BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2018年2月上旬


和歌山県 和歌山市 ① ~ 市内人口 20万人、一人当たり GDP 411万円(和歌山県 全体)


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  和歌山城 大手門(一之橋)と 二ノ丸 ~ 紀州徳川藩の 中枢部
  羽柴秀長、藤堂高虎時代の 野面積み石垣群
  独立心旺盛な 紀州の民衆に対し、権力の象徴を見せつける 舞台装置だった 和歌山城
  1600年、浅野幸長の入封と、近世城郭への衣替え
  1619年、紀州徳川家の立藩 と 和歌山城の完成
  二ノ丸御殿 と 三ノ丸を隔てる 北内堀 ~ かつて幅 41 mの巨大堀だった
  【豆知識】和歌山城 ■■■
  屋根付きの 城門橋「御橋廊下」 ~ 二ノ丸から 西ノ丸へ
  和歌山城 天守の石垣は 崩落間近??
  大手門の岡山口から 一之門への変更と、城下町の発展史
  紀州藩主の 別荘庭園「養翠園」
  【豆知識】養翠園 ■■■



 和歌山城

けやき通り沿いから、大手門(一之橋)をくぐって和歌山城へ入城してみる。

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二ノ丸石垣や内堀を見る限りは、よくある城址公園だなと、あまり深い感想を持つに至らなかった。

ちょうど、この大手門を入った右手側に二ノ丸が広がり、かつて紀伊藩の藩主御殿や政庁などの 巨大な屋敷群が立ち並んでいた(下地図)。まさに紀州徳川家の中枢機能があった場所である。

このため、登城する重臣たちはこの 大手門(一之橋)の手前で駕籠や馬から降りねばならず、 また随行の家来たちは武器を持ち込めず、大手門橋の外の待合所で待機していたという。

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そのまま直進し、御蔵ノ丸 を抜けて、本丸、天守台の山頂を目指していると、正面に連なる 石垣群の前で思わず足が止まってしまった。典型的な野面積みの石垣で(下写真)、 この二ノ丸から上の本城部分が戦国末期に築城されたことを物語る、 何にも代えがたい生証人となっていた。

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この山頂部分は、まさに 1585年の紀州平定直後羽柴秀吉の 実弟・秀長 が 紀伊国の新領主として入封した際に築城された部分で、小高い丘を 成した虎伏山(岡山)に相当している。

羽柴秀長 は当初、この小山を取り囲むだけの小規模な城郭を想定して、配下の 藤堂高虎 らに 命じて普請し、築城工事を進めさせたという。
まさに時代背景を物語るかのように、戦国期の粗い石積みが続き、非常に見応えがあった。 上写真の山裾部分の石垣傾斜は相当に緩く、攻めやすい印象を与えるものだったが、 その上には急斜面で樹木が密集しており、防備用の石垣というよりは山斜面の崩落を 防ぐ吹付工の作用を期待されたものといえる(城郭時代、山上の樹木はすべて伐採されていた)。
これら石垣の石材は、虎伏山に隣接した 小山(天妃山。今の岡公園)、さらに和歌浦で採取できる 緑色片岩(紀州青石)を中心とした結晶片岩を用いており、それらの自然石をそのまま運びこんでは、 加工せず積み上げていた。

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羽柴秀長は同時期に築城工事中だった 大和郡山城 を本拠地に定めたので、 和歌山城には家老の 桑山重晴(1524~1606年)が城代として配置された。
豊臣秀長の 死後(1591年)、その家督を継承した秀保も若くに夭折すると(1595年)、そのまま城代であった桑山氏が 大名化し、和歌山城を本城として紀伊国北部を支配することとされた。秀長時代には 虎伏山の山頂部に簡単な天守閣が設けられ、山全体を城塞化しただけだったが、 桑山氏の治世時代に、さらに城域が山裾にまで拡大され、岡口方面(当時の大手門と 熊野古道 沿い)の整備拡張が実施されたと考えられている。

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この時代、農民や地侍などの土着の 地縁集団(雑賀衆)を軍事的に平定したとは言え、未だ独立精神が旺盛な紀州にあって、地元民らへ心理的な威圧感と権威を見せつけるべく、突貫工事による石積みの城塞を この平野中央部にそびえ立たせる必要があったと思われる。

1600年、関ヶ原の戦い の後、浅野幸長 が城主となり 紀伊国 に入封されると、さらなる大規模改修工事が着手され、 高さ約 49 mある西方の峰を「本丸」として、 黒板張りであるが、ほぼ現在の形に近い天守閣が完成する。

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こうして浅野時代に、虎伏山の西峰に連立式天守が、東峰に本丸御殿が姿を現したわけだが、戦国期の名残りを残した山上の御殿は不便で手狭であったため、浅野幸長 は山麓に御殿を移築し、 同時に大手門を 北側(冒頭の一之橋)へ変更して、城下町を城の北面に 拡大することとなる。
こうして、現在にまで続く和歌山市街地の原型が決定づけられることとなった。

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現在、本丸を取り囲む南側の「南の丸」、西側の「砂の丸」および、 「二の丸西側四分の一」は江戸期に増築されたものだが、基本的に 和歌山城内郭はこの浅野時代に全体の縄張りが確定されたといえる。
さらに大量に必要となった石材は、友ヶ島(現在の大阪府と 和歌山県の県境)等に石切り場を開発し、 これまでの結晶片岩に代わって 砂岩(和泉砂岩)を使用するようになる。 技法は、石材を加工し「接ぎ」合わせて積む「打込みハギ」スタイルがメインとなった。

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1619年、徳川家康の十男であった 徳川頼宣(1602~1671年)が紀伊国に入封し、紀州藩 55万5千石が立藩される。そして 2年後の 1621年、 頼宣は幕府から銀 2,000貫(現在価値で約 20~25億円)を下賜され、和歌山城の再改修工事 に着手することとなった。

二ノ丸の西面にあった広大な内堀を埋め立てて、二ノ丸をさらに西へ拡張するとともに、 南側に砂の丸、南の丸を新たに造成し、 徳川家一門にふさわしい巨大城郭を完成させるに至るのだった。
この江戸期に建造された石垣であるが、当初は浅野時代同様に砂岩を用いた「打込みハギ」 スタイルであったが、後に、精密に加工して積んだ「切込みハギ」スタイルが 採用されることとなる。

なお、徳川御三家にあっても、和歌山城の築城工事は天下普請による工事でななく、 水戸藩同様に、自領内の領民のみを使役して工事が進められたという。

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上絵図 は二ノ丸御殿と三ノ丸を隔てる北内堀の一帯。江戸期、この 北内堀は幅約 41 mあり、けやき通りの中央分離帯を越えたところまで あったという。明治期に路面電車の線路敷設、さらに昭和期の道路拡張工事 にともない、堀幅 25 mにまで縮小されて現在に至るという(下写真)。

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1585年、羽柴秀吉が紀州を平定し、 実弟の秀長に紀伊国の支配を委ねた際、岡山(虎伏山)の峰に新たな シンボルとなる近世城郭の造営を指示する。工事はすぐに着手され、 秀長配下の家臣だった 藤堂高虎 らが普請奉行を 勤めたわけだが、以降、築城の名手と称えられる高虎が、最初に手掛けた本格的な近世城郭と 言われることとなる。
羽柴秀長は 大和郡山城 を居城としたため、但馬竹田城主だった桑山 重晴が、秀吉の命で秀長付きの家老となり、城代を勤める。秀長家が途絶えると(1595年)、桑山氏がそのまま城主 職を継承した。この豊臣、桑山時代に山嶺部分や岡口 の造営が進められている。

1600年の関ヶ原の戦い の後、浅野幸長 が 37万6000石の領主となり紀伊に入封すると、直後より和歌山城の大規模な増築工事に着手する(この頃より、虎伏山城や竹垣城とも異名を取るようになる)。 連立式天守閣が完成し、現在の本丸、二ノ丸、 西ノ丸に屋敷が造営されたのも、この頃だった。同時に、城の正面玄関である大手門が岡口門から一之門へ 変更され、現在の本町通りが大手門前の幹線道路となり、城下町の整備が進められていく。

しかし、1611年に突然死した加藤清正と共に、最後まで豊臣秀頼を補佐した 浅野幸長も、1613年夏、38歳の若さで和歌山城内で急死してしまうと、いよいよ 大坂城 の豊臣家は、徳川家康に追い込まれていくのだった(1614年大阪冬の陣、1615年大阪夏の陣)。

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浅野幸長の死後、男児がいなかったことから、次弟の 浅野長晟(1586~1632年) が家督を継承すると、直後に勃発した 大坂の陣 で徳川方として参戦することとなる。 長晟は、徳川家康の 三女・正清院(1580~1617年。蒲生秀行の未亡人となっていた) と婚姻しており、徳川家と縁戚関係にあったことから厚遇され、1619年に 福島正則が改易された 安芸・広島藩 42万石へ加増移封される

これと入れ替わる形で、徳川家康の 十男・頼宣が 55万5000石を拝領して 紀州・和歌山城へ 入封し、御三家紀州藩が成立するわけである。1621年、幕府より銀 2,000貫を賜り、 二ノ丸大奥部分を拡張するため西内堀の一部を埋め立て、南の丸、砂の丸を 内郭に取り入れ、ほぼ現在の和歌山城の姿へ完成させるわけである。

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また、峰上の天守、本丸エリアは「天守郭」と改称され、三階建ての大天守を中心に 時計回りに 多門、天守二之御門(楠門)、二之御門櫓、多門、乾櫓、多門、 御台所、小天守へと続く連立式が確定される。

江戸期を通じて、紀州徳川家は「南海の鎮」として西日本を監視する役割を担い、 8代目将軍・吉宗、14代目将軍・家茂を輩出する名門として君臨した。
黒板張りだった天守閣は 1798年、十代藩主治寶の命で、白壁塗りの白亜の天守閣となる。 しかし、落雷により 1846年に天守閣が焼失すると、幕府から「有形の通り」との条件付きで許可が下り、1850年に再建される。
1871年の廃藩置県により陸軍省の管轄となる。1935年に国指定の 史跡に選定されるも、1945年7月9日の和歌山大空襲で焼失してしまう。 現在の天守閣は、1958年に市民らの要望により、鉄筋コンクリートで かつての威容が復元されている。



天守台、本丸御殿跡地、西の丸、二ノ丸まどを散策後、西面の砂の丸広場から出る(ちょうどこの出口あたりに、江戸時代、藩財政を担う勘定所が設置されていた)。
途中、西ノ丸と二ノ丸との間にかかる、屋根付きの 城門橋「御橋廊下」を遠目に撮影する(下写真)。
その少し手前に、和歌山市の お土産館、わかやま歴史館(入場料金 100円)があった。CGを駆使した、見応えのある解説が楽しめた。

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和歌山城の見どころは、上記の三世代にわたる石垣工事の変遷史であろう。 時代によって石材や積み方の技法が異なり、技術進歩が急速に進んだ 様子がうかがえる。

特に最も古い時代に建造された天守台の石垣は、間詰め石 がはげ落ちて、隙間だらけになっており、 なかなかスリルある構造になっているのが印象深かった。

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 大手門と城下町の変遷史をたどる

和歌山城の東門を担った岡口門が、関ヶ原合戦 前までの大手門であった。ここを東へ進むと熊野古道へとつながる主要街道の起点となっていたという。

当時、岡山(虎伏山)と通称されていた小高い丘上に城郭が築城されることとなり、この山城を東面の防壁とし、西面は紀の川、北面には運河を兼ねた堀川を掘削し、南面の海とあわせて紀ノ川河口部の 港町(紀湊)ごと四方全体を水堀で囲っていた構図であった(下地図)。

当時、紀ノ川河口部に立地した 紀湊(きのみなと)は、紀伊国における水運の一大拠点であり、和歌山城はこの港町の掌握を目的に築城されたわけである。

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創建時の城下町は、南東の岡口から熊野古道へ至る幹線道路沿いに開発が進められており、ここから遠く離れた北西部の 港町「紀湊」とを直結させる 役割を担ったのが和歌山城だった(上地図)。東~南面に新興の城下町、西~北面に旧来からの港町を配する、二元的な構造を有する、非常に珍しい都市設計であったという。

その後、関ヶ原合戦 以後に入城した浅野氏の統治時代に大手門が北へ移され、現在の本町通りを中心に整然とした町並みが形成された(紀湊と城下町が直結されることとなる)。徳川期にはさらに南面の川向い地区の吹上に寺町と武家屋敷地が配置され、新たに町人地が東に広がり、北新町、新町となった。

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江戸期の城下町の掘割は、今も駅前商店街に用水路や運河としていくつも現存する。


 藩主の 別荘庭園「養翠園」

その後、海岸沿いの藩主の 別荘庭園「養翠園」へ行ってみた(入場料 600円)。
園内は非常によく手入れが行き届いていた。この中庭の池は、すべて海水という。カニや小魚などがいればよかったが、冬季だったのでまったく静止画のように静まり返っていた。

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10代目藩主・徳川治寶(1771~1853年。1824年隠居)が 1820年代に 建設した数奇屋造りの養翠亭(茶室)は、紀州藩主が使った建物として旧地に旧状のまま残る唯一の建物という(下写真)。

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下写真は書院造りの湊御殿。この建物は、隠居した紀州藩主が生活するために、和歌山城下の 紀ノ川河口部に造営されていた西浜御殿の敷地にあった建物の一つという。 もともとは、1698年に紀州藩 2代目藩主・徳川光貞(1626~1705年)の隠居所として 設営され、現在の和歌山市湊御殿 1~3丁目に立地していた。

幾度かの火災に見舞われ、都度、再建されたといい、当地に移築されたものは、11代目藩主・徳川斉順(1801~1846年)が、1834年に再建させたものと考えられている。

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当庭園を造営した徳川治寶も、すでに隠居の身にあり、その西浜御殿から 小舟で入園できるように水路で別荘とつなげていたという(下地図)。
庭園の海岸方面には、この西浜御殿からつながる水路の出入り口と船着き場の跡が 今も残されていた。 側近の者たちが藩主の到着を待ち、また出発を見送った「御馬場」というポイントの解説もあった(下地図)。
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トイレと駐車場、園内との区別があいまいで、湊御殿の裏手にあるトイレを借りて、そのまま裏口から園内に入れてしまう構造だった(上地図の緑色区画=無料エリア)。



 養翠園

養翠園は、1821年に紀州藩 10代目藩主・徳川治寶によって造営された別邸という。 この地は元藩士の山本理左衛門の下屋敷と伝えられるが、大浦湾に面した景勝地であるので、藩の御用地として精美を尽くした大名庭園が造営されたのだった(総面積 33,000 m2)。

園内には約 10,000 m2の大池が設けられており、その周囲に松ヶ枝堤と呼ばれる黒松の並木が巡っている。
池の中央には小島を造り、南北から橋を架けてこの中島に通じるようにデザインされていた。この大池を中心とした地泉廻遊式庭園となっており、池の西畔から眺めると、東方に天神山、南東に章魚頭姿山が借景として取り入れられ、借景式庭園でもある。
海に接して造られた庭園でありながら、大池の周辺では特に海の景色を見せることはなく、わずかに松林の間から点景として海をのぞかせる。大池は、南側と西側に設けられた二箇所の樋門から大浦湾の海水を引き込んだ、所謂、汐入の池で、中国の西湖(杭州市)を模したところもあると指摘される。

養翠園は、江戸時代中期以降に諸大名がその下屋敷などに造営した行楽清遊のための大名庭園の一例であるが、借景を取り入れた汐入の池などを生かした庭造りが施され、全体として当時の状態を良く留めているものとして国の名勝に指定されている。



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