝ちだったとする説が有力視されている。これに加えて、江古田ヶ原の湿地帯におびき出し、武士の伝統的な一騎打ち戦の弱点をついた作戦、さらに太田軍の集団戦術に有利な平地をわざと選んだ作戦、豊島領内での敵地交戦を避けるべく、できるだけ武蔵国南部へ敵を引き付ける作戦、が総合的にかみ合っての大勝利だったと指摘されている。



次に南へ進んで「沼袋駅」から西武新宿線に再乗車し、「上石神井駅」で下車する。そのまま北へ徒歩移動し、早稲田大学高等学院・中学部(男子校。偏差値 73)に向かってみた。この校舎全体が、かつての 愛宕山砦跡(上古写真)、というわけだった。下地図。

江古田原合戦で敗走した豊島泰経が石神井城に逃げ込むと、太田道灌が城を完全包囲することとなる(1477年4月14~28日)。この 2週間、道灌が本陣を置いていた場所である。

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愛宕山跡地の後方には石神井川が流れており、この川沿いを東進すると「石神井公園」があった(上地図)。公園へはやや高台を登る地形となっており、その頂上部に石神井城跡の遺構が残されていた。北側の 三宝寺池(かつては、沼や沢が広がる湿地帯だった)と、石神井川に挟まれた台地上に、平山城スタイルで築城されていたわけである。

現在、メインの主郭部はフェンスで囲われて立入禁止となっており、この周囲に残存する土塁や空堀跡を遠目で眺めるしかできなかった(10月30日~11月7日の「東京文化財ウィーク」期間中のみ、一般公開される)。
太田道灌の攻撃で落城後、城はそのまま廃城となり、直後に近隣から「三宝寺」が移転される。以降、長らくその境内として使用されたことから、室町時代中期に放棄された城郭遺構がよい状態で保存され得たようである(下写真)。現在、石神井城跡は東京都指定文化財となっている。

練馬区

そのまま北側の三宝寺池のほとりへ移動すると、城跡に関する 石碑、案内板、殿塚(当地で戦死したという 当主・豊島泰経を弔ったもの。実際には逃走した)、姫塚(落城時に、池に身を投げたという 次女・照姫を弔ったもの)などが設置されていた。


本来は、石神井公園の北側を通る西武池袋線沿いの「石神井公園駅」が最寄り駅で、徒歩 5分強で公園に着くことができる。城跡は公園南端にあるので、さらに 10分ほど園内を歩くことになる。

鎌倉時代中期~末期頃に、石神井川の北岸にあった台地上に築城され、豊島氏の地盤である武蔵国東部、特に石神井川沿いのテリトリーを守備したと考えられる。後に、豊島氏の本拠地が 平塚城(東京都北区)から移転されてくることとなった(時期は不明)。

室町時代に入り、京都の足利将軍家鎌倉公方の足利家 が対立し、前者の代理人として 関東管領・上杉家が派遣されてくると、関東地方を二分する対立構造が形成される。この時、古くからの関東武士の多くが鎌倉公方を支える側に回っており、豊島氏も例外ではなかった。こうした中、上杉家の 筆頭家老・太田道灌(1432~1486年)が豊島氏の所領を南北から圧迫すべく、東京湾沿岸に江戸城を築城すると、武蔵国内における緊張状態は頂点に達する。

そんな最中の 1476年、関東管領・上杉家で家内騒動が勃発する(長尾景春の乱)。翌 1477年には、上杉家の家臣団を二分する形で関東の騒乱へと発展し、この内紛に鎌倉公方も参戦することで、上杉家は絶対絶命のピンチに陥ってしまうのだった。こうした上杉家を支える 筆頭家老・太田道灌と、武蔵国東部の 伝統的豪族・豊島氏との間で、戦いの火ぶたが切られることとなる。

この時、豊島家当主の 豊島泰経(生没年不詳)は石神井城に、実弟の 豊島泰明(?~1477年)は練馬城にあって、武蔵国の南北から圧迫する上杉家のけん制に対抗していた。これに対し、多くの関東武士らが反上杉本家に組してしまい、南部の江戸城で孤立する形となってしまった太田道灌は先制攻撃を断行し(4月13日)、江古田・沼袋原の戦いで豊島軍を大破することに成功する(4月14日)。この時、豊島軍は副将の泰明を戦死で失い、当主の泰経も這う這うの体で石神井城へ撤退する有り様であった。しかし、多くの脱走兵が出たため、石神井城も守り切れず、降伏交渉(4月18日~)にも失敗して、ついに力攻めを受けて落城に追い込まれるのだった(4月28日)。いったん 平塚城 まで逃走した泰経であったが、これも太田軍によって攻め落とされ、その後の消息は一切、不明となっている。

こうして豊島氏を滅亡させた 太田道灌(1432~1486年)は、石神井城を廃城とし、近郊にあった三宝寺をこの城跡に移転させ、寺の境内に転用させたのだった。

練馬区

時は下って、110年後の 1590年、徳川家康が関東へ移封されてくると、この 武蔵国新座郡・豊島郡一帯(1000石)は、板倉勝重(1545~1624年)に給されることとなり、そのまま関東代官、江戸町奉行に就任する。その高い行政手腕を買われた板倉勝重は、関ヶ原の合戦後 の翌 1601年、京都町奉行(後の 京都所司代)に任命され、以降、京都の治安維持と朝廷の折衝役、および 大坂城の豊臣家 の監視役を司ることとなる。



石神井川をさらに西進すると、元テーマパーク遊園地「としまえん(2020年8月31日閉園)」がある。ここが、かつての練馬城跡であった(下地図)。

本来なら距離感を把握するため、石神井城跡から石神井川沿いを徒歩移動したかったが、時間と体力節約のため、この日は西武新宿線で 2駅分、移動することにした。

遊園地として開発されてしまっているため、今日現在、城跡の遺構は皆無であるが、向山庭園(下地図)入口前に堀跡のような地形が残っている。ただ、肝心の練馬城跡に関する案内板は、どこにも掲示されていなかった。

練馬区

また、付近の 練馬白山神社(上地図)には、平安時代後期、源義家(1039~1106年)が植樹したという、ケヤキの木が保存されていた。


豊島氏によって、室町時代初期の 1330年代、石神井川の南岸の台地上に平山城スタイルで築城されたという。北面の河川沿いは天然の絶壁となっており、城の南面に巨大な空堀を掘削し、台地を切り離して要塞化していたようである。以降、本拠地・石神井城の支城として機能することとなった。下地図。

上野国と相模国の守護職を担当していた 関東管領・上杉氏が、武蔵国守護も兼務するようになると、その 筆頭家老・太田道灌(1432~1486年)が主導して、武蔵国東部の旧勢力・豊島氏を圧迫するようになる。そうした緊迫した情勢の中で、武蔵国北部で長尾景春の 乱(1476年)が勃発すると、上杉家の家臣団は二分して武装闘争を始めることとなり、その過程で豊島氏と太田氏も激突するわけである。

まず、最初に戦端を切ったのは太田道灌で、1477年4月13日、練馬城と周辺の集落に火矢を放ち、豊島軍を挑発することからスタートされた(下地図)。

練馬区

当時、練馬城(史書には「平塚城主」と記されているが、「史書の誤り」とする説が主流になりつつある)には、豊島泰明が守将として詰めており、これに太田道灌が火矢を撃ち込むとともに、城下町や村落、田畑に放火して回ったという。太田軍はすぐに自領へ撤退するそぶりを見せて後退すると、石神井城と練馬城から撃って出てきた 豊島軍本隊(当主は、泰明の実兄で、石神井城主の豊島泰経)と 江古田原で対峙する。翌 4月14日、両軍は本格的に激突するも、当時、一騎打ちが主流だった武士の作法を逆手に取り、一人の武者に複数で襲いかかる集団戦法を駆使し、副将・豊島泰明をはじめ数十名を討ち取った太田軍が大勝利をおさめることとなった(江古田・沼袋原の戦い)。生き残った泰経と兵士らは石神井城へと敗走し、最後の籠城戦を展開する。上地図。

太田軍もそのまま石神井城まで追撃し、完全包囲するわけだが、その途中にあった練馬城はどうなったかに関し、史書には一切、触れられていない。おそらく 城主・泰明が討ち死にし、配下の兵士らはちりじりに離散してしまったか、石神井城側と合流し城内に逃げ込んだことだろう。無防備となっていた練馬城はそのまま太田軍が占領したと考えられる。
石神井城はその後、2週間ほど籠城するも、ついに大田軍の総攻撃の前に落城に追い込まれ、そのまま豊島氏は滅亡してしまうのだった。

練馬区

現在、練馬城を取り囲んだ土塁や空堀は全く残っていないが、この城跡自体は東京都指定旧跡となっている。1979年に南側の住宅街で空堀の 一部(最大で幅約 10 m、深さ約 4 m)が発見されており、それらの規模から、内郭の空堀は東西約 110 m、南北約 95 mあったと推定されている。

また、当時の土塁城壁は、底辺部の厚さが 10~15 m、頂上部は騎馬も通れる通路が整備されていたという(高さ約 3 m。上古写真)。また、特に防備が厚く施されていた南面には馬出の跡も確認されている。



ついでに、付近にあった「右馬頭屋敷跡」という史跡も訪問してみた(下地図)。ただし、その詳細は不明ということだった。
そもそも、「右馬頭(うまのかみ)」とは、朝廷から武家へ下賜される最高級の官位の一つで、「左馬頭(次期・征夷大将軍とほぼ同義であった)」に次ぐ役職であった。室町時代には、幕府管領家の細川氏が代々、右馬頭(右馬助)に叙任されている他、戦国時代には、毛利元就や毛利輝元 も右馬頭に着任している。江戸時代には、徳川家光と徳川綱吉も下賜されている。

綱吉は将軍就任前に脚症を患っており、その病気療養のために練馬区内に滞在していたことがあり、その時に滞在した屋敷地の一つであったと考えられる。その屋敷地としては「徳川綱吉御殿跡(練馬区北町 1-15-5。下地図)が確認されているが、その他にも複数あったものと推察される。当時、綱吉は次期将軍候補として、すでに朝廷から「右馬頭」に叙任されていた。

この「右馬頭屋敷跡」がある練馬二丁目周辺は、かつて「栗山大門」と称され、地元で「御殿」「裏門」「表門」という地名が残っていたという。現在、その屋敷地跡の大部分が、練馬区立開進第二中学校となっている。
室町時代中期までは、練馬城の出城である「栗山城」が立地していたとされる(城郭遺構は全く現存せず)。

練馬区

なお、最後に「練馬区」の由来であるが、複数の説が唱えられている。そのうちの一つとして、鎌倉~室町時代にかけて、この地を支配した豊島氏の家臣の中で、馬術に長けた者がおり、彼らに馬の 調練(練る)をさせたことに関係する、というものがある。区内には「馬頭観音」や「庚申塔」が複数、現存しており、いずれも旅路や馬に関する歴史遺産となっている。上地図。


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