BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2019年11月下旬


東京都 中野区 ~ 区内人口 33.5万人、一人当たり GDP 800万円(東京都 全体)


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  JR中野駅から 中野城山 居館跡地へ歩く ~ 丘陵斜面地帯を体感する
  中野区立城山公園 と 東京府立 農業試験場跡(現在も 立川市にて存続中)
  中野区立谷戸運動公園 ~ 中野城山 居館の本郭
  附近には、芸能人ご用達の 堀越高校がある
  中野川(桃園川)と 丘陵地区を俯瞰した 古地図
  【豆知識】中野城山 居館跡 ■■■



JR 中野駅に到着後、先に北口側にある「中野ブロードウェイ」を 訪問してみた。中国か東南アジアのローカル市場に 迷い込んだような印象だった。その後、駅南口側へ移動する。

駅南口を直進し、JR中央線 と大久保通りとの間の、細い住宅街を通り抜けて 15分弱ほど進む。途中、何度か折れ曲がったりしたが、無事に到着できた(下地図の青ライン)。

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なお、移動中には JR 中央線側を頂上部とする、丘陵斜面の地形になっていることが体感できた。下写真は、途中に目にした中野区立紅葉山公園。北方向へ緩やかな坂道が続いている。この後方に JR線が通る。
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そして、城山公園通りの路地に行き着く(上写真右)。この北端に「区立城山公園」があるというので訪問してみる。

今ではすっかり住宅地内にある、のどかな市民公園なのだが、かつては「東京府立 農業試験場」だったという案内板が、門脇に掲示されていた(下写真左)。


現在の 東京都農林総合研究センター(東京都農林水産振興財団)は東京都内、特に 多摩地区 を中心として 農業・畜産・林業の三分野における経営指南や専門技術者育成などを手掛けているが、その前身がこの 1900年に当地で開設された「府立 農業試験場」だったわけである。当時、この城山公園から大久保通りにおよぶ約 2.7 km2 の面積を有する広大な農場であったが、急速に都市化が進み 1924年に立川市富士見町へ移転されてしまったという。現在も、そのまま立川市にて存続されている。

解説板によると、『江戸時代末頃から、豊かな経験と技術を持つ各地の「老農」と呼ばれる人たちの、相互交流に頼る農業改良が行われていたが、この農業試験場では、新しい農業技術の開発やその成果を見習生の養成、講習、実地指導に生かして普及する方法をとった。
試験場の活動は、国の指定補助を受けて園芸部が行った。野菜や草花の温室による 促成(ハウス)栽培試験なども含め、多くの面で東京近郊の農業技術改良に少なからぬ影響を与えた』と記されていた。


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そのまま城山公園通りを南下し(上写真右)、さらに東進すると、間もなく大きな野球グラウンドがある区立谷戸運動公園に行き着いた。下写真。

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正面入り口に小さな解説板が設置されていただけで(下写真左の電話ボックス横)、ここが城館跡とは知りようもない住宅街のど真ん中だった。

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とりあえず、一周してみようと公園の外周を回ってみたが、北側に立地する マンション「グランデ城山」が立ちはだかって(上写真右)、城館の外周すら回らせてもらえない状態だった。

仕方ないのでさらに東進し、大久保通りまで至る。ちょうど、バス停「堀越学園」前に出た(下写真左)。この道路南側に堀越高校があり、周辺は高校生らの帰宅ルートになっているようだった。

なお、この堀越高校は芸能人の卒業生が多いことで有名で、郷ひろみ、松田聖子、南野陽子、真田広之、松たか子、深田恭子、綾瀬はるか、上戸彩、松田龍平、三浦春馬、柳楽優弥 などの蒼々たる顔ぶれがクラスメートにいたことになる。今回の訪問ですれ違った生徒さんの中にも、未来のアイドル、芸能人たちがいたのかもしれない。。。

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そのまま丸ノ内線「中野坂上駅」まで歩こうと(20分強)、大久保通りを渡る。一つ南側にある住宅路地を東進した。ちょうどこの辺りは、南北の丘陵斜面の谷間にあたる低地エリアに相当し、後で調べてみると、旧桃園川(中野川)が流れていたという。

この中野城館は、旧桃園川(下地図の中央に流れる小川)に面する丘陵地帯に築城され、一帯の斜面上に開拓された農地エリアを支配していた往時が思い浮かんだ。

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 中野城山 居館跡

かつて細々と流れていた中野川の 谷戸(谷あいの地)をおさえ、野方丘陵の南東を占める地に城砦が建造されたと考えられており、その築城は平安時代中期の 平忠常(975?~1031年)の手によるとも、もしくは 石神井城(今の 東京都練馬区)の豊島泰経 と戦った 太田道灌(1432~1486年)の前衛陣地「道灌とりで」跡地だったとも指摘される。

以後、この谷あいの地を支配する 土豪・堀江氏の居館となり、さらに補強されて土豪屋敷へ発展していったようである。 戦国期、堀江氏は北条氏に仕えて中野五郷を束ねる村代官を務めるも、 1590年の小田原征伐で秀吉方に降伏し、以後もしばらく代官職を継承するも、 徳川家康の関東転入後に城館としての機能が停止され、完全に武装解除されたと考えられる。

その後、堀江氏はそのまま中野村一帯の 代官職を追認され、当地の名主としてこの居館跡に邸宅を構え、一帯の年貢徴収や治安維持などを 司ったという。
1675年当時の記録には、「中野村には 900坪ほどの土塁と空堀があり、昔から城山と言い伝えられている」という記述が見られる。江戸期には中野村の 名主・堀江家、明治期以降は田島家の土地として、居館遺跡の土塁の一部が最近まで現存していたという。

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現在、中野区中野 1丁目 33番 1号に立地する マンション「グランデ城山」を積水ハウス社が建設する際、事前調査として 中野城山居館跡(中野城山遺跡)の発掘が行われている。
この調査は 1991年3月8日~5月2日に着手され、直後より建設工事がスタートして 1993年にマンションが完成する。以降、積水ハウス社の持ち物件となっている。

その発掘調査により、井戸跡、建物基台跡、溝跡、障子堀跡などが確認されており、その内容を記した『中野城山居館跡発掘調査報告書』が地元図書館に貯蔵されている。
このマンション開発で完全に破壊されるまで、谷戸運動公園裏に幅 5.4 mほどの土塁が残っていたといい、現在、中野区立谷戸運動公園となっている一帯が居館の中央部に相当するという。



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