BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:20--年--月--旬


東京都 世田谷区 ~ 区内人口 94.5万人、一人当たり GDP 800万円(東京都 全体)


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  世田谷城跡(世田谷城址公園)
  豪徳寺(彦根藩・井伊家の菩提寺、井伊直孝・井伊直弼の墓、招き猫 発祥の地)
  勝光院(室町時代に足利将軍家の一門だった、世田谷城主・吉良家の菩提寺)
  世田谷代官屋敷跡(彦根藩・井伊家の飛び地領土を管理した、代官・大場家の屋敷跡)
  浄光寺(代官・大場家の菩提寺)
  世田谷区立郷土資料館
  世田谷新宿(1578年、小田原北条氏が整備した宿場町。楽市制度が採用されていた)



比較的、安宿が集まる新宿に 2~3連泊しつつ、京王線と小田急線沿いの史跡を巡ってみた。
この日は、小田急線・新宿駅で特急に乗車し、「下北沢駅」で各駅停車に乗り換えて、「豪徳寺駅」で下車する。駅南口を出てまっすぐ南進し、世田谷城跡を訪問してみた(下地図)。

世田谷区

世田谷城は、現在の「豪徳寺」と「世田谷城址公園」一帯にあった城館で、公園内に空堀の一部が現存する。また、北隣の豪徳寺の山門脇には土塁跡も残る。周囲はすでに宅地開発されており、その他の遺構は全く残存していないが、現在、「世田谷城址公園」が東京都指定旧跡として保護されている。

この高台部分の「世田谷城址公園」一帯は、緊急時の詰め城部分に相当し、平時には、現在の豪徳寺の境内にあった城主・吉良氏の居館がメインに使用されていたようである(下地図)。

世田谷区



室町幕府 初代将軍・足利尊氏(1305~1358年)の命により、奥州総大将の 石塔義房(生没年不詳)に代わり、 1345年、奥州管領として 吉良貞家(生没年不詳)と 畠山国氏(?~1351年)の二人が派遣される(権力の独裁化を防ぐため、二人体制を採用した)。しかし、間もなく両者は対立して武装闘争が勃発し、最終的に吉良氏が 奥州(東北地方)の支配権を独占することとなる(1351年)。
尊氏は吉良氏が独立して第三の勢力となることを警戒し、二人目の奥州管領として、同じ足利家一門で三管領家筆頭の 斯波家兼(1308~1356年)・兼頼(1316?/1329?~1379年)父子を追加派遣する。例にもれず、再び足利御三家筆頭の吉良氏と対立することとなるも、1354年ごろに吉良貞家が死去し、奥州管領を継承した子の吉良満家も 1356年ごろに早世してしまい、当主不在の中、吉良氏は家内騒動に揺れてしまう。吉良満家の子・持家はまだまだ幼少だったことから、弟の 治家(生没年不詳)が当主の座を狙って挙兵し、一族騒乱の中で吉良氏の勢力は大きく減退するのだった。

1367年、ようやく事態の収拾を図るべく、2代目将軍・足利義詮(1330~1367年。尊氏の長男。下家系図)が 石橋棟義(生没年不詳)を奥州総大将に任命し、吉良治家追討を命じる。敗走した吉良治家は関東へ落ち延び、当時、京都 の足利義詮と対立していた 初代鎌倉公方・足利基氏(1340~1367年。義詮の実弟。尊氏の四男。下家系図)を頼って関東に亡命することとなった。その際に、吉良治家に与えられた土地が世田谷郷であり、以後、自らの居城として世田谷城を築城するわけである。足利義詮としては、自身の鎌倉府を中心とした関東武士団の、一支城としての機能を期待したのだった。
世田谷区

その後、3代目将軍・足利義満(1358~1408年。上家系図)の知世下で、京都方鎌倉公方 との和議が成立すると、義満はその懐柔策として、二代目鎌倉公方を継承していた 足利氏満(1359~1398年。足利基氏の子)に、奥州の管理支配権を譲渡する。これにより、東北地方で細々と命脈を保っていた奥州吉良氏の残党や家臣団も関東へ移住することとなり(ここに至り、正式に奥州管領を解任される)、荏原郡世田谷郷と久良郡蒔田郷の領地を与えられて関東武士としての道を歩んでいくのだった(以降、東条吉良氏グループを形成することとなる。下家系図)。

なお室町時代、足利将軍家に次ぐ家柄として、吉良氏、渋川氏・石橋氏は 足利御三家(足利氏御一家。下家系図)と呼ばれ、特に吉良氏はその筆頭格に位置付けられていたことから、関東に居を構えた吉良氏は「世田谷殿」「世田谷御所様」「世田谷吉良殿」「蒔田殿」などと称されるようになる(本拠地の世田谷城は「世田谷御所」と呼ばれた)。かなり落ちぶれての関東在住とは言っても、鎌倉公方、関東管領に次ぐ地位を暗黙のうちに認められ、以後の吉良氏は極力、関東地方の戦乱には関与せず、シンボル的な立ち位置で生き残っていくこととなる。

世田谷区

そのうち小田原の北条氏が台頭し、鎌倉公方や上杉関東管領家と対立するようになると、それらと同等の家格を誇っていた吉良家を抱きかかえる作戦に出る。こうして、2代目当主・北条氏綱(1487~1541年)、3代目当主・北条氏康(1515~1571年)は、親族の高源院を 吉良頼康(?~1562年)へ嫁がせ、吉良氏と婚姻関係を結んだり、養子(吉良氏朝)を送り込んだりして、家督の奪取を図ることで、以降、武蔵国南部に割拠していた吉良家の家臣団をコントロールするようになり、吉良氏は完全に北条氏の意のままに動く存在へと変貌していくのだった。

しかし 1590年、豊臣秀吉の小田原征伐を受けて北条氏が領土喪失すると、北条家からの 養子・吉良氏朝(1543~1603年)は戦わずして世田谷城を脱走し、城もそのまま開城してしまう。その後、吉良氏一族は 上総国生実(現在の千葉市)へ移住し、世田谷城も廃城となるのだった。残された城郭資材は、徳川家康による江戸城建設のために転用されたと考えられている

なお、吉良家といえば、 赤穂浪士の仇討ちで有名な 吉良上野介(1641~1703年)が思い浮かぶがが、彼は西条吉良氏グループの出身で(上家系図)、世田谷城を中心に関東に根を張った東条吉良氏とは同門であった。彼の 所領「三河国幡豆郡吉良庄」は、吉良家先祖代々からの土地であった。
赤穂浪士たちの 主君・浅野内匠頭(1667~1701年)が 5万3000石が赤穂藩主だったのに対し、吉良上野介(吉良義央)はわずか 4200石の小藩であったが、上記のような清和源氏から続く血統から、吉良家の方が家格が圧倒的に高かったわけである(江戸時代には「高家旗本」と呼ばれていた)。

そもそも吉良家とは、鎌倉幕府 の有力御家人・足利義氏(1189~1255年。上家系図。母は北条時政の娘・時子。北条政子の妹)が三河国吉良庄に所領を下賜された際、その子の 足利長氏(1211~1290年。上家系図)、義継(生没年不詳。上家系図)兄弟に分与したことから、吉良姓を名乗るようになった一族であった。そのまま三河で土豪化するも、源氏直流の足利氏の分家として公認され、鎌倉~室町~江戸時代を通じ、高い家柄を誇示し続けていたのだった。



世田谷区

続いて、その北隣の豪徳寺も訪問してみる。

この寺は「まねき猫」発祥の地の一つとして知られ(他に、 東京都新宿区にある自性院 ー 太田道灌による猫地蔵 奉納説 など)、また、 彦根藩の井伊家により保護されたことから、 井伊直孝(彦根藩 2代目藩主。1590~1659年)や、井伊直弼(彦根藩 15代目藩主。1815~1860年)の墓を守る菩提寺としても知られている。


この敷地は、もともと世田谷郷の領主・吉良氏の 居城「世田谷城」の一部だった場所で、主に居住スペースとなっていた。戦後に実施された発掘調査により、当時の居館の空堀や土塁のほか、掘立柱建物、井戸、地下式坑(地下貯蔵庫)などが境内から発見されている。
なお、敷地の一部には、「弘徳院」という寺院が建立されていたという(1480年、世田谷城主・吉良政忠が、伯母で吉良頼高の娘である弘徳院の菩提のために造営)。

鎌倉~室町~戦国時代を通じ、吉良氏は(清和源氏)足利将軍家の一門として家格が高く、関東地方にあって別格の存在であった。このため、北条氏が関東一円を支配して以降も、北条家臣団の一員ではなく、あくまでも食客として遇されていた。これに対し、北条氏康(1515~1571年。関東北条氏 3代目当主)は、当主・吉良頼康(?~1562年。武蔵吉良氏 7代目)に対し、親族の女子や養子を送り込んで親戚化を図ることで、続く 吉良氏朝(1543~1603年)の代で北条家臣団に組み込むことに成功する。しかし、1590年の豊臣秀吉による小田原征伐に際し、氏朝は世田谷城を放棄して上総国へ逃亡してしまうのだった。

同年末に徳川家康が関東入りすると、氏朝はこれに臣従し、世田谷郷(1120石)の領有を追認されるも、間もなくこれを自主返上し、上総国へ移住して 1603年に没することとなる。そのまま世田谷城も廃城となると、城内にあった 弘徳院(当初は臨済宗派であったが、1584年に曹洞宗派へ改宗)も手入れが行き届かなくなり、荒廃してしまう。

世田谷区

その後、世田谷郷は幕府直轄地に組み込まれるも、1633年に 徳川家光(1604~1651年)が 3代目将軍に就任すると、その幕閣幹部となっていた 井伊直孝(彦根藩 2代目藩主。1590~1659年)に世田谷郷を下賜する。
井伊直孝は世田谷郷内を鷹狩りを兼ねて散策中、世田谷城跡地を通行した際、中に入るよう手招きする白猫を発見する。そのまま城跡に残されていた貧しい 寺(弘徳庵)に入った途端に突発的な雷雨に遭遇するのだった。雨宿りしながら寺の和尚と話し込むこととなり、直孝は和尚と親しくなって、その縁を非常に喜んだという。その後、直孝はこの寺に多額の寄進を行い寺院を再建させて、井伊家の菩提寺に定めることとなる(後に、直孝の 法名「久昌院殿豪徳天英居士」にちなんで、豪徳寺へ改称される)。

和尚は、寺の再興という幸運を招き寄せてくれた白猫に非常に感謝し、その死後、猫のために墓を建てて弔ったという。その後、境内に招猫堂が建てられ、縁起の良い猫を模った白い『招福猫児(まねぎねこ)』が設置されたのが、現代の招き猫の由来となったとされている。そして、現在の「ひこにゃん」の発祥とも言われるわけである。
なお、この豪徳寺の招き猫は小判を持っていないことでも知られる。これは金銭への執着を潔しとしない武家のならわしによるもの、と解釈されている。



世田谷区

続いて、東急世田谷線の西側にある「勝光院」に立ち寄ってみる。ここは、室町時代に足利将軍家の一門だった、名門・吉良家(世田谷城主)の菩提寺で、代々の墓所が現存する。

また、同じ墓地内には、幕臣・廣戸備後正之(駿河出身で、当初は今川義元に仕えた。今川家の没落後に徳川家に仕え、後に世田谷に隠棲した。 1612年に死去後、勝光院に葬られる)の墓や, 幕末の 志士・土屋蕭海(1830~1864年。長門・萩藩出身。吉田松陰 と親交が深く、尊王攘夷運動に参加した)の墓なども残っているという。


1367年に東北地方から関東へ亡命し、世田谷郷の地を与えられて 居館・世田谷城を築城していた吉良治家が死去すると、これを葬るための墓所が設けられる。同時に墓の菩提寺として、臨済宗派の 心源院(東京都八王子市 下恩方町)から分置された龍鳳寺が建立されることとなった。以降、代々・武蔵吉良家(東条吉良家)の菩提寺として保護される。

1573年、吉良氏朝(1543~1603年)が 養父・頼康(?~1562年。武蔵吉良氏 7代目)の菩提を弔うため、小机城(神奈川県横浜市港北区小机町)下の雲松院から曹洞宗派の 僧・天永琳達を招聘し、寺主に就いてもらうと、吉良頼康の法名にちなんで「勝光院」へ改称される(同時に、曹洞宗派へ改宗)。北条氏康(1515~1571年。関東北条氏 3代目当主)から、養子として名門・吉良家へ送り込まれていた吉良氏朝は、吉良氏家臣団をうまく掌握するために、吉良家菩提寺の再興という形で、吉良家のシンボルを抱き込もうと意図したと考えられる。

しかし、1590年の豊臣秀吉による小田原征伐に際し、吉良氏朝は世田谷城を放棄し上総国へ逃亡することで、滅亡を免れる。同年末に徳川家康が関東へ入封すると、その家臣団に加えられ、世田谷城主として返り咲くも、間もなく領地返上し、上総国へ移住して死去することとなった(1603年)。その後も家康は、関東の名門・吉良家の家臣団を懐柔すべく、吉良家の 菩提寺「勝光院(下古地図)」を保護し、30石の朱印地を与えている。ちょうど現在の世田谷区桜 1~3丁目に相当するエリアであった。
この時、吉良家の旧領内にあった各寺院の寺領も保証され、勝国寺(下古地図)へ 12石、宮坂八幡社(世田谷八幡宮)へ 11石、満願寺へ 13石の朱印地が与えられている。

世田谷区

時は下り幕末時点では、農業生産技術と土地開墾により、勝光院領は 36石1040へ拡張されていたが、勝国寺領(12石)と 八幡社領(11石)は当初のままであったという。

しかし明治時代に入り、寺領の大部分が没収されると、勝光院は経済的に窮乏し、禅堂(衆寮)などの施設群の売却や周囲の寺院との合併で、なんとか食いつなぐ状態に陥ってしまう。ようやく昭和期に至り、寺勢の維持に必要な檀家をそろえた勝光院は安定を取り戻し、山門や控室などを再建する。 1982年には書院や玄関などを大規模改修し、今日の姿となっている。



さらに、東急世田谷線の線路沿いを南進し、世田谷代官屋敷を目指す。下地図。

江戸時代の 1633年、彦根藩 2代目藩主・井伊直孝(1590~1659年)が、3代目将軍・徳川家光(1604~1651年)から 世田谷領(2,306石)を下賜されると、その領地経営のための代官所を開設する。江戸時代中期以降は、代々にわたり大場家が代官を務めることとなり、その屋敷&役所施設が現存する、というわけだった。現在、その主屋と表門が残っており、敷地内に 区立郷土資料館(原始時代~現代に至る、世田谷区の歴史を学べる)も併設されている。下地図。

特にこの資料館では、桜田門外の 変(1860年旧暦 3月3日)で 藩主・井伊直弼(44歳)が急死した報が伝わった際の、当時の緊迫感や領内の慌ただしい動静を伝える 大場美佐(当時の代官・大場与一の妻)の日記が必見となっている。

世田谷区



彦根藩・井伊家は、本領の北近江のほか、関東にも飛び地のような形で領地を有していた。それが下野国佐野領 17,693石や、武蔵国世田谷領 2,306石で、その後も増減が繰り返され、最終的に幕末の頃には、世田ヶ谷領は 416石7090のみとなっていた。当時、これら江戸近郊にあった諸大名の飛び地領は、その江戸屋敷の生活を支える物資や労働力の供給地を担う役割を課されていた。

そして江戸時代中期以降、この彦根藩・世田谷領 20村の 代官(年貢徴収と裁判、警察業務を担当)に任じられたのが、地元の 旧家・大場家であった。

この一族は、室町時代には 世田谷城主・吉良氏の重臣を務め、その城下町に居住していたという。
小田原北条氏が関東一円に街道と宿場町を整備すると、1578年、世田谷城下に「世田谷新宿(下地図)」が開設され、楽市制度が採用される。これに伴い、領内の家臣団の居所も変更が加えられたようで、重臣の 大場越後守信久・房勝父子もかつての 居館(現在の世田谷区役所第二庁舎の辺り)から、現在の区立郷土資料館の敷地へ移住してきたという。主家の吉良氏が没落して以降も、大場氏はそのまま「世田谷新宿」に土着し、郷士として帰農していたが、江戸時代に入り、新領主となった井伊家により召し出された、というわけだった。

世田谷区

以後、代々大場家によって代官職が世襲されたことから、世田谷代官屋敷は「大場代官屋敷」とも称されることとなる。
この大場家邸宅の普請記録によると、初代・大場信久から数えて 7代目当主に相当する大場六兵衛盛政により、1737年に大規模な建て替え工事が施されたことが分かっている。この時、彦根藩 より米 105俵を借用して工事を進めたという。 1739年に盛政が正式に代官職を継承して以降も、「書院座敷」を増築したり、居宅部分にも改修などを加えていたようである。
1804年には、10代目当主・大場弥十郎がこの「書院座敷」を建替えしており、その際の図面が、現在の資料館に残されたものとなっている。1815年には内蔵も増築される。
続く 11代目当主・大場隼之助景長により 2階座敷が増築される(1850年ごろ)。明治以降には主屋内部の改修が更に進み、江戸時代当時と比べ改編がかなり加えられてしまっていたが、1967年に邸宅保存のために解体修理が行われ、上記の図面をもとに、江戸時代当時の状態で復元されることとなった。

こうして現在まで残る茅葺屋根の建物は、都内で唯一現存する大名領の代官屋敷ということもあり、 1952年に「都史跡」に、1978年1月には国の重要文化財に指定されるに至る。
特に、主屋及び表門の二棟は、近世中期の豪農邸宅の旧態をよく保存しているということで、高い評価を受けている。また、屋敷内では、他に蔵や庭、被疑者の取り調べ用の白州なども見学できる。

なお、付近にある 浄光寺(上地図)が大場家の菩提寺となっており、今でも代々の墓所が保存されているという。



この日は結構、歩いたので、そのまま 東急世田谷線「上町」で豪徳寺まで戻り(もしくは路線バス)、いったん新宿のホテルで荷物を回収後、 京王線で調布駅まで移動した。駅前のホテル・リブマックス BUDGET調布駅前に 3連泊する。安くて、清潔なホテルチェーンで、筆者は度々、愛用している

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