BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2020年1月中旬 『大陸西遊記』~


岡山県 岡山市 ③(北区高松) ~ 市内人口 72万人、一人当たり GDP 290万円(岡山県 全体)


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  秀吉軍が兵を展開した 備中平野を歩く ~ JR中庄駅から JR備中高松駅へ
  備中高松城水攻めの タイムテーブル ~ 4月15日の秀吉到着から 6月4日の開城まで
  1910年11月の 明治天皇による陸軍大演習 統監跡 と 古代遺跡「惣爪塔跡」
  旧山陽道沿いの 要衝だった「境目 7城」の 2城 ~ 日幡城(日畑城) と 鴨庄城(加茂城)
  舟橋跡 ~ 備中高松城の 三の丸大手入り口 と 戦時体制への移行
  沼城 & 土城「備中高松城」の イメージ図
  備中高松城の 今昔マップ
  備中高松城跡公園 ~ 武家屋敷島だった 三の丸、城址公園資料館がある 二の丸
  周囲の沼や外堀から 4 mの高さだった 備中高松城の 本丸跡(唯一、水没せず)
  秀吉軍 2万、宇喜多軍 1万、毛利軍 1万に囲まれた四方を、本丸から見渡してみる
  妙玄寺 ~ 花房職之が自家のために建立した菩提寺 と 清水宗治の廟所
  ごうやぶ遺跡 ~ 高松城主・清水宗治の自刃前に殉死した 2家臣の碑
  秀吉が本陣を構えた 日本三大稲荷「最上稲荷」と 高さ 27.5 mの 大鳥居
  蛙ヶ鼻築堤跡 ~ 秀吉が築造した 水攻め土手跡
  【豆知識】秀吉攻略前の 備中高松城 ~ 山陽道の北へ通じる 松山往来の要衝の地 ■■■
  【豆知識】攻略後の 備中高松城 ~ 江戸期には 幕府直轄領(高松知行所)陣屋へ ■■■



この日 は非常によく歩いた。
投宿先の 倉敷駅 から JR線で一つ目の 中庄駅 で下車し(190円)、近くの 松島城跡 を見学後、徒歩で備中高松駅まで縦断してみることにした。途中、岩倉神社日幡城(日畑城)跡などを訪問しながらの散策だった。
ちょうど、この備中平野一帯を秀吉配下の調略使者と小部隊が暗躍していたわけである。

毛利方 を離反した 宇喜多直家(1529~1581年末)が 1580年、山陽道沿いに西進し、街道沿いの日幡城と鴨庄城へ攻撃を加えるも、毛利から援軍に派遣されていた上原元将と村上水軍の来島通房らの加勢により撃退される。秀吉はこの頃、 三木城を中心とした播磨平定戦鳥取城攻略 に多忙のタイミングで、秀吉による毛利国境への波状攻撃の一環として展開された軍事行動だったと推察される。そのため単体で派兵させられた宇喜多軍の士気は高いものではなかった。

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そして、いよいよ 1582年4月、羽柴秀吉の率いる 2万の大軍が播磨を経由し備中へと進軍してくる。備前で宇喜多軍 1万(前年末に直家が死去したため、直家の 弟・宇喜多忠家【1533~1609?年】が代理として遠征軍を指揮した)も合流し、総勢 3万の大軍勢に膨れ上がる。2年前より毛利氏は境目 7城(宮地山城、冠山城、備中高松城、鴨庄城、日幡城庭瀬城松島城)のそれぞれに援軍と家臣らを派遣して防備を固めさせていたが、秀吉方の調略と攻撃により 宮路山城、冠山城、亀石城の一部が内通し、 これら 3城は数日~数週間で落城してしまう。

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そして、この 日幡城 も毛利救援軍として入城していた 上原元将(?~1584年)が秀吉軍との内応を決意し、城主の日幡景親を殺害して宇喜多勢を招き入れるも、毛利援軍を指揮した 吉川元春小早川隆景 らの攻撃を受け、防衛力が低い日幡城はあっけなく開城し、上原元将らは秀吉本陣へ逃亡することとなるのだった。

また 松島城 であるが、これは相当に西後方に立地しており、備中平野の北端を東西に貫通する 山陽道沿い(下写真。前方に見える山脈の山裾あたり)に主力軍を進めていた秀吉方からはアクセスも悪く、特に調略や攻撃は行われていない。その秀吉軍があきらめた距離を、意図せざる形で、この日、筆者は踏破したわけである。

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下写真は、足守川の北を見渡したもの。この先 4 km圏内に 鴨庄城、備中高松城、宮地山城、冠山城の国境 4城が立地する。
備中高松城を水攻めしていた当時、遠方に見える山脈に秀吉の大軍が陣を構え、左手の足守川を挟んだ 山地(日差山上の鷹ノ巣城から 天神山にかけての斜面)一帯に 毛利援軍(吉川元春小早川隆景 ら)が兵を展開してにらみ合っていた。実際には交戦のためというより、両軍の間では和睦交渉が進められていたわけである(秀吉軍が 4月15日に着陣したにもかかわらず、毛利軍の着陣は 5月21日という遅さ。すでに堤防による水攻めが完成した後だった)。しかし、それを知らない境目 7城の残り 5城(備中高松城・鴨庄城・日幡城庭瀬城松島城)の籠城軍は、水攻めを前に動きがとれない毛利本隊に相当、不安を感じたのも仕方あるまい。

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下写真は備中平野の南方向を眺めたもの。この先 4kmに 庭瀬城 が立地する。
山陽道沿いに西進してきた秀吉本隊に対し、宇喜多軍の別動隊が南へも展開し 庭瀬城(守備兵 800)を攻撃するも、沼地と水田の中に立地する堅固さから相当に手こずる。最終的に落城させ宇喜多領に組み込むことに成功していた。

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日幡城 から足守川にかかる北橋を渡った、この備中平野を見渡す土手から、岡山市域となっていた。足守川の西岸は自動車の往来が多かったが、この東岸は細い道路で全く自動車の通行が無く気楽に散策できた(上写真)。
そのまま土手沿いに北へ進むと 惣爪遊園地 があり(下写真左の中央奥)、その丘の上に 石碑「龍蹤(りゅうしょう)表彰之碑」が立っていた。園内の入り口付近には「明治天皇惣爪御野立所」の巨大な石碑も見える(下写真右の中央に見える長方形。1936年11月に国指定の史跡と記されていた)。

1910年 11月14日~16日、明治天皇がこの土盛り上から 陸軍大演習(13~17日)を統監した場所という。この前年の 1909年10月26日、ハルビン駅で日本の 枢密院議長・伊藤博文が朝鮮民族主義者の安重根に暗殺されると、それまで軍部拡大反対で国際協調路線を重視した伊藤派は排除され、山県有朋らの軍閥グループが台頭する。そして、翌 1910年6月3日に韓国併合が強行され、日本がますます軍国主義化への道を歩もうとしていたタイミングでの、天皇の全国視察だったわけである。

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下写真はこの丘上から、備中平野を見渡したもの。手前に見える六角形屋根の小屋はトイレ。
写真中央の民家の左横にヤシの木があり、別の石碑が設置されている。ここは早くも 1928年2月7日に国により指定された史跡で、惣爪塔跡の 礎石(心礎)が一つ残されている。

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これは、地元で古くから「石の釜」と通称された石材で、柱建て用として石の中央部が人工的に円形にえぐられていた。奈良時代前期、これを含めた多くの石材を礎石として利用し塔や寺院が建立されており、一大伽藍が営まれていた名残りと考えられている。発掘調査の後、一帯の土地は地元民へ払い下げられ水田開発されてしまい、その他の遺構は完全に破壊されてしまったという(下写真)。唯一現存する遺構が、この礎石一つ、というわけだった。また、このエリア一帯は弥生時代の集落地跡でもあり、水田の下から貝や土器その他の遺物が発見されているらしい。

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少し先で、県道 73号線 を縦断する(下写真左の前方に見える 自動車道と橋)。下写真右は、県道が足守川を渡る矢部橋。古代より、ここが山陽道であった。

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高松城の水攻め後、秀吉軍の中国大返しはここを駆け抜けて 姫路 へ戻っていくわけである。

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さらに北上すると、土手前方に岡山市立加茂小学校が見えてくる(下写真)。
この東にあったのが、毛利方の境目 7城の一角、鴨庄城(加茂城)であった。現在は完全に宅地開発され、城郭遺構は一切、残されていない。ここでも秀吉の調略に応じた部隊と毛利派との間で内紛があったが、最終的に毛利方が守り通した。備中高松城落城後、廃城となっている。

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岡山市立加茂小学校前に至ると土手を下り、県道 73号線に入る。高速道路の高架脇に宗蓮寺があった。
あまりに通行量が少なく、農道と化しつつある県道 73号線を進むと(下写真左)、岡山県立高松農業高校前に至った(下写真右)。農業高校だけあって周辺は農園や牧畜の牛舎などが点在し、香ばしい匂いを附近一帯に放っていた。

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そのまま高校沿いの県道を進み続けると、ようやく国道 180号線に至る。
一気に商店街が広がるストリートとなり、先ほどまでののどかな田園地帯とは打って変わって騒がしい雰囲気に包まれる。
道路向かいの「Aコープたかまつ 味彩館」内には休憩用のベンチやテーブルがあったので、パンなどを購入し、4時間以上歩き続けた身体を休ませてもらった。トイレも綺麗だった。

そろそろ夕刻の時間帯が始まり、小雨が降りだす。
本日の本命である備中高松城を目指し、スーパー脇の 線路踏切(吉備線)を縦断する(「城跡道踏切」と命名されていた)。その東方向に JR備中高松駅が見えた。

ここから 5分弱ほど北上すると、備中高松城 舟橋跡 という小さな橋を渡る。

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平城(沼城)であった備中高松城は、三方を水田と沼地で囲まれていたが、三の丸南口を正門とする同城にあって、唯一土手道が整備されていたのがこの南方向であった。その道幅は狭く、一人がようやくすれ違う程度のものだったという。
ただでさえ、大軍勢が一気に攻め寄せられない地形であったにもかかわらず、高松城主・清水宗治は開戦直前にその唯一の土手道すら撤去し、周囲の深田と同様な外堀を掘削してしまう。土手道が喪失されて以降、この沼池上に小船を横並びにして上に橋板を渡し、全長約 64 mの「舟橋」を臨時に架設していたのだった。
秀吉軍が到着するギリギリまで城兵の出入りや物資の搬入路とし、最終段階で小舟を切り離して陸の孤島となる設計であった。現在、ここを流れる水路はその往時の外堀跡の一部、というわけである。下写真。

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なお、南に「舟橋」が架設されたころ、三の丸の北西部にも仮の舟橋が押出し工法で臨時設置され、周囲の住民らの避難や物資搬入で便宜を図っていたという。下絵図。

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さらに 1分ほど進むと高松城跡公園に至る(下写真左)。
全体の印象としては城跡公園というより、湿地公園といった趣であった。わずかに残る凹凸の地形が、往時の様子をかすかに今に伝えていた。

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上写真右は「三の丸」跡地。
戦国期、高松城域は 本丸、二の丸、三の丸と各曲輪が並列して築造されており(下絵図)、この三の丸曲輪内に家中屋敷と呼ばれる重臣らの家々が軒を連ねていた。発掘調査により、堀や井戸が見つかっているという。水攻めの際、本丸以外はすべて水没している。
なお、中級以下の武士らは城外のいくつかの集落地に居住し、地元の土豪や半農の者が多かったと推察される。

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現在の高松城址公園は往時の 5~6分の 1程度の規模で、実際はもっと巨大であったことが上絵図から読み取れる。本来の曲輪群は道路向かいの住宅地、田んぼエリアに広がっていた。下写真。

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また、三の丸入口には、 秀吉が築いた 堤防土手(海抜 8.4 m)と 高松城本丸(海抜 7.0 m。周囲の沼地との高低差は実質 4 m)との高度データが解説板を使って明示されており、秀吉が本丸よりも高い土手を築造し、高松城全てを完全に水没させてしまおうという本気度を見せつけるものだった。

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その先の二の丸敷地角には高松城址公園資料館もあったが(下写真左の奥に見える白壁小屋)、15:00閉館ということで間に合わなかった。
そして、その北は本丸曲輪跡への橋がつながっていた(下写真右)。

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二の丸、三の丸跡地は湿地公園として整地され全く見応えがなかったが、本丸スペースは幾分、凹凸の形状が残っていた(下写真)。高松城自体は水攻め後、新城主の 宇喜多家 家老・花房正成(1555~1623年。江戸時代に 幕府直轄領・備中猿掛の代官となる)により強化工事が施されて復活するも、江戸初期に本丸部分以外は破却されることとなる。高松知行地として幕府直轄領となり、この本丸部分に 陣屋(藩の役所となった屋敷)が開設されていたという。

後に陣屋は、秀吉土手跡の南外にあった原古才村へ移転される。岡山城と備中松山城とを結ぶ 街道「松山往来」により近い場所が選択されたのだった。

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また この本丸跡地には、明治末年に移築改葬された清水宗治公の首塚があり(下写真左)、切腹前に宗治が詠んだ辞世の句も石碑に刻まされていた(下写真右)。
なお、北西の三の丸内にあった家中屋敷跡の一画には宗治の遺骸を埋葬した胴塚も残されているという。
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この 本丸跡地から周囲を遠望してみる。

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下絵図は、水攻め当時の高松城本丸。

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続いて、道路の東向かいにある(高松山)妙玄寺を訪問してみる。下写真左。

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妙玄寺の東端に、真新しい清水宗治公の 廟所(上写真右の左端)と、自刃の地として設置された石造りの供養塔(上写真右の右端)が立地していた。


関ヶ原の戦功により 1600年、幕府天領の高松知行所の領主として赴任した 花房職之(職秀。1549~1617年。元・宇喜多直家・秀家父子の重臣だったが、宇喜多騒動前に出奔)により、廃城とされた高松城三の丸曲輪内に妙玄寺が建立される。彼はここを花房家の菩提寺に定める。
また自身が熱心な日蓮宗信者だったことから、その治領内の寺院をことごとく日蓮宗に改宗するとともに、秀吉軍の攻城戦で本陣に供せられ荒廃したままだった(最上稲荷山)妙教寺の再興に尽力し、新設した自家の 菩提寺「妙玄寺」を「最上稲荷高松城支院」と位置付ける。同時に、高松城の守護神として旧本丸内に祀られていた「北辰妙見大菩薩」も妙玄寺に移し、境内にある妙見堂に安置した。

なお、この境内の東隅辺りが 清水宗治(1537~1582年)が自刃した場所といわれ(上写真右)、地元領民たちにとっても特別な地であったことから、花房職之は宗治公の忠勇義烈に敬意を表し位牌を祀ることも忘れなかった。以後、この清水宗治を祀る廟所、および、花房家の 菩提寺「妙玄寺」の護持管理を、(最上稲荷山)妙教寺住職に委託する。以来、歴代住職により供養が継承され、1963年に一度、宗治の供養石塔が再建されていたが、痛みが激しかったため、新たに 2018年に再建されたものが現在の墓標という。
1617年に花房職之自身もこの地で死去すると、この妙玄寺に葬られた。



なお、高松城時代にはこの妙玄寺の境内はすべて三の丸曲輪であった。下写真の左端に見える妙玄寺、中央に見える「ごうやぶ(郷やぶ)遺跡」、その右横に数軒建つ民家までが、三の丸の範囲であった。

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なお、この「ごうやぶ遺跡(下写真)」であるが、1582年 6月4日 朝 10:00に切腹のため 城主・清水宗治が城中から舟をこぎ出そうとすると、「先に三途の川でお待ちしています」と言い残し、家来の七郎次郎と与十郎が先に城外へ出て、互いを刺し違えて殉死した場所とされる。

下写真の民家ギリギリ辺りが、三の丸曲輪の南端であった。

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なお 後方に見える山には秀吉の大軍勢が陣取っていた。
下写真は妙玄寺の後方に広がる墓地群。すべてが旧三の丸曲輪に位置する。相当に広大な城域を有する城であった。写真左端に見える、ひと際高い山が羽柴秀吉軍が最初に本陣を置いた、龍王山(287 m)である。その山裾には、(最上稲荷山)妙教寺が立地し、当初、秀吉はここに本陣を置いた。ちょうど、播磨平定戦時に円教寺があった書写山に本陣を置いた発想で、貴賓室を含む宿泊施設や相当数の 居住空間、井戸や土塀、石垣などがすでに標準装備されていた寺院を即席の軍事基地に転用したわけである。

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この 最上稲荷(妙教寺)は、伏見稲荷(京都)、豊川稲荷(愛知)と並ぶ日本三大稲荷で、1200年以上の歴史を誇る日蓮宗の大寺院であった(730年ごろ、報恩大師が開山)。秀吉軍が本陣を置いた際、堂宇を失うが、江戸時代初期に花房職之が高松知行所代官となって当地に赴任すると、江戸 から日円聖人を招き再興させたという。現在、境内にある妙見堂には前述の 花房家菩提寺「妙玄寺」と同様、備中高松城の 守護神「北辰妙見大菩薩」が祀られているという。

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さて、「ごうやぶ遺跡」の樹の脇にある農道を通って、南側の道路に出てみた。ちょうど、三の丸の南端にあたる場所である。
まっすぐ東進し、自動車がたくさん往来する県道 241号線に出る。その南側に巨大な最上稲荷の大鳥居があった(下写真)。これは、先の農業高校手前からも見えており、気になっていた場所だった。

吉備のシンボルとされる、高さ 27.5 m、総重量 2,800 t の大鳥居であるが、この周辺は昔から「水越し(水通し)」と言われ、大雨の度に雨水があふれ出し、洪水となって一帯の田畑に被害を与えながら必ず通過するポイントだったという。つまりは、足守川が増水して氾濫することはすでに地元で想定された年中行事で、その河水がここから南へ流れる地点を示す目印役をも兼ねたわけである。

なお、この道は最上稲荷の参道であり、初詣の際、岡山県最多の参拝者でごった返すという。かつて戦前は、備中高松駅まで鉄道が乗り入れており、その線路跡らしい。

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その脇を流れる農業用水路沿いを東進すると、秀吉が築造した水攻め 土手(蛙ヶ鼻築堤跡)遺跡が見えてくる(下写真)。大雨に際し、氾濫した流水はここを出口として、備中平野側へ流れ出るポイントになっていた。そのため、ここの堤防工事が最も入念に設計されたという。

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現在、堤防がギリギリ残る部分は、高松城水攻め史跡公園としてきれいに整備されていた(下写真左)。
現存する堤防土手はかなり分厚く高いもので、その頑丈さにビックリさせられた。また、土手上まで自由に登れるよう開放されており、歴史を身近に感じられる史跡だった。下写真右。

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このまま延々と西北西へ向けて、巨大堤防が建造されていたわけである。下写真の黄色ライン。

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なお、秀吉軍による本気の土木工事はこの下流となる土手部分と、足守川から取水する入口部分だけで、その他の堤防は元来あった 街道(松山往来)や農道をかさ上げする形で転用したものだったと指摘される。
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その後の大堤防であるが、1903年の鉄道工事に際し、残存していた築堤の土砂の大半が持ち去られ、最終的にこの「蛙ヶ鼻築堤跡」のみがかろうじて残こされたわけであるが、今でも国道 180号線付近までの田んぼ内で良好に築堤の痕跡が見られるという。築堤に際して土留めに使われた杭列や、土俵、むしろ等で基礎工事を行った遺構が発掘調査で明らかになっている。この堤防遺跡は早くも 1929年 12月に国の指定史跡となった。



 高松城の戦い

高松城は、備前国(今の 岡山市中心部)に通じる平地部の中心、しかも 松山往来(板倉宿から備中松山城へ至る)沿いの要衝の地にあった。
もともとは、備中国を支配した 守護・細川氏を支える 守護代・石川氏の所領だった地で、後に台頭する三村氏と姻戚関係を結んで、共に備中国の統一戦を戦いぬいた一族であった。しかし、 明禅寺城の 戦い(1567年)で備前の宇喜多氏に大敗すると、三村氏、石川氏の備中勢は衰勢に転じる。最終的に宇喜多氏と毛利氏が同盟を結ぶことで三村氏は反毛利として挙兵し、毛利軍の侵攻を受け滅亡に追い込まれる(1575年)。
この動乱の中、高松城が築城されたと考えられており、当時、城主は石川一族の石川久孝であった。最終的に久孝の娘婿であった清水宗治が高松城を簒奪する形で石川家遺領を引き継ぐ(1565年)。そして毛利の備中進攻がスタートすると(1575年)、早々に毛利方に帰順した清水宗治はその所領を安堵されたのだった。

築城当初より、高松城は石垣を使わず土壇だけで築城された土城であったが、城の周辺は、東沼、沼田などの地名に象徴されるように、点在する深田や沼沢を天然の外堀として活用した 平城(沼城)でもあった。その縄張りは、方形(一辺約 50 m)の 土壇(本丸)を中核とし、堀を隔てて同規模の二の丸曲輪が南に並び、さらに三の丸 曲輪(重臣らの家中屋敷が立地)が、コの字状に背後を囲む直線的な形状であった。しかし、人馬の進み難い沼地エリアは大軍勢で一気に総攻撃できず、1582年4月15日に襲来した秀吉軍も当初より攻めあぐねる。
この間にも秀吉軍は、毛利方 が国境最前線で防備を固めた境目 7城のうち 4城(宮路山城、冠山城、鴨庄城、日幡城)の攻略に成功するも、その中核を成した高松城は鉄壁の籠城戦を展開し善戦していた。

そうこうしているうちに旧暦 5月に入る。ちょうど現在の暦で 5月下旬にあたり梅雨がスタートするタイミングで、すでに雨天が続くようになっていたと考えられる。その水の流れと増水した濁流が盆地内に立地した高松城の堀をより強化した様子を見てとった宇喜多氏の 家臣・花房正成(1555~1623年)は秀吉に対し、この沼地を逆手にとって遠巻きにして堤防を築造する「水攻め」を用いた兵糧攻めを提案する。
5月1日、この作戦に 黒田官兵衛 も賛成すると、一週間の準備期間を経て 5月8日、秀吉は宇喜多氏の 家臣・千原勝則を奉行とし、城地の南東約 700 m の 山根(蛙ヶ鼻)から、西北西約 1,500 m の足守川上流まで 3,000 m に及ぶ堤防をわずか 12日間で完成させる(5月19日)。この作業中の 5月11日、基底部幅約 22~24 m、上幅約 10 mで、高さ 7~8 mもの巨大築堤工事を総監督すべく、秀吉も本陣を石井山へ移動させている。
完成直後の 5月19日、早速、増水した足守川の水を流し込むと、たちまちにして 188ヘクタールの人造湖が形成され、城は完全に水上に孤立する。秀吉はその周辺に部隊を布陣させ、城を逆封鎖してしまったのだった。

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地の利と時の運は完全に秀吉軍に味方し、城は人造湖に浮かぶ孤島となり、城主・清水宗治と将兵 5,000名は兵糧攻めでの飢えと、城池の大半が水没する防ぎようのない苦戦に追い込まれる。すでに籠城から 1ヵ月余りが経過しており、城兵側に食糧不足が目立つようになる。

この堤防完成後の 5月21日、小早川隆景 を大将とする 毛利方 の援軍も南の日差山一帯に布陣したが、大堤防と足守川の氾濫、そして 3倍もの兵力を有した秀吉軍を前に、有効な打開策を見いだせずにいた。
両者は領地の分割などで協議を進め、なんとか平和裏に戦争を終える講和交渉を進めていたとされる。そんな折、6月2日早朝に本能寺の変が起きると、講和を急いだ秀吉は急に条件を緩め、高松城主・清水宗治の切腹開城と毛利氏の高梁川以西への撤退だけを休戦条件として提示し直し、ほぼ妥結を得る。しかし、城主の自決には最後まで難色を示した毛利方に配慮し、秀吉は清水宗治本人の同意を得るべく、城内に使者を派遣し、毛利方との交渉内容を伝える。自分の命で解決するならということで、翌日の切腹が同意されたというわけだった。

そして翌 6月4日午前 10時ごろ、湖上に舟を漕ぎ出し、秀吉から贈られた酒肴で最後の宴を張り、誓願寺の曲舞を舞って、『浮世をば 今こそ渡れ 武士の名を 高松の苔に残して』と辞世の歌を残し自決する(46歳)。

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その後、秀吉はこの水攻め作戦を立案した 花房正成(1555~1623年)の功績を認め、毛利から和平交渉の過程で割譲した備中三郡 3万 1,000石を与えるとともに、宇喜多氏の家老格へ昇進させる。直後より、正成は毛利氏の反攻を想定し、備中高松城の強化工事に着手したのだった。
しかし、1599年の宇喜多騒動により花房正成が宇喜多家を出奔すると、宇喜多秀家は高松城に城代を派遣するも、翌 1600年の関ヶ原合戦 で宇喜多家自体が改易されると、以後、備中国は小規模な藩や幕府直轄領が混在する複雑なエリアとなる。このとき、花房正成は幕府直轄領の備中猿掛の代官として再赴任することとなる。

宇喜多騒動より先に宇喜多家を出奔していた 花房職之(職秀。1549~1617年)が、関ヶ原の戦功により、8,220石の所領を得て旗本寄合となり、替わって高松城周辺の 幕府直轄領(高松知行所)に配される。天領では城持ちは許されなかったため、高松城は廃城となり、その本丸跡地に領内を統括する陣屋が開設されるだけとなった。 1617年に当地で死去すると、花房職之は三の丸曲輪内に自身が建立した自家の 菩提寺「妙玄寺」に埋葬される。
その後、旗本の花房家は高松城本丸跡から南隣の 原古才村(文末写真の自転車陸橋あたり)へ高松陣屋を移設し、幕末まで天領の管理役所とした。


さて備中高松城攻めの戦跡としては、蛙ヶ鼻築堤跡の北側には 堀尾吉晴 と蜂須賀正勝、その北隣の丘陵上には黒田官兵衛、その尾根続きの石井山山頂に秀吉の本陣らの陣地跡が今も残っているという。また東側の少し離れたまた鼓山の山頂には、三段構えで馬場を伴う羽柴秀長の陣地跡が非常に良好な状態で保存されており、さらに、高松城跡の北側の丘陵一帯には 宇喜多忠家、浅野幸長、生駒親正、加藤清正らの各武将の陣地跡、さらに(龍王山)最上稲荷の後方には秀吉が最初に構築した本陣跡の遺構も残存するという。
一方、1 kmほど南側に離れて足守川を隔てた日差山 一帯(下写真)には山頂の 小早川隆景 をはじめとし、高松城側に向かう各尾根先には、来島通房(村上水軍 の頭領)、杉原盛重、細川勝久、小田高清、井上春忠、木原兵部、吉川元春 ら毛利軍各将の陣地跡が残っており、また蛙ヶ鼻に対峙する最先端の天神山にも 毛利方 の陣地遺構が現存する。

岡山市北区高松

また、上地図の右上端に見える「高松城水攻め 鳴谷川遺跡」であるが、結果論として高松城の近くを流れる足守川をせき止めて水攻めが成功したことになっているが、実際には足守川の水だけでは水不足の場合を考え、もう一本の川からも水を引く土木工事が進められていた。それが、龍王山背後の山間を流れる 長野川(今の鳴谷川)で、これをせき止め、山斜面を約 9 m掘り下げて龍王山の南側にある高松城側に流し込もうとする作戦であった。しかし、山斜面の掘削工事は難航し、全計画 410 mのうち 91 mを残すところで高松城開城となる。
工事奉行は間に合わなかった責を負って自刃したといわれる。里人はこれを哀れみ、塚を立てて供養したという。



国道 180号線上に吉備高原自転車道の大きな歩道橋があったので渡ってみる。その南に見える山に毛利の援軍が着陣していたのだった。

岡山市北区高松

そのまま国道沿いを西へ戻り、備中高松駅から 電車(桃太郎線・吉備線)に乗った。岡山駅 を経て、倉敷駅 へ戻った(510円。西回りの総社駅経由だと 420円らしい)。


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