BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2020年1月上旬 『大陸西遊記』~


兵庫県 三木市 ~ 市内人口 8万人、一人当たり GDP 289万円(兵庫県 全体)


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  三木城の 本丸跡へ
  三木城の裏山の 大宮八幡宮
  平井山本陣跡
  別所長春の菩提寺 と 首塚
  竹中半兵衛の 墓
  大村合戦の古戦場跡 と 谷大膳の墓
  教海寺 (美嚢川支流の脇川の上流に位置する)



~ 秀吉の播磨平定戦 と 三木合戦 ~

1573年4月、武田信玄が上洛途上で死去し、室町幕府 15代目将軍・足利義昭が合作して構築した信長包囲網が破綻をきたすと、織田信長は即刻、同盟勢力を形成した 朝倉義景(一乗谷城主)、 浅井長政(小谷城主)三好長逸(芥川山城主)らの個別撃破を進め、自身を裏切った松永久秀を 1577年10月に自爆へと追い込み、 畿内の平定戦を着実に進めつつあった。
残る敵対勢力は、石山本願寺 に籠る顕如の率いる一向宗と、中国地方の 大々名・毛利氏 のみを残すだけ、という段階へ移行していく。

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1577年10月23日、織田信長(43歳)は満を持して、羽柴秀吉(40歳)を中国方面軍の総司令官に任じ、美濃、尾張から兵 13,000を動員して、播磨国への侵攻を開始させる。

 ※ 当時の播磨国は毛利方と織田方との二面外交を展開して、やりくりしていたが、
   以後、いよいよ白黒はっきりさせることを求められるようになる。
   織田氏と 毛利氏の戦国二大勢力 は一触即発の局面に達していた。

 ※ 1570年、12歳で家督を継いだ別所長治は、父の実弟であった別所吉親と
   別所重宗(1529~1591年。3兄弟の末弟。三木合戦に反対し、最終的に秀吉方に付く)
   の補佐を受けて政権を運営中で、別所重宗 主導の下、近畿に大勢力を築きつつあった
   織田信長に早くから帰順していた。1575年7月1日、長治は 京都の相国寺 で織田信長
   と初めて拝謁している(17歳)。
   このとき、信長は別所長治の 播磨東部(八郡)の領土を安堵する。

 ※ 1575年10月20日夜、別所長治、小寺政職、浦上宗景、赤松広秀(播磨龍野城)が
   京都 の妙光寺にある信長の投宿先を訪問し、拝謁する。下地図。
   別所長治にとっては、二度目の会見となった。

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 ※ 1575年11月12日~翌 1576年正月にかけて、播磨の東西で対立する別所長治と浦上宗景は
   幾度となく、京都 の信長が投宿した二条の妙覚寺で会合を持つこととなる(上地図)。
   信長は両者の調停を成立させるも、後に破談する。
   このとき、別所長治は 太刀一つ、馬一匹、高級織物三枚を、信長から下賜されている。


播磨守護・赤松氏は平安時代末期の 1157年、 赤松氏の庶流であった 別所頼清(播磨国別所村の豪族)を 三木へ移住させ、京都へ通じる街道筋の守備に当たらせたことが、 三木・別所氏の始まり、とされる。彼を初代として以後、400年以上 もの間、別所氏が三木地方を支配することとなるのだった。 着任早々に、頼清は三木城を築城したと考えられている。
当時、京都と山陽道の交通は、 有馬 ~ 三木 ~ 姫路を経る主要道が完成されていたので、 この街道筋を抑える役割を重視する選地となっていた。

時は下って室町時代、赤松満祐(1381~1441年)が、6代目将軍・足利義教 を私邸に招き殺害する「嘉吉の乱」 が勃発すると(1441年6月)、別所祐則もこれに加担したため、山名軍により三木城を 追われたが、祐則の 子・則治(?~1513年)が、赤松の遺臣たちと計って播磨から山名氏を 追放し(1488年)、東播磨 28万石の領主として別所家を再興、1492年に以前の拠点跡に 山城を再建し、以後、88年もの間、東播磨に君臨することとなる。

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すでに 1577年5月7日より、毛利輝元 と織田信長は断交状態にあり、7月15日には、 毛利水軍 が摂津国の木津川の河口で織田方の水軍を撃破し、そのまま 石山本願寺 に兵糧を運び込むことに成功していた。 この頃、毛利氏と織田氏との間では、すでに戦端が開かれていたわけである。

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1577年9月、信長が別所長治に中国征伐の先鋒を命じ、10月、総大将の羽柴秀吉と共に 京都 から出陣後、播磨の姫路城 に入城させる。
10月28日、秀吉、播磨の国人衆より人質を集める。

11月上旬、丹馬国の 岩洲城(朝来市)、竹田城(朝来市)を占領する。

11月28日、秀吉、配下の竹中半兵衛と 黒田官兵衛 を、毛利方の宇喜多直家に属する 福原城(佐用郡佐用町)攻略へ派遣する。12月1日陥落。
11月29日、秀吉自ら、備前・美作国境に近い毛利方の 上月城(佐用郡佐用町)へ向かい、 12月3日、占領に成功する(第一次上月城の戦い)。尼子勝久・山中鹿之助 を守将に配置する。 尼子家の再興を目指す尼子勝久軍 は、同月中に、さらに毛利方の 利神城(佐用郡佐用町)を攻略する。

12月5日、秀吉、龍野城(龍野市)を攻撃し、開城させる。
この時点で、秀吉は播磨一国を平定、帰順させたことになり、 いったん 近江・長浜 の自領へ引き上げることとなる。

1578年1月1日、秀吉、安土城 での信長主催の茶会に参席する。
2月23日、播磨国の西側に君臨する毛利征伐を企図し、秀吉は再度、播磨へ向けて出発する。

3月7日、加古川城 に入城する。
加古川城内の糟谷氏の屋敷に播磨エリアの豪族たちを集め、播磨武士たちを先鋒として活用し、本格的な毛利領侵攻の 作戦を進めるべく、軍議を開く。
しかし、秀吉の傲慢な態度と卑しい身分的背景、織田方の人質要求や先陣強要などの強引さから、別所長治の代理で参席していた別所吉親が不満を爆発させ、 そのまま 三木城 へ帰ってしまう (それまで別所氏の外交を担っていた実弟の別所重宗は、すでに別所家内での立場を失っており、 次兄の別所吉親の主張が通ってしまったと考えられる)。
世にいう、加古川評定 である。

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怒り心頭で帰国した別所吉親の説得により、当主の 別所長治(21歳)は、織田方から離反し、本願寺・顕如(36歳)や 毛利方と共闘することを決意する。すぐに毛利方との連携が確認され、秀吉に対しては 毛利方との交戦準備のためと称し、三木城 と支城の防衛ライン強化のための土木工事に着手する。
同時に、別所氏は、東播磨一帯の国人、豪族らにも檄を飛ばし、反織田での挙兵を勧誘していく。 同時に、各城の防備体制の強化を促すのだった。
さらに、織田家に臣従していた 丹波国・八上城主である 波多野秀治(妹が別所長治の正室となっていた)をも、信長陣営から 離反させることに成功する。そもそも、波多野家と毛利家は 親族関係にあり、もともと毛利侵攻には消極的な立場でもあったわけである。

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この時、秀吉はまだ 三木城 を巡る戦争の困難さを認識していなかったようで、この機会に、東播磨の土豪勢力を一掃し、直接支配体制の強化を図ることを計画していた。

当時、羽柴秀吉は本陣を 御着城 に置き、播摩以西への侵攻作戦を指揮する予定であったが、 東播摩の三木氏らが挙兵したことから、在地勢力を距離を置くこととした。 こうして黒田官兵衛の建策を受け、小寺氏の御着城から出て、姫路平野の北端に立地する 書写山円教寺 へ 本陣を移転させるのだった。この時、まだ瀬戸内海の制海権は毛利水軍が 抑えており、海岸線から距離をとる意図もあったと考えられる。

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この間、東播磨の各支城の豪族たちが一族郎党を引き連れて、三木城 へ集結しつつあり、その総兵力は 7,500にまで至ったとされる。同時に、 東の大塚から西の高木まで延々 4 kmに連なる 山岳、峡谷、河川などの急峻な地系を利用した防衛網が構築され、三木城を中心とした巨大要塞ネットワークが出現することとなる。
さらに、その外周部には 神吉城志方城高砂城野口城、端谷城、衣笠城、渡瀬城、淡河城 などの各支城が、相互に 連携&支援し合う体制を整えたのだった。

3月22日、別所方へ同調していく東播磨の 国人、土豪らの説得に失敗した 黒田官兵衛 に対し、直接、織田信長が別所長治の成敗を命じる。

3月29日、羽柴秀吉の軍が、別所長治の三木城下に押し寄せる。
到着早々、秀吉軍は 三木城 城下の集落一帯に火を放ち、あわせて、周囲の地勢調査に着手する。
その防衛ラインの堅固さから、速攻での攻略が困難と判断し、実弟の羽柴秀長を監視役として兵 3,000と共に滞陣させ、自身は再び 書写山 に戻る。
秀吉は残りを率いて、周囲の支城群を個別制圧していくこととした。

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三木城側は城外へ打って出て、寡兵の秀長の本陣襲撃計画を立てるも、秀吉不在の中での攻撃は無意味と、別所吉親により制止される。
代わりに別所長治は、4月1日、別動隊を派遣して、別所氏の協力要請を拒否して織田方に組し続けた、公卿・冷泉為純の父子が籠る嬉野城を攻撃し、これを占領後、冷泉為純 父子を処刑する。

4月2日、この援軍にかけつけた秀吉軍が大村坂に着陣した当日夜、三木城 より撃って出た別所方の 1,000余りの精鋭軍と、その外部の 援軍(第一陣は 志方城 城主の櫛橋伊則、二陣は 野口城 城主の成井四郎左衛門、三陣は 神吉城 城主の神吉頼定、合戦奉行は 高砂城 城主の梶原景行がそれぞれ司った)らも加わった、大がかりな夜襲攻撃を受ける。
日中の移動で体力を消耗していた秀吉配下の兵士らは全く戦闘準備もなく、挟撃を受ける形となり潰走する。
再び、姫路 まで撤退した秀吉は、三木城攻撃のための拠点として、平井山に陣地の構築を決定する。
こうして、竹中半兵衛によって考案された長期戦の兵糧攻めに切り替えることとなった。

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4月3日、秀吉側は別動隊を派遣し攻撃した 野口城(加古川市)でも撃退される。再び、軍勢を整えて、城外の湿地帯を草木や土俵等で埋めて行き、 三日三晩の作業を続けて、ついに城外の湿地を埋め果てられて、 丸裸ったとなった城内は戦意を喪失し、4月6日、守将の長井四郎左衛門は投降を願い出る。 秀吉は、前年より面識のあった長井らの 三木城 へ逃走を容認する。

同時に、同じく 加古川下流域に位置した 高砂城(城主は 梶原景行)を包囲するも、毛利氏の水軍との挟撃を受け、秀吉軍は惨敗する。その後も引き続き、7月まで対峙し続けることとなった。

4月18日、吉川元春(48歳)小早川隆景(45歳)、毛利と同盟関係にあった備中の 宇喜多直家(49歳)の連合軍の総計 3万が、大亀山に着陣し、尼子勝久の籠る上月城を包囲する。

4月24日、秀吉は信長に救援を要請し、信長は自ら出陣しようとするも、家臣団に反対され、長男の織田信忠ら一門に播磨出陣を令じる。
4月29日、まずは、滝川一益(50歳)、明智光秀(50歳)、丹羽長秀(43歳)、佐久間信盛(50歳)、長岡藤孝(44歳)らベテランの重臣たちが、先発隊として播磨へ出陣する。

5月1日、続いて、織田信忠(21歳)、信雄(20歳)、信孝(20歳)、信包(35歳、信長の実弟)ら織田家の一族が、尾張・美濃・伊勢 3ヶ国の兵 3万を率いて、播磨へ出陣する。

5月4日、羽柴秀吉(41歳)は、摂津国の荒木村重(43歳)と共に、高倉山に滞陣し(兵力 1万)、上月城攻撃の毛利軍と対峙するも、多勢に無勢であったため、秀吉軍は直接的な軍事行動が起こせず、双方、にらみ合いとなる(上月城の戦い)。

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5月6日、織田信忠勢、大久保(明石市)に着陣する。
滝川一益らの先陣部隊は、三木方の 神吉城志方城高砂城 攻略をにらみ、加古川城 下に野営する。

6月16日、秀吉自ら上月城戦線より急遽、京都 へ上洛し、直接、信長の指示を仰ぐ。
信長は、劣勢の上月城を放棄することを指示し、先に神吉城、志方城などの支城を攻略し、三木城 を占領して、東播磨安定化の最優先を命じる。

6月24日、信長の命令に基づき、羽柴秀吉、荒木村重ら織田勢が、高倉山より撤退を開始する(上月城の救援を放棄)。
同日、秀吉、書写山 に戻る。その足で、織田信忠の神吉城 攻め(6月27日~7月16日)に合流する。

7月5日、上月城、落城。城主の尼子勝久と尼子氏久は、毛利方に開城し切腹して果てる

7月20日、織田信忠、神吉城 を攻略。

同月、高砂城への攻撃を 開始(10月18日、落城。秀吉、高砂城に呼応していた 鶏足寺【今の姫路市内にあったが、廃寺】を焼打ちにする)
高砂城主の梶原景行は多勢に無勢にて勝算なしと見て、包囲を突破し、城兵を 三木城 へ避難させ、自身は刀田山の 鶴林寺 へ逃走、匿われたとされる。最終的に発見されず。

8月初旬、織田信忠、志方城 への攻撃を開始し、8月10日、開城させる。そのまま三木城攻略に取りかかる。
8月16日、織田信忠は、堅牢な三木城の早期攻略は不能と判断し、平井山(三木城本丸の東北東約 2.8 km)を含む、四方に付城の建造し、自身はそのまま播磨から帰京する。
直後に秀吉が、本陣を 書写山 から平井山へ転入する。

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10月15日、秀吉、平井山の本陣で茶会を催す。津田宗及が招かれる。

10月17日、上月城の見殺しに多い動揺した 荒木村重(43歳)は、足利義昭、毛利氏、本願寺顕如と通じて、信長に反旗を翻す
摂津国の荒木村重の謀反により、播磨に展開中の秀吉軍は挟撃の危機に瀕する。

10月22日、荒木村重の反乱に呼応して、別所治定(長治の実弟)が、秀吉の本陣の平井山を攻めるも、羽柴秀長 配下の樋口彦助政武に討たれる(平井山の戦い)。

11月9日、信長、諸将を率い村重討伐のため摂津へ出陣する。
11月10日、秀吉も 村重方の 高槻城(高槻市)攻略のため郡山(茨木市)に着陣する。高槻城の高山右近が織田方に帰順する。

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この頃、荒木村重に呼応して反信長で挙兵し、毛利方に寝返った 小寺政職(49歳)は、 美嚢郡、飾東郡、印南郡などから一族を招集して、居城である 御着城 に立てこもる。

 ※ 家老で、親織田派の筆頭であった 黒田官兵衛 は荒木村重の有岡城の牢に
   投獄されており、直接、主君・小寺氏の離反を止められなかった。
 ※ 当時、御着城の城域は広大で、別所氏の三木城三木氏の英賀城 と並び、
   播磨三大堅城と称されていた。

12月11日、織田信長、荒木村重の籠る有岡城 戦線より、至急、秀吉を播磨戦線へ送り返す。
佐久間信盛、明智光秀、筒井順慶 も同時に播磨へ派遣し、荒木村重と同盟関係にある三田城や 御着城 への圧迫を強化させるべく、 三木城包囲軍などに 兵糧、弾薬、武器類などを補給させる。

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1579年2月6日、再び、別所軍が平井山の秀吉本陣へ攻撃を加えるも、失敗する。

4月12日、織田信忠、信雄、信孝、信包らの織田一門が有岡城戦線から再び、三木城 へ転戦する。 到着早々に、追加で新しく付城が築城される。
4月26日、織田信忠、三木に 6ヶ所の付城建設を命じ、ついでに小寺氏が籠る 御着城 を攻撃する。
4月28日、信忠、荒木村重 の領地であった 有馬郡、野瀬郡を攻撃する。
4月29日、信忠、信長本陣の 古池田(池田城跡)へ帰陣し、播磨の戦況を報告する。
そのまま信長は、信忠の 岐阜 帰国を許可する。

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5月25日、秀吉勢、三木方の 丹生山砦(神戸市)を攻め落とす。下地図。

 ※ 当時、毛利水軍は海路より、兵庫港へ陸揚げ- 花隈城(神戸市)- 丹生山 - 淡河城 -
    三木城 の運搬ルートを確保していたが、このときの羽柴軍の攻撃で丹生山砦
   が陥落され、搬入ルートを失ってしまう。下地図。
 ※ 秀吉軍は、同時に 明要寺(兵庫県神戸市北区のシビレ山)も焼打ちしている。 同寺院は、
    平安末期に福原京を造営した平清盛が、比叡山 をイメージして堂塔を整備し、 大規模な
    寄進を行ったため、鎌倉、室町時代を通じて、多くの僧兵を抱える大寺院に変貌していた。

5月27日、淡河定範、淡河城(神戸市)を放棄し、退去する。下地図。
 ※ 淡河城の攻防戦に際し、城主の淡河定範は秀吉軍を経略により一度は撃退するも、
   その奇策も二度目は通じないと判断し、城を放棄して 三木城 へ撤退する。

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丹生山経由の兵糧搬入路が遮断されたため、毛利軍は新たに、魚住城三木城 ルートを画策する(上地図)。 しかし、秀吉軍は、このルートも遮断しようと 付城、番屋、関所などを 50~60箇所も構築し、毛利軍の輸送作戦に対抗する。

そんな折、秀吉軍は美嚢川で大量の竹筒が流れてくるのを発見する。調べてみると、中には米が満載されており、支流の脇川沿いにある 教海寺(今も 兵庫県三木市細川町脇川に現存する)の門徒たちが、三木城への食糧輸送のために少しずつ流していたのだった。
秀吉はすぐに兵を派遣して、三木城の周辺にある寺院や神社を全て焼却させ、寺僧らも皆殺しにしてしまう。

6月13日、参謀であった竹中半兵衛が平井山の陣中で病死する。
一時は病気療養で 京都 へ戻っていた半兵衛だが、武士は戦場での死が本望として、三木戦線へ戻ってきた直後のことであった。

6月、丹波国の 八上城(篠山市)を攻略する。
7月初旬~8月9日、明智軍が 黑井城(丹波市)の戦いで勝利し、丹波国が完全平定される。

9月9日深夜、毛利勢雑賀衆・播州勢ら 8,000余りが、共闘して三木城へ兵糧搬入を企てる。
搬入部隊が精鋭数百に守備されて加古川をさかのぼり、平田の砦附近に到着すると、三木城も 7,000余りの大軍を動員して、城内への食糧搬入準備に取り掛かり、そのうち 3,000を引き連れて、別所吉親が出陣し、平田の砦にあった谷大膳の守備する陣地を急襲する。
このとき、織田方の守備部隊は大敗し、谷大膳も討死してしまう。

しかし、羽柴秀吉は平井山からすぐに援軍を発し、また三木城側からも増援部隊が出動して、両軍は再び、平田山、大村坂、加佐の一帯で大激戦となる(大村合戦)。
今度は多勢に無勢の中、別所軍が大敗し、大将格 73人、士卒 800余りが討死してしまう。

この大村坂の合戦以後、別所軍は戦意を喪失し、淡河城から退避していた淡河定範が、悲観のため一族共々自害してしまう。
以後も、毛利軍は度々、三木城 への搬入を試みるも、部隊の大半は阻止され、捕縛されてしまう。

9月、伯耆国の羽衣石城主の南条元続が織田家に帰順する。同時に、毛利方の堤城を攻撃、占領する。

三木城内の食糧は急激に欠乏し、軍馬や 犬、ねずみ、草の根、木の皮など、ありとあらゆるものを食べ尽す飢餓状態に陥る。

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10月7日、秀吉は、付城網をさらに前進させ、東は大塚、西は平田、 南は八幡山、北は長屋に構築する。
東西南北が、わずか 600m程度にまで近接された 三木城 は、昼夜関係なく監視されることとなる。
三木城内の士気はますます低下していった。

10月30日、秀吉、古屋野(伊丹市)に上り、織田信忠へ備前国の 宇喜多基家(17歳)を取り次ぐ。宇喜多直家(50歳)の養子であった基家が、養父の名代として参上し、織田家に帰順を誓う。
※ 9月に宇喜多家の寝返りを内々に代診された秀吉は、まず織田信長に一報するも、
  勝手な外交交渉を叱咤される。後に、信長も宇喜多家の帰順を受け入れる。
※ 宇喜多家の帰参により、織田・毛利の境界線は備前国を超え、一気に 備中国・高梁川まで西進。



 加古川冲の海戦

1579年の加古川冲の海戦で、織田家の瀬戸内の制海権と西国への影響力が大きく好転される。
九鬼隆嘉が率いる志摩水軍により、木津川の河口で、当時、海上で無敵と称されていた毛利水軍 が 敗れ、本願寺城への海上補給を失敗していた(第二次木津川口の戦い)。
その後も、毛利軍は引き続き、石山本願寺 の兵糧搬入を 実施・成功させており、三木城への 支援でも、まだ瀬戸内の制海権を握れていたこともあり、村上水軍 の面子を 保っていた。

このときも、200~300石の米俵や武器弾薬を積んた大型の荷船 300艘を 護衛すべき、四十艘の軍船を派遣していた。
船団が姫路沖を通過した際、この海域を警戒していた織田方の水軍と遭遇する。 当時、織田方の水軍船団を率いた小隊長は安成丹後で、彼と九鬼嘉隆は同じ伊勢志摩出身であった。
この時、すでに織田方に寝返っていた 備前の宇喜多直家 は、織田水軍の支援部隊として 小西行長 隊(当時は、宇喜多直家により、 商人から武士へ大抜擢された直後だった)を派遣しており、直家に報告摺る前に、 自主的に協力して作戦参加する。

この時、安成丹後の指揮下には、主力艦船は 五十挺櫓(漕ぎ手 25人)二十反帆(兵士 9人乗り)の大型船一艘で、 さらに 11艘の 小早(小型船)が随行するだけの小規模小隊であった。
小西行長隊も小規模で、主力艦船は 四十挺櫓(漕ぎ手 20人)船の 関船(中型船)一艘で、別に七艘の小早を随行 させた程度の水軍部隊であった。
この二十艘強の船団で、遭遇した 村上水軍 と交戦することとなる。

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積み荷船団の陸揚げを阻止するのが主目的であったが、護衛の村上水軍による、すばやい火力の集中砲火を 浴びる猛攻で、安成丹後らの秀吉方は主艦を始め多くの船舶を海に沈められてしまう。 小西行長 が残った船団を回収し、何とか撤退に成功するのだった。安成は主力艦船を失ったことで 責任を感じ、割腹自殺を図るも、周囲の家臣らに制止されて、一命をとりとめる。
しかし、安成は自ら指揮官を降り、小西行長に指揮権を移譲する。

すでに初戦で大きく損害を受けていたので、小西は夜襲を決める。 目標は、荷詰め船への打撃であり、毛利水軍との交戦を避ける ゲリラ戦術を採用する。
夜襲は陸上での作戦では普通なことであったが、当時、水上戦では前例のない作戦であった。

闇夜に乗じて、小西隊は追い風に乗って毛利方の水軍が停泊している海上の小島群に 接近し、敵艦船を観察して、停泊している位置関係を確認した後、一艘の船に設置された 提灯に火をつけて無人のまま進ませ、敵艦船が停泊する陣内へゆっくり侵入させる。
これを目印に、三艘の鉄炮隊員搭乗の船と二艘の弓矢隊員登場の船を、 4グループに編成した船隊でゆっくりと海風に乗って、敵陣地へと接近する。 距離がだいたい 200 m強に至ったとき、(毛利・村上軍の松明の光が届く範囲が約 100 m強) 突然、大量の大敲を打ち鳴らし、同時に、火矢を敵方の荷船へ一斉に放って引火させる。
急な襲撃を受けて、村上水軍は組織的な防御戦略を立てる間もなく、 火は急速に燃え広がり、同時に安成丹後の別動隊が風上から突入して、撤退しようとする荷船を 襲ったため、夜襲の成果はさらに効果的となった。
船舶が焼き払われただけでなく、大量に積載していた火薬にも引火して、荷船は連鎖的に 爆発し出し、ものすごい爆音を天に鳴り響かせ、その水柱は海島の海岸線にまで達したという。
こうして、見事に夜襲が成功裏に終わり、小西隊は早朝に風向きが変わったことを 受けて、速やかに撤退に成功した。

この戦いで、織田軍と宇喜多軍の連合水軍は寡兵ながら大勝利をおさめ、毛利軍の積み荷船のうち、 半分を沈没させることに成功する。これ以降、毛利方の海上補給が停止される。

羽柴秀吉はこの一報を大変に喜び、作戦を成功させた 小西行長 に金貨五枚を与え、 自身の直属の配下として引き抜くこととなる。これが小西行長、 (当時は小西弥九郎と言った)の名前が軍事史上に初めて登場する機会となり、 水上交易商人から、水軍武将へと脱皮した瞬間であった。
豊臣政権内では舟奉行に任命され、水軍を率いることとなる。



10月19日、荒木村重の有岡城が開城する

1580年1月6日、秀吉、鷹の尾砦(鷹尾山城)と 宮ノ上要害(三木城本丸の南約 640 m)への攻撃をスタートする

1月8日、秀吉勢、魚住城 と貯蔵砦を攻め落とし、加古川沖の海戦で、毛利・紀州雑賀衆 の水軍部隊を撃破する。
 ※ 奈良時代の僧侶、行基が開いたとされる兵庫県の瀬戸内沿いの摂播五泊の一つであった
   魚住泊(現在の 江井ヶ島港 ー 明石市大久保町江井島)を中心に、毛利方は軍事拠点を構築
   しており、その海岸線の高台が新砦となっていた。もともと存在した魚住城を取り壊し、
   その資材を転用して木柵と空堀を構築して、その中に三木城への搬入用の兵糧と武器を
   備蓄していたという。当時、瀬戸内の制海権は毛利方にあり、秀吉軍は海陸併用の
   魚住城(新砦)への攻撃に手をこまねいていたのだった。

1月10日、御着城に籠城中だった小寺氏 は、開城に合意して退去するも、 付近で秀吉軍と散発的な小競り合いが繰り広げられる。 城主の小寺政職は英賀城を経て、毛利領下で 15代目将軍・足利義昭が滞在していた 備後国・ 鞆の浦 へ逃走する。

三木市

1月11日、秀吉軍、鷺山構(三木城本丸の南約 370m)、鷹之尾城(本丸南約 640 m)、新城(本丸東約 150 m)を占領する。いよいよ残存テリトリーは、 本丸と西の丸のみとなる。上地図。

1月15日、別所長治、秀吉方からの降伏勧告を受け、開城を決意し、長治、弟・友之、叔父・吉親と その家族の切腹により、籠城する軍民らの助命を嘆願し、受け入れられる。

翌 16日、秀吉軍は三木城に入城し、本陣を城内の本要寺へ移転させる。別所長治は城内の広場で兵士らと最後の別れを行う。 秀吉、別所長治に酒と肴を差し入れる。

1月17日、別所長治、一族共ども自刃をとげる。
別所長治(23歳)、その妻、照子姫(22歳)。4人の子供たち、竹姫(5歳)。虎姫(4歳)。千松丸(3歳)。竹松丸(2歳)。
実弟の 別所彦之進友之(21歳)と その妻(17歳)。叔父の 別所吉親(38歳)と その妻、於波(28歳)。子供 2名。

家老の三宅肥前守治忠以下、男女多数も城主一族に続いて殉死する。(彼らの側室、侍女、家臣ら)。
こうして、22ヵ月間にも及んだ三木合戦は終結する。

三木市

戦後、秀吉は兵士らを休息させるため、自領の 近江国・長浜 へ一時帰国する。

3月2日、秀吉は再び、三木城 に戻り、荒廃した城下町の復興を 急ぐべく、無税を布告する。また同時に、三木城の再建も進められることとなった。
城下の復興の傍ら、配下の諸部隊に備前国境までの陣取りを指示する。

3月17日、 秀吉自身も出陣し、 織田方に帰順した宇喜多家の領内である 備前、美作、播磨 3ヶ国の国境付近の各所に、 拠点を設けさせる。ついで、宇喜多の軍勢を最前線に配して毛利勢に対抗させる。自身も備中の対毛利の最前線に陣取る。

3月27日、国境付近の毛利勢が撤退する。

これを受け、秀吉軍も、播磨へ引き返し、3月29日、英賀城 を攻囲する。
4月24日、英賀城が落城し、秀吉軍はそのまま 長水山城(宍粟市)を攻撃する。
5月10日、長水山城も陥落し、ここに、秀吉の播磨平定が完了する。
5月16日、但馬の 有子山城(豊岡市)が落城する。
5月21日、但馬の 出石城(豊岡市)が落城し、但馬国も平定される。
6月5日、美作の 祝山城(岡山県津山市)が落城する。

8月2日、石山本願寺 と織田信長との間で 和議(3月5日より実質的に停戦状態だった)。織田信長の畿内制圧が完成する。

1581年2月28日、信長が 京都 で御馬揃を開催する。秀吉も参列する。
6月25日、因幡の鳥取城の兵糧攻め戦が開始される(下地図)

三木市

7月、宮部継潤が、鳥取城 の出丸だった 雁金山城 を攻撃する(上地図)。
   守将の塩谷高清は、北隣の 丸山城 へ退避する。
9月16日、凑川口の戦いで(上地図)、細川家 家臣・松井康之が毛利軍を撃退し、
     敵将を討ち取る。以降、鳥取城への糧道が完全に断たれる。
10月24日、秀吉軍が、鳥取本城と分断された「丸山城」への本格的な攻撃を開始する
これを受け、鳥取城主・吉川経家は降伏を決意。翌 10月25日に自決し、鳥取城が落城。

直後の 10月25~28日、援軍のため布陣していた 吉川元春 と、馬ノ山合戦(湯梨浜町)が勃発。 冬季入りしたこともあり、秀吉軍は早々に播磨へ撤兵する。

11月中旬、淡路の 由良城(洲本市)が陥落。11月15日には岩屋城も落城し、淡路島が平定される。
 ※ 但馬で発生した一揆を、秀長配下の藤堂高虎 が平定する。
 ※ 播磨の 置塩城(播磨の 守護・赤松氏の居城)は廃城になる。

1582年3月17日、 備前の 常山城(岡山市)が陥落。
4月中旬、備中の 日畑城(倉敷市)が陥落。
4月14日、備前の 冠山城(岡山市)が陥落。
4月中旬、備前の 庭瀬城(岡山市)が陥落。
4月中旬、備前の 加茂城(岡山市)が陥落。
4月、伊予の来島通総が織田方に投降する。
5月8日、備中高松城(岡山市)の戦いが開始される。
6月2日、京都 で本能寺の変が起こる。
秀吉は毛利方と急遽、講和を結び、毛利方は 備中、美作、伯耆国の割譲に同意する。

6月6日、秀吉軍が備中高松城より撤兵を開始する(中国大返し)
6月9日、播磨の 姫路城 に入る。
6月12日、秀吉軍が 摂津・富田(高槻市)に到着する。
6月13日、山崎の合戦


江戸期の 1623年、小笠原忠信が三木城を解体し、新規に築城中であった 明石城 の用材として転用 したため、城跡には井戸と石垣だけが残り、現在に至る。


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