この安威川の南岸に形成された 河岸段丘(北から南へと傾斜が続く地形)の斜面上に造営されていた「安威城」であるが、かつては、東西
180 m × 南北 270 m
サイズの「内郭」と、その外周部に「外郭」を有する二重構えの城塞が構築されていたという(下地図)。昭和期まで 小字「御殿台」という高台が広がっていたらしいが、現在は宅地開発により地形ごと消失している。
しかし、摂津国守護の和田惟政に反旗を翻す形で、反織田として挙兵した 荒木村重・中川清秀らが、三好軍の支援を受けて摂津国北部へ進軍してくると(下地図)、白井河原の戦いが勃発する(1571年8月)。しかし、和田惟政に従って参陣した正信らは圧倒的な寡兵であり(500騎
vs 2,500騎)、わずか一日の戦闘で、惟政と共に正信も討ち死にしてしまうのだった。