BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:20--年--月--旬


東京都 八王子市 ② ~ 市内人口 58万人、一人当たり GDP 800万円(東京都 全体)


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  甲州街道 宿場町「八王子宿」の今昔 ~ 大久保石見守長安 陣屋跡、堤防遺跡「石見土手」
  桑都日本遺産センター八王子博物館
  滝山城跡(滝山城址公園)、信濃屋敷跡、山の神曲輪
  高月城跡
  在日米軍横田基地(横田飛行場)- 東京都 昭島市&福生市



前日まで新宿 2泊、調布 2泊した後、夕方に「調布駅」から京王線で「橋本駅」まで移動し、ここから JR横浜線で「八王子駅」に到着した。この駅西側にある 2軒のアパホテルは、駅から距離がある分、非常にリーズナブルな価格帯で重宝した。3~5連泊する。

なお、羽田空港から東京入りの際は、空港バス「八王子(1時間30分)」「調布駅(1時間10分)」行で直接、現地入りしたい(1,780円)。「羽田空港 → 八王子・西八王子・高尾」行は、早い者勝ちの座席定員制で、逆に「羽田空港」行は事前のネット予約が必須だった。もしくは、羽田空港から京急線で「京急蒲田駅」を経由し、京急「川崎駅」「横浜駅」「横須賀中央駅」へ移動後、JR線に乗り換えることもできる。この場合、横浜駅前か、新横浜駅前に投宿したい。もしくは、八王子駅前、調布駅前 のネットカフェに泊まるのもいいだろう(初日、最終日など)。

八王子市

この日の午前中は、江戸時代の宿場町「八王子宿」エリアを散策してみた。
投宿先のホテルがちょうど JR八王子駅の西はずれに位置していたので、そのまま西進すると「大久保石見守長安 陣屋跡」に行きつけた。

もともと甲斐・武田家の家臣だった大久保長安(1545~1613年)が、徳川家康に取り立てられて最側近&高級官僚に採用されると、1591年に徳川家直轄領の代官頭として、武蔵国八王子の統治を委ねられる。その統治拠点として開設したのが、この陣屋というわけだった。その政庁の周辺に 八王子城の城下町(元八王子地区) を移転させ、文字通り、八王子エリアの政治(関東十八代官の首府)・経済の中心都市として「八王子宿」を形成させていくわけである。下絵図。

八王子市

この北側にある国道 20号線まで出ると、「八幡町」「横山町」「八日町」の地名が東西に連なっており、甲州街道沿いの宿場町の名残りとなっている(現在、夢美術館の隣に「旧甲州街道 八日市宿跡」の石碑が立つ)。これらの地名は、もともと北条氏照時代の滝山城下にあった町人町で、いったん 八王子城 下へ移転された後、最後に「八王子宿」へ引っ越しされてきたという(「三宿三転」と呼ばれる)。同様に、この「八王子宿」旧市街地エリアに点在する寺院群(善龍寺、宝生寺、御嶽神社、少林寺、極楽寺、大善寺、市守神社など)も、八王子城下から移転されてきたものである。

また、大久保長安は治水事業にも携わり、宿場町を洪水から守るために囲った堤防遺跡「石見土手(長安の官位名が「石見守」だったことに由来)」が、現在、宗格院本堂の北側境内にわずかな石積みとして残存する。


1590年の豊臣秀吉の小田原征伐により、北条氏が滅亡すると、その旧領全域が徳川家康に与えられることとなり、関東地方に入封してくる。
家康は先の戦役で荒廃著しかった八王子地方の社会復興と、西部国境地帯(甲州口、武蔵国や相模国西部、小田原城下など)の管理強化を意図し、徳川家直轄領に定める。そして、徳川家の譜代家臣となっていた大久保長安(1545~1613年。最初、甲斐の武田信玄に仕え、鉱山開発、税務の官僚として経験を積み、家康が甲州を併合すると、そのまま徳川家に仕えて甲府で統治実務を担当し、高い手腕を評価されるようになっていた)を、この地方の代官頭に任命し、その守備と統治を委ねたのだった。長安は、すぐに軍役に活用できる要員として、ゆかりのある旧武田家臣団を当地に移住させてくる(以降、「八王子千人同心」と称された)。この時、家康は秀吉に警戒されることを恐れ、あえて甲州口に支城を配置せず、むしろ 八王子城 や滝山城を廃城とした上で、八王子の拠点集落に陣屋のみ開設させたのだった(1591年)。

以降、八王子は、武蔵国における徳川家直轄領(天領)を統括する代官 18人が駐在する中核都市となる。彼らの主な任務は、領内の治安維持と税金徴収であった。
こうして長安は甲州街道の整備を進め、1593年には八王子町(千人町付近)を設計し、 八王子城下(元八王子エリア)の町人らの移住をスタートさせると、1650年代までには、現在の八王子市中心部(八王子駅の北側)一帯に、甲州街道上の一大宿場町を出現させることとなった。下地図。

八王子市

当時、八王子の宿場町は複数の町人町が連なる形で構成されており、「八王子十五宿」「八王子横山十五宿」と総称されていた。「十五宿」とはすなわち、横山宿(最初に開設された宿場町)、十王堂宿(新町)、八日市宿、本宿、八幡宿、八木宿、子安宿、馬乗宿、小門宿、本郷宿、上野(上野原)宿、横町(もともと大善寺の門前町として発展した)、寺町、久保宿、嶋坊(嶋野坊)宿、を指していた。このうち「八日市」「横山」「八幡」の地名は、北条氏照時代に滝山城下から 八王子城 へ、そして八王子宿へと継承されたものだった。
特に、八王子十五宿の中でも、横山宿(現:横山町)と八日市宿(現:八日町)が最も繁華街となっており、「4」の付く日は横山宿で、「8」の付く日は八日市宿で定期市が開かれ、八王子名産の絹織物など様々な商品が売買されていたという。この横山町~八日町を中心とする街道筋が、後の八王子市街地へ発展する基礎となるわけである。

江戸時代において「八王子宿」は甲州街道上、「府中宿」と並ぶ巨大宿場町へと成長するわけだが、1704年に八王子宿の代官所がすべて廃止され、この徳川直轄領(天領)の代官たち全員が 江戸城 下に集住することとなる。他方、譜代旗本の「八王子千人同心」は現地にあって、引き続き、治安維持業務を担当することとされた。

江戸時代中期より絹の生産が奨励されると、養蚕や織物業が盛んとなり、「八王子宿」は繭・生糸・織物の交易拠点としても発展し、「桑都(そうと)」とも通称されるようになる。明治時代に入っても引き続き、絹の道(神奈川往還)上の最大取引市場として繁栄を謳歌する。大正時代には、東京府内で 東京市 に次いで 2番目となる市制が導入される。昭和期に至り太平洋戦争へ突入すると、八王子の市街地は米軍の空襲で大きな被害を受けるも(下写真)、戦後に目覚ましい復興を遂げ、今日に至るわけである。
なお、宿場町時代から栄えた飯盛旅籠(公認売春宿)は戦後まで続き、現在のスナック街へと継承されている。

八王子市



そのまま八王子駅前へ移動し(徒歩 15分弱)、JR八王子駅南口に直結されたサザンスカイタワー八王子 3階にある「桑都(そうと)日本遺産センター八王子博物館(入場料無料、10:00~19:00)」にも立ち寄ってみた。ここで、八王子市の歴史(八王子城 や八王子空襲など)を予習できる。
特に、屋内なので雨天時に訪問してみるのがベスト。

午後から八王子駅北口から西東京バス「ひ 01(戸吹行)」に乗車し、バス停「滝山城址下」で下車する(毎日 1時間に一本あり)。上路線図。

八王子駅北口(10:05 発) → バス停「滝山城址下」(10:22 発)
八王子駅北口(11:05 発) → バス停「滝山城址下」(11:22 発)
八王子駅北口(12:05 発) → バス停「滝山城址下」(12:22 発)
八王子駅北口(13:05 発) → バス停「滝山城址下」(13:22 発)


バス停「滝山城址下」の脇には「滝山城跡碑」があり、その横の道を「吉田久稲荷神社」へ向かって山道を登っていく形となる。下地図。

八王子市

そのまま中の丸、主郭(本丸)、二の丸、信濃屋敷跡、刑部屋敷跡へと山中を散策していく。
所々で空堀、竪堀、虎口、曲輪、土橋、土塁などの遺構がはっきりと残存しており、見ごたえ抜群の城跡だった。一帯は、東京都により「滝山城址公園(1951年に国指定史跡となった)」として整備され、散策しやすい(2017年には「続日本100名城」にも選出されている)。多くの桜が植樹され、花見スポットとなっている。

なお、西端の「山の神曲輪」へも移動し、そこから県道 166号線まで下れれば、次の「高月城跡」見学にも便利だったが、通り抜けは不可能なようであった(上地図)。


室町時代、関東管領・上杉氏の治世下にあって、四宿老(長尾氏・大石氏・小幡氏・白倉氏)の一角に名を連ねた大石氏は、100年近くもの間、武蔵国の守護代を任されてきた家柄であった(1368~1455年)。 1356年に築城された二宮城(今の東京都あきる野市)を主に本拠地としてきたが、上杉家中での内乱(享徳の乱)が勃発し、関東各地が戦乱で荒廃すると、より強固な城塞として高月城を築城し、ここに本拠地を移転させることとなる(1458年。当主・大石顕重)。
その関東大乱も、江戸城主の太田道灌(1432~1486年。上杉家の筆頭家老であり、武蔵国の守護代も兼務した)の活躍により平定されるも、道灌が主君・上杉氏によって暗殺されてしまうと、再び、関東は大混乱に陥る(長享の乱)。この戦乱の最中に、伊豆・相模で北条氏が台頭していくるわけである。

そのまま 1500年代に入り、北条氏が武蔵国へも侵攻するようになると(1524年1月には江戸城陥落)、危機感を持った当主の大石定重(1467~1527年)は、居城の高月城の防備を強化すべく、周囲に支城群を構築していく中で、滝山城を築城することとなる(1521年)。

しかし、1546年5月、北条氏康(1515~1571年)が河越夜戦(河越城の戦い)で武蔵国守護で関東管領だった上杉氏を滅ぼし、上杉氏の勢力を武蔵国から完全排除すると、多摩地方の有力豪族だった三田氏と大石氏も、ついに北条氏に臣従するのだった。特に、大石氏の当主・定久(1491~1549年)はより北条氏への接近を図り、氏康の三男だった氏照(1542~1590年。当時 5歳)を婿養子に迎え入れる(大石氏照を名乗る)。

そのまま大石定久は隠居し、大石綱周が暫定当主として大石家を切り盛りした後、氏照が 17歳で元服すると同時に、大石家の家督が継承されることとなった(1559年11月)。この時、氏照は当時の大石氏の本拠地・由木城に入って、家臣団をまとめつつ、本格的な領地経営に乗り出したわけだが、間もなく、上杉謙信による大規模な関東出兵があり、多くの関東武士らが上杉軍になびいてしまったため、大石氏照は居城を由木城、高月城など点々としつつ、戦火の回避に専念していたようである。その後、上杉軍本隊が 越後 へ撤退すると勢力を盛り返し、最後まで上杉方に組した三田氏(本拠地:勝沼城)を攻め滅ぼし、多摩地方全域の絶対的支配権を確立する(1563年)。下地図。

八王子市

こうして多摩地方を統一した大石氏照は、同じ 1563年中に本拠地を高月城から滝山城へ移転し、城塞のさらなる補強工事にまい進することとなる。以降、河岸段丘の地形をうまく利用して、巨大な空堀と土塁を有する複数の曲輪群が設計され、最終的には、関東随一の規模を誇る平山城が完成する。下地図。
なお、高月城と滝山城とは隣接した河岸段丘上にあり、城下町の移転も容易だったと考えられる。両者ともに、城主や家臣団の館、城下町は山麓に開設され、非常時のみ山中に立てこもる根小屋スタイルが採用されていた。

他方、この多摩地方の一元支配は、北条氏へ莫大な利益をもたらすこととなった。上流に広がる山岳地帯から切り出される木材が、多摩川を下って平野部や沿岸部へ運び出される商流を抑え、関東地方の木材市場をコントロールする役割を担ったわけである。こうして北条家の関東支配の一翼を担いながら、北関東に睨みをきかす役割として、氏照は滝山城を大改修し、武蔵国西部を統括する政庁、経済都市としても発展させることに成功する。
同時に、鉢形城主・北条氏邦(1548~1597年。北条氏康の五男)と共に、北関東~越後、東北地方における外交窓口も担当するようになる。上地図。

そんな中の 1569年9月27日、関東遠征してきた武田信玄の率いる 2万の大軍に滝山城を攻撃される。
この時、北関東から南下してきた武田軍は、多摩川の対岸に陣を敷き、北条軍の注意を引き付けつつ、別働隊の小山田信茂隊 1000騎を未整備の間道を突破させ、甲州から直接、滝山城の後方に侵入させてきた。あわてて迎撃部隊を派遣した氏照であったが、廿里の戦いで蹴散らされ、そのまま武田別動隊に滝山城下への進入を許してしまうと、同時に武田本隊も多摩川を渡河して攻撃を繰り出す。さんざんに攻め立てられ落城の危機に陥る中、同日夕刻に至り、信玄は攻城戦を停止させる。そのまま滝山城を無視する形で、武田軍はさらに小田原を目指して南進することとなる


この一連の戦役で領内を蹂躙され、軍事的&経済的に大損害を受けた大石氏照は、北条家の団結力と支配体制を強化すべく、北条姓に復帰して北条氏照へ改称すると、そのまま大石家の家臣団を統率するとともに、滝山城や支城群のさらなる強化工事を進めるのだった。
この時、大石家自体の家督は、義理の弟である大石定仲(実際には養父・大石定久の実子で、本来の家督継承者だった)が継承し、そのまま氏照の筆頭家老としての立場に収まることとなる。

さらなる滝山城の補強工事を進める一方で(下絵図は、この最盛期のもの)、甲斐との国境である甲州口により近い元八王子エリアに、巨大山城「八王子城」の築城にも着手し(工事着手は 1571年とも、1584年とも指摘される)、最終的に 八王子城の居住空間エリアが完成された段階の 1586年末、氏照はその居城を八王子城へ移転させるわけである。同時に、滝山城下の城下町も八王子城下へ引っ越しさせるのだった

八王子市

1590年の豊臣秀吉による小田原征伐時、城主・北条氏照は領内 6か所の城から徴兵された主力部隊を率いて、小田原城内に詰めることとなり、わずかな残余家臣団のみが八王子城の守備に回される。このため滝山城は放棄され、全く戦火に巻き込まれずに、北条時代を終えることとなった。対して、八王子城では領内から集った農民ら老若男女が動員され籠城するも(3000名)、深夜から攻め立てられて翌早朝には落城してしまうのだった(2000名近い人々が命を失ったとされる)



その後、山の神曲輪から県道 166号線へ直接、下山するか、再び、バス停「滝山城址下」まで戻る形で下山した。そして、県道 166号線を北へ移動し(徒歩か路線バス)、バス停「高月」前から西の山道に入り、「高月城跡」を見学してみる。下地図。

八王子市

同じく多摩川の河岸段丘上にあり、少し登山する形となる。主郭跡地は畑や雑木林が広がっており、北面に堀切が残る(現在は、切通し風の道路として利用されている)。その対岸の北側が三の丸で、今では神社や住宅地となっている。
また、山麓には「しだれ桜」が有名という圓通寺が立地する。上地図。


室町時代初期の頃、 足利氏の有力家臣が交代で武蔵国守護に任じられていたが、 1361年に初代関東管領となった上杉憲顕 (1306~1368年。山内上杉氏の始祖。足利尊氏の母・清子は、憲顕の父方の叔母に相当し、尊氏とは従兄弟関係にあった)が守護職を兼務するようになると、以降、上杉氏が同職を独占継承するようになる。

そもそも上杉氏は公家出身で、鎌倉時代後期の 1252年、六代目将軍として宗尊親王(1242~1274年。後嵯峨天皇の第一皇子)が 鎌倉 へ下向する際、親王に従って下向してきた側近公家集団の一人、上杉重房(生没年不詳)に端を発している。1266年7月に宗尊親王が鎌倉を追放された後も、その子・惟康親王(3歳。1264~1326年)が七代目将軍を継承したことから、重房らも鎌倉に留まり、そのまま鎌倉幕府に出仕し続ける。この間に、上杉重房は源氏一門の足利氏と姻戚関係を結ぶようになり、特に重房の孫・上杉清子(1270?~1343年)は足利貞氏(1273~1331年)に嫁いで、足利尊氏・直義兄弟を生むこととなる。
その後、足利尊氏(1305~1358年)が室町幕府を開いて、鎌倉へ三男の足利義詮(1330~1367年)を派遣してくると、従兄だった上杉憲顕(1306~1368年。山内上杉家の祖)に執事を依頼し、義詮を補佐させることとしたのだった。間もなく義詮に代わり基氏(1340~1367年。足利尊氏の四男)が鎌倉に入ると、以降、足利基氏は鎌倉公方と呼ばれるようになり、その補佐役として関東管領が新設され、そのまま上杉憲顕が就任したわけである(1361年)。同時に武蔵国の守護職も兼務するようになる。

1368年、この憲顕の子・上杉能憲(1333~1378年)が関東管領を継承すると、同時に上野国と伊豆国の守護にも任じられ、一大勢力を形成する。

この時、守護代に任命されたのが大石能重(生没年不詳。下家系図)であった。彼は、上杉憲顕に従って関東入りした大石為重(生没年不詳。下家系図)の実弟で、為重には実子がなかったので、大石信重(1336?/1334?年~1424年。下家系図)を養子に迎えていたが、まだまだ幼少だったことから、弟の能重が家督を暫定継承し、そのまま守護代にも任じられたのだった。大石能重は、上杉能憲の弟・憲方(1335~1394年)の治世下でも守護代を務め続け、大石氏発展の基礎を築くこととなる。

なお、守護の配下にある守護代とは、幕府や守護の命令を現地に伝え、守護に代わって実質的な支配の任にあたる重要ポストであった。当然、守護の信頼のおける部下か、現地の有力領主が任命されることが多く、彼らが後に地元武士集団と密着し、戦国大名化するケースが多発していくわけである(越前の朝倉氏、尾張の織田氏、越後の長尾氏など)。

そもそも大石氏は、木曽義仲の末裔で信濃国小県郡大石里の土豪であったが、関東管領となった上杉憲顕の要請により、南北朝の動乱で混迷する関東地方へ援軍として参陣することとなり、大石為重・能重兄弟(下家系図)に率いられて関東各地を転戦する。その戦功により、1356年、武蔵国入間・多摩の両郡下にある 13郷の支配権を下賜されると、以降、一族郎党そろって多摩地方に移住し、二宮城に本拠地を構えたわけである。

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その後の大石氏は、上杉氏配下の四宿老(長尾氏・大石氏・小幡氏・白倉氏)の一角を担い、多摩郡の在地勢力である武州南一揆(地元武士集団)と密接な関係を構築して、山内上杉氏の守護領国経営に深くかかわるようになっていく。そのまま多摩郡を中心に勢力を伸長させ、初代守護代だった大石能重から家督を継承した、甥の大石信重(1336?/1334?年~1424年。上家系図)の代で、浄福寺城(現・八王子市下恩方町)を築城し、一時的に本拠地を移転させる(1384年)。
その子・憲重(生没年不詳。上家系図)の時代には、関東管領就任に圧力をかけるまでに台頭し、その最大勢力圏は、南は相模国座間から北は武蔵国所沢周辺にまで及ぶものとなっていた。

しかし、世代を経るとともに、鎌倉公方・足利氏と関東管領・上杉氏(バックには室町幕府の足利将軍家がついた)は対立を深めるようになり、度々、武力衝突を起こすようになる。そして 1455年正月、五代目鎌倉公方・足利成氏(1438?/1434?~1497年。四代目鎌倉公方・足利持氏の子)が、関東管領・上杉憲忠(1433~1455年)を自邸内で暗殺すると、全面戦争へ発展する(享徳の乱)。一週間後、成氏の軍と上杉方の軍が 分倍河原(今の東京都府中市)で激突するも、上杉方は劣勢に立たされ、最後の守護代・大石憲儀(生没年不詳。上家系図)の子・房重(?~1455年。上家系図)が、上杉方として参戦し戦死に追い込まれる。これをきっかけに上杉氏は、筆頭家老・太田道灌を新しい守護代に任命し、関東の動乱平定に乗り出すこととなる。他方、大石氏は多摩地方の名門豪族として残留するのみとなった。

その戦死した房重(?~1455年)の子が、大石顕重(大石信重の玄孫。上家系図)で、 1458年に高月城を築城すると、本拠地だった二宮城(今の東京都あきる野市)から移住を果たす。また、太田道灌の死後(1486年)、再び上杉氏より武蔵国守護代に任命されることとなる。

そして、顕重の子・定重(1467~1527年。上家系図)がそのまま守護代を継承し、 1521年に滝山城を築城する。当初は高月城の支城の一つとして配置され、南から迫る北条氏に備えた城塞だったと考えられる(1524年、北条氏綱により江戸城が攻略される)。
定重の後をうけ、1527年に家督&守護代を継いだのが大石定久(1491~1549年。上家系図)で、大石家最後の当主となる。引き続き、北条氏の武蔵侵攻に晒されていたが、同時期に同じ多摩地方に割拠していた大豪族・三田氏と共に、外交ルートをつかって北条氏とも友好関係を保持していたとされる。いよいよ主家の上杉氏が川越合戦で大敗し武蔵国から追放されると、大石定久と三田綱秀はそのまま北条氏の軍門に下り、家名を残す選択を行うのだった(1546年)。

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大石定久はさらに北条氏に接近するべく、北条氏康の三男・氏照(1542~1590年)を婿養子として受け入れると(大石氏照と称する。5歳)、自身は大石綱周(生没年不詳)へ家督を譲って、早々に出家し引退してしまう。

氏照がまだまだ幼少だったことから、大石綱周が暫定当主となり、以降、北条配下の武将として無難に奉仕し、17歳で氏照が元服すると(1559年)、大石氏の家督をバトンタッチすることとなる。しかし、翌 1560年に上杉謙信の関東出兵が始まると、多くの関東武士が上杉家へなびいてしまい、大石氏照は由木城(上地図)や高月城などへ逃亡しながら、戦火を逃れたようである。対して、多摩地方のもう一つの巨大豪族だった三田氏は上杉謙信に臣従し、最終的に、謙信が 越後 へ帰国しても頑なに北条氏に抵抗したため、大石氏照によって攻め滅ぼされてしまうのだった(1563年)。

こうして多摩地方の絶対統治者となった大石氏照(1569年ごろに北条氏照へ改姓する)は、同年、その本拠地を滝山城へ移転させると、以降、高月城や由木城などは主従逆転し、それらが滝山城の支城となるわけである。上地図。



見学後、バス停「高月」から、西東京バス(高月 03)で「拝島駅」へ移動する(1時間に一本のみ、乗車時間 19分)。下地図。

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「拝島駅」に到着後、この東側に在日米軍横田基地があったので、見物に行ってみた(ここから、東京都昭島市・福生市に入る)。上地図。

基本的には基地南辺沿いを進み、「福東トモダチ公園」「中里多目的運動広場(中里野球場)」を目指すことになった(徒歩 20分ほど)。ここからは、間近のフェンス越しに基地から発着する米軍機を見学できるという。軍事マニアの写真スポットになっているらしい。下写真。

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横田基地(正式名称は「横田飛行場」)は現在、立川市、昭島市、福生市、武蔵村山市、羽村市、瑞穂町の 5市1町にまたがって立地する(下地図)、国内最大級(面積約 720 ha)の米空軍基地である。また同時に、在日米軍が司令官本部を置く、極東における米軍の主要基地でもある。 2012年からは、1本のみある滑走路(長さ 3,350 m × 幅 60 m)を、航空自衛隊も共同使用するようになっている。
ちなみに、成田空港にある滑走路は 2タイプあり、A滑走路は 4,000 m × 60 m、 B滑走路は 2,500 m × 60 mという。

この地には、もともと陸軍立川飛行場の拡張用地として熊川倉庫が最初に設置されており(1936年)、1940年に立川飛行場の付属施設として「多摩飛行場」が追加建設されていた。主な使用用途は、陸軍飛行実験部(後に陸軍航空審査部へ改編)により、試作および新採用の飛行機、航空兵器の性能や実用テスト等が行われていたという。

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第二次大戦後に米軍に接収され、「横田飛行場(Yokota Air Base)」へ改称される。「横田」とは武蔵村山市内の地名で、終戦直前に米軍がこの多摩飛行場を発見した際、手元の地図の近くに「Yokota」の地名があったことから、単純に紐づけられて命名されたという(米軍には付近の地名をとって基地名とするルールがあった)。

朝鮮戦争時代にはアメリカ軍本部が開設されることとなり、同時期の 1950~1960年にかけて大規模な拡張工事が手掛けられ、もともとの滑走路約 1,300 m(面積は約 446ha)から、現在の規模 3,350メートル(面積約 720 ha)へ延伸されている。これに伴い、横田基地の南側にあった五日市街道の付替えや、北側の国道 16号線と八高線の移設などが行われたという。



帰路は、「拝島駅」から JR八高線で南進し、「八王子駅」に戻ることができた。 3泊した八王子駅前のホテルで荷物を回収し、JR中央線で新宿まで戻る。もしくは、 羽田空港へ空港バスで直行したい(事前予約要、1時間30分、1,780円)

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