BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2018年6月下旬 『大陸西遊記』~


愛知県 名古屋市 緑区 ② ~ 区内人口 24万人、一人当たり GDP 400万円 (愛知県 全体)


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  名鉄・有松駅南に残る 旧東海道沿いの宿場町 と 特産品の 染め生地「有松絞り」
  国道1号線 と「桶狭間」交差点
  桶狭間の決戦当日 6月12日の 織田方、今川方諸将の布陣図と 戦いの経緯
  桶狭間古戦場公園 と 義元の墓碑とされる 駿公墓碣
  桶狭間、田楽坪の 当時の地形 と 地名の由来とは?
  丘陵地帯の 谷間に位置した 田楽坪は、水郷エリアだった
  今川義元本陣跡の「おけはざま山」に登ってみる
  決戦前々日に 現地入りし、義元本陣の 設営を担当した 瀬名氏俊の陣所跡
  合戦で地に 血まった鞍流瀬川と その供養を願った 浄土橋の言い伝え
  長福寺境内に残る 今川方諸将の 首検証の場所と 血洗いの池
  名古屋・栄の 三越横から発着する 市バス・ルートも見逃せない!



桶狭間の決戦前日の 6月11日(旧暦 5月18日)に今川本隊は 沓掛城 に投宿した後、翌日午前に出発し、桶狭間丘陵地帯にある「おけはざま山」で昼食休憩をとっている所を、織田方の急襲に遭うことなるわけだが、いよいよその桶狭間決戦場を訪問してみる。

名鉄・前後駅 から普通列車に乗り、二つ先の 有松駅 を目指す(170円、乗車時間 4分)。
有松駅構内は 東海道 の宿場町、かつ桶狭間古戦場の最寄り駅とあって、地元アピールがすごかった(下写真左)。

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旧東海道 は名鉄線と並行してあり、駅前から徒歩1分で到着できる。
駅の北側は、巨大なイオン・モ-ルを中心に発展した普通の駅前商店街が広がるだけだったが(地元の路線バスターミナルも兼ねる)、駅の南側は趣が全く異なる歴史保存地区となっていた。

上写真右の白塀土蔵の屋敷は、1791年に建設されたという、絞り問屋の商家らしい。
この「絞り」とは、ゆかたや着物の生地染めの工法のことで、江戸時代、徳川尾張藩 が藩の 特産品「有松絞り」として保護し、藩御用商材として諸大名との交際時の土産として贈答されるなど、全国に広く知られる生地製品になっていた。

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そもそも有松の地に宿場町が誕生したのも東海道が整備されてからで(1608年)、尾張藩は全くの無からの集落開発に際し、領内の有力商人らを御用商人として厚遇し、その移住を後押ししていた。当地に移住した 8名の大商人のうちの一人が竹田庄九郎で、阿久比庄(現在の 愛知県知多郡阿久比町)からの移住組であった。

言い伝えによると、全国普請により 名古屋城 の築城工事で大々的に人負が集められる中で、豊後(今の 九州大分県)出身の労働者らが着用していた絞り染め生地を竹田庄九郎が見定めて、当地に新産業を興したことに端を発するという。以後、有松宿は絞りの名産地として発展し、江戸期の参勤交代で 東海道 を往復する諸国の大名や武士らが国元への土産物として反物や手拭い、浴衣を買い求め、ますます全国にその名が知れ渡るようになったという

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上写真は、その名も「桶狭間」交差点。ちょうど旧東海道沿いにある郵便局から南下すると、すぐに国道 1号線との交差点に到達する。ここが伝説の 交差点「桶狭間」だったのだ。

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そのまま直線道路を進むこと 30分で、桶狭間古戦場公園に到着できる。
ちょうど、路線バスのバス停で言えば、「有松小学校 ➡ 高根 ➡ 地蔵池 ➡ 幕山」と続く道路を進むわけだが、この西側には急峻な山が迫っており、山裾沿いの住宅街も坂道ばかりが広がっていた。
ここが 高根山(標高 54.5 m)、幕山、巻山が連なる一帯で、桶狭間の決戦当日、今川本隊の 先鋒隊(松井宗信 1,500、井伊直盛 1,000)が陣取っていた場所である(下地図)。

ちなみに、この一直線道路の踏破が厳しい場合は、途中のバス停で路線バスに乗車してみることをお勧めする(一律 190円)。名古屋市緑区内の路線バスは前乗り後ろ降りスタイルで、乗車時に運転手脇の運賃機に 190円を直接、投入する 仕組み(釣銭は、その機械で自動的に清算される)。

桶狭間の戦い 当日の地図。

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沓掛城 を出発した今川本隊は、当初、大高城 を次の投宿先として予定し、大高街道を進んでいたが、昼前に 鳴海城 方から「織田信長の本隊が 善照寺砦 に入城」との一報が入り、急きょ、本隊から先鋒隊を分離して高根山、幕山、巻山に配置させ、本隊も北上し「おけはざま山」に着陣させる形となった。
この標高 64.9mの「おけはざま山」には、前々日に譜代家臣の 瀬名氏俊(義元の娘婿)が陣地を構築しており、ちょうど設営の手間が省けた、という感じだったのだろう。

部下の簗田政綱により、今川方の布陣情報を入手した織田信長は、今川方の注意を前面に釘付けにするため、前線基地の 中島砦 から佐々政次、千秋孝忠らを出撃させ街道沿いに対峙させる(上地図)。そして豪雨が降り注ぐ中、自身は本隊を引き連れて農道と山道を通り、釜ヶ谷まで駒を進めていく。
前方の敵に注意をとられ、かつ豪雨で視界不良となる中、今川軍は完全に後手に回り、その戦闘態勢の不備を見事に織田方に急襲されてしまうのだった。「おけはざま山」から追い落とされ、狭い街道に入りきれず、水田地帯に足を取られた今川方は次々に討ち取られ、義元側近の紅衛兵らも身動きがとれずに一方的に惨殺されたというわけだった。

その義元戦死の場所が、現在の 桶狭間古戦場公園 とされている(下写真左)。下写真右は公園前の交差点で、その名も「幕山」。後方に見える丘陵地帯が今川本隊の先陣の一人だった井伊直盛が陣を敷いていた巻山である(本陣の義元への加勢で下山して戦うも、雷雨後の水田地帯を思うように移動できず、討ち取られる)。

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ここが義元最期の地とされる所以の最有力物証が、下写真左の中央に位置する「駿公墓碣」と記された墓石とされる。
当時、田楽坪の村人らにより戦死者が葬られた塚の地下に埋められていたといい、1953年に偶然発見されたものという。当時の村人たちは敗軍の将を弔うことをはばかり、墓石を埋めてひっそり供養したものと指摘されている。

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この「田楽坪」という地名であるが、その名が示す通り、丘陵地帯の狭い谷間に構築された水田地帯のことで、村人たちはその水田地帯の中にお鍬社の境内を設け、豊作を祈るべく、毎年、社前の水田に鍬を立て、田楽の舞を行っていらしいが、今川義元の戦死後、その祭事も行われなくなり、お鍬社自体も郷前へ移転されたという。

下の二つの写真は、おけはざま山と田楽坪付近を撮影したもの(昭和初期)。一帯には田楽坪を象徴する広い水田が広がっていた。現在は住宅地のみとなっているエリアだが、昭和 40年代まではあまり開発されず、合戦当時の面影が残されていたという。

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また、「桶狭間」の地名であるが、この地はもともと、近崎道と三河道との合流点で鳴海方面に通じる要所だったという。
当時、一帯の水田地帯には用水路をかねた複数の小川が流れ、かつ、地下から湧き出る清水も数多くあり、1986年の区画整理までは水の豊富なエリアだったようである。

その流れ出る水の勢いで水汲み用の桶がくるくる廻っている様子に興味を誘われた旅人が、桶が廻る間の一服として「桶廻間」と呼ぶようになったとの言い伝えが残るという。江戸時代の文書にはほとんどが「桶廻間」という地名で言及されていたが、明治に入って 1877年の郡町村制が導入されて以降、現在の「桶狭間」の地名が定着したという。

下地図 にある通り、かつては桶狭間古戦場の東隣にも現在の道幅の半分ぐらいの小川が流れており、そこへ通じる清水が両脇から流れ出ていたという(大池は存在していなかった)。その一つの清水で、織田軍に討ち取られた今川義元公の首級が洗い清められたと伝承されており、その記念碑が古戦場公園内に展示されている。

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さて、古戦場公園の東側から、いよいよ「おけはざま山」に登ってみる。

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今でも「おけはざま山」の丘陵ぶりは健在で、麓まで追い込まれていった今川方の混乱ぶりを妄想させてくれる。

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下写真左は、おけはざま山の本陣跡からの眺め。その住所も「桶狭間北三丁目」。

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下写真は、おけはざま山と大池。かつてこの大池はなく、小川と 清水、水田が入り混じる農村地帯だった。

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そして、ちょうど写真中央の大池の対岸部分に、瀬名氏俊 の部隊の陣所跡が残る。

1560年6月10日(旧暦 5月17日)、今川義元の譜代家臣、瀬名氏俊の率いる部隊約 200名が先発隊として着陣し、村木(東浦街道)、追分(大府)、大高鳴海 方面の監視と近隣住民らへの慰撫を展開する。あわせて、二日後の 6月12日に 大将・今川義元が昼食休憩を取る際の、本陣の設営作業を村人らを動員して進めている(後に、このスケジュールと場所が、 織田方へ漏れたと考えられる)。

その作業時、瀬名氏俊の部隊が駐屯した陣所の跡地というわけだ。東西 15 m、南北 38 mぐらいで、ここよりも奥に位置していたという(下写真)。
当時は「トチの木林」で、地盤が高く陣所の形態をとどめていたが、その後は竹林になり、里人は瀬名氏俊をしのび、「セナ藪」、「セナの藪」と呼んでいたという。昭和 61年の大池の堤防工事によりセナ藪も取り壊され、今は竹をわずかに残すのみという。

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先の古戦場公園脇から流れていた小川は、この大池の東脇を通過し、南へと蛇行していた。瀬名氏俊の駐屯地もこの小川沿いだったわけだが、彼は桶狭間決戦の時点では、すでに 大高城 方面へ移動しており、戦乱に巻き込まれずに駿河へ帰国している(今川滅亡後は武田氏に属した)。

さて、当地での死闘の瞬間、この小川は人馬の血と雷雨後の雨水で真っ赤に染まり、馬の鞍や武者の鎧などが流れ、まさに地獄絵のごとき有り様だったと表現されており、後世、村人らにより鞍流瀬川と命名されたという。

鞍流瀬川のやや下流側には長福寺があり、戦後、哀れな戦死者を寺の阿弥陀如来に託すため、村人らはこの寺前の小川に浄土橋という橋をかけ極楽往生を願ったと伝わる。この橋も 1986年の区画整理で、源氏ボタルの群生した小川ごと撤去されてしまったという。その橋跡には、小さな記念碑のみが残されていた(下写真左)。

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では、決戦当日、当地の村人らはどう生き残っていたのだろうか?
おけはざま山に着陣した今川本陣に対し、長福寺の和尚は村人らを先導し、率先して酒食を提供し、その労をねぎらったとされている。
戦時には、あくまでも反今川ではない姿勢を示したわけであるが、戦後には信長により戦死者らの供養を命じられ、引き続き、織田領内に暮らしたようである

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この長福寺内では、決戦直後に織田方により戦死者らの首が集められ、首実検が行われたと伝わる。

このとき、今川義元の側近であった茶坊主・林阿弥が織田方に捕えられており、この大杉の下で、今川方の諸将らの首検証を命じられたという。現在の供養杉は二代目で、当時の大杉は枯れてしまったそうである。
戦後に解放された林阿弥は、駿府へ戻り、今川義元ら戦没者の供養目的に再び、当地を訪れた際、駿府の今川本家から寄贈された阿弥陀如来像や今川義元の御霊像など諸所の品々を持参して、ここに奉納したとされる。

また、境内には弁天池という池も残されており(下写真左)、別名、「血刀濯ぎの池」とも通称されている。桶狭間の戦いで血のついた刀が濯がれた場所と考えられているそうだ。

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上写真右は「戦評の松」とされる史跡で、決戦二日前に現地入りした瀬名氏俊が、現地での地形調査や村人らとの打ち合わせ、対織田との決戦談義を行った場所とされる。現在の松は三代目という。

この大池の南側に、バス停「桶狭間寺前」があった(下写真)。なんと、この有松町下のバス停から、名古屋の中心部・栄 まで路線バス一本で戻れるという(220円。所要時間 45分。毎時一本運行中)。途中、高速道路を走る便利な路線バスでその料金の安さに驚かされた。終点は、栄エリアの三越デパート横にある市バス発着所だった。

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逆を言えば、栄地区の中心部 から、直接、桶狭間古戦場へバス訪問できる、ということになる。名古屋市はもっとこのバス路線をアピールしたらいいのに、、、と考えてしまった。
皆、当たり前のように、鉄道を利用してしまうだろうに。。。


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