BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:20--年-月-旬


京都府 南丹市 ~ 市内人口 3万人、一人当たり GDP 330万円(京都府 全体)


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  八木城跡
  八木春日神社
  ジョアン内藤飛騨守忠俊(内藤ジョアン)顕彰碑
  東雲寺(八木城主・内藤氏の居館跡)
  龍興寺(1452年、守護・細川勝元により建立され、以降、守護代・内藤家の菩提寺となる)
  鶴首山城跡(八木城の支城群の一つ)
  西田城跡、刑部城跡、黒田城跡、 園部城(本丸巽櫓)、上木崎城跡、千妻城跡、宍人城跡、半田城跡、神前西城跡



格安ホテルが集積する 大阪 方面から日帰り往復も可能だが、ゆっくり旅を楽しむべく、京都府亀岡市内(サンロイヤルホテル亀岡駅前、ビジネスホテル サンロイヤル、ビジネスホテル ポニーなど)か、 京都市内 に滞在しつつ、JR山陰本線(嵯峨野線)を北上し、日帰り訪問することにした。

南丹市内には、広範囲にわたって無数の山城が点在しており、しらみつぶしに訪問していてはキリがないので、とりあえず、南端の八木町のみにスポットを当ててみることにした。

南丹市

JR八木駅で下車すると、一つしかない改札口を出る。そのまま東進し、 まずは「南丹市八木市民センター」を訪問したい。ここに入居する 「八木町観光協会」は営業時間が短いので、要注意(月 / 水 / 金曜日 9:00~12:00のみ、祝休館)。上地図。

続いて駅まで戻りつつ、国道 9号線を経由し、 府道 452号線(長谷八木線)を西進していく。桂川(大堰川)を渡って最初の 三叉路を右折し、南丹市立八木西小学校や南丹市立 八木青少年センター 前を通過しつつ、「八木春日神社」を目指してみた(上地図の白色ライン)。駅からだと、 徒歩 7分ほどの距離だった(589 m)。
この境内はとても広大で、935年に大和国の春日社から分祀された由緒ある古刹という。

その前に「ジョアン内藤飛騨守忠俊 顕彰碑」が設置されていた(下写真)。

南丹市

キリシタン武将だった内藤如安(ジョアン。1550?~1626年)は、20代前半の一時期に八木城主を務めたことから、 1982年6月、彼を顕彰し建立された記念碑という。一帯の集落名も「南丹市本郷」となっており、 八木城当時、その城下町(と言っても、田舎の集落程度)が広がっていた名残りを今に伝えていた。

最終的に江戸時代初期、フィリピン・ルソン島へ追放され、そこで死去した縁から(1626年。享年77)、 八木町とマニラ市は姉妹都市を結んでおり、南丹市に吸収された後も、両市は姉妹都市関係を継続中という。


内藤如安は、松永長頼(?~1565年。松永久秀の弟。正式に内藤家の婿養子として家督を継承後、 内藤宗勝へ改称する)の長男として八木城に生まれる。本名は、内藤飛騨守忠俊。

しかし、動乱激しい丹波国内にあって、1553年に八木城主・内藤国貞(母方の祖父。丹波国守護代だった)、及びその 嫡男・永貞が同時に討死してしまうと、婿養子として内藤家に入っていた 父・松永頼長が後見する形で、永貞の 長男・千勝丸【後の内藤貞勝】が家督を継承するも、1562年に早世してしまう。このため、自身の 長男・如安に内藤家の家督を継がせるも、まだまだ幼少だったことから、父・頼長がそのまま内藤家を采配することとなり、内藤宗勝へ改称するに至る。しかし、親族外出身者という立場から古参の内藤家一門衆からの反感が解けず、家内統制に苦労したようである。このため、内藤宗勝(松永長頼)は度々、丹波国内に割拠する他の国人衆への出兵を繰り返し、内部統制を図っていたと考えられる。

この頃、長男・如安とその妹・ジュリアは、キリシタンだった乳母の影響もあり、 京都 の南蛮寺にて宣教師ルイス・フロイスから洗礼を受け、キリスト教に入信すると、 如安(ジョアン)という洗礼名を授けられることとなる(1565年5月)。そのまま京都に 滞在中の同年 8月、父の宗勝が黒井城主・赤井直正との戦いで討死すると、 内藤如安は城主として緊急帰国するのだった。

そんな動乱の最中だった 1568年9月、織田信長が足利義昭を伴って上洛してくると、 翌 1569年に信長方に臣従する。義昭を補佐しつつ、義昭と信長との軍事対立に反対するも、 結局、義昭が挙兵し 槇島城の戦い に敗れ 京都 を追放されると(1573年7月)、以降、丹波の国人衆も信長と距離を置くようになり、 出兵要請などに応じなくなっていく。表面上は信長との敵対行為を控えつつも、 明らかに溝が深まっていた丹波勢に対し、ついに信長が征伐令を下すことになる。

南丹市

1575年6月、明智光秀の大軍が赤井直正(荻野直正)を攻めたてるも、八上城主・波多野秀治の裏切りにより、挟撃の危機に陥り、丹波戦線からの敗走に追い込まれてしまう(上地図)。1578年に直正が病死すると、光秀は再び丹波侵攻に着手し、翌 1579年に八木城も攻め落とされ、内藤家は領地を失い没落する。この時、布教活動に明け暮れ、領内統治を疎かにしていた内藤ジョアンは一門から追放され、 堺の町 か、毛利氏の庇護下にいた足利義昭の下(備後国・鞆の浦) に身を寄せていたことが分かっている。

1582年6月に信長が横死し、天下の趨勢が秀吉へと傾きつつあった 1585年頃、キリシタンに 入信したばかりだった小豆島領主・小西行長の下に出仕すると、同じキリシタンとして重用され、1588年に行長が肥後半国を領有するようになると、ますます出世していく。 朝鮮出兵でも半島へ随行し、行長の右腕として明との和議交渉を任され、特派大使「小西飛騨守」の名で 北京 まで赴いている(途中一年余り、朝鮮と明との国境を流れる鴨緑江付近の、明領側の 遼陽 に留め置かれるが、ようやく謁見を許されて北京へ入城したのだった)。

1598年に秀吉が死去し、 ようやく 朝鮮の役が終戦を迎えるも1600年9月の関ヶ原本戦で主君・小西行長らが大敗すると、九州の地で行長の弟・小西行景(?~1600年11月)と共に宇土城を守備していた 内藤如安、小鴨元清(?~1614年、南条元宅)らも、東軍方の加藤清正に降伏・開城することとなる。如安らは当初、加藤清正の配下に加えられるも、間もなく加藤家内で大規模なキリシタン弾圧が 行われると、多くの旧小西家・家臣らが離脱を余儀なくされ、内藤如安もキリシタン大名だった有馬晴信(西軍から東軍へ鞍替えしていた)の手引きで肥前・平戸へ脱出するのだった。

南丹市

その後、高山右近(1552~1615年)の招きを受け、1603年、キリシタンに寛容だった加賀・前田家の客将として 4千石で迎えられる。高山右近は、小豆島~肥後時代に同じく小西行長に匿われていた仲でもあり、二人は金沢の地で再会を果たし、以後、熱心に布教活動や教会の建設に取り組みつつ安寧な生活を送っていたが(上写真)、1612~13年に徳川家康によりキリスト教禁止令が発布されると(大坂の陣 を前に、キリシタン武将らの大坂方への結集を恐れた)、1614年9月24日、 ジョアンは、高山右近、その家族、家来、宣教師らと共に、フィリピン・マニラへ追放されることとなる。この時、すでに高齢だった高山右近や内藤如安らも、徒歩にて雪中、加賀から 近江坂本 を経由し大坂まで移動させられ、ここから長崎まで海路移送されてマニラへ出航したのだった(この時、京都 に日本初の女子修道会ベアタス会を設立していた妹・ジュリアも一行に 合流している)。

2か月の船旅の後、高山右近や内藤如安一行百数十名はスペイン人総督ファン・デ・シルバやマニラ住民らから国賓級の手厚い歓迎を受けるも、右近は長旅の疲れや高齢もあって、到着後 40日ほどで熱病にかかり、63歳で死去する(その後、右近の家族は帰国を 許可される)。しかし、内藤如安らはうまく現地化に成功し、マニラ・イントラムロス近くに日本人キリシタン町サンミゲルを築き定住化すると、そのまま彼の地で死去するのだった(1626年、享年76)。

現在、マニラ市内のパコ公園近くに Plaza Dilao(プラザ・ディラオ。日比友好公園) という小さな公園があり、ここには高山右近像が建立されている。この周辺に 日本人町が展開されていたと推定されており、最盛期には 3,000人もの日本人が 居住したというが、実際には、その正確な位置や範囲は分かっていない。 なお、マニラの聖ビィンセント・デ・ポール・パリシュ教会に、内藤ジョアン終焉の地に 関する記念碑が設置されている。



その後、5分ほど南進し、八木城への登山口に至る。ここから、頂上の本丸跡まで 約 40分ほどの登山だった(標高 344 m、麓からの高低差 220 m)。

なお、この登城口付近には家臣団の旧屋敷地跡が保存されている。 都市開発から離れた山里だったこともあり、非常に良好な状態で残存しており、 その規模と数は圧巻である。

南丹市

本城は、丹波国内でも最大級の規模を誇り(東西約 700 m、南北約 900 mサイズの複合梯郭式山城)、黒井城、八上城と並んで丹波三大山城と 評されている。

山頂部の 本丸跡地(東西 13 m × 南北 10 m)には、天主台らしき盛り土や石垣などが残存し(大部分は風化の中で土砂に埋もれたまま)、さらに周囲の尾根沿いにも多数の曲輪跡が連なっており、全体を周遊しようとすると、相当な登山装備が必須となる。


1333年正月、隠岐島から脱出した後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒を掲げて再挙兵すると、 幕府は一門の有力家臣・足利尊氏に 1万騎を与えて上洛させ、 反幕府派の鎮圧を命じる。同年 4月、尊氏らは 京都 を通過し、丹波国に 駐屯するも、地元丹波の篠村八幡宮(京都府亀岡市篠町篠)にて必勝祈願し、 そのまま後醍醐派に寝返って六波羅探題を攻め落とすのだった。この 1万騎の中に内藤顕勝(定房)も参陣しており、戦後、その武功により 船井郡(丹波国の中央部。下地図)を与えられ、1335年にこの八木の地に入封してきたという。
南丹市

そのまま地元の有力地侍となった内藤氏は、1392年に細川頼元が丹波国守護に任命されると、丹波国の守護代として代理統治を委ねられることとなり、八木城下が守護所として発展するようになる。
1431年7月に内藤信承(備前入道)が守護代を継承すると、その 城下町と城塞を大規模に拡張し、現在の八木城の原型が整ったと考えられている。 その後、1443年6月に内藤之貞が、1449~1452年には内藤元貞が守護代を務めている。

90年近く内藤家が独占してきた守護代であったが、1482年12月に上原元秀が 守護代に任じられると、その勢いに陰りが見えるも、翌 1493年11月に元秀が 家中内紛により死去すると、1495年8月、内藤元貞が再び守護代に返り咲くこととなる。 その後、1505~1521年まで内藤貞正が、続いて内藤国貞が守護代を継承していく。

応仁の乱の影響もあって、この頃には丹波国内も群雄割拠の時代に突入し、八上城主・波多野元清が勢力を拡大して、 丹波国内を席巻する(下地図)。この過程で、守護代・内藤国貞も本梅郷の戦いで討ち取られ、 そのまま八木城も攻め込まれて落城し、守将・内藤定房までも戦死に追い込まれるのだった(1553年)。

南丹市

当時、内藤定房の娘と結婚し婿養子に入っていた 松永長頼(松永久秀の弟)は、 丹波国外へ出兵中で、義父の敵討ちのため急遽帰国し、そのまま八木城奪還に成功する。 以降、内藤宗勝へ改名し、正式に内藤家を采配していくようになる(実際には、 内藤国貞の 実子・千勝丸【後の内藤貞勝】が存命だったが、幼少だったことから、松永頼長が後見人として 内藤家を補佐した。しかし、1562年に千勝丸も早世してしまうと、いよいよ松永頼長が家中を統括していくこととなる)。

以降も、内藤家の完全掌握に腐心した 松永長頼(内藤宗勝)は、国人衆の目を外へ向けさせることで家中統制を図り、丹波国内の波多野氏や赤井氏らとの抗争を継続していくわけだが、 1565年8月、手勢 700名を率いて先制攻撃をしかけるべく出陣した際、不意の豪雨で寺に投宿したことで命運が尽きることとなった。 その居場所を住職に密告された内藤軍は、敵対していた赤井直正の夜襲を受け、 そのまま全滅に追い込まれてしまうのだった。 こうして父・松永長頼(内藤宗勝)を失うも、その 子・五郎丸(後の内藤ジョアン)と 女子(後の内藤ジュリア)の二人は、京都 に滞在していたようで難を逃れる。
当時、乳母だった 女性(キリシタン名:カタリナ)に世話されており、これより 3か月前の 同年 5月、京都の南蛮寺で ルイス・フロイス神父により洗礼を受け、ジョアンという洗礼名 を授かったばかりのタイミングであった。

そのまま本国に帰国し、八木城主に収まった内藤ジョアンは、城下を中心に布教活動を積極的に 展開する。1572~1574年にかけて、3度、日本人修道士ロレンソ了斎(ザビエルにより洗礼を受けた、日本人最初のイエズス会修道士。ルイス・フロイスの弟子として布教の任に あたっていた。生涯盲目であったという)を招聘しており、毎度、自ら城下まで出迎えるほどの厚遇だったという。特に 3回目の 1574年にはフロイスも 足を運んだ記録が残されている。こうして八木城は丹波国におけるイエズス会布教活動の本拠地となっていく。 史書によると、ジョアンは領内の政治には全く興味を示さず、ひたすら信仰の道を 追求したという記録が残されている。

南丹市 (引用:福知山光秀ミュージアム・サイトより)


この頃、畿内では織田信長が三好三人衆の残党勢力との抗争を繰り広げており、丹波国の 諸勢力は足利義昭に組しつつも、信長との直接対決は避け、畿内の戦火に 関与しない方針を貫いていた。しかし、畿内の動乱が平定されていくと、信長はいよいよ 丹波征伐へ出兵してくることとなる。その総大将を務めたのが明智光秀であった。

1579年5月に綾部城、玉巻城を攻略すると、翌 6月、いよいよ八木城が次のターゲットに定められる。 この時、城主は内藤有勝が勤めていた(この頃の内藤ジョアンの所在や動向は一切不明となっているが、 領内の統治を放棄していたことから、内藤家より追放されていたと考えられる。堺の町、もしくは、 足利義昭を頼って、毛利領内の鞆の浦 に滞在していたようである)。
当初から八木城内に籠って頑強に抵抗する内藤有勝らに対し、光秀は城兵らに内通工作を図り、 タイミングをあわせて本丸、二の丸に放火させると同時に総攻撃をしかけ、 瞬く間に落城へと追い込むことに成功する(6月27日)。この時、城主・内藤有勝も 戦死したと考えられている。一門の内藤正勝は八田城へ逃走を図るも、鴻ヶ獄城に 追い込まれて自刃して果てる。こうして内藤一族は全滅したわけだが、 内藤ジョアンのみ生き残り、信長死去後は、同じキリシタン大名の小西行長 の客将となって 命脈を保っていくこととなる。

その後の八木城であるが、明智光秀はさらなる丹波攻略をにらみ、八木城を大規模に 拡張したことが分かっている。間もなく 亀山城 の築城工事に着手した光秀は、本格的にその拠点を 亀山城に定めた後、八木城をこの支城として存続させたと考えられる。



八木城跡を下山後、そのまま北上し、さらに「鶴首山城跡(八木城の支城の一つ)」を目指す(下地図の黄色ライン)。
地形的には、八木城から北へ連なる山脈沿いに立地し、さらに北へ伸びた尾根の先端に 築城されていた(下地図)。当時、八木城の周囲には、このような支城(砦)がたくさん配置されていたと考えられる。
南丹市

この山裾にあった東雲寺が、八木城主・内藤氏の居館跡(山城だった八木城は戦時の詰城であった) というので、立ち寄ってみた(上地図)。このまま鶴首山へ登山できればよいのだが、不可能だった。

なお、その西隣には「龍興寺」がある(上地図)。『細川勝元ゆかり寺』という看板が ある通り、ここは、丹波守護であり幕府管領家筆頭であった細川勝元(1430~1473年) により建立された古刹で(1452年)、 臨済宗妙心寺派の「京都三龍(龍興寺・龍安寺・龍澤寺で、いずれも細川家によって 建立された寺院)」の一角を成す。境内に残る鐘楼は江戸期の 1747年に建設されたもので、南丹市の指定文化財 となっている。

さらに鶴首山の北東端まで回り込んでいくと(上地図の黄色ライン)、急斜面の崖下に稲荷神社が設けられており、 その崖面沿いの登山ルートを 5分ほど 登っていくと、間もなく平らに掘削された曲輪跡地に到着できた。
そのまま北端まで移動していくと、本丸らしき広めの平坦地に到達する。 その外周には、大きな横堀跡が 2か所はっきりと視認でき、また本丸北面では、複数の腰曲輪群や浅い堀跡も確認できた。人の手が全く入っていない状態で、自然のそのままに風化している状態だった。

基本的に、この山城の訪問も冬季がベストだろう。自然石をうまく利用した曲輪構造が把握しやすく、 山頂からの眺望も開けている。


下山後、再び JR八木駅に戻った。よく歩いた一日だった。


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