BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2020年1月中旬 『大陸西遊記』~


岡山県 岡山市 ②(北区庭瀬)~ 市内人口 72万人、一人当たり GDP 290万円(岡山県 全体)


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  JR庭瀬駅周辺 観光マップ
  庭瀬城の鬼門を守った 寺町地区に残る 外堀
  庭瀬城(庭瀬陣屋)の 古地図
  庭瀬藩邸エリア(内屋敷跡地)に残る 弁天宮、清山神社、邸内公民館、丸池
  庭瀬城(庭瀬陣屋)の 内屋敷と中屋敷の 今昔
  江戸初期に築城された 庭瀬城本丸跡 ~ 野面積み石垣 と 掘割が見事!
  地図から見る、庭瀬城(撫川城)の 本丸、二の丸、三の丸
  【豆知識】江戸初期築城の 庭瀬城(撫川城)が、2藩の陣屋へ分離されるまで ■■■
  庭瀬往来を 歩く ~ 応徳寺、住吉神社、金毘羅往来の 道標、信城寺、法万寺川、石燈篭
  庭瀬城下町 今昔マップ
  【豆知識】江戸時代に 岡山藩によって整備された 六官道の一つ「庭瀬往来」 ■■■
  城下町郊外すぐには、富裕な農家「庄屋」層の 屋敷が点在していた
  地元農村の 大庄屋次男坊・犬養毅(29代目首相、5・15事件で暗殺)の 生家を訪ねる
  庭瀬往来の西端エリアを歩く ~ 足守川にあった 撫川橋、常夜灯と親柱、木門跡



投宿先の 倉敷駅 から、JR線で 2つ東隣の「庭瀬駅」で下車する。
この日は成人式があったようで、晴れ着姿の女性やスーツ姿の男性がちらほらいた。

岡山市北区庭瀬

駅前通りを北上し、一つ目の角にあるローソンを左折する(下写真。交差点角に「城跡」の案内板あり)。この路地は住宅街を貫く県道 151号線で道幅の細いものだったが、結構、交通量があった。

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県道 151号線を移動中、北へ通じる路地を進む。正面に水路があり、それを西進した。この一帯は至る所に水路が通っていたが、特に水が流れているわけでもなく、用水路自体がため池代わりとなって水を湛えている印象だった。

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曲がり角を越えると大坊不変院の角に至る(下写真)。立派な水堀が残っていた。かつての庭瀬城下の総構え堀にあたる。複数の寺院が集められ、寺町が形成されていたエリア。

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不変院の境内に入ってみる。この石橋も江戸期からあったものだ(下写真左)。ここから水堀へ下りられる石階段も残っていた(下写真右)。

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不変院の内部は広々とした空間だった(下写真左)。その中に、庭瀬城の案内板が掲示されていたので、墓地を通過して西進する(下写真右)。

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さらに西隣には正善院と大乗院も立地していた(下写真)。

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この一角は、江戸期から寺院が集められたエリアだった(下地図)。
なお、岡山県は室町時代から日蓮宗が強い土地柄だったらしく、この寺町の一角を占めた寺院はすべて同宗派に属する。

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上絵図は、幕末期の 庭瀬藩(2万石)陣屋&藩邸の全体図で、その範囲は 東西・南北共に約 200 m前後の四角形であったという。当初は 関ヶ原合戦 直後に築城された庭瀬城の、三の丸から城下町地区に相当するエリアだった。
いよいよ、庭瀬陣屋の中央部に立地した弁天宮に至る(上地図②)。ここに残る自然石を積み上げた石垣は、江戸期から残る庭瀬城の遺構という。下写真。
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小さな人工島の内部は、弁天宮の境内スペースだけだった(下写真)。
この弁天島の南側 一帯(上写真の弁天宮の後方エリア)に 庭瀬藩(庭瀬陣屋)の内屋敷があった。

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「弁天島」とも言うべき人工島を通り抜けると(下写真左)、そのまま清山神社の境内に至る(下写真右)。この清山神社が立地する場所が内屋敷で、藩主御殿や政庁などが立地していた。

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なお、この清山神社であるが、庭瀬藩主であった 板倉勝喜(1765~1842年)が内屋敷の北東端に建立した廟所で(1793年)、板倉家中興の祖である 板倉重昌(1588~1638年。島原の乱鎮圧軍の総大将を拝命されるも戦死)・重矩(1617~1673年。 4代目将軍・徳川家綱を補佐し、老中・京都所司代 などを歴任)の父子を祀ったもの。あわせて自家歴代の遺品を収納したという。これらの遺品は現在、吉備公民館内に移管されている。

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上写真左は清山神社の境内東半分。このほどんどが、かつて堀川であった(後方の住宅地との間に、細い水路が現存する)。
上写真右は、清山神社の裏にあった「邸内公民館」。藩主邸宅があった内屋敷跡地の名残りで、当地区の自治会集会所となっているらしかった。

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清山神社を抜けて、弁天島の西隣まで進む(上写真)。この堀川が上の古地図で「丸池」と記載されていたポイントだ。つまり現在、筆者が立つ西岸は、北の中屋敷と南の内屋敷とをつなぐ土橋があったエリアである。

さらに西へ進むと、撫川知行所 との境界線だった用水路を渡る(下写真)。ちなみに、下写真左の正面に二棟見えるアパート部分は、かつて中屋敷があった場所だ。
下写真右は、逆に南面で内屋敷があったエリア。前述の「邸内公民館」を構成する地区と思われる。

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ここまでの移動経路は、以下の通り。
北側の中屋敷に対し、南側の内屋敷に領主御殿や政庁が立地していた。絵図にある内屋敷には清山神社が描かれておらず、建立の 1793年以前の様子かと思われる。

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なお、弁天宮や清山神社は、ちょうど内屋敷の鬼門にあたる 北東(丑寅)方向に配されており、さらにその延長線上に先述の正善院などの寺町が立地していることが分かる。庭瀬藩と藩主を守るように配置設計されていた。
なお、上絵図で一番南側に描かれている 藩主邸(内屋敷)であるが、内塀でしっかり囲まれた中に、家屋六軒からなる藩主御殿があり、その裏手には池を配して植栽をおこなった庭園や茶室も整備されていたという。藩主邸の入口部分には「番所」があり、門の出入りが監視されていた。

この庭瀬藩の陣屋は、もともと江戸初期に建造された庭瀬城の三の丸、城下町地区を再編したもので、当時から城の 正門(表御門)は北側を向いており、物流の要となる 街道「庭瀬(鴨方)往来」と接続されていた。
庭瀬城時代の総構え堀を外堀に転用し、 かつての三の丸だった 中屋敷や内屋敷、弁天島などは内堀でさらに囲まれる設計であった。この外堀と内堀で囲まれた内部は、東西南北で 200m四方のサイズだったという

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そのまま 撫川知行所(撫川陣屋)領内に至り、少し西へ直進すると(約 300 m)、陣屋本丸跡にたどりつく。上写真。
南面に回ってみて、本丸跡地の正門をくぐり敷地に入ってみる。なお、この 門(下写真左)は本物の撫川知行所総門を明治になって当地に移築したもので、1957年5月に岡山県により史跡指定されている。
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ここは、江戸時代初期に築城された庭瀬城のもともとの本丸部分で、東西 70 m、南北 50 mの長方形型をしており、幅 15 mの堀が四方をぐるりと巡らされている。
と、その本丸敷地に井戸跡が残されていたが、不審者がゴミを捨てて埋めるとかで警告板が掲示されていた(下写真左)。

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特に、この南面には自然石を使った野面積みの 石垣面(下写真。高さ 4 m強)と、櫓台の 跡(上写真右)と思わしき土塁が顕著に残っていた。

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下写真は、北西隅にもあった櫓台跡と思われる石垣の張り出し部分。その真下の水掘には、往時の堀川の形状がしっかり残されていた。

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ここまでの移動ルートは、以下の通り(赤ライン)。

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 江戸初期築城の 庭瀬城(撫川城)が、2藩の陣屋へ分離されるまで

室町時代中期、備中国では守護職・細川氏の権威が早くに失墜し、有力国人衆らが割拠する混乱状態に陥っていた。その中で台頭した 備中成羽城主・三村家親(?~1566年)が、東隣の戦国大名・宇喜多直家が勢力を持つ備前国への固めとしてこの地に庭瀬城を築城したと伝えられる(1559年)。当時、海岸に近い泥沼地が広がるエリアで非常な難工事であったが、典型的な沼城スタイルで完成されると、付近の地名から芝場城とも通称されることとなった。

その後、守護所・松山城を占領した三村家親は備中国を統一し(1561年)、西の 毛利氏 と組んで東の宇喜多直家と対抗するも、直家の謀略により家親が暗殺されてしまうと(1566年)、その 子・三村元親が弔い合戦で宇喜多直家を幾度も攻めることとなる。しかし、同盟者だった毛利氏が宇喜多氏と和睦すると、これに憤激した三村元親は反毛利で挙兵し、 1575年に毛利氏によって滅ぼされ自刃する。以後、庭瀬城は毛利氏の支配下に組み込まれる。

ちょうどこの 1570年代後半は、織田信長が 中国・播磨地方へ勢力伸長を図っていたタイミングで、1579年10月には同盟関係にあった宇喜多直家が信長側に寝返ると、庭瀬城は毛利方の国境防備の要「境目 7城」の一つとなり、城主の井上有景が 800余人を率い守備に入ることとなる。
ついに 1582年春、秀吉軍が備中の国境を侵して襲来すると、庭瀬城の位置が孤立した場所にあったため、毛利本隊を率いた小早川隆景から撤退するように下命されていたが、城主・井上有景はその命令に背いて籠城し、宇喜多軍との間で激戦が交わされ、落城してしまう。


そのまま占領された庭瀬城は宇喜多氏の支配下となり、対毛利の前線基地として大規模に増強工事が手掛けられたと考えられる。しかし、後に城番は離任し廃城とされる。

宇喜多直家が 1581年末に死去すると若い 秀家(10歳。1572~1655年)を補佐すべく、 異母弟の 宇喜多忠家(1533~1609年?)を中心に、長船貞親(?~1591年)、岡家利(?~1592年)、戸川秀安(1538~1597年)・達安(1567~1628年)父子の 4家老が宇喜多家を執政した。しかし、 長船貞親の嫡男である 長船綱直(?~1599年?)が次第に独裁政治を進め、宇喜多秀家もこれを支持したことから、家臣団が真っ二つに分かれることとなった。特に、もともと日蓮宗が強かった宇喜多領にキリシタンを広めようとした宗教政策の問題が指摘されている。 こうして 1599年1月に宇喜多家の 家中騒動(宇喜多騒動)が表面化し、日蓮宗を支持した 戸川達安、花房正成・職秀ら旧来の有力家臣は主家から離れ、国外へ出奔することとなる。

この出奔組は 翌 1600年に勃発した関ヶ原合戦 で徳川方に与して戦功を立てたことにより、備中国に領地を分与されて再び帰国する運びとなった。花房職秀は 高松知行所(幕府直轄領の旗本)の代官として備中高松城へ、戸川達安は備中国の都宇郡と賀陽郡の 2郡合計 29,200石を与えられ、庭瀬藩を立藩する。
再び備中国に復帰した戸川達安は廃城となっていた庭瀬城を大規模に拡張させ、近世城郭と城下町を整備する(1602年)。本丸、二の丸、三の丸をそれぞれ堀川で区画した平城で、その北側に町人町を配するものであった。

この 初代藩主・戸川達安 以降、二代目・正安、三代目・安宣までは順調に継承されるも、四代目・安風が 9歳で死去すると嗣子なしで断絶の危機に瀕する(1679年)。いったんは改易され幕府直轄地に組み込まれた後、1683年に 久世重之(1659~1720年。幕府老中を兼務)が下総国関宿藩から 5万石で入部して再度、庭瀬藩が立藩されると、同年、戸川安風の 弟・達富が 5000石だけを継承することを許され、撫川知行所の代官職を担当することとなる(幕府直轄領の交代寄合旗本となる)。

その際、戸川達安が築城普請し、代々、戸川家の藩邸があり、また家老たちの屋敷地があった庭瀬城の本丸、二の丸はそのまま戸川家の土地とされ、その二の丸藩邸を改修して 撫川知行所(撫川陣屋)を設け、以後、8代で明治を迎えることとなる。下絵図。
対して三の丸は、庭瀬藩 5万石を継承した久世重之が新たに 藩邸(陣屋)を建設して入居することとなり、この時、庭瀬城は庭瀬藩と 撫川知行所(幕府天領)のぞれぞれの居城に分離されたわけである(下絵図)。こうして、もともとは一つだった庭瀬城を一区画ずつを分け合う形で、両者はほぼ隣合わせの距離に立地することとなった。

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その後、庭瀬藩では久世重之が 3年後の 1686年に 丹波亀山 に移封されると、 1693年に大和国興留藩の 松平信通(1676~1722年)が藩主となって 2万石で入封する(1697年に出羽国上山藩へ転封)。その後、板倉重高(1667~1713年)が同じく 2万石を与えられ 1699年に上総国高滝藩から入部すると、以後、板倉氏が 11代、170年余年に渡り、明治維新まで庭瀬藩を治めた。
なお、庭瀬城の城下町はそのまま庭瀬藩の管轄区域となった。



撫川城本丸から出ると、南側の用水路まで散歩してみた。見渡す限り、田畑と水路がどこまでも続いていた(下写真左)。しかし、周囲は蔵持ちの古い農家がたくさん現存しており(下写真右)、往時から城下町に近く、庄屋級の富裕な上級農民らが住んでいたと推察される。

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突き当りの交差点から北へ進むと、旧城下町を東西に貫通していた、街道「庭瀬往来」に行き当たる(下写真左)。この道を東進すると、正面つきあたりに見える肌色の長方形 3Fの建物前に、応徳寺(下写真右の左手に見える境内)と住吉神社が立地していた。

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下写真は、住吉神社。
なお、住吉神社(航海安全の神として崇拝される)は 1680年代前半に、当地の 商人・吉岡屋新助が 大阪 の住吉神社の分霊を自分の屋敷内に鎮守として祀ったことに由来するという。当時、吉岡屋は海運業を営んでいたので、国内で広く崇拝されていた海の守護神を勧進したのだった。その後、江戸後期に至ると、吉岡屋は油の製造にも事業を拡げて富を成し、住吉神社前の水路に面して専用の船着き場を設け、物資の搬出搬入を行うまでになっていたという。

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下写真左は、ちょうど住吉神社の向かいに残っていた、金毘羅往来を示す道標の石碑。この左手後方の民家が、かつての 地元豪商・吉岡屋の店舗兼邸宅であった。

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なお、この金毘羅往来は、江戸時代に岡山藩により放射線状に整備された六官道の一つで、岡山城下の 栄町(今の 岡山市北区表町 3丁目附近)を起点として敷設されていた。途中まで庭瀬往来と合流しており、この交差点から 南の児島、下津井 へと枝分かれする道標となっていたわけである。その名の通り、香川県にある金刀比羅宮に参拝する街道で、同宮は近世まで金刀比羅大権現や「こんぴらさん」という名で親しまれ、船乗りや漁民だけでなく、商工業者から農民に至るまで海上守護、災害除去の神様として戦国時代末期から全国的に信仰が広まっていたという。

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さらに直進すると、法万寺川を渡った(上写真左)。
その脇に新城寺があり、白壁の裏に常夜灯(高さ 4 m)が保存されていた(上写真右)。

もともとは、撫川知行領と庭瀬藩の境を成す法万寺川の西岸にあった。当時は暗夜のための街灯として利用され、この光明を頼りに人々が往来したという。昭和に入り、この旧街道脇に歩道を増設するため撤去され、信城寺の境内に移設されたという。

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この信城寺の東隣の三差路前にも、古い木造町屋の商家が保存されていた(下写真左)。庭瀬往来沿いには今でも 40戸ほどの古民家、寺院の古刹が現存するという。
ここから北へと進路を変え、県道 162号線を縦断する(中田十字路の交差点)。

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そのまま交差点を過ぎて北へ進み、犬養毅の生家を目指すことにした。上写真右は、その道中に目にした民家。枝を伐採したままの凸凹面の材木が塀柱に使用されているのを初めて見た。

ここまでの移動ルートは、以下の通り(緑ライン)。

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関ヶ原合戦 の戦功により、戸川達安 が初代庭瀬藩主として入封し庭瀬城が築城されると、三の丸の北に城下町が整備され、以後、庭瀬藩の城下町、また 1683年以降は 撫川陣屋の陣屋町として二重の行政府下の町人町として栄えることとなる。最終的に、東西 1km強にわたって城下町が拡大されていった。

なお、この江戸時代、東隣の岡山藩によって岡山城下を起点に 6官道が放射状に整備されていた(下地図)。すなわち、金毘羅往来、鴨方往来、松山往来、津山往来、牛窓往来、倉敷往来である。この庭瀬城下まで 金毘羅往来と鴨方往来、倉敷往来は共通の道路を使用しており、当地までは「庭瀬往来」と総称されていたのだった。
特に 岡山藩 とその支藩である生坂藩(倉敷市)と 鴨方藩(浅口市)を結んで物資や人員の往来が頻繁にあり(下地図)、そうした公務から私的な商取引まで、あらゆる物流の中間地点として庭瀬城下町は非常に賑わったという。さらに 北の近世山陽道の 板倉宿(吉備津)とも南北の陸路で結ばれていたため、山陽道からアクセスして来る人も多かったという。

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また庭瀬の城下町は、足守川とその支流を利用した船運業も盛んで、地区内に張り巡らされた堀、水路を水運等に活用し、水郷の町としても発展を遂げる。
足守川の河岸には瀬戸内海を航行する船が出入りし、足守藩(上地図)の年貢米の積出し港としても重要な機能を有していた。この河岸で荷揚げされた積み荷は、海船から小船に積み替えて 旧庭瀬港(内港)へも入港されていた。こうして、内海航行船の遡航上限の川湊であった 庭瀬港(内港)は水陸交通の便が良く、備中南東部の物資集散地として繁栄する。
なお、その港湾部には水路に面しては 雁木(階段状の船着き場)が設けられ、入港する船のため木造で大型の常夜灯も建てられる(1700年代。現在は復元された常夜灯が設置されている)。水路沿いには船問屋などの水運関係の商人など多くの人々が居住し、また陸路の庭瀬往来沿いは 米屋、魚屋、旅宿屋などが軒を連ねるなど、物流から卸売、小売に至る商人活動が活発であったという。ここから、幕府の備中代官所が置かれた倉敷知行所の港町、および備中第一の商港と称された 玉島港(備中松山藩が統括した、高梁川河口部の港町)、また出雲往来と連結する商港・笠岡などとも結ばれ、水運ネットワークが大いに発展した。上地図。

現在の撫川住吉地区では、東西 250 mにわたって道路幅が拡張されているが、これは広かった水路を埋め立てたもので、かつては水路部分がかなりの面積を有していたようである。一部の商屋は、その堀や水路の一支流を自家専用として利用し、独自に舟運を使い商いを行っていた。

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なお、当地のオリジナル・ブランドとして、江戸中期の 1700年前後に 庭瀬藩(板倉氏の治世下)や撫川知行所の武士達の内職としてスタートされたのが、「撫川うちわ」であった。江戸後半に至ると、中国、四国、九州各藩の諸侯の武士団が参勤交代の道中に、江戸 や国元への土産品として撫川うちわを購入していったという。やや大ふりな扇面に優雅な図柄を挟み込んでいるところに特徴があり、その伝統技法に則って現在も製作され続けている。

1891年に 山陽鉄道(現在の JR山陽本線)が開通して以降、船の往来も減少し、1960年前後には水路も半分ほどの幅にまで埋め立てられてしまう。また庭瀬港のシンボルだった常夜灯も 1954年の暴風により被害を受けて撤去されると、その 基礎(地伏石)だけがもともとの位置で残されるだけとなった。 2007年、埋め立てられていた 旧庭瀬港(内港)が部分的に復元整備され、また当時の常夜灯の石積護岸の一部と約 3 m四方の 基礎(地伏石)を使用して常夜灯が再建され、当時の 旧庭瀬港(内港)の景観が復元されている。



そのまま直進し、用水路 沿いを進む。道路沿いには、広い敷地や蔵を残す民家がいくつも残っており(下写真)、城下町に近い田園地帯にあって庄屋層が住居を構えたエリアだったのだろうか。。。と妄想しながら歩いた。

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ちょうど複雑に用水路と道路が交わるポイントを左折すると、犬養毅(号:木堂)生家に到着した。
水路を挟んで立地する 犬養木堂記念館(1993年10月開館)では、犬養毅の 遺品、遺墨、写真、手紙などが展示されており、中でも 25分ほどの DVDはなかなか見応えがあった。


犬養家は代々、地元の庄屋や庭瀬藩の 要職(郡奉行)を勤めた農家で、この 犬養毅(号:木堂)の生家はその子孫の厚意により、江戸時代前期に建てられた主屋をはじめ、門、土蔵など敷地ごと岡山県に寄贈されたものである(1976年)。老朽化がひどかったため、同年すぐに再建工事が着手され、 1979年に 18世紀前半頃の姿で復元が完成する。

1977年、江戸後期の 郡奉行・大庄屋の屋敷地として文化的価値がきわめて高いことから、すぐに岡山県指定の史跡となり、さらに翌 1978年、この母屋と土蔵は県内で特に建設年代が古く、この地方の上層庄屋の屋敷構えや整備された住居がよく残り貴重な遺構であることから、国の重要文化財の指定を受けるに至る。

下の 犬養(犬飼)家家系図にある通り、古墳時代に大和政権から吉備国の反乱平定のために派遣された吉備津彦命の従者の子孫、と謳う。吉備津彦命の 吉備国・温羅の征伐物語は後に桃太郎伝説へとつながっていくが、ここに登場する 犬、猿、雉が、当時、実在した犬飼部の 犬飼健命(いぬかいたけるのみこと)、猿飼部の 楽々森彦命(ささもりひこのみこと)、鳥飼部の 留玉臣命(とめたまおみのみこと)と言われ、犬飼家はこの犬飼健命の末裔と言い伝えられていたという。

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犬養毅は 1855年 4月20日、この庄屋を兼ねた 富農一族・犬飼家(上京前後に「犬養」と改める)の次男として誕生する。
5歳頃から父親に「四書五経」を教わり、10歳ごろには 隣村(倉敷市山地)の犬飼松窓の三余塾に通学していた。13歳で父親が亡くなり(1868年)、14歳時には家計を助けるため実家で兄と共に地元の子弟に文字を教える私塾(門脇の一室を利用)を開いていたという。
17歳で 小田県庁地券局(現在の 岡山県笠岡市)に勤め、この 時「万国公法(今の国際法)」に接し、洋学に魅了される。
1875年、20歳で上京し、湯島 にある 共慣義塾(南部藩最後の藩主であった南部利恭が廃藩後に上京し、私財を投じて開設した私立の英語学校。原敬や新渡戸稲造らも通学した)に入学、翌 1876年に慶應義塾へ転学するも、学費、生活費の工面に苦労し続け、親戚中からお金を借りたり、「郵便報知新聞」に寄稿しながらの苦学生活を過ごした。
1877年、22歳の時に郵便報知新聞の従軍記者(戦地探偵人)として西南戦争の 戦地(九州)に赴き、100回以上もの 戦地ルポ「戦地直報」を配信し名声を博する。その後、1880年に慶応義塾を中退後、「東海経済新報」など雑誌の編集に携わる。
1881年、26歳の時、統計院権少書記官となるも、2ヵ月ほどで退官。その後、郵便報知新聞、秋田日報、朝野新聞などの記者として活躍した。
1890年、36歳で衆議院議員に初当選し、以後、憲政擁護運動の先頭に立った。 1931年、第 29代内閣総理大臣となったが、翌 1932年5月15日、首相官邸において兇徒に襲われ、「話せばわかる」の言葉を最後に志半ばで果てることとなる。



記念館の見学後、そのまま西進して足守川の土手へ向かう。犬養木堂記念館の後方を振り返ってみると、広大な敷地だったことが分かる(下写真左)。
下写真は、犬養毅生家から庭瀬藩の城下町方向を見渡したもの。徒歩で 15分強の農村地帯の庄屋で、非常に地の利に恵まれていたことが伺い知れる。

岡山市北区庭瀬 岡山市北区庭瀬

続いて田んぼのど真ん中に立地する、超モダンな「中国学園大学・中国短期大学附属 たねのくにこども園」の 校舎脇(2019年春に完成したばかり)を通り、足守川の土手に登る。
下写真左は、この土手上から庭瀬城下町の方向を遠望したもの。右半分の草むらは、足守川の川辺。

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この東岸の土手は自動車の往来もなく、ゆったり歩けたが、足守川の西岸土手へ移ると、自動車が猛スピードで脇を通り抜けていく危険な道路だった。
さすがにたまりかね、土手下に降りてみる。ちょうど、地元消防団の駐車場前だった(上写真右)。その脇には、吉備上水道局跡の記念碑が設置されていた(犬養毅の 三男・犬養健による直筆)。

ここから自動車道を避け、土手と平行に走る農道を南下した。そして、再び土手道へ上がると、南に県道 162号線が通る橋を横目に、一つ北側の静かな橋を渡って東岸へ戻った。

岡山市北区庭瀬 岡山市北区庭瀬

そのまま東岸を南下し、県道 162号線を越えて南に至ると、かつての旧街道筋に戻ってこれた(上写真左)。写真に見える細い路地を東進していると、三差路にあった大橋中之町公民館前に立派な石造りの常夜灯と 撫川大橋の親柱が保存されていた(上写真右)。

かつて、この庭瀬往来が足守川を渡る所に撫川橋という 橋(全長 22 m)が架けられていた。1916年に建設されたもので、地元で「大橋」という名で親しまれていたという。その袂に、これらの常夜灯(「金毘羅大権現」と刻印)と 親柱(「おほはし(大橋)」と刻印)が配されていたものを、上記の場所に移築したというわけだった。

岡山市北区庭瀬 岡山市北区庭瀬

ここから L字型に急カーブする街道沿いを東へ進む(上写真左)。
しばらくすると、小さな川を渡った(上写真右)。ここに木門跡の解説板が設置されていた。
かつて、城下町には警備のため 7つの出入口があり、それぞれに木門が設けられて開閉時間が管理されていた。通常は木門脇には番所が付設され木門番が住み込んでいたが、庭瀬藩では公式記録がなく番人がいたかどうかは不明という。

そのまま街道沿いを東進し、松林寺の脇から南の住宅街に入り、往路に通ったローソン脇に出てきた。帰りはやや迷路のようになってしまったが、無事に駅までたどり着けた。そのまま投宿先の 倉敷駅 へ戻った。

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