BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2020年1月上旬 『大陸西遊記』~


兵庫県 三木市 ~ 市内人口 8万人、一人当たり GDP 289万円(兵庫県 全体)


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  JR明石駅前から、路線バスで 三木市へ(約 45分、710円)。「鶯谷」で下車する。
  明石道峯構付城跡 ~ 台地上の先端部に建造され、主要街道「あかし道」を眼下に監視した
  【豆知識】1579年4月に来援した 織田信忠軍によって築造された 付城マップ ■■■
  【豆知識】シクノ谷峯構付城、高木大塚付城、法界寺山ノ上付城、小林八幡神社付城 ■■■
  八幡谷ノ上明石道付城、三谷(鶯谷)ノ上付城(山林公園)、羽場山上付城 を歩く
  【豆知識】「あかし道」整備と 三木城解体 ~ 城下からの ヒト、モノ、カネの大移動 ■■■
  三木城下の 旧市街地「三木本町」に見る、「あかし道」の 今昔
  雲龍寺 と 別所長春夫妻 の首塚
  【豆知識】三木合戦後の 雲龍寺の復興 と 秀吉・徳川時代の「御朱印状」公寺指定 ■■■
  三木城 マップ
  三木城の 巨大堀切(溜め池)跡 ~ 宮ノ上要害跡 と 鷹の尾砦跡 の狭間に残る 喜春公園
  三木城 全景図
  本丸(かんかん井戸 と 別所長治像)、二の丸(溜め池)、西の丸(女学校 旧校舎)
  本丸の高台から 三の丸一帯を 遠望する
  三木城下の 旧中嶋丸跡 ~ 湯の山街道 と 本町滑原(なめら)遺跡
  三木合戦後に大改修された 三木城(天守閣の増築) と 街道筋
  1826年建設の 旧玉置家住宅(元は藩直営の切手会所)が 今も大切に保存されていた
  三木合戦直後に 秀吉が本陣を移した 本要寺、三木町復興の要へ
  【豆知識】三木合戦 ~ 幕末までの 290年間、三木城下は 公認タックスヘブン だった!■■■
  三木市 旧市街地「三木本町」バス停 から JR明石駅への路線バス 時刻表(1時間、710円)



三木市

この日早朝、三宮駅から 明石駅 へ移動した。チケットショップで JR切符が 380円だった(正規料金は 420円)。
明石駅 北口の西脇にあるグリーンヒルホテル明石にチェックインし、荷物を預かってもらい、すぐに明石駅 南口にあるバス・ロータリーの ③番乗り場から、三木営業所行の路線バスに乗る(12:35。下写真左)。45分のドライブ後(710 円)、鶯谷で下車した(下写真右)。

三木市 三木市

県道 22号線と合流する交差点が、鶯谷という交差点だった(下写真左)。今でもうっそうと茂る森林地帯が続いており、その中央部にかつて、三木と 明石 を接続した 街道「あかし道」が整備されていたわけで、この自然環境を描写して「鶯谷」と呼ばれるようになったのではないか?と妄想してみた(実際、この交差点は山麓へ続く谷間の山頂エリアに位置し、それら渓谷の水源地帯だったと推察される)。

さて、バスで移動してきた道をやや戻ることになる(上写真右)。
道路脇ギリギリまで木々が迫る細い道だったが、自家用車に交じって、大型トレーラーやダンプカーも猛スピードで走り抜ける道だったので、スリルいっぱいの道路歩きだったが仕方ない。かつて「あかし道」だった場所である。

三木市 三木市

そして 5分弱で、国道 175号線との 交差点「福井ランプ」手前にある「歴史の森」公園に至る(上写真右)。この道路向かいには三木市 ターゲットバード・ゴルフ(南コース)があり、道路に挟まれた緑地帯が無料ゴルフ・コースになっていた。

なお、この「歴史の森」公園内も ゴルフ場(北コース)として整備されていた。地元の愛好団体が設置したテントや仮設トイレもあり、かなり熱い支持層を有しているようだった(目下、三木市はゴルフ場数が西日本一という)。下写真

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このゴルフ会場の後方に見える小山が、明石道沿いの付城の一つ、明石道峯構付城跡である(上写真)。 きれいな登山道が整備されており、3分程度で城跡部分に到達する(下写真)。

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主郭・西郭・東郭の三曲輪から構成され、土塁や空堀跡がはっきり保存されていた(下写真左)。虎口跡や櫓台跡なども残されており、本格的な城塞だったことが伺える。

東郭の北へと山道が続いていたが、草木で埋もれてしまっていた。曲輪の真下には、先ほどの自動車道が通り(下写真右)、当時、街道「あかし道」を抑えた役割がはっきりと見てとれた。

三木市 三木市

また、国道 175号線の反対側には、シクノ谷峯構付城跡や高木大山付城跡、高木大塚城跡もある。そちらへのアクセスも考えたが、今回は三木城への訪問を優先することにした。


織田信長 の命を受け、羽柴秀吉が大軍を率いて播磨へ侵攻すると、東播磨 8郡 24万石を領有した 三木城主・別所長治(播磨守護・赤松氏の一門)は当初、織田方に与していたが、人質要求や対毛利戦線での先鋒を強要されるなどに不満を持ったことから毛利方に寝返る(1578年3月)。こうして 同年 6月、織田方との間で三木合戦が勃発するのだった。
三木合戦は、別名「三木の干殺し」と呼ばれ、1580年1月17日までの約 1年8ヵ月に及んだ兵糧攻めで、長治はともに籠城し飢えに苦しむ兵士や住民らの命を救うため、自害して開城することとなる
。 この兵糧攻めは、秀吉配下の 軍師・竹中半兵衛と 黒田官兵衛 が策を練ったと伝えられる。

このとき、羽柴秀吉は兵糧攻めによる三木城攻略のため、三木方の兵糧搬入と援軍を阻止する目的で、三木城を包囲する 城塞群(付城、陣城)を建造する。史書によると、三木城攻めには平井山の本陣を始め、 30余りの付城が築かれたと言及されており、史上、これほど多くの付城が築かれた合戦は他に例がなく、また今もその半数以上が現存しており、これらの遺跡群は、戦国期の合戦の過程や全容を具体的に把握する上で重要な史跡として、2013年に国史跡に指定されている。指定範囲は、別所方の三木城 本丸、二の丸、および 鷹尾山城(鷹の尾砦)、そして織田方の付城跡 7ヵ所、土塁 8ヵ所となった。
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ここに残る明石道嶺横付城も三木合戦時に築造された 30余りの付け城の一つで、2回目の 援軍(1回目の来援は 1578年7月。この時、平井山ノ上付城を建造し、翌 8月に信忠が近畿へ戻った際、秀吉が本陣として入居することとなる)に来た織田信忠軍が建造した 6付城の一つと見られている(1579年4月)
大規模な土塁などが残る平井山の本陣跡とは異なり、この明石道嶺横付城は 1841年の 絵図「三木城地図」には描かれていたが、 1999年に所在確認の現地調査が実施されるまで、その存在が明らかにされていなかったという。

この付城は、明石道が直下を通過する、山地部分の尾根先端に位置している。周囲を土塁で囲まれた主郭と東郭、そして尾根の最先端である西郭の三部構成で設計され、東郭の東側には尾根伝いに広い丘陵台地が続いていた。特に、この東面の尾根方向に対する防衛力強化の工夫が際立っており、東面に設けられた虎口と土塁、その外には堀も掘削されていたという。下絵図。
主郭の東西の入り口も虎口スタイルが採用されており、特に東郭へ通じる主郭東面には 堀(幅約 2.5 m、深さ約 0.5 mの 平底【箱堀】スタイル)も掘削されていた。東側の尾根、および、その下を通過する街道筋に対し、特に警戒していた構図が浮かび上がってくる。

三木市

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他方、西郭は規模も小さく、主郭に付随する虎口を意識した空間のみで、両者あわせて中核部を構成していたようである。この主郭と西郭との間の虎口南脇に 5 m × 5 mの櫓台跡が現存しており、明石道を眼下に見下ろす最上部に見張り台が設けられていたことが伺える。
この設計内容から、主郭の 3倍もの 面積(広さは約 3,300 m2)を有した東郭に配下の軍勢を駐屯させつつ、主郭と西郭の中枢部が司令塔となり城塞内の指揮を執る構図であったと推察される。その他の建物遺構は見つかっていないという

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さらに、南向い約 600 m先には シクノ谷峯構付城(上地図)や、その北西約 1 km先には 高木大塚付城(上地図)、さらに北西約 700 m先には法界寺山ノ上付城の多重土塁の遺構なども現存する。上地図の通り、ホースランドパーク内に立地しているらしい。その他、東約 800 m先には小林八幡神社付城、北約 900 m先には 八幡谷ノ上明石道付城(上地図)と羽場山上付城が、北東の三木山森林公園内には 三谷(鶯谷)ノ上付城(上地図)の遺構も確認されているという。

三木城の南に築かれたこれらの付城群は、総計約 4 kmに及ぶ多重土塁とともに三木城を包囲しており、毛利氏による 明石、神戸方面からの兵糧搬入や援軍の侵攻を阻止したものと考えられる。



再び、トラックが猛スピードで往来する峠道を急ぎ足で北上し(約 5分)、バス停「鶯谷」を越えて、先程の県道 22号線との交差点に戻る。そのまま県道を渡り、道路脇に長く連なる林の中に入ってみる(下写真)。

なお、当地が鶯谷という「谷」であったことは、この県道 22号線(旧あかし道)の西端に至る所でやっと判明することとなる。

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この道路脇の林部分はかなり長い尾根となっており、南北に谷間を抱える細長い地形であった。その南側を通る「あかし道」を監視する目的で、織田方の 陣城「八幡谷ノ上明石道付城」が複数の城塞に分かれて建造されていたわけである。

15分間ほど、一人で林の中を歩き続けた。東半分までは、眼下にゴルフ場や自動車道を眺めながら散策でき心強かったが(下写真)、西半分は完全に密林の中を一人で歩くこととなった。北側に向けて尾根が広がっている地形だった。

三木市 三木市

ゆっくりと下り坂が始まり、ようやく北側の出口に出たときには、本当にほっとした次第である(下写真)。

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眼下に整備された用水路には、一滴の水も流れていなかったのが印象的だった(上写真)。
どうやら、この尾根道の北面には山林公園が整備され、ピクニック広場や野鳥観察スポットなどがあるという(下写真)。その中に溜め池も複数、設けられており、その水量調整のための用水路のようだった。
後で知ったが、この山林公園内の キャンプ場(森のバーベキュー広場)エリアにも、陣城「三谷(鶯谷)ノ上付城」跡があるらしかった。下写真。

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さて、ここで県道 22号線(旧あかし道)の西端と合流すると、この南脇に渓流が流れているのを発見する(下写真)。きっと、先ほどの鶯谷辺りまで緩い渓谷が続いており、小鳥がさえずる山道だったことから、「鶯谷」と命名されたのだろうと妄想してみた。

三木市 三木市

なお、上写真の渓谷南に広がる丘陵斜面上には、別の 陣城「羽場山上付城」が建造されていた。まさに、あかし道を南北で挟んで通行を管理する体制であったことが伺える。


2代目将軍・徳川秀忠の治世下の 1616年、8万石の 信濃松本藩主・小笠原忠政(1596~1667年。祖父は 信濃守護・小笠原貞慶で武田信玄に敗れ信州逃亡後、代々、徳川家康に仕えた)が譜代大名として三木城主に着任する。このとき、三木郡、明石郡の 2郡12万石が与えられた。
赴任早々、幕府の命により、西国大名の目付として藩主居城を明石の丘陵部に移築することを命ぜられ、1619年に小笠原忠政は三木城から 明石・船上城 に移住し、築城工事にとりかかることとなる。最終的に 1623年までに三木城は解体され、その多くの部材が 明石城 へと転用されたため、三木城跡には井戸と石垣だけが残り、現在に至るという。

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その城郭資材の明石への運搬の際、それまでの街道筋が再整備され「あかし道」という専用道路となったわけだった。また城主以下、藩士や今までの出入りの商人、藩に必要な 工夫(技術者)、名医らが続々とこの道を通って明石城下への移住を果たしたという。その際、三木の魚の棚の商人が明石に移り住み、今の明石の魚の棚商店街ができたとも言われる。
同時並行して海岸沿いの 船上城 なども破却され、同じく多くの城郭資材が明石城へ移築されている。



そのまま県道沿いを西進すると、福井交差点を過ぎる。ここは広い交差点で、車の交通量も多かった。
さらに 西へ直進すると、県道 22号線は 20号線へと改称される。旧あかし道はこの福井交差点から住宅街へ入り込むこととなり、三木市のバス発着の中心である「本町」を通過している。下地図。

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筆者はそのまま県道 20号線を直進し、本町交差点にあったセブンイレブンで少々、食料品を調達した。そして、裏手にあった公共トイレで用を足す。その脇に交番があった。

その公共トイレの並びに、三木旧市街地区のバス発着の中心、バス停「三木 中町(三木 本町)」が立地していた(下写真左の中央)。明石駅 への帰路はここから乗車すべく、時刻表を確認しておく。
その向かいには尼崎信用金庫 三木支店 や 地元雑貨店「MEISEI 夢 SHOP」があった。バス停後方の茶色壁とガラス張りの 建物(下写真左の中央)は「かとう内科クリニック」。

三木市 三木市

その一つ北側の道路が旧あかし道だった(上写真左の中央に見える、緑屋根のショップ角)。
上写真右は、この交差点から見た旧あかし道。右手は、先ほどの「かとう内科クリニック」の駐車場。この旧街道沿いに大日如来堂が現存しており、創建年代は不明とされるが、三木町の街道筋を往来する旅人たちの安全を見守ってきたという。

その先の三差路から、右手の細い路地を進む(下写真左)。
途中、「あかし道 ダルマヤ」前を通過した(下写真右)。地元の 電気屋・家電販売店のようだった。
三木市 三木市

この 路地(「旧あかし道」に相当)は JAみのり(三木農協会館)前で、先程の県道 20号線と接続する。
ちょうど、この交差点向かいに江戸期の道標が残されていた(下写真左)。
 ひめじ道、左 あかし道」と記された道標は、民家の軒下にあり 分かりにくかった。

三木市 三木市

この三木農協会館前の交差点を東へ移動し、坂道を登っていく。別所長治公の首塚があるという雲龍寺を訪問し(上写真右)、ここから三木城内へ入る算段だった。

現在、三木市で最大規模を誇り当地の守護神社となっている「大宮天満宮」と同じ山麓の並びにある、月輪寺を通過する。その斜め前に、別所長治の首塚があった。若くして散った夫妻の墓所で、きれいに整備されていた(上写真右)。
当時、別所長治(23歳)、その 妻・照子姫(22歳)。 4人の子供たち、竹姫(5歳)。虎姫(4歳)。千松丸(3歳)。竹松丸(2歳)も皆、自刃した。

三木市 三木市

その脇には、三木城の外堀遺構から移設した石材を使ったという、石碑が設けられていた(上写真左)。
上写真右は、雲龍寺の土塀。三木城籠城戦当時、この雲龍寺も城域に組み込まれ、南端の最前線を構成していた。


この 雲龍寺(曹洞宗)であるが、村上天皇(第 62代目。在位:946~967年)の勅命により、 平安時代中期の 958年、慈恵僧正が創建したという古刹である。当時は天皇の勅願所に指定され権勢を誇ったが、その後、久しく廃絶することとなった。

時は下って鎌倉時代末期、播磨の 守護大名・赤松則村(赤松円心。1277~1350年)が当寺の古い起源を知り、これを惜しんで朝廷に再建を奏請し、許可を得て復興されたという。このとき、赤松則村は鎌倉幕府の 京都監視機関「六波羅探題」に出仕しており、朝廷との距離が近かったと推察される。再建された雲龍寺は、後醍醐天皇(第 96代目。在位:在位:1318~1339年)より高源山の山号を下賜され(1322年)、天皇の祈願所に再指定されることとなった。
1333年に鎌倉幕府が滅亡すると、建武の新政に不満をもった赤松則村は後醍醐天皇と袂を分かち、足利尊氏に味方していくこととなる

さらに時代が下って 1480年ごろ、時の 三木城主・別所就治(1502~1563年。別所長治の祖父)が異忠禅師を招いて再建し、規模を一新して禅寺として開山させたと伝えられている。
そして、孫の別所長治の治世時代、羽柴秀吉との間で三木合戦が勃発すると、総構えで大拡張された三木城南の最前線に立地したため、戦火により殿堂および伽藍はすべて焼失されてしまうのだった。
開城後の 1580年1月17日
、一族の最後を弔うために、雲龍寺七世の 住職・春泰禅師が、当時の 三木城主・別所長治の自害の席に招かれた際、長治は後事を禅師に託し、日頃から愛用していた「天目茶碗」と「唐子遊びの軸」を形見として贈ったという。
三木城開城後、西播磨攻略を目指す秀吉は引き続き 姫路城 を本拠地とし、三木城には城代として秀吉の 筆頭家老・杉原家次(1530~1584年。秀吉の叔父にあたる)が残され、当地の鎮撫を委ねられる。

杉原家次が死去すると、1585年8月に 中川秀政(1568~1592年)が入封し、三木城に天守閣が増築される。同時に秀吉は、復興されつつあった雲龍寺に境内周辺の山林と竹林、および三十石の寄進状、そして制札を下賜して保護した。その秀政も 1592年の朝鮮出兵中 に戦死すると、弟の 中川秀成 が跡を継ぐ(1594年まで)。その後は豊臣氏の直轄地となり、城番として 賀須屋内膳、福原七郎左衛門、福原右馬助、朝日右衛門大夫、青木将監などが入城した後、1598年に杉原家次の 子・長房(1574~1629年)が赴任する。杉原長房は城番として三木城に着任すると、早々に秀吉に願い出て、別所長治の首塚を安置する雲龍寺の大規模再建に着手するのだった。
1600年の関ヶ原合戦 では徳川方に組みした杉原長房が但馬豊岡藩へ移封されると、三木城は 播磨姫路藩主・池田輝政 の領地に組み込まれる。江戸時代以降も、代々の徳川将軍より御朱印状を交付され、雲龍寺は手厚い保護を受け続けた。こうして明治維新まで公寺に属し、特別に上位の寺格を継承できたのだった。

かつて三木城内にあって秀吉の兵糧攻めに遭い、城内の 藁(わら)まで食べたとの伝承に基づき、当寺では城主が自刃した 1月17日、毎年、藁にみたてた「うどん」を食べて当時を偲ぶ会が催されている


三木市

この雲龍寺の道路前には巨大な窪地があり、児童広場「喜春公園」として整備されていた(下写真)。上絵図に見られる通り、かつての堀跡である。籠城時は、溜め池となっていた。

三木城は、もともと大宮天満宮が立地する八幡山が北西へ延びる尾根の先端部分に築城されていたことが分かる(上絵図)。この丘陵斜面の台地を大規模に掘削していたのが、この堀切部分というわけだった。その堀切に水を張って溜め池と成し、先ほどの雲龍寺の土塀や石垣も防塁壁へ転用されていたわけである。

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すでに前年の 1579年9月9日の大規模な兵糧搬入作戦に失敗して以降、三木城内は飢餓状態に陥っており、翌 1580年1月6日には、八幡山上の出丸だった 宮ノ上要害(前述の、山麓に大宮八幡宮を有する山頂部。三木城 本丸の南約 640 m)が、秀吉の調略により陥落してしまう。

目と鼻の先まで秀吉軍が迫る中、同月 11日にはこの堀切や溜め池も突破され、 雲龍寺の東隣にあった 鷹の尾砦(三木城本丸の南約 370 m)まで強行占領されると、そのまま 新城(本丸東約 150 m)まで一気に攻略されてしまう。ここに至り、三木城は 二の丸、東の丸、など城郭の大半を喪失したのだった。下絵図。
ついに観念した別所長治は 1月15日、秀吉からの降伏勧告を受け入れ開城の意思を伝える。こうして翌々日の 1月17日、長治は幼児を含む一族共ども自刃を遂げたのだった。

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そのまま雲龍寺の脇を通過し、城内エリアに入ってみる(上絵図の赤矢印)。ほとんどが住宅街だが、所々に畑が広がっていた。

下写真左は、旧二の丸地区。アスファルト道のあたりに、かつて土塁と溜め池が連なっていた。その右端の高台には、鷹の尾砦(鷹尾山城)という出丸が構築されており、両者は堀切で区切られていたわけである。
下写真右は、道路脇にあった溜め池跡。二の丸を囲んだ溜め池群の残骸である。かつて集落全体を取り囲んだ総構え状態の三木城内には、複数の溜め池も含んでいた。

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前方に 三木町立実科高等女学校(1924年開校)の木造旧校舎が目に飛び込んでくる。旧校舎のしんみりとした佇まいが心を落ち着かせてくれる(下写真左)。この校庭の敷地が、かつての三木城 西の丸跡である。
現在、ここには「みき歴史資料館」と「堀光美術館」が開設されていたが、筆者の訪問したタイミングが閉館日だった。。。

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上写真右は、三木高等女学校の北面を、稲荷大明神の境内から見たもの。奥側は旧西の丸、手前側は旧本丸に相当し、この両者の間にあった堀切跡が道路として活用されていた(下写真左)。

下写真右は、山麓から稲荷神社の境内へ通じる石階段。この急勾配と高度が、往時の本丸の守備力を見せつける。なお、拝殿前の休憩所内には、三木城の遠景図や 別所長治の 弟・定治の奮戦図(平井山合戦)が飾られていた。

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稲荷神社の境内を北へ回ると、平坦な本丸跡地が広がっていた。現在、上の丸保育所を中心に、別所長治の銅像(下写真左)、ちょっとした山水を表現した 日本庭園、井戸跡(下写真右)などが立地し、上の丸公園として整備されている。また、自刃した長治の辞世の句を彫った句碑も保存されていた。
「今はただ うらみもあらじ 諸人の いのちにかはる 我身をおもへば」

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なお、この本丸に唯一残る井戸跡であるが(上写真右)、口径 3.6 m、深さ約 25 mを誇る大規模なもので、石を投げ込むと「カンカン」と音がすることから「かんかん井戸」と通称されたという。この井戸から城主・別所氏愛用の 鐙(騎馬にまたがった際に足を置く馬具)が出土したと伝承されており、先ほどの雲龍寺に大切に保存されているという。

本丸北面の真下には、神戸電鉄が通っていた(下写真)。
ちょうど、この北西面に階段があり、三木市街地を一望できた。下写真の山麓と美嚢川との間にある民家が建ち並ぶエリアが、かつて中嶋丸があった地区である。渡河してくる秀吉軍に対し前線基地を担った。
この美嚢川の対岸には、秀吉軍が長大な包囲陣地を構築していた。

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下写真は、美嚢川の上流方向、北面を遠望したもの。川中に見える上津橋までが、三木城の三の丸であった。
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かつて、眼下の線路や道路あたりに、溜め池を兼ねた水堀が掘削されていた。下写真は、北面の東側を遠望したもの。水堀を挟んで、広大な三の丸が立地していた。

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さて、本丸(上の丸)を後にし、この急階段を一気に下まで移動した。下写真左は、この急勾配の本丸斜面を見渡したもの。
下写真右は、西の丸跡あたりで見かけた新城跡の高台エリア。城内で最も標高が高い地点である。

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階段下に至ると、「湯の山街道」に通じていた(下写真左)。ここは江戸期、参勤交代にも利用された古い街道筋を中心とした旧城下町地区で、現在は悲惨なシャッター街が広がっていた。その寂れ様は、日本の地方都市の象徴のような場所だった(下写真右)。

なお、この「湯の山街道」とは平安時代から開通が始まった旧街道で、姫路 ~ 三木 ~有馬 ~ 京都 へ通じる主要道として、次第に確立されていったという。 当時、加古川を中心に海岸部の平野ではたくさんの湿地帯と大小さまざまな 沼地、河川が点在し、陸路の移動には不向きであった。このため、姫路平野から東へ 御着生石神社(高砂市) を抜け、山沿いに 神吉志方 を経て、 加古川 と美嚢川の合流ポイント辺りで渡河し、そのまま三木城下へとつながるルートが、水の弊害を避ける陸路として選択されるようになったわけである。
三木城攻めの折、秀吉は 姫路 との往来で幾度もこの街道を利用しており、また、傷の療養に効くという有馬の 湯(有馬温泉)を東から汲んでこさせ、兵卒のけが人らを療養させたと言い伝えられており、その際もこの街道が重宝されたことから、後に「湯の山街道」と呼ばれたという。

三木市 三木市

そのまま壊滅的なアーケード街を進んでいると、途中、上の丸公園にある稲荷神社へ通じる石階段の入り口があった(下写真左)。その脇に、かつての街道沿いから出土した石材が展示されていた(下写真左の右下)。
これらの石材群は 本町滑原(なめら)遺跡出土石列遺構と命名され、その出土現場は埋め戻された後、アーケード通りに舗装の色を変えて明示しつつ今日に残されている(上写真右の通路両脇)。これらは、城下町を貫く街道沿いに並んだ武家屋敷群の石垣の一部と考えられている。

その南隣には、本丸と西の丸との間にあった堀切跡から伸びる自動車道が通じていた(下写真右)。

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1962年に行われたナメラ商店街の水道管およびガス管敷設工事の際、金川毛糸店付近で一辺約 1 mの石列遺構が発見されたことから、本町滑原(なめら)遺跡と命名されることとなる。

さらに 40年後の 2002年1~2月の下水工事の際、仲上呉服店付近から三木商工共済会付近の約 90 mにわたり石列が発見される。一辺約 1 m大の石列と人頭大の石を 2~3段、積み上げた石列で、西側の面を意識的に揃えた状態で配列されていた。
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石列遺構の下層の焼土層から別所時代の三木城の瓦片が出土していることから、焼土層は三木合戦時のもので、石列遺構は三木合戦以降のものと考えられている。出土遺物は瓦片のほか、染付磁器片、白磁片など、戦国時代~江戸時代前期のものという。

江戸時代に描かれた「三木城地図(下写真左)」によると、ナメラ商店街付近は「殿町」と記されており、当地で発掘された石列遺構は、秀吉配下の 城代治世下(1580~1600年)もしくは、池田輝政時代(1600~1617年)の武家屋敷等の町割遺構と考えられている(下写真右)。

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そのまま道なりを直進すると、県道 20号線と合流する。その正面に三木市観光協会があったので、パンフレットなどをもらう。静まり返った案内所には 3~4名ぐらいの事務員がおられたが、訪問者がいても完全無視状態で、筆者が「市内にはレンタサイクルがありますか?」と質問すると、ようやく口を開いて「ないです」との回答だけだった。。。受付の女性らも含め、全く観光寄与のための業務改善努力も、訪問者への説明サービスも無く、全く無気力な「お役所」観光案内所だった。

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その案内所の裏手に旧玉置家住宅があったので、内覧してみる(入場無料。上写真左)。あまりに綺麗に 整備、保存されていたので、古民家というより、古い日本家屋の原寸大模型を見ているような気がした。上写真右は、明治期に増築された離れ部屋。渡り廊下の先が、江戸期から残る母屋となっている。

軽く内覧後、旧玉置家住宅を出て、裏手の土手から美嚢川を 臨む(下写真)。本当は、三木方が夜襲をかけ、秀吉方の 猛将・谷大膳を討ち取った「大村合戦の古戦場」や「平田山砦跡」を見たかったが、この日は歩き疲れて、川を渡ることができなかった。

三木市 三木市


三木町は 1747年~1842年の約 100年間、徳川家一門の譜代大名であった 上野国館林藩(今の群馬県館林市)の飛び地に組み込まれていた。その前は 播磨姫路藩明石藩 の領地であり、一時期、幕府直轄領となった後、1707年に 常陸国下館藩(今の茨城県筑西市)の飛び地領となり、そのまま館林藩の飛び地へ移行されたのだった。幕末に再び明石藩領に戻されることとなる。
その館林藩の治世下の 1780年代、三木町で金物業が勃興し、やがて大繁盛をはじめた頃、反対に館林藩は財政破綻の窮地にあった。この藩財政立て直し策として、三木町の金物の商取引に目が付けられ、金物の 切手札(商品券)を発行して金や銀と交換して稼ぐ「切手会所」が開設される。1823~1825年の準備期間を経て、中町に開設された会所であったが、翌 1826年に上町の土地を買い取り、正式に切手会所が新築されることとなる。この時に建設された建物が、現在に残る旧玉置家住宅という。当時の母屋ニ棟と土蔵一棟が現存している。

明治初期の 1875年、雲龍寺の第二十一世大器晩成大和尚がこの切手会所の土地建物を拝領すると、間もなく僧籍を去って還俗する。そのまま玉置姓を名乗ったことから、玉置家の住宅となり当地の名士一族となっていく。この玉置氏所有時代の 1885年以降、二階建て一棟 渡り廊下一棟、土蔵二棟が増築されていった。この工事は初代の玉置大器と、3代目・玉置福蔵により手掛けられたもので、その建物デザインにも歴史的価値が認められているという。

こうして江戸時代に建てれらた第一期の建物と、明治以降に増築された第二期の建物で構成された敷地全体が、 2001年に三木市に寄贈され、翌 2002年に三木を代表する 建築物(町屋)として、国の登録有形文化財に指定される。現在、火曜を定休日として、毎日 10:00~16:00、開館されている。

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なお、この 3代目・玉置福蔵であるが(上写真)、当地の名士として成功した人物で、 1893年、友人の 小河宗太郎(父・小河秀太郎は 2代目・三木町長を務めた。1893~94年)、宮崎新蔵(5代目& 8代目・三木町長を務めた。1900~06、1915~1916年)、北村久吉らと共に株式会社三木銀行を創設し、さらに 1911年には同メンバーらと共に、三木電燈会社も創立している。
また他方、公人としても活躍し、銀行創業と同年の 1893年に初めて町会議員となり、1897年以降、所得税調査委員、学務委員、郡会議員などを歴任した。 1906年7月~1914年7月の間、第 6代目・三木町長を務める。その後、政友会派の同志に推され県会議員にも当選した。
1915年9月、再び郡部会議員に当選し、その議長となると、兵庫県立三木金物試験場をこの三木町に誘致して地方産業の興隆を目指すべく、県当局を動かした功績は三木市で大いに賞賛されている。また 1927年、三木銀行と 三十六銀行(1878~1942年。本店は 東京。後に富士銀行、第一勧業銀行となっていく)の合併の際、旧三木銀行を代表して三十六銀行取締役に就任する。なお、三木銀行は最初、中町の宮文という八百屋の前に高砂屋という家があり、この家にのれんを掛けてスタートしただけの、資本金 5、6万円程度で創立された簡易なものだったが、その後、上町に立派な社屋を建てるに至る。この三木銀行跡地には、今も赤レンガ塀が残るという(上写真)。


三木市

その同じ県道 20号線沿いに、本要寺があった(上地図)。
三木合戦の際、戦火により城下町が焼土と化す中、当寺の本堂のみが奇跡的に焼け残っており、三木城方の開城意思が伝えられた翌日の 1580年1月16日、平井山の本陣を下って三木城下まで来た羽柴秀吉がここを本陣として投宿した、という場所である(下写真左)。翌 17日、城内の別所氏一族は自刃して果てるのだった
その後、当地で首実検を行い(そのまま雲龍寺住職が長治夫妻の首を貰い受け、寺脇に埋葬した)、三木地方を中心に東播磨の戦後処理を行った秀吉は、いったん全軍を引き上げて 近江・長浜城 へ帰還することとなる(1ヵ月の静養を経て 3月2日、再び、三木城へ戻り、続いて西播磨への侵攻作戦を再開していくのだった)。

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上写真右の「伊木豊後守の墓」とは、関ヶ原合戦 後に 播磨姫路藩(52万石)に封じられた 池田輝政 の 筆頭家老・伊木忠次(1543~1603年)の墓所を指し、1601年から播磨地方第二の城であった 三木城主(37,000石)を託された人物である。その後も播磨の国政に尽力するも、 1603年に当地で死去すると、自身が建立した 勝入寺(現在の正入寺。三木市本町 1-7-21)に葬られる。なぜ、この本要寺にも墓所が設けられているかは不明だった。


吉祥山・本要寺は、もともと天台宗の寺として開山されたが、鎌倉時代に日蓮宗に改宗して以降、今日まで継承される。古くから湯の山街道、ひめじ道あかし道 が分岐する市街地の中心部に位置し、門前の県道周辺も戦前までは寺の境内に含まれていたという。

戦国時代羽柴秀吉の三木城攻めの際、城下と共に境内も火災に見舞われたが、幸運にも本堂のみ戦災を免れることとなった。1580年 1月15日、三木城方が開城を決意すると、翌 16日、秀吉は平井山本陣からこの本要寺の本堂に本陣を移し、自刃した別所長治の首実検を行った後、焼土と化した三木地方の戦後処理を進める。その際、焼け残っていた当寺を三木城下の 16ヵ寺院の主席に命じ戦後復興に当たらせることとなる。
同時に、秀吉は各地に四散していた町民を呼び戻すため、三木を代々、免租地とする制札を建てる。これが三木を大工道具を中心とした金物の町として復興させる起爆剤となり、その制札が今も境内の市有宝蔵に大切に保存されているという。

ところが 1677年、徳川 4代目将軍・家綱の治世時代、全国の幕府天領に対する検地令が一律に発せられ、三木町内でも検地が進められることとなる。三木の町人達は代々、免租の恩典があることを奉行所へ申し出るも成果はなく、100年近く守られてきた恩典が取り消される危機に直面する。
不安を募らせた町民らは当時、集会所にも利用されていた当寺に結集し、会合の末、平田町の 大庄屋・岡村源兵衛と 大年寄・大西与三右衛門の二人が、三木町惣代として打ち首覚悟で 江戸 への直訴を決行することとなった。

翌 1678年、江戸入りした二人は、幕府の勘定奉行所の役人と度々、交渉して訴訟を継続し、昔からの慣例が調査させ、秀吉時代の制札や旧領主の折紙証文などの検分、播州巡検奉行に三木の古来の実情調査などが進めさせる。また、同時並行して、二人は 老中・酒井忠清(1624~1681年。酒井忠世の孫で、当時「下馬将軍」と称された幕府・最高実力者だった)の屋敷前で断食の座り込みを行うなど、強硬姿勢で臨んだ結果、酒井忠清ら 老中、若年寄、寺社奉行、目付、町奉行までが審議を繰り返す事態となり、同年末についに免租は継続、死罪も不問とされ、無事、三木の地に帰還することができたという。
三木の人々は大いに喜び、二人を 延宝年代(1673~1681年)の義民として地元の英雄と称えたのだった。

しかし 1707年、幕府直轄領から常陸国下館藩の飛び地へ領主変更が行われると、下館藩は三木町に再度、課税を試みる。この時、三木町の町人らは再度、団結すべきということで、集会所だった当寺の境内に「延宝の義民」二人を称える 顕彰碑「三木義民の碑」を建立し、下館藩との交渉にまい進することとなる。以後、毎年 7月18日に義民祭法要と 宝蔵虫干し(この宝蔵内に、今も秀吉の赦免制札や古文書などを保管中)が行われ続けているという。



さて、境内を出ると県道 20号線の先にあった本町交差点を南下し、先ほどの旧あかし道を経由して、かとう内科 クリニック前(交番横)の バス停「三木 中町」に帰り着けた。

明石駅 行の路線バスは 1時間に一本で、16:15のバスを待った(下写真)。本当に来るのかどうか半信半疑だったが、 3分ほど遅れて、三宮行の路線バスに続いて到着し、明石駅前に帰り着けた(約 1時間のドライブ。710 円)。

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なお、この三木市に関する最も古い記録は、播磨国風土記に言及された 億計(おけ)、弘計(をけ)2皇子の逃亡劇エピソードという。当時、猜疑心の強かった雄略天皇によって皇室の血筋が根絶やしにされる中、若い王子たちが地方へ逃亡した中で、この播磨国にも下野していたという。

また、現在の三木市の産業としては、全国一の生産量、品質を誇る 酒造好適米「山田錦」(酒米)の 主生産地(特産品)であり、三木の金物ブランドとともに当地の二大看板となっているらしい。その他、生食用のぶどう産地としても県下第一位を誇り、いちごや黒大豆の栽培も盛んという。


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