BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:20--年--月--旬


茨城県 鹿嶋市 ~ 市内人口 7万人、一人当たり GDP 333万円(茨城県 全体)


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  鹿島神宮(大鳥居、楼門、社殿、奥宮、Jリーグチーム ”鹿島アントラーズ” の由来)
  鹿島城跡(鹿島城山公園)
  寸府井跡(七つ井)、剣豪・塚原卜伝(鹿島新當流の開祖)の 生誕地、大手門跡、二の丸跡



成田空港からの出国前日、東京駅 八重洲南口 から鹿島神宮行の京成バスに乗車してみた(2時間、2,000円)。10~20分に一本、運行されており、非常に便利な路線だった。筆者は都内での仕事を終え、夕方 18:00のバスに乗って、20:00前に鹿嶋市内に到着できた。車中では、持ち込んだ軽食を食べつつ、 PC作業していた(無料 Wifiあり)。

鹿島神宮駅前は、リーズナブルな価格帯のホテルが多く、特にツイン利用には向いているようだった(鹿嶋シティホテル、スーパーホテル鹿嶋、コンフォートイン鹿島、など)。

鹿嶋市

翌日、早速、鹿嶋市の地元歴史博物館を訪問したかったが、今日現在、物理的な博物館は開設されておらず、オンライン上のデジタル博物館として、市の歴史を閲覧できる仕組みだった
このため、最初からぶっつけ本番で「鹿島城」跡へ行ってみることにした。 JR鹿島線「鹿島神宮駅」前から徒歩 10分くらいで、鹿島城山公園に到着する(上地図)。

この公園全体がかつての本丸部分で、 南に立地する 茨城県立鹿島高等学校(偏差値 48)・附属中学校の敷地が、かつての二の丸跡という(西隣には「根本寺」という寺院もある。1687年に松尾芭蕉が立ち寄った句碑あり)。両者ともに、中世の城郭としてはかなり巨大なスケールで(住所も「鹿嶋市宮中、宮下、城山」一帯に広がる)、まさに伝統的権威の鹿島神宮と結びついた宗教豪族の、強大な力を見せつけられる城跡であった。下地図。

この本丸跡地には、今でも周囲に土塁が残り、その上は遊歩道となっていた。さらに、二の丸跡地との間には(本丸東面側)、土橋が架かる虎口があり、その南北両側に大きな空堀も現存する。それらの遺構は巨大で、実に見ごたえ抜群だった。高台となっている 鹿島城址記念碑(上地図。標高 37 m)付近からは、周囲の風景が一望できる。

また、本丸南側に残る「寸府井跡」であるが、かつて二の丸内にあった古井戸で、今は枯れてしまっているという。また、同じく二の丸内にあった 剣豪・塚原卜伝(1489~1571年。鹿島新當流の開祖)の生誕地にも立ち寄ってみた(上地図。二の丸のかなり北端に立地していたことが分かる ー 下地図)。
鹿嶋市

上地図は、戦国時代の最盛期における鹿島城の縄張りを示す。
その東端は、現在の角内通りまで広がっていたことが分かる。この時代、鹿島神宮の 表参道「大町通り」で、流鏑馬の儀式が執り行われていたという。

また、鹿島城の大手門は、県道 51号線(城山公園通り ー 宮中通り)と 県道 18号線(茨城鹿島線)が交わる、鹿島小学校前の交差点付近に立地していたらしい(上段地図)。当時は巨大な城域を守備すべく、二重、三重に空掘が掘削されていたが(西面~北面だけは水堀だった。上地図)、江戸時代に至り、「平和の時代には無用の長物」として土塁は破却され、堀はすべて埋められてしまうこととなった。こうして今日、本丸跡にのみ、わずかな遺構が残存するだけとなっている。


平安時代末期、常陸国の国人で、鹿島地方に割拠した 鹿島政幹(生没年不詳)が、平家打倒で挙兵した源頼朝に組したことから、1181年に 鹿島社惣追捕使(鹿島社惣大行事)に任じられると、関東最大の 宗教勢力・鹿島神宮の神領を監督する行政長官となる。その関係から、鹿島神宮の西側の丘陵地帯に城館を築城し、本拠地に定めたのだった。その後、拡張工事を繰り返し、上地図のような大城郭へと変貌していくわけである。

以降、鹿島氏は鎌倉時代、室町時代を通じ、代々、地元の名門として鹿島郡を支配してきたわけだが、戦国時代に入り、常陸国で 佐竹義重(1547~1612年)が台頭すると、その傘下に組み込まれることとなる。しかし、常陸国南部一帯の国人衆は、古来からの宗教勢力との結びつきが強く、独立精神が旺盛で、佐竹氏の支配には非協力であったとされる。
鹿嶋市

一方で、西に北条氏、東に伊達氏を敵にかかえ、北の 関東管領・上杉謙信 からの支援も遠のく中(上地図)、窮地に陥った佐竹氏は、畿内の豊臣政権に早くから臣従することとなる。こうした初期投資が功を結び、1590年の豊臣秀吉による小田原征伐後、常陸国 50万石の領主権を公認されると、秀吉の権威を用いて、これら常陸国南部の国人衆を一網打尽に暗殺してしまうのだった(1591年2月の南方三十三館の仕置)。

この時、鹿島城主だった 鹿島治時(?~1591年。下家系図)も、佐竹義重・義宣父子によって招待された太田城内にて謀殺されてしまい、直後に鹿島城も佐竹軍により包囲されることとなる。治時の妻は家臣らと共に半月ほど籠城し善戦するも、ついに落城し、鹿島氏も滅亡してしまう。しかし、一門の幼児だった伊勢寿丸は脱出に成功し、東の徳川家康支配地の下総国へ亡命すると、後に鹿島清秀と名乗るようになる(下家系図)。

以降、佐竹氏はこの鹿島城跡に代官所を開設し、鹿島郡を統治する。しかし、 1600年の関ケ原の合戦で、 佐竹義重・義宣父子が 東軍・西軍の旗色をはっきりさせなかったことから、 戦後になって出羽国 20万石(秋田県)へ国替えを命じられる(1602年5月)。 その直後、常陸鹿島領 3万石は 館山藩(戦国時代に安房国に割拠した 大名・里見家)へ併合される(合計 12万2000石)。その支配下にあって、 徳川家康の斡旋を受け、鹿島神宮の宮司となっていた 国分(鹿島)胤光 のもとへ鹿島清秀が養子に入る形で、鹿島神宮の総大行事となり(石高は 200石)、明治維新までその子孫に継承されることとなった(このタイミングで、家康により鹿島神宮の本殿が建立されたわけである。下記「鹿島神宮」参照)。

鹿嶋市



鹿島城跡の見学後、つづいて鹿島神宮を目指す(徒歩 15分)。関東地方で最古にして、関東最大の 神社グループ(全国に約 600社ある鹿島神社の総本社)である。

東京ドーム 15個分もの規模を誇る広大な境内に入るべく、長い参道を歩いていくと、「鹿島神宮」への 入り口「大鳥居」を越え、いよいよ当神宮の シンボル「楼門」が見えてくる。
この朱色鮮やかな 楼門(高さ約 13 m)は、1634年に水戸藩 初代藩主・徳川頼房(1603~1661年。徳川家康の十一男)が奉納したもので、国の重要文化財に指定されている。3代目将軍・徳川家光(1604~1651年。徳川家康の孫)が病に倒れた際、頼房が鹿島神宮に祈願を依頼したところ、見事に回復し、そのお礼に寄進したものと伝えられている。

そして必見の 社殿(本殿・石の間・幣殿・拝殿から構成される)であるが、 1619年に 2代目将軍・徳川秀忠が寄進したもので、 1617年に 父・家康の供養のために造営した、日光東照宮と同じ建築スタイルで設計されたという。現在、国の重要文化財に指定されている。
これ以前の社殿は、現在、奥宮として保存されている。関ケ原の戦勝 を祝った徳川家康が 1605年に建立していたが、秀忠がより巨大な社殿を建てるべく、現在の位置へ移築したという。

鹿嶋市

なお、境内には数多くの鹿がいるが、『日本書紀』に伝わる「神のお使い」の化身と考えられている。「アントラー」とは、英語で鹿の 枝角(えだつの)のことを指し、これが 地元サッカーチーム「鹿島アントラーズ」の由来となっているらしい。


神武天皇が畿内を制圧し、大和王権を建国した日を記念し、今日、「建国記念日(2月11日)」が祝日指定されているが、それは紀元前 660年2月11日のことを指している。当時、大和王権はこの日を 1月1日と定め、建国一年目として起算を始めたのだった(『日本書紀』より)。

この時、神武天皇は瀬戸内海エリアか、九州地方、もしくは 出雲地方 から出征し、近畿地方を制圧したようで、さらに東国遠征も開始したと伝承されている。この東国遠征は、主に水軍を使って海路より関東地方まで進んだらしく、この関東地方東端に一大コロニーを整備し、東国(蝦夷地)へのさらなる侵攻のための 輸送基地、前線基地に定めたとされる。

なお、この時代、現在の 霞ヶ浦(西浦・北浦)・印旛沼・手賀沼を含む一帯には、「香取海」という遠浅の内海が広がっており、複数の小島が浮かんでいたという(下地図)。ちょうど、古代の 岡山・倉敷地方のように海岸線がかなり内陸にまで入り込んでいたのだった。下地図。

鹿嶋市

この内海スタイルの穏やかな香取海沿岸に、大和王権の遠征部隊が駐屯し、その家族らを入植させつつ、複数のコロニーを建設していったわけである。その周囲には、大和政権側に帰順した東北地方の人々も連行され、人的資源、物的資源供給のための集落を形成させられていたに違いない。

その 要所・要所に宗教施設も設置されていったと考えられるが、その中でも特に大きなものとして、鹿島神宮(常陸国の一ノ宮)、香取神宮(千葉県香取市)、息栖神社(香取神宮と共に「下総国の一ノ宮」と称されてきた)があり、後に東国三社として君臨するまでに台頭するわけである。上地図。
これらは、大君(後の天皇)を頂点とする大和王権の権威と武威を示すシンボルとして認識され、当時の攻撃目標だった蝦夷を意識して、それらの社殿も北向きに設計された、と考えられている。

ちょうど近代以降の帝国主義時代、欧米列強が軍隊とともにキリスト教も同時に持ち込み、コロニーを拡大させていったスタイルに似ている。当時、野蛮な東国部族の征服に躍起となっていた大和政権にとって、「武力こそが正義」だったことから、武道の 神様「武甕槌大神(タケミカヅチ。日本神話に登場する神)」が祀られたようである。下絵図。

こうして 東北地方、関東地方各地を征服していく中で、各地に同種の神社が開設されていく。これらには鹿島神宮、香取神宮の分霊が奉納され、朝廷の威を示すシンボルとして東国地方の人々の意識に植え付けていったと考えられる。

鹿嶋市

以降も、鹿島神宮は「軍神」の聖地として崇拝され続け、武士の世になっても、多くの武士らが参拝、寄進を繰り返したという。その象徴が、先述した徳川家による社殿や楼門などの建立というわけだった。
現在でも、この古代からの「軍神」にあやかる信仰は根付いており、地元サッカーチームである「鹿島アントラーズ」は、毎年シーズン前に必勝祈願に参拝する習わしとなっているという。

また、この軍神を分霊された鹿島神社は、現在でも全国に約 600社も継承されており、ここがその総本社を務めている。目下、境内には、数多くの国宝や国の重要文化財が存在し、その文化的、歴史的格式は今でも日本最高レベルを保持し続けている。



見学終了後、ホテルで荷物を回収し、鹿島神宮駅から JR鹿島線で佐原駅を経由して成田駅まで移動し(90分に一本のみ。乗車時間約 60分、860円)、そのまま成田空港へ向かった(鹿島市内から成田空港へのバス運行はなかった)。
なお、せっかく関東地方の東端に来たので、鹿島神宮駅前に連泊しつつ(ツインルームが安い)、千葉県銚子市、香取市など、成田市より東部のエリアを巡ってみることも選択肢としてありだろう。


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