BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:20--年--月--旬


千葉県 佐倉市 ③ ~ 市内人口 17.2万人、一人当たり GDP 315万円(千葉県 全体)


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  佐倉城跡(佐倉城址公園)、佐倉城址公園センター、佐倉兵営跡
  国立民族歴史博物館(古代~現代までの 日本全体の歴史資料館)
  武家屋敷 旧河原家住宅、佐倉サムライの古径 ひよどり坂、旧堀田邸、成徳書院跡
  佐倉順天堂記念館、堀田正睦公の墓、児玉源太郎 旧宅跡、佐倉養生所跡、石渡家住宅
  飯重城跡
  寺崎城跡
  太田要害城跡
  時崎城跡、城城跡、金部田城跡
  大篠塚城跡、小篠塚城跡、田端城跡
  馬渡大内城跡
  岩富城跡
  福星寺館跡



成田空港に到着後、もしくは成田空港から出国前に、京成成田駅前に投宿することにした。成田市街地はホテル激戦区とあって、リーズナブルな価格設定のホテルが複数あり、選択肢に困らない。東京出張の際、何回かに分けて成田宿泊するか、一回に 3~5連泊ほどして、近隣の史跡(千葉県佐倉市茨城県鹿嶋市 まで)をまとめて巡ってみたい。

なお、佐倉市内のホテルはオンライン上の情報や選択肢が少なく、もっぱら成田駅前から日帰り訪問を重ねることにした。


初日(1回目)
本佐倉城跡、妙見神社(大佐倉駅)、謙信一夜城(京成臼井駅)

二日目(2回目)
京成臼井駅前のイオンで自転車を借り、臼井田宿内砦跡、稲荷台砦跡、臼井城跡、洲崎砦跡、臼井八幡社、仲台砦跡、田久里砦跡、小竹城跡、あと 印旛沼北岸(千葉県印西市)側にある 師戸城&船戸城跡、岩戸城跡、市立印旛歴史民俗資料館 なども巡ってみた。帰路に時間があれば、旧・成田街道沿いにあったという、江原刑場跡にも立ち寄ってみたい。

三日目(3回目)
京成佐倉駅前の観光案内センターで自転車を借り、佐倉城跡(佐倉城址公園)、国立民族歴史博物館、城下町(武家屋敷 旧河原家住宅など)、旧堀田邸、飯重城跡、寺崎城跡、太田要害城跡、時崎城跡、城城跡、金部田城跡、小篠塚城跡などを巡る。小規模な城跡がたくさん点在しているので、場合によっては二回に分けて訪問してみたい(雨天、含)。



三日目(3回目)は、京成本線で成田駅から「京成佐倉駅」へ移動する。
すぐに佐倉駅前の観光案内所で自転車を借りる(JR総武線・佐倉駅前にある観光情報センターでも可)。営業時間 9:00~16:00、普通自転車 500円、電動アシスト自転車 1,000円(追加で登録料も要。それぞれ 250円、500円)

佐倉市

そのまま、真っすぐに佐倉城址公園を目指す(京成佐倉駅から自転車で 5分強。徒歩だと 20分)。上地図。
江戸時代初期に築城されていた佐倉城跡地が、広大な市民緑地公園へ改編されたもので、天守台や 本丸跡、二の丸跡、三の丸跡、台所門跡、椎木門跡、巨大な馬出し空堀、水堀に守られた南出丸、西出丸空堀などが保存されている(下地図)。

特に、公園東端にある「佐倉城址公園管理センター」は必見で、佐倉城に関する模型や 古写真(明治初期に撮影)、出土遺物などが展示されている(下地図)。 また、古代~現代までの日本全体の 歴史資料館「国立歴史民俗博物館」もあるので(下地図)、雨天時などを狙って訪問してみたい。

佐倉市

佐倉市

佐倉市



北に印旛沼、西と南に 鹿島川・高崎川が流れる低地エリアに、標高 30 m前後の段丘が続く高台があり、もともと「鹿島台地(鹿島山)」と呼ばれていた。戦国時代の 1550年ごろ、この鹿島台地の西端部分に中世風の 城塞「鹿島城」が築城されることとなる。

この当時、下総国は鎌倉時代から続く 名門・千葉氏が守護大名として存続していたが、西から迫る北条氏、東の佐竹氏、南の里見氏など、強大な戦国大名に囲まれ、家名存続の危機に瀕していた。そうした中、千葉親胤(1541~1557年)が千葉家第 26代目当主を継承したのは 6歳の時であり(1547年)、混乱する家中は重臣の 原胤清・胤貞父子に完全に牛耳られていた。親北条氏の姿勢をとる 原胤清・胤貞父子に対し、成長した親胤は 古河公方・足利晴氏に接近して、反北条氏の立場を明確にするようになる。こうした中で、主家・千葉氏の再興を目指し、千葉親胤が一門の鹿島幹胤に命じて築城させたのが、この鹿島城というわけであった。
しかし、北条方と結託した原氏により親胤が暗殺されてしまうと(17歳)、建設工事は中断され、そのまま放棄されることとなった。その後、筆頭家老・原氏の主導の下、千葉氏は北条氏と姻戚関係を結んで臣従するも、1590年の豊臣秀吉による小田原征伐を経て、主家の北条氏と共に改易、没落してしまうのだった。

江戸時代初期の 1610年1月、徳川秀忠の最側近だった 土井利勝(1573~1644年)が佐倉の地に封じられると(3万2000石)、当初は 千葉氏の居城だった本佐倉城 に入城するも、翌 1611~1617年にかけて、この鹿島城跡地を大改修することで、本格的な近世風平山城スタイルの「佐倉城」を完成させるととなる。下絵図。

この時、石垣こそ組み上げられなかったが、印旛沼を外堀の一部に転用するなど地形を活かして設計され、複数の曲輪の周囲を土塁と水堀、空堀を多用して守りを固めた、輪郭式の大城郭が造営されたのだった(本丸、二の丸、三の丸、家臣団の屋敷が軒を連ねた「東惣曲輪」と「椎木曲輪」から構成)。さらに東側へ連なる台地上には、下級士族の屋敷棟と町屋が配置され、城下町を形成していた。下絵図。

結局、天守閣は建てられず、天守の代用とする本丸の 三重櫓(御三階櫓)をメインに、銅櫓、角櫓などが配置されるだけであった。この本丸と二の丸のスペースには、藩主邸を兼ねた政庁が開設されており、佐倉藩の政治の中心を担ったわけである。
佐倉市

以後、江戸 の東を守る要衝として有力譜代大名が城主を務める地となり、歴代城主の多くが老中など幕閣に就くこととなる。特に、幕末期の 藩主・堀田正睦(1810~1864年)は、日本が開国に揺れる中、朝廷との折衝を担当した老中首座、として広く知られる人物である。その失脚後に次期藩主を継承したのが(1859年)、先の「旧堀田邸」を建設した最後の 藩主・堀田正倫(1851~1911年。正睦の四男)というわけであった。

なお、厳密に言うと、老中や大老といった幕府の要職に就任した後に、佐倉へ移封されるというパターンだったという。こうした慣例から、城主交代は頻繁に行われ、9家20代もの佐倉城主が誕生している(うち 9名が老中に就任。全国諸藩の中でも最多を誇ったことから、『老中の城』と比喩されていた。石高は概ね 11万石前後)。ただし実際には、258年間に及ぶ佐倉藩史の中で、その 6割弱の 141年間を堀田家が占めていた。この堀田家はもともと織田家、豊臣家に仕えた下級武士であったが、1602年に江戸幕府の旗本へ鞍替えし、1604年に遠縁の親戚である春日局が家光の乳母となり、三代目将軍に就任後に、一気に出世した一族であった)。

こうして『老中の藩』として千葉県内でも最大の藩として君臨し続けたことから、その城下町も大いに繁栄したという。特に、開国に揺れる幕府のかじ取りを担った堀田正睦は、当地の藩政でも大いに手腕を発揮したようで、深刻な財政難に悩む藩政改革を成功させるとともに、洋学を積極的に取り入れ、蘭方医・佐藤泰然(1804~1872年)を佐倉城下へ招聘し、医学塾兼診療所「佐倉順天堂(順天堂大学の前身)」の開設に尽力させたという。

明治維新を経て 1873年1月、旧佐倉城内に陸軍第一軍管東京鎮台の佐倉営所が開設されると、城内の櫓や城門などが順次、撤去&解体されていく。最終的に 陸軍歩兵第二連隊(後に第五十七連隊=通称・佐倉連隊)へ改編され、その駐留基地として整備されることとなった。この歩兵第五十七連隊は、太平洋戦争末期の 1944年、フィリピン・レイテ島で玉砕するという悲劇的な最期をとげている。

こうして 1945年の終戦まで軍都・佐倉の中核を担っていたが、1979年から本格的に公園整備が始まり、水堀の復元、本丸跡、出丸跡、三逕亭(茶室)などが修復され、城址公園として再出発を果たすこととなった(この時まで残存していた城内の建造物は、西出丸にある薬医門のみだったという)。1983年には明治百年記念事業として、公園隣接地に国立歴史民俗博物館が開館する。また、往時の広大な城域がそのまま残されており、千葉県内で唯一、日本百名城に選定されている。



続いて、かつての城下町エリアを散策してみた。特に「武家屋敷通り」と呼ばれるエリアがあり、そこに軒を連ねる「旧河原家住宅」「旧但馬家住宅」「旧武居家住宅」の 3軒の古民家は、その絶対ポイントとなっていた(月曜日休館)。いずれも佐倉藩士の旧家で、内部では昔の道具や藩士の生活に関する展示などが見学できる。下地図。
年に数回、甲冑の試着会も開催されるらしく、入館料 210円のみで無料で試着できるという。是非、参加してみたい。

また、近くにある「佐倉サムライの古径 ひよどり坂」は、江戸時代の雰囲気を残す美しい竹林道で、佐倉市を代表する観光名所となっている。下地図。

佐倉市

最後に、城下町エリアからやや離れた東郊外に、「旧堀田邸」が立地する(上地図の右下)。
下総国 佐倉藩 20代目(最後)の 藩主・堀田正倫(1851~1911年。開国に揺れる幕末期に、老中首座を務めた 堀田正睦の四男)が、1890年に旧領である佐倉城下に建設した邸宅・庭園跡である。邸宅部分の 玄関棟、座敷棟、居間棟、書斎棟、湯殿、および土蔵、門番所の 7棟が、国の 重要文化財(建造物)に指定されているという(2006年)。

明治に入り、政務を離れた堀田正倫は、この邸宅や東京の旧大名屋敷の敷地などを使い、農業振興や牧場経営研究に没頭した余生を送ったそうだ。

佐倉市

続いて市街地を離れ、郊外に点在する城跡群を順番に巡ってみることにした。上地図。

まず、飯重城跡を訪問してみる(上地図 中央左端)。
大宮神社から入ると、その南端の雑木林が城跡エリアで、土塁や堀切などの遺構が現存する。冬季に散策しないと、草木で全く視認できないだろう。

続いて、寺崎城跡に立ち寄ってみる(上地図 中央左)。
城跡は現在、蜜蔵院の境内となっており、特に後方にある高台からの眺望がすばらしい。頂上部には城跡を解説した石碑も設置されている。途中、わずかながら土塁などの遺構が残存する。


室町時代初期より、室町幕府・足利家鎌倉公方・足利家 との対立は続いており、京都 の幕府は外戚にあたる上杉家を関東管領職につけて、関東地方の足利家の動きを監視、抑制させてきた。3代目将軍・足利義満(1358~1408年)の治世下で、一時的に両者は和解するも、続く 4代目将軍・足利義持(1386~1428年)の治世下から、鎌倉府との間で再び対立が表面化すると、時の 鎌倉公方・足利持氏(4代目)が武装蜂起を決行し、関東管領・上杉家との間で武力衝突に発展する(永享の乱。1438~1439年)。

この騒乱の中、下総国の 守護大名・千葉胤直(1419~1455年。16代目当主、下家系図)は、当初は鎌倉方に組するも、間もなく上杉方に寝返り、鎌倉公方・足利持氏の処刑に成功する。
その後、1441年に引退し、17代目当主として息子の 千葉胤将(下家系図)が守護職を継承するも、1454年に急死してしまうと、まだ幼かった 次男・千葉胤宣(下家系図)が 18代目当主として家督を継ぐこととなり、16代目当主・千葉胤直が後見人として再登場するのだった。

こうして千葉家の家中が不安定化する中、再び 鎌倉府 と上杉氏との間で武力衝突が勃発すると(享徳の乱。1455~56年)、ついに千葉氏家中も分裂し家内騒動へと発展する。こうして上杉氏に組する千葉胤直・胤宣父子、および一門の 円城寺氏(城城主。下地図参照)らと、鎌倉方に組しつつ千葉家当主の座をねらう 馬加康胤(1374?/1398?~1456年。第 14代当主・千葉満胤の次男、下家系図)、および一門の原氏らが下総国内で激突し、最終的に 1455年9月、千葉胤直・胤宣父子は自刃に追い込まれ、千葉氏本家は馬加康胤に乗っ取られることとなるのだった(下家系図)。

佐倉市

この過程で、千葉胤直・胤宣父子の一味は、ちりじりになって下総国内を逃げ回っており、先に急死していた 17代目当主・千葉胤将の遺族らはこの佐倉地方へ避難し、居城として寺崎城を築城し隠棲していた、と考えられている。その際、城館の 表鬼門(北東)の守りとして 神明社(先祖代々の本拠地・千葉城下にあった神明社の分霊を誘致)が、裏鬼門(南西)の守りとして浅間社がそれぞれ勧請されたといい、両社は今も現存する。

いよいよ馬加康胤の軍が寺崎城下にも迫ると、千葉胤将の 遺児・則胤(上家系図)は、近侍の者と共に武蔵国へ逃亡することとなる。こうして上杉家の 筆頭家老・太田道灌(1432~1486年)に保護され、武蔵千葉氏として、引き続き存続していくのだった(上家系図)。武蔵国では国人衆クラスに没落し、二度と守護職へ復帰することはなかった。

対して、千葉氏本家の乗っ取りに成功した 馬加康胤(1374?/1398?~1456年。14代目当主・千葉満胤の次男)は、守護職を継承して 19代目当主となり、 本佐倉城 を下総国の新首府に定める(下総千葉氏。上家系図)。また自身の 嫡子・馬加胤持(1436~1456年。上家系図)を一時的にこの寺崎城に配置させていたが、間もなく本佐倉城へ移住させると、寺崎城はそのまま廃城となったようである。

しかし、翌 1456年に一門の原氏の裏切りにより、馬加康胤・胤持父子も処刑、戦死に追い込まれると、室町幕府と古河公方の斡旋により、馬加康胤の庶子だった 岩橋輔胤(1421~1492年。上家系図)が千葉氏 21代目当主に指名され、下総千葉家を継承していくこととなる。下総国の国府・本佐倉城の本格的な築城工事が手掛けられるのは、この 千葉(岩橋)輔胤・孝胤(1459?~1521?年。22代目当主、上家系図)父子の時代であった



続いて、六崎地区を訪問してみる。ここには、時崎城、城城、金部田城など、小規模な城跡が複数、連なって立地する(下地図)。いずれも同じ台地上の先端部分に並んで配置され、しかも徒歩数分の距離だったことから、城城を中心とする支城群、もしくは 3城が一帯となった巨大城塞だったと考えられている。

まずは、最北端の「時崎城跡」を訪問してみた(下地図)。
戦国時代前期の城館跡と推定されるも、詳しい情報は皆無という。現在、城跡は私有地となっており、一部が市によって市民緑地公園化され、北面の麓部分にのみ遊歩道が整備されている(その入り口付近に、城跡の解説板あり)。途中から手つかずの雑木林だけとなるも、平地化された 曲輪や腰曲輪、土塁などの遺構が、地形の凹凸となってはっきり残存する。
主郭跡地には古井戸が残されており、落城時の抜け道として丘下の民家につながっていたという。

また、南へ 300 mの地点に「弁天神社」の社がある(下地図)。古くから地元・時崎の守り神、水の神として大切に祀られてきたという。この社を囲むように池があり、湧き水が源泉となっているそうだ。
佐倉市

続いて、城城跡を訪問してみる(上地図)。

ここも私有地のため森林とフェンスで囲まれ、容易に散策できないようになっていた。周囲は宅地開発も進み、全く原型をとどめていない。
ちなみに、内部では 主郭、腰曲輪、櫓台、土橋、土塁、空堀、堀切などの遺構が今も現存するという。また、このすぐ南隣には金部田城が連なって立地しており(上地図)、城城に攻め寄せる敵を挟撃や牽制する役割を担っていたようである。


この地は、もともと印東荘六崎郷といい、平安時代後期には上総国の 国人・上総氏一門の印東氏の所領であった。平家追討戦で活躍した 当主・上総広常(?~1184年)が、源頼朝 によって暗殺された後も(1183年12月)、本家の上総氏が没落する中で印東氏は残留し、そのまま印東荘一帯を支配し続けたという。下地図。

上総氏の没落後、同じ房総平氏の一派だった千葉氏が下総、上総国を統治するようになっていたが、1247年6月の宝治合戦により、執権・北条氏が三浦氏を排除すると、これと婚姻関係にあったことから、千葉氏本家や一門も没落することとなる。ただ、その後も千葉氏一門が印東荘を治めていたと見られ(下地図)、室町時代中期まで、同族の 三谷氏、平河氏、六崎氏らが、城城を本拠地に印東荘一帯を支配していたらしいが、これ以降の城城や六崎氏の動向については、一切、不明となっている。

佐倉市

なお、「城城」とは奇妙な名称であるが、もともと「円城」と呼ばれていたという。付近にあった円城寺という寺に由来していた。
平家討伐戦で戦死した、園城寺の僧で 千葉常胤(1118~1201年。上総広常の又従兄)の七男、千葉(園城寺)日胤の菩提寺として創建された寺院で、その名跡を継いだ者が園城寺氏を名乗り、本城館を築城したと考えられている。

しかし、室町時代中期に勃発した 享徳の乱(1455~56年)の渦中にあって、下総国守護・千葉氏でも家内騒動が勃発すると、円城寺氏は、関東管領・上杉氏に組する 当主・千葉胤直・胤宣父子に追随して戦うも、鎌倉公方に組した 馬加康胤(1374?/1398?~1456年。14代目当主・千葉満胤の次男、上家系図)、および原氏らの軍に敗れ、園城寺氏一族は滅亡したか、武蔵国へ落ち延びたと考えられる(1455年9月)。そのまま千葉氏本家は馬加康胤に乗っ取られることとなる(下総千葉氏のスタート)。
なお、現在でも園城寺は健在で、浄土宗派・円城寺となっている(上段地図)。



さらに城城跡から徒歩数分で「金部田城跡(佐倉市城金部田614)」に到着する(上段地図)。登城口はやや分かりにくいが、林道を奥へ進んでいくと、道沿いに土塁面が姿を現し、間もなく虎口を越えて、土塁に囲まれた主郭部に行き当たる。山林はあまり手入れされていないので、冬季の訪問がオススメ。地形の凹凸から、腰曲輪や櫓台の遺構が十分に視認できる。

なお、城跡といっても、単郭スタイルの小さな城館程度の規模だったようだ。ちょうど城城跡と同じ台地上に立地しているものの、同時代的に存在したかは不明という。近世以降の地元豪族か名士の居館だったのかも。

この日は、大小あわせて多くの城跡を巡ったので、そろそろ帰路につく。

佐倉市

しかし、本当はこの鹿島川沿いにはまだまだ城跡が複数あったが(大篠塚城跡、小篠塚城跡、田端城跡、馬渡大内城跡、岩富城跡、福星寺館跡など)、自転車の返却時刻もあり、もう同日中に自転車往復することは不可能な距離だった。。。。本気で巡るなら、二日ぐらいに分けて散策する必要があるだろう。



 大篠塚城跡  

大篠塚城は、鹿島川の北岸側に張り出した台地の南端部に築城されていた(下地図)。台地の最高地点(標高 35.5 m)をそのまま巨大な北面土塁(高さ 5~7 m)として活用し、主郭自体は頂上部からやや下った地点にある(この主郭だけの単郭スタイルの砦だった)。この北面土塁のさらに北側に空堀を掘削し、そのまま竪堀として「コ」の字型に台地下まで延長させることで、城塞全体を台地面から切り離す構図となっている。
南面は河岸段丘の崖斜面が続く要害で、その途中に腰曲輪が 1か所、増築されていた。

現在、城跡は荒れた竹林となって歩きにくいが、主郭部の 北面と西面に、空堀と土塁が残存する。東面と南面は、自然の地形を利用した崖斜面が今も残る。
築城経緯や年代は一切不明であるが、東隣の小篠塚城の支城として機能したと考えられる。


 小篠塚城跡  

小篠塚城も、同じく鹿島川北岸沿いの台地上に立地する(下地図)。同様に、高台の南端部分を加工して築城されており、土塁と空堀で区画した 4郭で構成されていた。
主郭は南西隅にあって最も広く、四方を取り囲む土塁が現存する。東面には虎口スタイルの城門跡があり、これを出ると郭が二つ、そして、北隣にも郭一つ(現在は寺院の境内となっている)が配置されていた。いずれも土塁と空堀で囲われており、今でも遺構がはっきりと視認できる。

本城も築城経緯や年代は一切不明であるが、戦国時代には 古河公方・足利成氏(1438?/1434?~1497年)が一時滞在した記録が残っている。現在、一帯は駐車場や遊歩道が整備され、市民公園となっている。

佐倉市


 馬渡大内城跡

前述の大篠塚城と小篠塚城とは、鹿島川を挟んだ対岸に立地し(上地図)、高さ 20 mほどの河岸段丘の先端部に築城されていた。
馬渡村から後方の竹林へと続く林道を進むと(切通しスタイルで、周囲の台地を塹壕風に掘削したような地形)、妙見社の社が見えてくる。ここが 三の丸(三郭)に相当するスペースで、その林道対岸が 主郭(一郭)という。さらに林道を直進すると、二の丸(二郭)の広大なスースが眼前に広がる(50 m2ほど)。といっても、全面が竹やぶで覆われており、いずれも見通しは悪い。しかし、所々に土塁や空堀、堀切のような凹凸地形が残存しており、少し手入れすれば、土中に眠る大城郭の遺構がすぐに姿を現すことだろう。
また周囲の地名にも、往時の記憶が刻み込まれていた ー 大内下、堀上、谷津、姫宮など。下総国を支配した 大名・千葉氏の一門の居城だったと考えられている。

佐倉市


 岩富城跡(上地図)

鹿島川と弥富川の合流ポイントに面する河岸段丘上に築城されていた。主郭跡地は五角形をした平面に整地され、現在は浅間神社の境内となっている。四方を取り囲んでいた土塁や、東面と南面に掘削されていた空堀は今も健在である。北面と西面には、鹿島川に面した崖斜面が連なる。 
また東面の空堀上には、主郭部への出入口となる土橋が残っており、その両脇にさらに土塁を重ねて、守備を強化していた様子が伺える。

城域は南北に長く設計されたようで、主郭部分の南面には城主の居館、家老屋敷、そして 城下町(バス停「町方」付近)が順に連なっていた。

このエリアは、もともと下総国の 大名・千葉氏一門の白井氏の支配地であったが、 1455年の享徳の乱以後、別の 一門・原氏が台頭し、その領地に組み込まれていた。その過程で 1472年、原景広が初めて岩富城を築城し、その子の胤行を城主に配して以降、原氏の重要拠点の一角を占めていく。

戦国時代に入り、主家の千葉氏を含め、有力重臣だった原氏も北条氏の配下に組み込まれるも、 1590年に豊臣秀吉の小田原征伐を受け、千葉氏や原氏も 改易&没落することとなった。代わりに、徳川家康が関東地方に入封すると、この岩富城主として 北条氏勝(下家系図)が配置される(一万石)

佐倉市

この 北条氏勝(1559~1611年。上家系図)であるが、その名の通り、もともと北条家一門の武将として、鎌倉の玉縄城主 を務めていたが、1590年の小田原の役で 3,000の兵と共に 伊豆・山中城に入り、籠城戦を挑むも、68,000もの豊臣方の大軍を前にわずか半日で落城してしまう。そのまま城を脱出し、本拠地の玉縄城へ帰還して籠城するも、徳川軍に包囲される。多勢の無勢の中、徳川軍に降って開城し、そのまま下総方面へ進軍する豊臣勢の案内役として、諸城の降伏勧告に協力することとなった。
戦役後、そのまま徳川家康に仕え、下総岩富 1万石の領主となる。 関ケ原合戦 では徳川秀忠傘下の中山道軍として従軍している。1611年、53歳で死去すると、その直前に保科家から養子に入ったばかりだった 氏重(1595~1658年)が、北条家の家督を継承することとなった。氏重は保科正直の四男で、母の多却は徳川家康の異父妹にあたる(保科正直はもともと 甲斐武田氏 に仕えていたが、滅亡後に徳川家康に臣従し、その 異父妹・多却を娶ることで縁戚となっていた)。
間もなくの 1613年、北条氏重は下野国の富田城へ転封されたため、岩富城は廃城となり、岩富藩も廃止されることとなった。その後、1619年に 遠江・久野藩、1640年に下総・関宿藩、1644年に 駿河・田中藩、 1648年に 遠江・掛川藩 へと異動している。



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