BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2017年6月上旬 『大陸西遊記』~


鳥取県 東伯郡 羽合町 ~ 町内人口 0.8万人、一人当たり GDP 260万円(鳥取県 全体)


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  湯梨浜町民族博物館
  橋津台場の 土塁跡
  【豆知識】橋津台場 ■■■
  馬ノ山古墳遺跡
  馬ノ山要塞(吉川元春 陣地跡)
  【豆知識】1581年晩秋、吉川元春(馬ノ山) vs 羽柴秀吉(御冠山) ■■■
  橋津川の古戦場(1540年、但馬山名氏 と 出雲・尼子氏との 代理戦争)
  橋津藩倉 ~ 鳥取藩最大の 米蔵(5万俵 = 現在価値 20億円金庫)
  大河の橋津川と、江戸期に直通掘削された 天神川、両者を連結し続けた 御蔵船川の歴史
  東郷池の 南岸から見渡す、馬ノ山 と 御冠山
  羽衣石川を遡る ~ 日本の田舎の原風景
  羽衣石山の 登山と石垣群
  羽衣石城の 本丸(主郭)、二ノ丸、三ノ丸曲輪
  【豆知識】羽衣石城 ■■■
  羽衣石山の 由来 ~ 天女伝説



前日から、JR倉吉駅前 のホテルに投宿し、この日、ホテルフロントで自転車をレンタルした(無料)。
なお、JR倉吉駅 観光案内所でも、市観光局が一日 500円でレンタル・サイクルのサービスを実施している。併設のお土産屋で 2,000円以上の買い物をすれば、レンタル料が無料になるらしい。

駅前から、北上し国道 179号線を進む途中で、湯梨浜町羽合歴史民俗資料館 を発見した(下写真左)。
鳥取県内では、13,600基以上もの大小の古墳が発見されており、千代川(鳥取市街地)、天神川(倉吉市、東伯郡湯梨浜町)、日野川(米子市 西部)の下流エリアの平野周辺や、大山山麓などの丘陵上に、特に中小の古墳群が密集して築造されているという。
この異様な数の古墳群や各種の発掘文物から、弥生時代から奈良時代前まで、この 出雲、伯耆国のあたりに倭の国を支配した王権が存在したのではないか、と一部の学者が指摘するに至っている。
奈良時代以降、歴史の表舞台から忽然と姿を消した、古代文明圏の謎は今日でも未解決のままという。

さて、湯梨浜町羽合歴史民俗資料館であるが、訪問者が少ないためか、訪問希望者は隣接する湯梨浜町役場の職員に一言いって、都度、カギを開けて入館させてもらう仕組み(入館は無料)だった。

東伯郡羽合町 東伯郡羽合町

先を急ぐ必要があったので、博物館内は見学せず、そのまま進むことにした。なお、この湯梨浜町民族博物館の前にあった町内の名所旧跡イラストマップは非常に役に立った(上写真左)。
この先の海岸近くに、鳥取藩 が幕末に建造した砲台跡(橋津台場)があることを発見できた。早速、訪問先の一つに加えて、国道 179号線を海岸線の突当りまで直進する。

海岸エリアは、夏の海水浴シーズン以外は閉鎖されているようで、真っ白な砂浜にはゴミ一つ、落ちていなかった(上写真右)。

東伯郡羽合町

国道 179号線と海岸線との交差ポイントが、橋津川の河口部にあたり、その西岸に台場が設けられていた(上写真)。
すぐ先は海岸の砂浜が広がり、高波などで侵食されてしまったらしく、台場跡の土塁の土盛りぐらいは視認できたが、原型は全く確認できない状態だった。

東伯郡羽合町 東伯郡羽合町


幕末、日本近海には通商を求める異国船がさかんに出没するようになったが、幕府は鎖国を徹底し、海岸防備に力を入れていた。鳥取藩 でも、砲台場を各所に造って防備を固めるよう準備に取り掛かっていたが、藩財政ひっ迫の折、計画は遅延していた。

こうしたとき、大阪の天保山砲台を警備していた鳥取藩の警備隊が、1863年、英国戦を砲撃するという事件が起きてしまう。鳥取藩では報復をおそれ、急きょ、大誠村瀬戸(現在の北栄町瀬戸)の大庄屋であった 竹信潤太郎に相談し、農民の協力を得て、由良台場、橋津台場などを次々と築造し、1863年中に藩内 8ヵ所の台場が完成する。この台場築造に協力した人数は、のべ 17万5000人といわる。

現在、鳥取県内の台場は由良台場がほぼ完全な形で残り、ついで浦富、橋津の台場がおおよそ原形をとどめている。
橋津台場は築造当時の図面が現存しておらず、また、日本海の荒浪に侵食され、約 3分の一が流出してしまっているため、本来、どんな形状であったのか長らく不明であったが、明治 25年ごろの台場の形状を表した地図が見つかり、由良台場 と似通った形状であることが判明した。


続いて、橋津川の東側にある 馬ノ山 へ登ることにした。
下写真は、橋津台場から馬ノ山を眺めたもの。

東伯郡羽合町

橋津川の橋を渡った際、馬ノ山の中腹部に自動車道路が敷設されているのが見えたので、その山間道路の入り口を探した。
ちょうど馬ノ山の北面で、国道 179号線と接続する形で、その山頂まで続く自動車道路はあった(下写真左)。

東伯郡羽合町 東伯郡羽合町

この道を自転車を押して登ることにする。この山には多数の古墳が存在しており、馬ノ山古墳遺跡としてガイド本や地図では表示されているが、筆者は 吉川元春 の陣地跡として、この地を訪問してみた次第である。きっと、1581年に吉川軍が陣地構築の折は、この古墳群も土塁として援用されたに違いない。
なお、幕末の橋津台場の築造工事の際、古墳の盛り土も一部、削られて利用されたという。

上写真右は、山の中腹部に建立されている「旧ソ連抑留者のための慰霊の石柱」。 60万もの軍人や民間人らがシベリアへ連行され、最長 11年間の抑留の中で、6万もの人々が極寒と飢え、重労働の三重苦により死亡したという。その犠牲者の中に、鳥取県出身者も 300名が含まれており、また帰国後にその後遺症で亡くなった方も 300名ほどいたという。
石柱は、下地図の 6号墳、7号墳の右手の Ⓟ展望駐車場に位置する。

東伯郡羽合町

このゾーンは、ひたすら登坂が続き、周囲の古墳群を愛でている余裕が持てなかったが、下山の際には自転車でラクに下りているときに、明らかに人工的な段差を有する 6号墳、7号墳、8号墳などの盛り土が異様に目立っていたことに 気付く

東伯郡羽合町 東伯郡羽合町

馬ノ山の山頂まで到着し、ハワイ風土記館に入ってみる(上写真左)。
その傾斜部分に、吉川軍の土塁跡の案内板があった(上写真右)。

当時、この緩やかな山全体を要塞化していたようで、現在でも、山中にはこうした土塁や曲輪の跡地が、所々に残っているという。下写真。

東伯郡羽合町 東伯郡羽合町


1580年 1月15日に 三木城 の別所長治を攻略し、御着城(1月)や 英賀城(4月)など播磨の残党勢力の掃討戦を成功させた羽柴秀吉は、6~9月にかけて 鳥取城 を包囲し、城主の山名豊国を降伏させ、いったん播磨へ兵を引き上げる。このとき、鳥取城の西隣の鹿野城も占領し、尼子再興軍の生き残りであった亀井茲矩を守将に据えている。

同時期、山陰地方の防衛担当であった毛利方の 吉川元春 も鳥取戦線へ援軍に来ており、同年 8月、織田方に組した羽衣石城主の南条元続との間で、交戦している。羽衣石城下の長和田の丘陵エリアでの激戦で、長和田・長瀬川の戦いと通称される。
この戦いで、南条軍は大敗し、一族の南条元秋や旧守護家出身の山名氏豊が戦死に追い込まれる。以後、南条元続は居城の羽衣石城の防備を固めることとなった。

東伯郡羽合町

翌 1581年7月12日に再び秀吉軍が 鳥取城 を包囲すると、吉川元春 も援軍を引き連れて、再び伯耆国入りし、馬ノ山に陣地を構築する。吉川軍は泊湊に水軍基地を設置し、鳥取城への補給活動を展開するとともに、主力軍は嫡男の吉川元長に率いらせて南条軍が籠る羽衣石城や岩倉城の攻略に当たらせた。しかし、羽衣石城方は度々の攻撃を凌ぎ切り、その堅固さに吉川軍も手を焼かされる。そうこうしているうちに、織田方の水軍により泊湊も攻撃され、吉川軍は制海権を失うこととなった。
同時期、吉川軍は鹿野城に籠る亀井茲矩へも攻撃を加えるなど、多方面での同時作戦を展開したものと推察される。

他方、吉川元春はその配下を、周囲の支城に展開しており、打吹城田内城 などに兵を配置させていた。

同年 10月25日、冬までの籠城戦を持ちこたえることができず、鳥取城主の吉川経家(35歳)が自刃し、鳥取城が陥落すると、秀吉の全軍 2万は翌26日に鹿野城へ入城し、さらに 27日に東郷池の東岸に位置する御冠山の山頂に陣を構え、馬ノ山の吉川軍と対陣する。

このとき、迎え撃つ吉川軍は 6,000 程度であったが、橋津川の橋をことごとく落とし、備えていた数百の船はすべて陸に揚げ、物見櫓は残らず折り捨てて背水の陣を敷く徹底ぶりで要塞化した馬ノ山に立て籠もる。間もなく到来する大雪まで時間稼ぎする算段だったと見られる。

東伯郡羽合町

秀吉軍は守りを固める吉川本陣を攻めることはせず、南条元続が籠る羽衣石城内へ武器や弾薬などの物資を補給して、そのまま 鳥取城 へ引き上げる(10月末)。秀吉軍の撤退を受け、吉川元春も居城の 月山富田城 へ兵を引いた。
秀吉軍は11月4日、鳥取城を出発し、雪が積り出した中国山脈を越えて、播磨の 姫路城 まで帰着する(11月8日)。

翌 1582年4月、秀吉軍は岡山方面へ兵を進め、備中高松城を攻める。5月より水攻めが開始され、6月の本能寺の変、毛利方との講和を迎えることとなる

一方で、この山陰戦線では、秀吉との和議条件として伯耆国の割譲(他に備中、美作の合計 3か国)が約されていたが、毛利方は因幡の再占領は諦めるも、伯耆国の再統一を目指し、同年夏、吉川元春 が再び大軍を差し向ける。9月~10月ごろには、羽衣石城の南条元続やその実弟の岩倉城主の小鴨(南条)元清らは城を捨て、播州まで逃亡することとなった(1584年の京芸和睦により、南条元続らは旧領へ復帰する)。

ちょうど同時期、6月の清須会議から、10月15日の信長の「百ヶ日法要」の主催、 そして 翌年 4月の賤ヶ岳の戦い にかけて、織田家中央部での権力争いに忙殺されていた羽柴秀吉は、 山陽、山陰方面まで手を回せる状態にはなかった。


ハワイ風土記館 の展望階からの眺望はすばらしかった。日本海の海岸線上に立つ風力発電の風車が平野部に延々と続いていた(下写真)。

東伯郡羽合町

この一帯は、戦国時代中期の 1546年に、因幡領有をめぐる但馬山名氏 と 出雲の大勢力・尼子氏の代理戦争として、地元豪族の武田国信の率いる伯耆国の国人連合軍と尼子氏との間で勃発した「橋津川の戦い」の古戦場でもある。

また、馬ノ山からは、橋津川と橋津台場遺跡もはっきりと俯瞰することができた(下写真)。

東伯郡羽合町

そんな歴史の激動の舞台を妄想しながら、下山する。登山口まで戻ると、馬ノ山の山裾沿いに東郷池を目指した。
この橋津町内の道路を進んでいると、鳥取藩橋津米倉跡 の案内板を発見したので、左折してみると、異様に巨大な土壁造りの土蔵が忽然と現れる。思わぬ史跡に出くわし、圧倒されてしまった。

東伯郡羽合町 東伯郡羽合町

この橋津町内には、3つほど米倉跡が残されているという。上写真左のものが最大の米蔵で、隣接の土蔵 2つと合わせて、5万俵の米俵を保管でき、順次、大阪堂島の米市場へ搬出されていったという。
米蔵は高床造りになっていて、軒下の広さが特徴的であった(下写真)。

東伯郡羽合町 東伯郡羽合町


1633年、国替えにより、池田光仲が 岡山 から 鳥取 へ入国し、 32万石鳥取池田家の藩制が開始される。
鳥取藩政資料の中に、1636年、橋津御蔵(年貢米を収納する御蔵)の記載があり、鳥取池田家の藩政の始まりとともに創設されたものと考えられている。

現存する御蔵は「古御蔵」「三十間北蔵」「片山蔵」の三棟だが、文化五年橋津御蔵絵図(1808年)には御蔵 14棟と計屋 1棟が描かれ、総面積 612坪を数えたという。
この橋津御蔵は、鳥取藩 の 9つの藩蔵の中で最大規模を誇り、約 5万俵の米を収納し、主として 大坂 へ廻米され、藩財政を大きく支えていた。
上写真にある古御蔵には、1843年の建替えの棟札が残り、全国的にも史料価値の高い建物として注目されている。


さてさて、そのまま橋津町の集落地を抜け、東郷池を水源とする全長 2kmほどの 橋津川 沿いの道に合流する(下写真左)。
北条バイパスの下の辺りに、船舶の停泊用の運河が設けられており、戦国期に 吉川元春 軍もその配下の水軍をこのように馬ノ山の陣地の周辺に配備させていた構図が思い浮かんだ(下写真右)。

そもそも江戸期以前まで、現在の倉吉市街地を通る天神川自体が湯梨浜町役場あたりで東進して、この橋津川と合流しており、東郷池の水とあわさって海へと注いでいたらしい。 かなりの大河であったと推察できる。
河川沿岸の水害を避けるため、江戸時代初期の 1657年、天神川の直流掘削工事が開始され、三年半の歳月を費やして、二つの河川に分離されたという。
しかし、引き続き、天神川と橋津川は細い水脈(御蔵船川)で接続されており、倉吉方面からの年貢米はこの御蔵船川を経由して、橋津米蔵まで移送されていたのであった。

東伯郡羽合町 東伯郡羽合町

橋津川の西岸へ渡り、そのまま橋津川沿いを南下し、東郷池 に至った。
東郷池の湖岸にある羽合温泉郷エリアでは、ハワイ風に道路沿いにヤシの木が植樹され、南国イメージの温泉郷ぶりをアピールしていたが、こんな寒いところでは、ヤシの木も巨大化できず、小ぶりなまま冷たい風に吹きさらされていた。

筆者が訪問した 6月上旬の平日昼間、宿泊客らしい人の姿や、店から出入りする人の姿は一切なく、殺風景そのものだった。町の所々には、「売地」の看板が方々に掲げられており、寂れた印象を一層、強める効果を果たしていた。
そそくさと温泉郷(下写真の中央部に映る鉄筋コンクリートの建物群)を通り過ぎ、東郷池の南端まで至ると、二本の河川の橋を渡る。埴見川と羽衣石川である。

東伯郡羽合町

上写真は、羽衣石川の河口部から東郷池と、その北岸に位置する馬ノ山(山の稜線上に突起物が見える)を眺めたもの。
毛利水軍は、橋津川から東郷池を経由して、ここまで自由に往来していたと推察される。そして、水深の浅い羽衣石川のこの河口エリアで下船して、深い谷間を上っていき、急斜面に立つ羽衣石城への攻撃を繰り返していたのであろう。
上写真の右手の高い山が御冠山で、羽衣石城の南条元続を援護すべく羽柴秀吉 2万の大軍が本陣を置いた場所である10月27~31日)。

東伯郡羽合町 東伯郡羽合町

さて、東郷池の南端から羽衣石川沿いの細い道を進む(上写真左)。この川の上流に羽衣石城があり、この地点からでも、ちょうど山頂付近に白い建築物が見えていた。

国道 29号線との交差点に、羽衣石城の案内板が掲示されていた(上写真右)。

東伯郡羽合町

さらに、羽衣石川沿いの道を進む(上地図)。明らかに、地元民しか使用することのない、田舎道であった。途中、JR山陰線の踏切を一回、渡る。

里山の集落地は非常にのどかで、伝統的な日本の原風景そのものを体現していた。水田や羽衣石川には鴨や鶴が多数、生息しており、特に野生の鴨をこんなたくさん見たのは、生まれて初めてだった。さらに、道路脇の溝には、タヌキまでいて、走って逃げていった。

東伯郡羽合町

そんな自然の山林風景を愛でつつ、徐々に勾配がきつくなる道を急ぐ。
いよいよ羽衣石川から離れて、城エリアへ至るべく、橋を渡る。もうここからは、山頂の模擬天守が非常によく見える距離である(下写真左)。

東伯郡羽合町 東伯郡羽合町

ますます坂道がきつくなり、ようやく登山入り口に到着した(上写真右)。さらに、自動車道路は続いており、ここを自転車を押してさらに登る。
山の中腹部に休憩所と無料駐車スペース、トイレが設置されており、なかなかの整備ぶりに驚いた次第である(下写真)。湯梨浜町が地元の観光資源をなんとか有効活用しようとする努力が目に焼き付いた。
東伯郡羽合町

ここからの登山は本格的で、険しい近道と、やや緩やかな登山道の二つがあった(下地図)。一人で山道に入るわけで、イノシシやクマとの遭遇も想定し、登山口に放置されていた杖を用心棒代わりに持って登った。
だいたい 20分ぐらいで山頂に到着する。

東伯郡羽合町

急斜面の近道を選択して登山を決行した。途中、石垣跡などが出現する(下写真左)。また、山の斜面には、大きめの石がゴロゴロと放置されていた(下写真右)。

東伯郡羽合町 東伯郡羽合町

ようやく三ノ丸にあたる帯曲輪に到着した(下写真左)。
山裾から見えていた模擬天守が、もう目前にまで届く距離に到達できたことにかなり満足感に浸れる瞬間だった。下写真右は、三ノ丸曲輪から二ノ丸、本丸(主郭)を眺めたもの。

東伯郡羽合町 東伯郡羽合町

下写真は、二ノ丸曲輪と本丸の斜面。

東伯郡羽合町 東伯郡羽合町

この二ノ丸曲輪には、休憩ベンチと無料の双眼鏡(!)が設置されており(下写真)、日本海岸や馬ノ山などを間近に感じながら眺めることができる。粋な計らいに感嘆した次第である。

東伯郡羽合町


標高 380mで、急峻険阻なるこの山は、頂が平坦で広く、1366~1600年までの約 250年間、南条氏の居城として栄えた。
もともと、この山は「崩厳山(つえしやま)」と呼ばれていたそうだが、南条氏築城の際、この名を嫌い、古い歌から引用して、「羽衣石山」と改名したと言われている。

東伯郡羽合町

1366年、南条貞宗、羽衣石山に城塞を築城する。
1524年5月、尼子氏、伯耆国を席巻する。南条氏をはじめ、伯耆国の国人らは城を放棄して落ちのびる。
1540年、武田国信を頭領とする伯耆国の国人ら(羽衣石城主の南条宗勝を含む)連合軍が、橋津川で 尼子勢 と戦って敗れる。
1562年、この頃、南条宗勝、羽衣石城を回復する。
1575年10月、南条宗勝、没する。南条元続、吉川元春・元長 に起請文を提出する。
1576年10月、山田出雲守ら 5人、南条元続に起請文を提出する。
1579年9月、南条元続、堤城の山田重直を攻撃する。
1580年8月、南条元続、長和田・長瀬川で吉川元春と戦う。一族の南条元秋、戦死する。
1581年8月、吉川元春、羽衣石城を攻撃する。南条勢、城を防衛する。
   10月、羽柴秀吉が御冠山まで進出し、馬ノ山に陣を張る吉川元春と対陣する。
1582年、羽衣石城、吉川配下の山田重直に占領される。南条元続は播州まで逃れる。
1584年、この頃、南条元続は羽衣石城を回復する。
1585年、八橋城を除く東三郡が、南条領と確定する(八橋城は、毛利方の飛び地領となる)。
1591年7月、南条元続が没し、元忠が跡を継ぐ。
1592年、大鴨元清(南条元続の実弟、岩倉城主)、南条軍 1,500人を率いて、朝鮮へ渡海する
1600年9月、関ヶ原の戦いで、南条氏、西軍に味方して敗れる
1614年、この頃、南条元忠、大坂城 で没する。


さて、しばし休息を取った後、すぐに下山を開始した。登りの際は感じなかったが、その急な勾配ぶりはかなり危なかった。転げ落ちたらひとたまりもない。

登山道沿いに、巨大な大石がある(下写真)。昔、この山に天女が降り、大石に羽衣を掛けて麓の池で入浴をしている最中に、里山の農夫が通りかかり、羽衣を持ち去ったという。農夫はこの返却を拒み、羽衣を失った天女は天上へ帰ることができず、この農夫の妻となる。最終的に、二人の子を授かり、子供の助けを借りて羽衣を取り戻し、天女は一人、天へ昇っていったという。
子供は嘆き悲しみ、太鼓と笛で音楽を奏でて、天女を呼び戻そうとするも、天女は以後、戻ることはなかった。この逸話に由来し、天女が降りた山を羽衣石山、太鼓や笛を鳴らした山を 打吹山 と呼ばれるようになったという。

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登山道を抜けると、あとはアスファルト道路で、往路は大変だった登り坂の田舎道も、今度はすべてが下り坂となり、一気に自転車で下ることができた。
空気も水も景色も、すべてが完璧なまでにきれいだった。

東伯郡羽合町

そのまま国道 29号線を西進して、険しい峠のアップダウンを経て(上写真中央の山々が重なり合う地点)、倉吉市内へと戻った。ちょうどこの峠の頂上付近に、鳥取短期大学・看護大学のキャンパスがあった。羽衣石城から 倉吉駅前(上写真中央)まで、自転車で 15分程度だった。


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