BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による三次元的歴史妄想記~
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訪問日:20--年--月--旬


東京都 北区 ~ 区内人口 34.5万人、一人当たり GDP 800万円(東京都 全体)


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  飛鳥山公園(1720~21年、将軍・徳川吉宗が造営した花見の行楽地、が由来)
  飛鳥山博物館(北区の歴史資料館)、渋沢史料館(渋沢栄一の邸宅の 1つ)
  六石坂(日本橋 ~ 日光への 街道「日光御成道」沿いにあった坂道)
  西ケ原 一里塚(日光御成道の二里目を示す塚。江戸時代のまま、同じ場所に現存する)
  御殿前遺跡 ー 鷹狩に来た将軍の 休憩場「舟山茶亭」があった
  豊島郡衙跡 ー 奈良~平安時代、律令体制下の 地方役所「郡衙」跡(武蔵国豊島郡)
  平塚城跡(平塚神社と 豊山派平塚山城官寺、蝉坂)
  王子神社(王子権現。1737年、将軍・徳川吉宗の造営した「飛鳥山」を譲渡され管理した)
  滝野川城跡(金剛寺、紅葉寺、松橋弁財天洞窟跡)



東京 滞在中、半日ほどの時間を使って北区を訪問したみた。博物館系の屋内施設と、特に遺構もない城跡の見学だけだったので、あえて雨天の日を当てることにした。
JR京浜東北線「王子駅」で下車後、南口改札を出て、そのまま飛鳥山公園に入ってみる(下地図)。

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この公園は、江戸時代より桜の花見で有名だったそうだ。
その由来は、1716年6月に 8代目将軍に就任した 徳川吉宗(1684~1751年)が着手した、 「享保の改革」の一環の施策であったという。ムチのような質素倹約による禁欲的政策 を推し進める一方で、アメにあたる政策として導入されたのが、江戸の庶民のために 行楽地を整備するというプロジェクトであった。まず 1720~21年、この「飛鳥山」に 桜の苗木 1,720本あまりが植樹され、桜のシーズンだけ開放される こととなる。1731年、正式に「飛鳥山」は 旗本・野間家の私有地から幕府の天領へ取り上げられ、 公的に管理されることとなった(野間家はその代替地として、 幡ヶ谷村【東京都渋谷区】と中荒井村【東京都練馬区】を下賜される)。 最終的に 1737年、「飛鳥山」は、代々将軍家が帰依してきた 王子権現(別当金輪寺)へ寄進され、 その管理下で行楽地として開放され続けたという(以降、金輪寺には将軍の御膳所が設けられ、 将軍も花見を楽しんだという。前述の飛鳥山博物館内に、この金輪寺の将軍座敷を再現 した展示あり)。当時、桜の名所で禁止されていた「酒宴」や 「仮装」が「飛鳥山」では容認されたため、江戸市民の息抜きに大いに貢献したとされる。 下絵図。

そして 1873年(明治6年)3月25日、太政官布達により東京府から公園指定を受け、上野公園、芝公園、浅草公園(浅草寺の境内)、深川公園(旧・富岡八幡宮の境内)とともに日本最初の公園に選出され、今日まで続く市民公園であり続けている、というわけだった。

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この公園内にある、飛鳥山博物館と渋沢史料館に立ち寄ってみる。
前者は、北区の 自然・歴史・文化に関する博物館となっており、後者はかつて 渋沢栄一(1840~1931年)が住んだ邸宅跡地の一つに建立された施設で、彼の全生涯にわたる資料が収蔵、展示されていた(1982年開館)。

そのまま飛鳥山公園を南へ抜けると、本郷通り(東京都道 455号 本郷赤羽線)沿いに「六石坂」の解説板が設置されていた。
江戸の古地図には「六コク坂(下段絵図)」と記され、日光へと続く 日光御成道(岩槻街道=今の本郷通り。下地図左)上にある、飛鳥山脇を登る坂道であった。花見シーズンには特に賑わい、坂沿いには鷹狩などに来た将軍の 休憩場「舟山茶亭」や、将軍専用の花見台として「御立場(御上場。下絵図右)」も設けられていたという。

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さらに東進すると、「一里塚(西ケ原一里塚)の碑」を発見する。
ここは、日光御成道(岩槻街道。上地図左)が、日本橋 から二里目(約 8 km)にあたる一里塚で、江戸時代に設置されたままの位置で保存されており、東京都内では非常に貴重な歴史遺産となっている。大正時代に道路整備工事で撤去されそうになるも、渋沢栄一らを中心とする地元住民の運動によって塚の保存に成功し、1922年(大正11年)年3月8日に国定史跡に指定されたという。

そのまま東進すると、地下鉄・南北線「西ケ原駅」に到着する。この東隣に滝野川公園があり、「御殿前遺跡(豊島郡衙跡)」の解説板があった。

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飛鳥山から 東側(上中里・西ヶ原)、現在の田端一帯まで、江戸時代には森が広がっていたという。森林の中でやや高台となっている箇所は、「飛鳥山」や「御殿山」「平塚山」などと命名されていたようである(上絵図)。

なお、この「御殿山」の由来であるが、5代目将軍・徳川綱吉(1646~1709年)が廃止した鷹狩りを、8代目将軍・徳川吉宗(1684~1751年)が復活させると、江戸近郊に 八か所(6筋)の鷹場が開設される ー 岩淵筋(日光御成道)、葛西筋(今の 御殿山公園、葛西城址公園)、戸田筋、 中野筋、目黒筋、品川筋。同時に、それぞれに将軍の休憩施設が造営され、この岩淵筋の鷹場には 殿舎「舟山茶亭(西ヶ原村舟山にあったことに由来)」が建設されたことから、「御殿山」「御殿前」と呼称されるようになった、というわけだった。


江戸時代には、将軍の 趣味(鷹狩り)の用地となっていた「御殿山」一帯であるが、これより以前、室町時代、鎌倉時代には地元豪族・豊島氏の 本拠地・平塚城(後に支城へ降格)が築城されていた。より以前の 平安時代、奈良時代には、 律令体制下の 地方役所「武蔵国豊島郡の 郡衙(下地図)」が開設されており、さらに古い旧石器時代には古代集落が形成されていたことが分かっている。

現在の 国立印刷局東京工場~滝野川公園~滝野川体育館~平塚神社に至る高台エリアは、旧石器時代にはすぐ眼前まで海が迫っていたと考えられる。その後、海岸線が徐々に後退していく中でも、安全な山の手エリアとして重宝され、奈良時代からの律令体制下では、郡役所が開設されるまでになっていたわけである(下地図)。

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この律令制下、武蔵国の 国府(国衙)は現在の府中市に開設されており、 21の 郡役所(郡衙、郡家)を統括していた。そして、現在の東京都中心部を担った 豊島郡(千代田・文京・台東・荒川・豊島・北・板橋・練馬・新宿区エリア)の郡都が、この御殿山に立地していたわけである。大げさに言うと、「古代の都庁」とも表現できるだろう。上地図。

この詳細は、飛鳥山博物館の「律令社会と 豊島郡衙」コーナーで学ぶことができる。郡庁(官庁)の建物が並んでいた 御殿前遺跡(豊島郡衙跡)、米倉があった 倉院エリア(連房式鍛冶工房跡を含む)の七社神社前遺跡、地下鉄 7号線西ヶ原駅地区遺跡など細かく命名され、発掘の成果が展示されている。また、王都がある大和地方 で製作された生活用具類も出土しているという。
さらにその地下からは、より古代の 集落遺跡(縄文時代中後期~弥生時代後期)も発見されている。



上で見てきた通り、数千年前からの古代集落、律令体制下の豊島郡都など、武蔵国内でも重要拠点だった御殿山エリアであるが、この最高の立地に築城されていたのが、鎌倉時代~室町時代にあった「平塚城」というわけだった。

滝野川公園をさらに東進し、蝉坂との交差点付近に「平塚城跡」の解説板が設置されていた。このまま蝉坂を北上すれば、JR京浜東北線「上中里駅」にアクセスできる。下地図。
この蝉坂は、道の両側面が切通風になっており、谷底を進むような道路で、西側に平塚神社、東側に豊山派平塚山城官寺が立地する。往時には、丘陵地帯を東西に分断し二つの曲輪を設けて、平山城が造営されていたようである。その 堀切、横堀(空堀)に相当する遺構が、この蝉坂というわけだった(下地図)。

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 平塚城(豊島城)

平安時代後期、豊島近義(桓武天皇の 6世孫で、武蔵国の 名族・秩父平氏の祖とされる、平将常【将恒。1007?~1057?年】の孫)が、最初に居館を築城したとされる。その血統の良さから、豊島郡の郡司職にあったと推定され、当時の豊島郡の郡役所を呑み込む形で、城館を造営したと考えられる。奈良時代からの政治的権威をそのまま継承し、以降、代々にわたり、豊島郡一帯を支配していくこととなったようである(この過程で、豊島姓を名乗った)。

平安時代も後半期に至ると、律令体制の崩壊が地方で噴出しており、東北地方での戦乱がその一例であった。この時、前九年の役(1051~1062年)、後三年の役(1083~1087年)を通じ、奥州戦乱を平定した 源義家(1039~1106年)の遠征軍に、多くの関東武士らが従軍しており、その戦後恩賞で大きな恩を源氏から受けることとなる。

特に、後三年の役は「私的な戦争」として切り捨てられ、朝廷から一切、恩賞を下賜されなかった源義家であったが、自らに付き従って奥州征伐を成功させてくれた関東武士団に対し、自らの私財を分与してまで恩賞をひねり出し、その労をねぎらったとされる。その際、関東に戻った 源義家(母が、秩父平氏の出身一族であった)は、各豪族らを訪問しており、豊島氏(秩父平氏の同門と言える)の本拠地だった平塚城にも足を運び、源義家・義綱(1042?~1132年)・義光(1045~1127年)の三兄弟そろって(下家系図)、饗応を受けた記録が伝えられている。
源義家はその返礼に、自らの鎧と守り本尊の十一面観音像を譲ったとされる。現在、平塚神社の裏手には、その鎧を埋めたと伝わる甲冑塚が残されている。

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なお、もともと源義家の 父・源頼義(988~1075年)、祖父・源頼信(968~1048年)らの本拠地は 畿内(河内源氏と呼ばれる。上家系図)であったが、1030年、源頼信が 平忠常(秩父平氏の 祖・平将常【1007?~1057?年】の実兄)の乱の追討使として関東に派遣され、これを 平定後(1031年)、その 子・源頼義が、上総守・相模守として着任していた平直方の娘婿となり、直方の自領だった 鎌倉 の地を与えられる。そして、その両家の子として誕生したのが、源義家というわけであった。このため、畿内の河内源氏と関東の 桓武(秩父)平氏とのハイブリッドとして、名跡抜群な形で関東武士に受け入れられたのだった。

こうして 源頼義・義家父子によって構築された関東武士団との強力なコネと恩義は、ひ孫の 源頼朝(1147~1199年)が 鎌倉 で挙兵する際、多くの関東武士らがはせ参じる原動力となったわけである。当時の豊島氏 当主・豊島清元(清光)も当然、この平塚城から参陣し、鎌倉幕府の首脳陣の一人として入閣している。

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その後、時期は不明であるが、豊島氏は石神井城へ本拠地を移転させると、平塚城はその支城に成り下がることとなる(上地図)。

室町時代中期の 1477年4月、江戸城の 太田道灌(1432~1486年)と敵対した、豊島家 当主・豊島泰経は、江古田ヶ原・沼袋原の戦いで大敗し、本拠地の石神井城も落城に追い込まれて、最終的に逃げ込んだのが、この平塚城であった。しかし、これも太田軍に包囲され攻め落とされると、ついに地元の 名門・豊島氏は滅亡してしまう(豊島泰経はその後、行方不明となる)。以降、平塚城も廃城となったようである。上地図。

その後、江戸時代には、分家筋の豊島氏が幕府旗本として命脈を保っている。



もし天候と時間に余裕があれば、JR王寺駅の西側にある「滝野川城跡」も訪問してみたい。石神井川沿いの遊歩道を、まっすぐ西進すると到着できる(15分強)。下地図。

室町時代中期、武蔵国東部で太田道灌と覇権を争った豊島氏は、 蛇行する石神井川沿いに 石神井城、練馬城などの城塞ネットワークを構築しており、滝野川城もそのうちの一つに組み込まれていた。豊島氏の 一門・滝野川氏の居城であったという。

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現在は、城跡に関する解説板も設置されておらず、金剛寺(紅葉寺)が立地するのみであった。付近には、松橋弁財天洞窟跡、紅葉橋、紅葉橋通りなどがある。かつて、本堂の西側に空堀跡があったという(今は現存せず)。下地図は、江戸時代の様子。

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 滝野川城

室町時代中期の 1470年代、豊島氏の 一門・滝野川氏(その他の分家として、 葛西氏、江戸氏、河越氏、赤塚氏、志村氏、板橋氏、宮城氏、練馬氏、小具氏、平塚氏、白子氏、庄氏 などがある)によって築城された平山城であった。

そもそも豊島氏とは、平安時代後期、郡司として武蔵国豊島郡を 統治&支配するようになった一族で、その始祖は、秩父平氏の 祖・平将常(将恒。1007?~1057?年。下家系図)であった。以降、子々孫々にわたって豊島郡の郡司職を継承する中で(もしくは、郡司職にあった家系と姻戚関係を結んで台頭した)、地元支配者として根付いていったと推察される。下家系図。

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前九年の役、後三年の役などの奥州遠征では、源頼義・義家父子に従軍し、以降、源氏恩顧の武士となる。豊島清元(清光。?~?)・清重(1161?~1238年?。奥州葛西氏の祖となる)父子の代で、義家のひ孫だった源頼朝を支えて、平家追討や 奥州合戦(1189年)で武功を挙げ、鎌倉幕府の中核を担う幕閣となっていく。

鎌倉幕府の滅亡後も、続く室町時代を通じ、豊島氏は豊島郡を支配し続けるのだった。

室町時代を通じ、石神井城を本拠地とした豊島氏は、新たに武蔵国守護となった 関東管領・上杉家の支配下に組み込まれるも(武蔵守護代として代々、二宮城主の大石氏が就任した)、その主従関係はスムーズなものではなかった。こうした新旧の勢力が割拠する武蔵国を統一すべく、上杉家の筆頭家老である 太田道灌(1432~1486年)が、 旧勢力の代表格だった豊島氏の力を削ぐべく、東京湾岸エリアに江戸城を築いて、武蔵国の南北から豊島氏のテリトリーを圧迫していく。これに対し、豊島氏側も先祖伝来の領地を守るべく、急ピッチで石神井川沿いに城塞網を構築していくわけである(下地図)

この一環で築城されたのが、滝野川城であった(下地図)。
ちょうど 練馬城 と平塚城との間の 丘陵地帯(標高 16 m、川辺からの高低差 10 m)に立地されていた。蛇行する石神井川の左右両岸が、ちょうど切り立った斜面を形成しており、その南岸が選ばれたようである。

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しかし、築城間もなくの 1477年4月、江古田ヶ原・沼袋原の合戦で太田軍に大敗した 豊島軍は、石神井城、練馬城、滝野川城などを放棄し、東端の平塚城に逃げ込んで籠城するも、最終的に攻め落とされ、豊島氏、滝野川氏共に滅亡に追い込まれるのだった。
その後は廃城となり、跡地には金剛寺が建立されることとなった。

なお、1180年、石橋山の合戦に破れ安房に逃れていた源頼朝が再挙兵し、関東地方の武士団平定戦に乗り出した際、この石神井川沿いの「松橋」に布陣したという伝承があり、その解説板は金剛寺境内に掲示されている。



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