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訪問日:2017年6月上旬 『大陸西遊記』~


日本鳥取県境港市 ~ 境港市人口 16万人、鳥取県全体 一人当たり GDP 280万円


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  JR 境港駅(鬼太郎駅)と境線(鬼太郎列車) 片道 320円
  山脈地帯の島根半島と、砂州の弓ヶ浜半島の対象性 ~ 境水道の不思議
  尼子勝久、山中幸盛らに率いられた尼子再興軍ゆかりの地 ~ 境水道と島根半島
  江戸期の弓ヶ浜半島と米子城
  広大な面積を誇る 境台場公園
  【豆知識】境台場 ■■■
  水木しげるロードと国際観光地の限界。。。



境港市は日本海側の最大の水揚げ港で、「ゲゲゲの鬼太郎」の作者、水木しげるの故郷としても有名な地だ。
河川土砂の堆積により形成された巨大砂州である弓ヶ浜半島の北端に位置し、三面を中海、日本海、そして、その間を結ぶ境水道によって囲まれる。市域すべて(28.79 km2)がこの砂州上にあり、平均海抜が 2m という、非常に平坦な 土地柄となっている。

境港市

JR 米子駅 から乗車し、1時間で到着できる(上写真は、JR 境港駅からの運賃表)。
この1時間もの乗車時間で運賃 320円とは安いわけだが、実際には 18km弱の短距離のわりに、駅が10カ所も設けられており、さらに単線構造のため、反対電車の通過待ち合わせ時間も含んでおり、結構、時間だけが取られる路線だった。

しかし、電車内や各駅構内は「ゲゲゲの鬼太郎」一色で、乗客を何やらワクワクさせる仕掛けがあちこちに施されていた(下写真)。

境港市 境港市

境港駅に到着すると、まずは、駅と連結したフェリーターミナル内にある境港市の観光案内所で簡単な地図をもらう。駅トイレもこの建物内にある。

そのまま真北に見える 境水道 まで出てみた。そして、2kmほど境水道沿いを東進し、境台場公園(桜の名所)まで向かうことにした。この日は終日、雨天で、30分強の移動も相当に困難であったが、対岸の島根半島との近さには最後まで興味を引かれ続けた。
砂州で形成された鳥取県側の弓ヶ浜半島と異なり、島根半島は山脈が海岸線ギリギリにまで迫る急峻な地形で、海峡(河口部)を挟んで、ここまで様子が違うものか、と驚嘆させられる光景だった。

境港市 境港市

この境水道は、全長7~8 kmで、その両岸の幅が 200~600 m 程度という(上写真)。地図で見ると、ここは海の一部としか思えないが、地理上の区分けは斐伊川の一部らしい。つまり、斐伊川の河口部、ということになる。
中海は海水、淡水が入り混じっているそうだが、この辺りだと、もう 100% 海水だけに違いない。

この河口エリアの先っぽに、境水道大橋(全長709 m、高さ40 m)が見える。下写真右。

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雨天でなければ、駅前の境港市観光案内所の レンタサイクル(2時間200円、1時間追加ごと 100円)で、この大橋を渡って島根半島側へも行ってみたかったのだが、終日雨天だったので、徒歩で境港市街エリアを巡るだけにした

境港市

戦国期、この島根半島側の最も高い山頂(標高290.5m)には忠山城が築城されていた。上地図。
1569年8月6日、 尼子勝久、山中幸盛らに率いられた尼子再興軍が隠岐島から美保関に上陸し、 北九州の大友氏との長期戦で毛利方の守備が手薄となっていた虚を突き、 この島根半島の最重要拠点・忠山城をわずかな兵力で最初に占領する。
ここから、山陰の方々に散らばる旧尼子家臣団へ激を飛ばし、わずか5日の内に3000騎を 集めることに成功する。

最終的に布部山の戦い(1570年3月20日)以降、勢力を失った再興軍は、本拠地としていた 真山城 を放棄し(1571年9月8日)、 同月中に島根半島を経由して本州脱出を図ることになる。その逃避の道中に、 尼子勝久らの首脳陣が最後に立ち寄ったのが、 ちょうど JR境港駅の対岸にある鈴垂城であった(下写真、右手の集落地は美保関町森山)。ここから隠岐島へ逃亡している。

境港市

なお、現在、境港市を成す弓ヶ浜半島の巨大砂州は、古代より河川の中州として 存在し、ちょうど奈良、平安時代に鳥取県側面と陸続きになっている。

以後も毎日、引き続き、中海を経由する斐伊川からの土砂が堆積され続けているはずであろうから、 さらに1000年ぐらい年月が過ぎれば、この両半島の地図も大きく様変わりしていることであろう。現在、この境水道の水深は7~9 mらしい。確実に川底には土砂の蓄積が進んでいるはずである。

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明治初期は、大阪商船の蒸気船も米子港に支店を開設し、この水道を定期往来していたという。

雨天 の中、撮影しながら大橋を目指しての前進で、結構、きつかったが、 30分弱ほどして、ようやく六角形の白い灯台と緑地帯が右前方に見えてきた。
この緑地帯が目的地の台場公園であるが、それは思ったより広大だった。

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現在、台場公園の中央部は駐車場となっていた(上写真)。

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台場の土塁は、北面と東面に構築されていたらしい。北面、東面ともに、二段造りの土塁で、特に、東面の土塁跡の保存状態が良かった(下写真)。

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東面の土塁中央部に、海軍事故者を弔う慰霊塔が立つ(下写真左)。
1927年8月24日夜、海軍が美保湾沖で演習中に4隻の駆逐艦と巡洋艦が衝突事故を 起こし、乗組員120名が犠牲になったという。彼らの弔いのために、1928年11月に忠魂碑として 建立されたもので、山陰地方では最古級のコンクリート建築物とされる。戦後の1957年に 慰霊塔へ改名された。

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また、 台場の土塁上にはたくさんの黒松が植えられており、 最古のものは、境台場が建造された1863年当時に植樹されており、 今も南面の入り口付近に立つ。これと同じく南面に並ぶ黒松たちは、1907年に 植樹されたものという(上写真右)。


幕末期、外国船(黒船)の来襲に備え、幕府より各藩に主要な港湾エリアの入り口に砲台拠点の配備が指示される。 これらの砲台基地は「台場」と通称され、鳥取藩 内でも8箇所(浦富、浜坂、賀露、橋津由良、赤碕、淀江、境)の台場が築かれている。

この境台場は、1863年に建造されたもので、当時の海岸線に沿った広さ1.45ヘクタールの地を土塁で囲い、土塁の上に 18斤砲 2門、 6斤砲 1門、5寸径砲 5門を据えていた。これは、同じ年に築かれた藩内の台場の中でも最大規模に装備されたものであった。弓ヶ浜地方の村人を総動員して半年ほどで完成させ、そのまま農民兵が 組織されて守備に当たっていた。

境台場跡は、今日でもその遺構をよく残しており、 1988年、鳥取県内に残る4箇所(浦富、橋津、由良、淀江)の台場跡とともに、「鳥取藩台場跡」として国史跡に指定されている。



さてさて、雨に打たれ続けて1時間が過ぎ、とりあえず、水木しげるロードを通って、駅まで戻ることにした。
台場公園の方角から進むと、そのロードがどこにあるのか全く把握できなかったが、この直線道路の先が目的地ということらしい(下写真左)。
途中の民家の路地などを見て感心したのは、ほとんどが直線道路で構成されており、区画整理でもあったのかと思うぐらいに、直線的な人工都市設計の町であった(下写真左)。

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水木しげるロードまで至ると(上写真右)、急に観光客らの姿が目に飛び込んできた。さっきまでの閑静な住宅街と連続する通りとは夢にも思えないぐらいの変貌ぶりだった。

シルバーの団体客が最も多かったが、中にはロシア人や香港人などの外国人観光客たちもいた。正直、水木しげるに関する当地に、日本人の「ゲゲゲの鬼太郎」世代以外の人が来ても、全く意味がわからないのではないだろうか??と心配してしまう。
また、ユニークな妖怪グッズのお店やお土産物、お菓子が並ぶが、日本語の語彙センスがないと、そのせっかくのユーモアも解することができないのではないかと思う。

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ようやく駅前広場に戻り、JR 境港駅から再び電車で米子駅まで戻った(320円)。

なお、この駅前広場にあるバスターミナルには、米子駅までの路線バスや、松江市までの大型バスが毎日、運行されていた(上写真右。 中海に浮かぶ大根島や江島を経由する)。乗車してみたい気がうずうずしたが、雨天での車窓観光はあまり見応えがないので、断念した。


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