『大陸西遊記』ホーム 中国王朝年表

訪問日:2017年6月上旬 『大陸西遊記』~


日本鳥取県安来市 ~ 安来市人口 16万人、鳥取県全体 一人当たり GDP 280万円


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  鳥取県と島根県の県境(国道9号線)と『注文の多い料理店』風の現役喫茶店
  竜頭蛇尾!? 不釣り合いに立派な「安来黒井田簡易郵便局」の立て看板と”雑貨小屋”
  三方を中海に囲まれた 十神山城の遠景
  十神山城のすぐ東隣になった御殿屋敷のご自宅に拍手!
  十神山城の急峻な東面エリア
  なぎさ公園のキャンプ場から登城開始!
  大十神山、中十神山、小十神山の山頂部に残る曲輪跡地
  古代より「たたら製鉄」の積出港として栄えた安来港の守備拠点だった十神山城
  日立金属安来工場とたたら製鉄
  安来港の旧市街地と現存する路地通り
  旧市街地内で筆頭料亭だった料亭・山常楼の威風
  JR安来駅から月山富田城へのアクセス方法と豆知識



米子 市内のホテルで自転車を無料レンタルし、中心部から 国道9号線 を西進し、50分ほどで、十神山城跡の小山(島根県安来市新十神町なぎさ公園)に到着した。
この国道9号線では要所要所でアップダウンがあったり、歩道自体がなかったり、巨大なトレーラーやトラックが真横を走るなど、結構、神経を使うサイクリングとなった。

安来市 安来市

上写真左は、国道9号線沿いに設置されていた、島根県と鳥取県の県境の石碑。
上写真右は、峠道の上の喫茶館ブラジル(島根県安来市島田町)。いちおう、カレーなどの軽食も出す料理店を兼ねており、その昭和風の不気味な雰囲気が、思いっきり、『注文の多い料理店』を連想させるもの だった

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上写真は、安来市の市街地エリアの端っこに開設されていた安来黒井田簡易郵便局の局舎。
その「簡易」な小屋と、たばこ自販機や公衆電話を兼ね備えた昭和風の雑貨屋ぶりには、度肝を抜かれた。特に、郵便局でタバコを売っている支店は初めて目にした!

安来市 安来市

こうした不思議な喫茶店や郵便局を通過して、いよいよ安来市街区に入っていく。その市中央部に位置する JR安来駅の正前に忽然と立ちふさがる山、それが十神山であった(上写真右)。

十神山 は大中小の3つの山頂を有する、東西北の 3方を海に囲まれた、半島系の独立した小山である(下写真)。この斜面や頂上部に複数の曲輪が築造されて、十神山城を構成していたわけである。

安来市

現在も、海に面している北面と西面はギリギリまで波打ち際が迫る断崖絶壁で(下写真左)、攻めるに容易でない地形が伺い知れる。海岸線の磯に見られる貝殻類やフナムシ(海ゴキブリ)がたくさん道路脇に生息していた。

安来市 安来市

上写真右は、十神山の北面を東側から眺めたもの。
波打ち際の傾斜こそきついが、高さはあまりないことに気付く。
往時の城塞の様子を妄想しているところで、突然、趣向豊かなご自宅が目に飛び込んできた!五重塔と四層の天守閣を併設した、立派な御殿屋敷だった(下写真)。『千と千尋の神隠し』で主人公の少女が迷い込んだ御殿を思い浮かべてしまった。

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この 十神山 の東面にも、かつては水際がかなり内陸まで入りこんでいたのであろうが、現在は、ほぼ海抜 0m 地帯の開拓地として住宅街が広がっていた。
下地図は、この東面の山裾に設置されていた、地滑りによる土砂崩れを注意喚起したもの。「急斜面地区域」「誘発助長区域」などと区分けされ、その急斜面からの土砂崩落リスクが説明されていた。

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かつて、この東面は一部まで海岸線が迫り、途中は砂浜が広がっていたと推察される。ここは十神山城でも最も斜面が急となっており、防衛に適した地形だったと思われる。

下写真は、上地図で住宅地が山間に食い込んだエリア(中央部)。かなり急角度の道だった。

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これら東西北の急斜面に対し、南面は麓に 向陽寺 が設けられ、比較的緩やかな斜面の登山道となっていた(下地図)。すなわち、この山城の弱点であった。

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なぎさ公園とは、この小山と中海との間に設けられた、波打ち際の遊歩道や少々の浜辺を総称しているらしい。
ついつい東京のイメージで、月島などの大規模な海岸公園をイメージしてしまっていたが、十神山も小ぶりなので、なぎさ公園もそれに準じてしかるべきなのであろう。

筆者は、なぎさ公園の砂浜部分(上地図、キャンプ場)から東面へ通じる、山の中腹を通る自動車道路上に自転車を停めて、先に小十神山、そして、中十神山、大十神山を攻略していった。

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山中には、一切、城跡に関する遺構もなければ、解説板も設置されていなかった。
上写真左は小十神山への登山口。1~2分もあれば登れる、その頂上部には簡易な休憩スペースが設けられていたが、木々が茂りすぎて愛でる景色は皆無だった(上写真右)。

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続いて、大十神山の登山口から登ってみる(上写真左)。途中に中十神山の山頂に至るも、頂上部に祀られていた祠は崩落してしまっていた(上写真右)。
下写真左は、大十神山の山頂部。やはり木々が多い過ぎて、視界は悪い。山頂の最も高い所に、石の祠が設けられていた(下写真右)。

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登山してこの城郭の価値を判断すると、どうしても遺構が皆無であることから、思い出に残すことは困難であろうが、JR安来駅や安来市街地からこの山を眺めてみるとき、その圧倒的な存在感を見せつけられる。
東側から見た時は三つの独立した 小山峰 といった印象だったが、南面や西面側、つまり JR安来駅や安来の旧市街地から見上げたときは、ミニ富士山のようなきれいな三角形の山がヌボーっとたたずんでいる印象を受け、街のシンボルのような存在であった。

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上写真は、下地図の湾岸道路「229 県道安来港線」上の十神大橋から、十神山城を眺めたもの。眼下の安来港を守備するに絶好のロケーションを有していたことが分かる。


中海の主要港町の安来港とその水上交易ルートを支配すべく、当地に十神山城が築城されたのは 室町時代前期と考えられており、 応仁の乱で山名方に組した本城は攻め落とされ(1468年)、尼子氏の支城に組み込まれる(尼子十砦の一角)こととなる。
1566年には毛利方の攻撃で落城するも、1569~1570年は尼子再興軍により一時、再占領される。

毛利氏の中国支配が盤石となると、防衛拠点の存在意義は薄れ、以後、城跡は狼煙台などに 援用されたと考えられる。



このまま、和鋼博物館へと移動してみた。

もともと中国山脈の北部と、九州北部の山岳エリア、および、中央アルプスの一帯では、古代より砂鉄が豊富に産出されるエリアであり、特に中国地方の北部が日本最大の産地として長い間、君臨したらしい。
そのため、古代より製鉄業(たたら製鉄)が発達し、 その港町として安来港が重要な役割を果たしてきたという。

安来港は中海沿岸に位置し、天然の良港でもあったため、 山陰経済の要衝の一角を成した。それ故に、戦国期、尼子氏と毛利氏による争奪戦の舞台となる。

安来市

江戸期、安来港から出荷された鉄製品は一度、大阪へ集められて、全国へと販売されていったらしい。
江戸時代後期に入ると、北回り船が発達し、日本海側の最大の港湾都市であった出雲で商品の直接交換が実施されるようになり、ますます取引額が大きくなったいったという。当地で精製された鉄器は、鳥取藩専売商品 として取り扱われた。

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明治時代に入り、海外から安価な洋鉄と呼ばれる輸入鉄が輸入されるようになると、たたら鉄はかつての独占体制を維持できなくなり、地元の中小製鉄業者らが集まって雲伯鉄鋼合資会社を設立し(明治時代の1899年、日本初の民間精錬鉄鋼会社)、刃物類の製造をメインとして、生き残りを図ることとなった。後に、日立金属株式会社に吸収合併され、現在の安来工場がここに存続することとなったわけである。

上写真は、海岸の埋め立て地に連なる日立金属海岸工場(上写真左、伯太川の河口部)と、JR安来駅の裏手で操業中の日立金属安来工場の巨大社屋群(上写真右)。いずれも上地図の左右両端に案内されている。

下の古写真は、明治時代の 安来港 を撮影したもの。

安来市

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港湾都市としてにぎわった安来の旧市街地では、今でも古い民家や路地がいくつも残っていた。

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下写真は、料亭・山常楼
1934年ごろに建て替えられた建築物が、そのまま現役で使用されているという。

玄関上の屋根は、大きなむくりの付いた本瓦葺きの唐破風となっていて、この建物の豪華さを強調するとともに、建物の外観上の大きな特徴となっている。この料亭の代名詞というべき、 2階の大広間は、77畳の広さと3.75mの高さをもつ大空間となっており、床の間などの凝った意匠と調度品類でも有名という。

明治より海運業などを中心に栄え、鉄の積出港としてにぎわった安来港には、鉄問屋などの並ぶ通りができ、山常楼はその通りのほぼ中央に位置していた。当時、10軒ほどあった料理屋の中でも筆頭格に名を連ねたという。

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下写真左は、山陰合同銀行 安来支店前に残されていた旧・安来銀行本店(1915年建設の赤レンガ洋館)の建物の一部。国道9号線沿いに立つ。

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そして、国道9号線をもう少し西へ移動すると、伯太川の河口部に至る。
ここから北側に見えるのは、日立金属の安来工場群で、南側は、遠くに月山富田城を臨む絶好の場所だった(上写真右)。



  JR安来駅から月山富田城へのアクセス方法(ともに、最終的に市民病院前で下車)

   1、路線バスで広瀬への直行便

   2、足立美術館のバスに乗り、現地で、広瀬行きのバスに乗換え。

安来市は日本島根県東部の市で、すぐ東に鳥取県と県境を接する。
市域の南部は中国地方の山脈エリアに属し、北部はこの山脈エリアから流れ出る飯梨川と 伯太川の流域として、河口部には三角洲と平原が形成され、広大な耕作地が提供された好立地の市域を 有した。自然と、中海沿いに港町「安来港」が発達することとなったわけである。

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この豊かな平野部とたたら製鉄の盛んな山岳エリアを同時に支配したのが、 日本 100名城の一角をなす月山富田城(安来市広瀬町) を本拠地とした、尼子氏であった。
もともと、月山富田城は古代より出雲国守護の居城であり、 戦国時代に守護代の尼子家が城主として入居し、最終的に守護職 をも奪取することになったのだった。一時期、近隣 11か国に覇を 唱えるまでに勢力を拡大している。

しかし、大内氏を撃破した毛利氏との力関係が逆転し、ついに毛利氏による出雲侵攻を受ける。
当時から月山富田城は天下随一の名城として名を馳せており、攻城戦は難航し、毛利元就は最終手段として、 兵糧攻めに切り替える。このとき、城の回りの山々には毛利方の付城が建造され、完全包囲されていたという。
城中では徐々に兵糧が尽き、毛利軍3万に対し、尼子軍1万5千という多勢に無勢の中、 落城は時間の問題となる。4年後の 1566年1月、多くの将兵らが逃亡してしまい、戦意喪失した尼子義久は投降を 決意し、戦争が終結する。尼子氏一族は四散することとなった。

以後、月山富田城は毛利家の領地に組み込まれる。主に、吉川元春が城主を務めた。
関ヶ原の合戦を経た1600年、毛利氏は領地を大幅削減され、 新たに堀尾吉晴が城主に就く。1611年、堀尾忠晴がその拠点を 松江城 へ移すと、月山富田城はそのまま放棄され、荒廃することとなった。


 布部山の古戦場跡(現在の島根県安来市広瀬町布部)

山中鹿之介が21歳のときに月山富田城が落城し、尼子旧臣らがちりじりとなる中、 彼はこれらを糾合して尼子再興軍を結成し(1569年6月末)、毛利軍を苦しめることになる。 最終的に月山富田城を完全包囲するも、毛利方の援軍を布部山の戦い(ふべやまのたたかい) で迎え撃ち、大敗を喫すると(1570年2月14日)、尼子再興軍は勢いを失い、そのまま 出雲から追放されることとなる。


米子市への帰路は、比較的に下り坂が多く、30分程度で米子城下まで帰りつけた。


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