BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:20--年--月--旬


千葉県 佐倉市 ① ~ 市内人口 17.2万人、一人当たり GDP 315万円(千葉県 全体)


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  本佐倉城跡
  妙見神社(下総国の守護大名・千葉家の 鎮護神「千葉妙見宮(現在の千葉神社)」の支社)
  一夜公園(謙信の一夜城、王子台砦跡)



成田空港に到着後、もしくは成田空港から出国前に、京成成田駅前に投宿することにした。成田市街地はホテル激戦区とあって、リーズナブルな価格設定のホテルが複数あり、選択肢に困らない。東京 出張の際、何回かに分けて成田宿泊するか、一回に 3~5連泊ほどして、近隣の 史跡(千葉県佐倉市茨城県鹿嶋市 まで)をまとめて巡ってみたい。

なお、佐倉市内のホテルはオンライン上の情報や選択肢が少なく、もっぱら成田駅前から日帰り訪問を重ねることにした。


初日(1回目)
本佐倉城跡、妙見神社(大佐倉駅)、謙信一夜城(京成臼井駅)

二日目(2回目)
京成臼井駅前のイオンで自転車を借り、臼井田宿内砦跡、稲荷台砦跡、臼井城跡、洲崎砦跡、臼井八幡社、仲台砦跡、田久里砦跡、小竹城跡、あと 印旛沼北岸(千葉県印西市)側にある 師戸城&船戸城跡、岩戸城跡、市立印旛歴史民俗資料館 なども巡ってみた。帰路に時間があれば、旧・成田街道沿いにあったという、江原刑場跡にも立ち寄ってみたい。

三日目(3回目)
京成佐倉駅前の観光案内センターで自転車を借り、佐倉城跡(佐倉城址公園)、国立民族歴史博物館、城下町(武家屋敷 旧河原家住宅など)、旧堀田邸、飯重城跡、寺崎城跡、太田要害城跡、時崎城跡、城城跡、金部田城跡、小篠塚城跡 などを巡る。小規模な城跡がたくさん点在しているので、場合によっては二回に分けて訪問してみたい(雨天、含)。



佐倉市

成田駅前投宿の 初日(1回目)は、まず下総国の 戦国大名・千葉氏の本拠地だった 本佐倉城跡(大佐倉駅。上地図)と、謙信一夜城(王子台砦跡。京成臼井駅)の 2か所を訪問してみた。

京成成田駅から出発し、「大佐倉駅」で下車する(上地図)。小さな駅構内には、本佐倉城跡に関する情報やスタンプが設置されているので、移動ルートをしっかり下調べしたい。
駅舎を出ると、すぐに踏切を渡り、線路沿いを東進する。最初の三叉路を南進し、正面に見える丘陵地帯を左に入って、ぐるりと時計回りに迂回する形で進むと、入城口に至る(徒歩約 20分)。トイレや駐車場も完備されていた。ここにある案内所でパンフレットをもらいつつ、ガイドを依頼することもできる。

城域は広大で、丁寧に見て回ると非常に時間がかかった。所々に案内板が設置され、往時のまま残存する地形や巨大な土塁、空堀など、見どころ満載の城跡だった(冬季がベスト)。その貴重な遺構や出土品が評価され、国指定の史跡となっている(1998年)。
城跡の大部分は印旛郡酒々井町に属しつつ、北西の一部分のみが佐倉市域に入り込む形だった。

佐倉市

佐倉市

佐倉市

なお、城跡の南端にある 妙見神社(冒頭地図)は、もともとは千葉氏の 本拠地・千葉城(亥鼻城)下に建立されていた 鎮護神(千葉家の 守護神・北辰妙見尊星王、妙見菩薩を祀った)の分霊を勧請したものである。千葉氏の勢力が減退する中、房総半島の大名・里見氏の攻勢により 千葉城(亥鼻城)を占領されていたため、分霊としてこの佐倉の地にも妙見宮を創建していたのだった。平安時代末期から続く 名門・千葉氏は、代々にわたって千葉妙見宮(現在の千葉神社)で元服し、籤(おみくじ)で一字を定める習わしとなっていたが、千葉利胤(1515~1547年)と 千葉良胤(1557~1608年)は仕方なく、この本佐倉城下の佐倉妙見宮で元服式を行った記録が残されている。それでも、宿敵・里見氏の支配下にあった千葉城下の千葉妙見宮へは、元服の遣いを派遣していたようである。


本佐倉城は、千葉輔胤(1421~1492年。初代城主)・孝胤(1443/1459?~1505/1521?年。二代目城主)父子により、自らの居城として造営されたものである(1484年)。下家系図。

もともとの千葉家代々の居城は「千葉城(亥鼻城)」であったが、 1454年から始まった関東の動乱を機に、下総国守護・千葉氏でも家内騒動が勃発し、「千葉城(亥鼻城)」が戦火で荒廃したため、拠点を 臼井城 などへ移転させながら、下総国内を逃げ回り、ようやく下総国の印旛郡印東荘佐倉に「本佐倉城」を築城して落ち着いたのだった。 

しかし、この時の千葉氏は武蔵千葉氏と下総千葉氏に分裂したばかりで(下家系図)、戦乱により領内は混乱し、さらに 上総国&安房国の里見氏、常陸国の佐竹氏らによって南北から圧迫を受けるなど(下地図)、内憂外患の時代が続くこととなる。 1500年代に入り、小田原・北条氏が台頭してくると、房総半島の里見氏と敵対したことから、千葉氏と北条氏は利害が一致することとなり、後に姻戚関係を結んで北条氏の勢力を後ろ盾にし、なんとか下総国の支配権を維持していくのだった(下地図)。

こうして、以降 100年近くもの間、本佐倉城は千葉氏 9代の本拠地、すなわち下総国の国都となり、その城下町も大いに栄えたという。この間も引き続き、城郭の補強と拡張工事が続行され、戦国時代末期にかけて、現在に残る壮大な城郭構造が完成されていくわけである。

佐倉市

しかし、小田原・北条氏が豊臣秀吉と敵対することとなり、 1590年、全国の諸大名を大動員して小田原戦役が勃発すると、北条氏に臣従した 千葉氏(31代目当主・千葉重胤。1576~1633年。下家系図)も敗北し、改易&没落することとなる。
その後、徳川家康が関東へ移封されてくると、当初、これに臣従するも、後に傘下から離脱し帰農することで、名門・千葉氏一族は歴史の表舞台から完全消滅するのだった(分家の一部は、幕府旗本として江戸時代を生き残っている)。

以降、本佐倉城には、小笠原吉次(1548~1616年。1607年に佐倉藩 2万2000石の藩主となるも、間もなく 常陸国笠間 3万石へ移封される)や、土井利勝(1573~1644年。 父は、徳川家康の 伯父・水野信元 ー 織田信長による近江・佐和山城攻略戦で、同盟国・徳川方の代表として参陣していた)らが城主を務めることとなった。特に、徳川秀忠・家光政権時代に絶大な権力を握った土井利勝は、その全盛期の 1610~1633年の間、佐倉藩主を務めており、就任早々に築城を開始した 佐倉城 が完成すると、そのまま本佐倉城は放棄され、1615年の一国一城令により、正式に廃城となったようである。
佐倉市

当時、印旛沼はまだ干拓されておらず、沼岸はかなり内陸部まで入り込んでいた。このため、本佐倉城の北面ギリギリまで湖水が迫っており、領内各地へは舟でもアクセスできるようになっていた。また、南面は崖斜面が続く天然の要害で、東西方向に曲輪や城下町、田畑が広がる設計であった。こうして標高約 36 mの台地全体を加工する形で、内郭群、外郭群、城下町が配置され、東西約 700 m、南北約 800 m、面積 35 km2にも及ぶ城域を構成したのだった。

このうち内郭群は主に城主・千葉氏の居住空間で、御殿、馬場など複数の曲輪に分かれていた。また外郭群は、土塁と空堀によって区分された広大な敷地が割り当てられており、家臣団の屋敷が立ち並んでいた。特に、城外と外郭を隔てる大規模で堅牢な空堀、土塁、櫓台などは見事で、複雑に設計されていた様子を今に伝えている。また発掘調査により、多くの建物跡とともに、青磁・白磁などの中国陶磁器や碁石、天目茶碗、儀式用の杯など、生活用品の遺物も複数、発見されている。

そして、外郭群の外周には城下町が広がっていた ー 東側は「酒々井宿」、南側は「本佐倉宿」、西側は「鹿島宿」、北側は「浜宿湊(印旛沼沿い)」と称されていたという。現在でもそれぞれの跡地に、当時の屋敷名などが伝承されている。



見学後、再び「大佐倉駅」に戻り、 京成本線に乗って「京成臼井駅」で下車する(下地図)

先の本佐倉城跡でたんまり歩いたので、駅南側の住宅街にある「一夜公園(佐倉市王子台 3)」だけの訪問に抑えることにした。駅前ロータリーから徒歩 3分ほどの、住宅街を少し入った場所に石碑が設置されているだけだった。下地図。

佐倉市



1551年に越後を統一したばかりだった 上杉謙信(22歳)は、翌 1552年、関東北条氏に 上野国・平井城を占領された 関東管領・上杉憲政(1523~1579年)の亡命を受け、関東出兵を決意する(もともと長尾家は、上杉氏の筆頭家老の家柄であった。以降も、両家は姻戚関係を続けていた)。さらに同年中、北信濃の豪族らも越後への亡命が続発させていたことから、武田信玄 との抗争もスタートさせることとなった。以降、謙信による関東出兵と川中島の戦いという二正面作戦時代が、10年にわたって続くわけである。

特に関東戦線では 関東管領・上杉氏の権威を背景に、古くからの関東武士団を次々に傘下に取り込み、小田原城包囲や 鎌倉 訪問などをやってのけるも、本国越後へ帰国する度に北条氏の反撃がはじまり、奪っては奪われの繰り返しのパターンが常態化していく(上杉謙信が関東入りすると関東武士団はこれに帰順し、越後へ帰国すると北条氏へなびくのだった)。

これに対抗するため、上杉謙信自身も越後と関東の中間地帯である上野国で越冬することが多くなり、毎年のように、関東、北陸、信濃方面への転戦を繰り返すようになっていく。下地図。

佐倉市

この関東戦線の一環で、謙信は北条家と姻戚&同盟関係にあった 千葉氏(本拠地:本佐倉城)征討のため、 その筆頭家老だった 原胤貞(1507?~1569?/1575?年)が城主を務める、臼井城攻撃を決行するわけである(1566年3月上旬)

時の臼井城主・原胤貞は城兵 2000と共に籠城しつつ、主家の当主・千葉胤富へ援軍要請を出すも、主家自身も本佐倉城守備のため余力を割くことは叶わなかった。また、同盟国の北条氏も対上杉戦で援軍の余力はなく、若き 猛将・松田康郷(1540~1609年)を大将とする 150騎を寄越すのが精一杯な状況であった。それでも籠城軍は、臼井浄三(臼井胤定、白井入道とも称される)を軍師に立てて奮闘し、 15,000もの大軍勢だった上杉軍の撃退に成功する(3月24日)。

この臼井城攻めに際し、上杉軍は周囲の支城群を順番に攻略しつつ、同時に複数の陣城群を造営して、徐々に包囲網を狭める作戦を展開したと考えられる。その陣城群の一つが、臼井城から 1 kmの近距離にある「王子台砦」で、「謙信の一夜城」と称されているものである。上杉軍撤退後、いくつかの陣城が原氏により接収され、そのまま臼井城の支城網に組み込まれたと考えられる(下地図)。このため、「謙信の一夜城」と言える砦は、実は他にも複数あるのかもしれない

佐倉市

基本、謙信の関東戦線は、傘下に加わった関東武士団を中心に戦闘が行われており、その士気鼓舞のため、これらの陣城群に謙信自身も立ち寄っていたのかもしれない。

結局、臼井城 の攻城中に、将軍就任を目論む足利義昭の使者が 上杉謙信 の陣所を訪問し、関東管領として北条氏と和睦し幕府再興のために上洛するように要請してきたことから、謙信は早々に関東戦線打ち止めの決意を固めると、即刻、陣払いすることとした。この時、関東の諸将らは自分たちが命を張って戦ってきた関東戦線をいとも簡単に放棄してしまう謙信に見切りをつけ、多くの武士団が勝手に自領に戻ってしまう事態が発生する。こうして上杉方の陣城群はもぬけの空状態に陥ったため、急遽、上杉軍本隊がそれらに入城するも、間もなく全軍撤兵してしまうのだった。こうして、総攻撃を受ける寸前だった臼井城は、九死に一生を得て落城を免れた、というのが実情であろう。

最後まで付き従った関東武士団も恩賞に恵まれず、そのまま越後へ帰国してしまう謙信に絶望し、多くが北条側へ帰参することとなり、上杉謙信の関東勢力圏は大きく後退していく。



あわせて、翌日(次回)に再訪する際に利用するレンタサイクル店の下見を兼ね、 同じく駅南口にあるレイクピアウスイ・イオン臼井店か、サンサンサイクル店の場所を確認しておいた(いずれも営業時間 10:00~18:00、普通自転車 500円、電動アシスト自転車 1,000円。さらに追加で登録料として、それぞれ 250円、500円要)
この日は、そのままイオンで買い物し、投宿先の京成成田駅前のホテルへ戻った。

もし、まだ時間と体力に余裕があれば、 臼井城の支城群のうち、駅に近い「稲荷台砦跡」「田久里砦跡」「臼井田宿内砦跡」などにも足を運んでみたい(上地図)。前者二つは完全に宅地開発されており、道路脇に解説板があるのみだが、後者は現在、宿内公園として整備されており、城郭遺構もしっかり保存され見ごたえがある

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