BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2017年6月上旬 『大陸西遊記』~


島根県 出雲市 ~ 市内人口 17万人、一人当たり GDP 270万円(島根県 全体)


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  出雲平野の「国引き伝説」と、その平野中央部を 疾走する一畑電車
  鳶ヶ巣城が 鹿用の網ネットで 完全包囲されていた。。。
  鳶ヶ巣城 麓の丸跡地
  鳶ヶ巣城 山の上の曲輪群
  山中鹿介の率いる 尼子再興軍が 毛利軍を撃破した 原手合戦の古戦場 と 斐比川
  【豆知識】鳶ヶ巣城 ■■■
  興源寺 と 小早川正平の墓
  【豆知識】小早川隆景の 義父・小早川正平の最期 ■■■
  北山山脈 と 天平古道
  出雲大社
  大梶七兵衛 と 高瀬川の開墾史



出雲市は山陰地方の中でも、ホテル価格やレンタサイクル費用が異常に高かった。それでも、JR出雲市駅の駅東駐輪場で自転車を借りる(514円)。
そのまま、駅の直線道路である「くにびき中央通り」を北上し(下写真左)、国道 431号線を目指した。
途中、一畑電車の単線線路を渡る。このローカル列車、「撮鉄」たちの垂涎の的らしく、たしかに大平原を単線で通過する姿は、カレンダーにも使えそうな見栄えだった(下写真右)。

出雲市 出雲市

出雲平野の北側には北山山脈が連なる(下地図左)。「国引き神話」では、出雲平野を広げるために、この地方の神様が朝鮮半島の新羅国から不要な山々を引っ張ってきて、新たに接着させた土地と言われる部分である。
この北山山脈の尾根伝いと、南面の中腹部には、奈良時代から残る「天平古道(日御碕と美保関を結ぶ全長 5,000 m)」が今も健在という(下写真右)。

出雲市 出雲市

まずは、鳶ヶ巣城 を訪問してみた。国道 431号線沿いに大きくそびえたつ巨大な山で(下写真左)、丁寧に登山入口も大きな看板で掲示されていた(下写真右)。

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また、ビックリした点としては、山裾を取り囲む形で、鹿用の網ネットが張り巡らされており、なんと登山道にも鍵がかかっていた(下写真右)。毎回、登山者は自分で開錠し、そのまま再び、自力で施錠する方式がとられていた。開けっ放しの鉄門から、鹿が里へ出て行くのを未然に防ぐための措置という。
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数秒程度で簡単に開錠できるのだが、一人での登山はただでさえ、心細いのに、この鉄条網を見せつけられると、ますます不安感を増大させられた。。。

しかし、その不安感も徐々に薄らいでいくこととなった。登山を開始すると、すぐに登山道の整備の行き届いた様と、まめな 距離表示に関心させられることになる。

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鹿が食べきっているのか、山肌には大きな樹木こそあれ、小さな草木は皆無で、見通しが非常に良かった(下写真)。おかげで、当時のままの広大な城郭遺構が非常に視認しやすかった。

山麓部分に幾重にも大小さまざまな曲輪が構築されており、平時の武士らの居住空間であったと推察できる。
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通常は、山麓のこうした曲輪エリアは、以後の集落や土地開発で破壊されているものだろうが、ここは山麓の曲輪がやや高い位置に造成されていたことも幸いし、そのままの遺構が現存していると考えられる。

さらに、整備された登山道を上へ進むことにする。あと「700 m」あたりで、先の常連寺からの山道との合流地点に達した(下写真左)。

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特に感心させられたのは、他の山城遺跡とは異なり、登山道がかなり緩やかに、ゆったり目に整備されていることだった(上写真右)。

猟銃や鹿の死体などを抱えた猟師らが移動しやすいように、という目的からだと推察された。また、電気や水道線も山頂までつながっており(下写真左、西3郭)、 山頂の 休憩所(下写真右)に水が出る!水道が敷設されているのには、本当に行天した次第である。

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山頂に到着すると、急に平和な公園エリアが広る(下写真左、南1郭)。ここに至ると、大量に散らばる鹿とイノシシの糞にビックリした。
下写真右は、南 2郭へと続く接続通路。

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この南 2郭からの眺望が絶景であった。
下は山頂部の城郭構成図。登山者は、西 3郭から順に主郭まで登山してくることになる。

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低くなってしまった土塁がわずかに形状を残す東 1郭(下写真左)。
東 2郭へはかなり急な斜面を降りなければならない(下写真右)。今回は断念することにした。

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さて、南 2郭から、平野部を見渡す(下写真)。
尼子再興軍と毛利軍が激突し、山中鹿介が勝利した原手合戦の戦場がまさに、眼下の斐比川沿いであり、尼子方に付いた高瀬城をも一望できる。
双方ともに、山の高台に陣地を構えており、敵方の進軍や戦場の模様がよく見渡せたことであろう。

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なお、江戸時代初期の 1635年と 1639年の大洪水の結果、それまで西へ流れ、杵築(きづき)の 海(大社湾)へ注いでいた斐伊川が突然、東へ流れを変え、宍道湖 へ注ぐようになったわけなので、戦国期の実際の原風景は、これと大きく異なっていたはずである。
一畑電車の「川跡駅」にその地名の由来が刻み込まれている。ちょうど、ここから川の流れが東西逆転したのだった。

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そんな戦国期の緊迫した時代を妄想しながら、下山の途につく。下山時には、山の急斜面ぶりが非常によく実感できた(上写真左)。
上写真右は、山頂の主郭跡地に設置されていた石碑。

下山を完了すると、最後に鉄門をきちんと施錠して駐輪場所へ戻った。それまでの緊張が一気に解けた瞬間だった。


鳶ヶ巣城 は、出雲平野の北方にそびえる、北山山脈の中央部、標高 281 mの鳶ヶ巣山に築かれている。

この山頂からは、出雲平野はもちろん、遠く西に大社湾、東に宍道湖をも望むことができる。 また、山麓には、中世において西流していた斐伊川の流れがあり、一大勢力を有する出雲大社、 鰐淵寺への山道が通っていた。

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この城は 16世紀初頭から、宍道氏の居城であったとされ、城主・宍道隆慶の時代に、 大内氏と尼子氏との戦い、尼子氏と毛利氏との戦いに巻き込まれ、その栄枯盛衰に 翻弄されることとなる。

1542年、大内氏、毛利氏などの大連合軍が 尼子氏の本拠地・月山富田城 を包囲するも、2年間の 攻城戦に失敗し、大内氏の連合軍は大敗を喫する。この戦いで大内軍に組した宍道隆慶も 鳶ヶ巣城を追われ、一族ともども大内氏の 本国・長門へ逃げ延びることとなる。

それから 20年後の 1561年、大内氏を滅ぼし巨大勢力を形成した 毛利元就 は再び、 尼子攻めに着手する。宍道隆慶も毛利軍配下の武将として出雲へ出陣する。
翌 1562年に鳶ヶ巣城を占領した毛利軍は、宍道隆慶・政慶父子を城主として配置し、 尼子攻めの包囲網の一端を担わせる。あわせて、毛利元就本人も当城に立ち寄り、 直接、宍道隆慶に城郭の拡張整備を指示している。

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この城は交通・軍事上の要衝に位置し、特に水軍を持つ毛利にとっては、 神門水海(出雲平野にはかつて多くの湖や沼地が点在していた。現在の神西湖など)、 宍道湖、日本海を結ぶ要として、この先の 3年間の対尼子戦争の中継拠点機能が 期待されたわけであった。
また、月山富田城 下の尼子十旗の一角を成す 高瀬城主・米原氏と南北で対面する抑えの拠点でもあり、 毛利元就 が宍道隆慶に寄せる信頼度の高さを物語っている。

尼子氏滅亡後、宍道隆慶の功績が高く評価され、この鳶ヶ巣城を中心に出雲北山山地の一帯の 支配を任されることとなる。それから 40年近く、毛利軍の一端を担いつつ、当エリアの統治に尽力するも、 1600年の関ヶ原合戦後、毛利支配の終了とともに宍道氏も一族共ども、萩へ移住するに及び、 城としての機能を失い、廃城となったと考えられている。

城内の建築資材は、松江城 の築城工事などへ転用されたものと考えられる。 現在、城跡には、山頂の屋根に 10以上の曲輪、5箇所以上の土塁が認められ、 また南西の山麓にも曲輪が残されている。



鳶ヶ巣城のやや東隣に、興源寺「小早川正平の墓」 300 mという看板が国道 431号沿いで目に入ったので(下写真左)、ついでに足を延ばしてみた。
なお、この里を流れる小川には、蛍が生息するらしく、案内板が設置されていた(下写真右)。

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最初は、直進して小川沿いの登山道まで行ってみたが、さすがに寺院はないだろうと、引き返して路地を西へ曲がってみると、「臨済宗」「興源寺」と掘られた石柱を発見した。正殿の周囲にはお墓群もあり、お寺なのだろうが、山門も土塀もない、普通の民家に見えた。下写真左。

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とりあえず、「小早川正平の墓」を見学しようと、境内へ入ってみると、周囲で草刈り作業中の男性が話かけてきた。
どうやら、住職さんだった。「小早川正平の墓」の場所を質問すると、お寺から西 50 mの山裾を指さし、その民家の裏手にあると教えてくれた(上写真右)。

話しやすい住職さんで、自分は境界線のような土壁を寺に設けることには反対で、子供たちが自由に出入りできる空間にしたかったとお話されていた。そして、本題の「小早川正平の墓」の由来について、じっくり解説して頂いた。


小早川隆景 の義父に当たる人物で、大内氏が大軍勢で出雲の尼子氏を攻めた際、2年の攻城戦の後、大内連合軍は壊滅し、大内主君は自領へ引き上げたが、その長男は戦死することになる。
また、毛利元就も命からがら吉田郡山城へ帰還した
しかし、連合軍を構成していた小早川正平の軍は逃げ遅れ、この出雲平野の北の山裾に逃げ込んだという。

当時、すでにこのエリア一帯には集落があったが、古くからの尼子領で住民らは誰も、小早川正平ら主従 7名に対し、食料を提供しようとはせず、空腹と絶望に耐え兼ねた一行は、ここで自害して果てたということだった。
「おはぎ」はないかと問う小早川正平らに、住民らは「おはぎ」は牛にやる飼料なので、提供できないと断ったという言い伝えが村に残っており、毎年、お祭りの際に、「おはぎ」を出しあう由来となったとか。

小早川氏は当主をここで失うと、その長男は盲目であったため、家臣らは長女との結婚で、毛利家の三男隆景を婿養子にもらい受けることとなる。こうして 3年の間、果敢に戦場へ打って出ては武勇を見せつけ、 家臣団の信頼を勝ち取ることで、小早川隆景 という大将が認知される ようになったわけである。
この興源寺は、自身の義父を弔う意味で、後年、小早川隆景によって建立されたという。

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NHKの大河ドラマで『毛利元就』が上映された 際(1997年)、このエピソードも紹介され、当地には多くの訪問客があったそうだが、今では県外から数える程度の訪問者しかないということだった。

また、この先に桜土手があり、戦国時代、武者らが馬で通行すると、必ず落馬する危険地帯となっており、「小早川の祟り」として恐れられたため、付近に小早川神社やもう一つの神社が建てられたそうだ。これらは、今でも現存するという。


また、当地の畑にはあちこちに鹿よけの網ネットが設置されており、住職さんも鹿とイノシシ被害の大変さを力説されておられた。熊に関しては、島根県だと南側の中国山脈中に出没するらしく、出雲平野を隔てた北山山脈の方面には出てこない、ということだった。

しかし、鹿も脅威で、熊とは違いかなりのギャンプ力があり、助走すると網ネットを飛び越えてしまうらしく、農作物の被害は相当に上るという。本気で網ネットを張る場合は、二重にするのがコツということだった。助走させないようにやや距離を空けるのだという。
最近は、猟師も少なくなり、駆除方法が限られてきており、地元の悩みの種、ということだった。

さてさて、夕方も 16:00近くになり、さすがに急がねばならない時間帯なので、お話の尽きない中、住職さんにお礼を言って、先へ急ぐことにした。

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それから 1時間、ひたすら自転車をこぎ続ける(上写真)。
途中、天平古道という山道が、北山山地の高さ 50 mぐらいの中腹を通っているらしく、その古道への登山道が幾つも表示されていた。これとは別に、山頂ルート もあるそうだ。

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さて、そうやく 16:50に出雲大社に到着できた。
慌ただしく、出雲大社の正面入り口付近や門前町を散策し、17:10には当地を後にした。

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出雲大社は、27,000 m2にも上る占有地目面積を誇り、日本最古の神社の一つで、戦前まで「大社」という名称で呼ばれた唯一の神社であった。大国主大神を祀る。 その巨大な社殿と、日本随一の大鳥居を持つことでも名を馳せる。 その本殿は高さ 24 mを誇り、伊勢神宮内宮の正殿に次ぐ、国内第二の規模という(国宝指定)。また、神楽殿に祀られている 8 mの大縄は、重さ 4.4トンにも達し、やはり日本最大ということだった。

その最も重要な特徴は入口にある山壁一側で、ここに神社建築独特の様式が採用され、大社造(伊势神宮の形式は神明造と呼ばれる)と呼称されており、内部は国宝級の文物が内部に展示されている。
この建築スタイルは、古代日本の貴族らの豪宅に類するという。 出雲大社は平安時代期にはすでに存在しており、史書によると、その正殿は巨大で、高さは 48 mもあったという。しかし、古代日本の建築技術水準では、このような巨大建造物を造ることはできなかったわけで、多くの研究者らから疑問が呈されている。
しかし、2001年の発掘調査で、正殿の横に直径 1 mもある大木の礎石が発見され、往時に建造された巨大な正殿が史書にある通り、確かに存在したことが証明されている。

出雲大社は日本で最も重要な神社とされ、「縁結び」の神様として厚い信仰を受け続けている。背後の八雲山は聖域とされるエリアで、部外者や政治権力から千年以上もの間、守られてきた。


ここから、さらに 40分かけて、国道 162号線をひたすら直進し(下地図)、17:50、JR出雲市駅に帰り着いた。

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途中、江戸時代に開墾された高瀬川の跡地 ― 現在は用水路 ― が現れる(下写真左)。この開墾を推進した人物として、大梶七兵衛(1621~1689年)の銅像が設置され(下写真右)、その功績が称えられていた。

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江戸時代初期の大洪水の 結果(1635年と1639年)、それまで西へ流れ、出雲大社側の 海(日本海)へ注いでいた斐伊川が突然、東へ流れを変え、宍道湖へ注ぐようになる。その川跡には多くの湿地や砂丘が出現したという(当時、神門水海と総称された)。
また、江戸時代に入ると、技術や道具の進歩もあって農業生産も増え、農民の中には、進んで土地を切り開き耕地を増やそうとする者が現れるようになる。

このような時代背景の下、出雲平野の開発に力を尽くしたのが、大梶七兵衛朝泰であった。
大梶家は元は武家で出雲へ下って農に帰したといわれ、姓は林で屋号を梶といい、大を付けて大梶と称したのは後のことという。

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この新田開発に必要とされたのが灌漑用水であり、荒木浜の開拓地のための灌漑用水として開削されたのが、高瀬川という。
水路となる土地が砂地であったので、水漏れを防ぐ工事は困難を極め、多くの苦心と工夫が必要とされた。そこで大梶は川底に筵を敷き、その上に粘土を置き、左右の壁にも粘土を貼りつけた。こうして用水路の土壌が固められ、高瀬川が完成することとなる。

大梶七兵衛はこの高瀬川の掘削以外にも、差海川および十間川の開通工事や、来原岩樋の水門工事も手掛け、今日の出雲市の平野部の発展に大きな貢献をした人物として讃えられていた。


この用水路沿いの道を 15分ほど進み、その途中で右折して用水路を渡り、官庁エリアを経由して、駅へ帰りつけた。
JR出雲駅前は単なる住宅街しかない雰囲気だが、駅の西側に官庁街やビジネス地区が広がり、それがまた結構、離れた位置にある、珍しい都市構造であった。
筆者が自転車で移動中も、退社した勤務者らが駅までの長い道のりを歩いているのを見かけた。

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本当は、さらに北にある 港町「宇龍港」へ行ってみたかったが(上写真)、レンタサイクルの 返却時間(18:00まで)の制約上、訪問は不可能だった。宇龍の港町は、古来より、出雲大社直轄領として保護されてきた港湾都市で、 多くの歴史上の有名人物らもこの地に足跡を残している。


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