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訪問日:2017年2月上旬 『大陸西遊記』~


日本兵庫県加古川市 ~ 加古川市人口 27万人、兵庫県全体 一人当たり GDP 289万円


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  【志方城】観音寺城とも別称された大規模な平城
  【志方城】観音寺、志方小学校周辺に残る城の遺構
  【豆知識】志方城 ■■■
  【天神山城】標高127メートルの登山ルート
  【天神山城】山頂の本丸跡と見事な眺望~瀬戸内海を一望
  【豆知識】天神山城 ■■■
  【中道子山城】標高271mの東播磨最大の山城とその過酷な登山道
  【中道子山城】本丸からの眺望と加古川河口
  【中道子山城】城の全景図
  【中道子山城】米蔵跡と今も水をたたえる井戸跡
  【豆知識】中道子山城 ■■■
  【神吉城】かつての本丸跡地、神吉神社
  【神吉城】最後の神吉城主・神吉頼元の墓所
  【豆知識】神吉城 ■■■



下写真にある、室町期の加古川の河道跡を見てみると、平野部一帯に根を張るように河川や池、沼地、湿地帯などの水脈エリアが広がっていたことがわかる。
その中央部分に、西国街道と浜国街道が通っていたわけである。複数に渡って横たわる河川部分には橋が敷設されることはなく、船渡し業が発達し、これにあわせて、街道沿いには宿場町や船人夫らの集落地が形成されていったと推察される。

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これらの各集落地を統括する徴税役所を兼ねた城館なり要塞が、それぞれの地の有力領主らによって築造され出し、これが防衛施設も兼ねた加古川城や野口城、松原構居、安田構居などであったと推察される。
いずれも、川岸沿いのやや高台上に築城されており、一帯の政治、軍事、経済を管轄する集落の中心を成していたのであった。上地図の通り、各河川ごとに、いくつもの居城や城塞があったことが読み取れる。

古代より、加古川は度々、氾濫を繰り返し、これらの集落地や城塞は、その都度、水没したり、河道が変わって交通不便となり廃村となったり、 もしくは、新集落が形成されたりを繰り返したと考えられ、 それが故に、地縁、血縁で結びついた地元コミュニティ集団ごとに領主が奉じられ、 多くの城館らが割拠する状態が続いた一因になったと考えられる(上地図)。


観音寺城(志方城)

播磨国印南郡(現在の兵庫県加古川市志方町)一帯を統括したのが、観音寺城(志方城)であった。
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城域は現在の観音寺の境内を本丸とし、本丸を囲んで内堀が掘削され、その外側に二の丸(志方小学校所在のあたり)と西の丸(二の丸会館【旧志方町役場】一帯)が設けられるという、広大な面積を有する城郭だったことが分かる。下地図。

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本丸の周囲には内堀が配され、その東から北に二の丸、西から南側に西の丸があって、それらの外は沼地を利用した外堀が設けられていたとされる。
現在 でも、観音寺の境内と小学校の一帯は、やや高台になっていることが分かる。下写真。

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さらに、視野を小学校外まで広げてみると、外に広がる田畑との間でも、明確な段差が存在していることが伝わってくる(上写真右)。

観音寺の西側には、わずかに土塁と空堀の跡が残っていた。竹藪の中が急峻な斜面になっていることが分かる(下写真左)。

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志方城 8代目城主であった櫛橋伊定(豊前守則伊)の次女”光”が、筑前福岡藩祖・黒田孝高の正妻であることは有名だ。

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二人は政略結婚であったが、夫婦仲は非常によく、結婚後の翌1568年に長男の松寿丸(後の長政)を授かっている(妻15歳、夫22歳)。黒田孝高は戦国大名では珍しく、側室を抱えず、一夫一妻を貫いた。


志方城主 櫛橋(くしはし)氏は、古くから播磨守護・赤松氏の家臣で、室町幕府を開いた足利尊氏や嘉吉の乱、応仁の乱などで赤松氏とともに栄枯盛衰を経験する。

6代目当主の櫛橋則伊が、1481年ごろに先祖代々の居館・天神山城の修築工事を試みるも、山上の井戸は枯れてしまい、続く 7代目当主・櫛橋則伊が、1492年に天神山城の麓の平野部に広がる湿地帯の高台に新たに城郭を建造して、志方城が誕生したとされる。

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そして、9代目当主の櫛橋政伊の治世下、秀吉による三木合戦に巻き込まれたのだった。
1578年3月に加古川評定で決裂した三木氏に組し、反織田で結束した血気盛んな東播磨の豪族衆は、秀吉軍への夜襲で先制攻撃を計画する。

まず、3月末に秀吉の先発隊が 三木城 下に達し、続いて 4月初旬、秀吉本軍が到着する。その当日の深夜に夜襲戦が決行されることとなり、志方城の櫛橋政伊も手勢を引き連れて参加する。
三木城の別所長治は家臣の三宅治忠に指揮を命じ、野口城主の長井四郎佐衛門、高砂城 主の梶原景行、神吉城主の神吉頼定、志方城主の櫛橋政伊らと協力して、秀吉軍を急襲させたのだった。漆黒の闇の中、松明に火もともさずに各部隊は三木城へ向けて進軍し、三木城内の三宅治忠が羽柴秀吉の在陣する大村坂の本陣へ急襲をしかけると、全軍一気に四方から総攻撃をかけ、別所軍は大勝を収める。

秀吉はいったん姫路の 書写山 まで撤退し、体制建て直しを図る。
そんな折、西播磨の国境にあった上月城を毛利軍が包囲するという挟撃のピンチに陥った秀吉は、信長に援軍を求め、5月、織田信忠率いる織田本隊 30000が播磨入りすることとなった。

信忠は 三木城 の支城群へ各軍を派遣し、野口城、高砂城、神吉城(7月16日)などを陥落させていった。
志方城にも、8月初旬に織田信雄の軍が襲来し包囲する。城外で幾度かの戦火を交えた後で、多勢に無勢とあって、1578年8月10日、城を開城し、城主の櫛橋政伊は自害に追い込まれる。

以後、志方城は廃城とされ、戦後の1587年に、宝岩宗珍和尚が城主の墓碑を守るために城の本丸跡に禅寺を建立したのが、現存する観音寺の起源という。
後に黒田家が秀吉政権下で台頭すると、櫛橋家の親族や配下の残党らが召しかかえられ、福岡へ移住したという。



天神山城

麓の志方城(観音寺城)跡から北へ5~10分に位置する。
ここは、国道118号から西へ入って、村内の路地を北へ右折するなど、ちょっと迷路みたいなルートをたどる必要がある。

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山麓には、稲荷神社が設置されていた(下写真左)。登山道は、東西に二つある。
筆者は、東側から登山し、帰りは西側から下山した。山はそれほど高くはなく、10~15分程度あれば、十分に頂上に到着できる。
西側の登山ルートには、築城主の赤松氏範を記念する石碑が建てられていた(下写真右)。

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山頂(標高127メートル)に近づくにつれ、巨大な石材が所々に散らばっているのに気づく。山頂には、人の手によって加工された石材がいくつも散らばっていた。人工的に整備された山頂部のみが城塞エリアとなっていたのか、四方には急峻な斜面が広がっていた。

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山頂からの景色はすばらしい。高砂市の海岸部に広がる工場群を一望できる。下写真。

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下写真左は、志方城側(南側)から見た天神山城。
下写真右は、北側から見たもの。天神山城の峠を超えると、その真正面には巨大な城山(中道子山城)が控えているのだが、その間に法華山谷川(生石神社へ続く)が流れていた。

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足利尊氏 を助け、室町幕府の成立に大功績を挙げた赤松円心(1277~1350年)は、播磨・摂津の2国を領有する大々名となり、その領地を5人の息子たちに分与する。一男の範資(のりすけ)、二男の貞則(さだのり)、三男の則祐(そくゆう)、四男の氏範(氏則・うじのり)、五男の氏康であり、この天神山城は四男・氏範(1330~1386年)が築城したと伝承されている。

しかし、父円心の死後、三人の兄たちと不和となった氏範(氏則)は、南北朝時代の混乱を反映し、北朝方の兄たちと反目して、南朝方に組し、度々、戦闘を交えることとなる。一度は、北朝方へ帰順し、兄たちから許されて播磨国へ復帰するも、再度、南朝方として挙兵に及び、最終的に則祐の子の義則に攻められ、氏範は播磨国の清水寺(兵庫県加東市平木)まで追い込まれ、父子5人、郎党137人とともに自刃して果てたのであった。

天神山城は、ちょうど赤松氏範が南朝方へ再度、寝返ったときに、北側にある中道子山城と共に築城されたものと推察される。

戦闘終了後、この2城は赤松則祐の有力家臣である櫛橋氏に与えられるも、山頂井戸の水不足が深刻となると、平野部に志方城(現在の観音寺・志方小学校の一帯)が築城され、 1492年に転出することとなる。

秀吉による志方城攻撃の際には、平城の志方城の後詰めとして、天神山城と中道子山城などの外部陣地が活用されて織田方と対峙したと推察されるが、多勢に無勢の中、城外の陣地は次々に制圧され、志方城に籠る9代目当主の櫛橋政伊も最終的に降伏・自刃したのだった。



中道子山城(志方の山城、赤松城)

地元では「城山」と通称される巨大な山である(標高271m)。

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山麓の登山口から、頂上まで1.9kmという看板(下写真左)。ここから徒歩で登って、ちょうど30分かかった。
登山道は、途中から二手に分かれる。一つは旧登山道。もう一つは整備された緩やかな登山道。前者は、相当に急峻な崖路なども併設されており(下写真右)、ここを武器や食糧、軍馬を担いだ兵士らが往来したかと思うと、その苦労を思いやられる。

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なお、城山の山麓になった安楽寺であるが、かつて城山の山頂にあったが、 1380年前後の築城にあたり、山麓へ移築されたという(下写真左)。
城山の山裾には、巨大な太陽光パネルが張り巡らされており、城跡見学の感動をすべて上塗りするぐらいに、その光景が脳裏に焼き付いた(下写真右)。

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登山途中で、石垣の残骸みたいなものを発見(太陽光パネルと旧山道との間あたり、泉水が登山道に接触していたポイントで)した。あれは、旧参道の位置口に構えられていた城門か櫓台跡だったのではないかと、思うのだが、真偽は不明だ。下まで降りるのは、やや危険な急斜面だった。。。下写真左。

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筆者が登山した、2017年2月中旬現在、ちょうど登山道の傍らにモノレール線路を敷設工事中だった(上写真右)。中腹まで、途中のアスファルトの道が続き、そこからの登山道にモノレールが。。。。以前の山道の70%を占有してのレール敷設だが、誰が使うのだろうか。。。。と思ってしまった。。。この急な勾配地にせっかく建設したので、思い切って、史跡を使った ジェットコ-スター として売り出してみると、名所になり得るかもしれないが。

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上写真左は、本丸跡の石碑「赤松城跡」。
山頂からは、明石大橋、淡路島、高砂市や加古川市の海岸エリアまで見渡せた(上写真右)。

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ちなみに、加古川の河口部からでも、この「城山」は視認できる(上写真)。

この 本丸エリア は、城郭の北東部を成し、南に二の丸、西に三の丸を配する構造になっていた。

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本丸のすぐ下は 米蔵 が配され、食糧貯蔵のためのエリアだった。ここの土塁が最も保存状態がよかった。外枠は土塁で、内面は石積みだったようだ。下写真。

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下は、本丸と三の丸との間にある、搦め手(裏門)の部分。その下は急峻な坂となっていた。
ここに井戸跡が保存されていた(下写真左の左端の金網)。
中は、うっそうと草木に埋もれており、内部の視認不能(下写真右)。

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なお、二の丸と大手門との間の下の方にも井戸跡があり、ここはまだ水をたっぷり湛えていた。かなり急峻な坂道を下り(下写真左)、その下に隠し井戸のような形で、岩下に設けられていた。井戸というより、ため池という印象を受けた(下写真右)。

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三の丸の北側は、山の尾根を二本の堀切で切断していた。下写真の左手。

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ここの城跡は、見学に総計1時間半を要し、かなりの時間と体力を費やしたが、山頂で目にする巨大な遺構の存在は、その疲れを忘れさせてくれる余韻をもらえる。


天神山城 とほぼ同時期に築城されたと考えられている。
赤松氏範(氏則)が北朝方から南朝方へ寝返ったとき、北朝方の追討軍に対抗すべく籠城するも、突破され、最終的に北へ30kmほど行った播磨国の清水寺(加東市平木)へ落ちのびるも、完全に包囲されて、父子5人、郎党137人とともに自刃して果てたのであった。

その後も、播磨国の赤松氏の主たる居城の一つとして使用され、また適宜、拡張工事が施されていったようである。大永年間(1521~27年)には、大規模な山城として整備されるも、一度、火災により焼失した後、さらに拡張され、再工事が施された後、現存する姿となったという。

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本丸、二の丸、三の丸から構成され、東播磨で最大の約 66,000m2の広さを有する。
山城跡には、秀吉軍の城攻めの際、斜面に竹の皮を敷いたが火を放たれ、兵糧米を巻いて鎮火に努めたものの落城に至ったという伝説、また、坂の上から鯛をかかげて食糧があると見せつけたなどの伝説がある。
本丸は標高271mの山頂にあり、土塁囲いが現存する。

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二の丸には、大手門と櫓門が設置されていた(上写真)。大手門は四脚門の構えを持つ山城最大の門であった。
櫓門は本丸への通路に二箇所、設置されていた。
この山城跡は築城後、170年間、使用されており、近世城郭へと移行する過渡期の姿を残している歴史遺産と指摘されている。



神吉城

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JR宝殿駅の北東 2kmに位置する常楽寺が、神吉(かんき)城の本丸跡とされる。
北側からの緩やかな丘陵斜面が広がる平野部のど真ん中に築城されていたようである。

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常楽寺の南面は、結構な段差になっており、かつての本丸郭の威厳が偲ばれる(上写真左)。
この北面には(上写真右)、土塁跡が残されていた。
下写真左の緑地の部分は、土盛りの跡が感じられる。

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境内に安置されている最後の神吉城主 神吉頼元 の立派な墓所は有名だ(下写真左)。 織田方の猛攻を耐え切るも、内部の裏切りで落城し、戦死した。
下写真右は、境内にて絶妙に保護処理されていた松の老木。何やら、『北斗の拳』に出てくるジャギを思い出してしまった。

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かつて、常楽寺の北側に二ノ丸、東側から南側にかけて東の丸、西側に西の丸が設けられており、かなり広い城域を有したようである。また、一説によると、本丸内には天守まで建設されていたとも言われる。


築城は、足利幕府治世下の南北朝時代と指摘されており、神吉氏が当主として最初から居城を構えたという。
この神吉氏は、東隣 3kmに位置した 三木城 主・別所氏とは代々、赤松家家臣の関係で繋がっていたため、加古川評定後、三木方に組して、反織田で挙兵する。 この時の城主は、神吉頼定(民部少輔)であった。別所長治が援軍として派遣した梶原景治、柏原治郎右衛門、黒田若狭守、中村壹岐守らと共に兵1,800余りで籠城戦を開始する。

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1578年5月、畿内より織田本軍が播磨入りし、そのまま総大将・織田信忠は、織田信孝、織田信包、明智光秀、荒木村重、筒井順慶、脇坂安治、佐久間信盛ら30,000余りの軍勢で神吉城を包囲する。
半月近くの間、籠城戦を展開するも、織田方の佐久間盛隆が神吉頼定の叔父・神吉貞光(藤太夫)を内応させ、神吉貞光の守る西の丸の城門を開けさせると、羽柴秀長、蜂屋頼隆、佐久間信盛らの軍勢が一気に城内に侵入し、その混乱の最中に、神吉頼定は神吉貞光によって謀殺される(7月16日)。

こうして神吉城が落城すると、そのまま廃城とされる。神吉頼定の子の神吉長右衛門は、その後、黒田孝高に仕えた。

南に位置した志方城(8月10日)も開城・陥落すると、三木城 の戦意は大きく削がれることとなった。



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