BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2018年6月下旬 『大陸西遊記』~


愛知県 名古屋市 緑区 ① ~ 区内人口 24万人、一人当たり GDP 400万円(愛知県 全体)


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  鳴海城(根古屋城)城跡公園
  鳴海城は南面と西面は 難攻不落、北面と東面が 弱点だった
  かつて鳴海城下ぎりぎりにあった 海岸線(鳴海潟)と 江戸時代に 開拓された鳴海宿
  鳴海城の 弱点・北面と東面を包囲する織田方の付城群 ー 丹下砦、善照寺砦、中島砦
  鳴海城(根古屋城)跡の記念碑 と 旧成海神社の天神社
  【豆知識】織田・今川の 20年戦争と 鳴海城(根古屋城) ■■■
  丘陵地帯(天神山)の 東西両端に立地した鳴海城と 善照寺砦
  桶狭間の決戦当日、善照寺砦と 鳴海城はどうした!?
  【豆知識】今川義元の遺体は その後、どうなったのか? ■■■
  扇川と手越川の 合流ポイントに築城された 中島砦
  旧東海道「鳴海宿」と1806年設置の常夜灯



名古屋駅 から名鉄線の快速電車で鳴海駅に向かう(所要時間 17分)。

鳴海駅のすぐ北側にある高台(かつて天神山と通称されていた)の森林部分が、鳴海城(根古屋城)跡公園 というわけで、非常に分かりやすかった。電車に乗っていても高架線路上から城跡公園を見渡せた。
鳴海駅を下車後、北側を流れる扇川を渡って、やや坂道を上がる形で城山の一帯に到着する。駅からは徒歩 5分程度。坂道を上がる直前の道が、旧東海道 である(下地図)。

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一帯のやや高台全体が城跡で、その規模は東西 160 m、南北 40 m弱と史書に記されていることから、現在の城跡公園自体そのもののサイズだったと推察される。公園内部は東西に結構、広いことが分かる(下写真)。

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現在、城跡公園の南面は急峻な斜面のままで(下写真左)、北面は緩やかな丘陵エリアになっていた(下写真右)。

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公園の東端にはうっそうと茂る竹林があり、この急斜面は非常に見応えがある(下写真)。

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竹林の横の斜面小道を下ってみると、旧東海道(国道 222号)沿いに出る。

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下写真は城跡公園の坂下(旧東海道)から、城跡を眺めたもの。

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さらに歩みを進めると、旧東海道(国道 222号)は鳴海城の山裾に沿って北側へ 90度、進路を変える。戦国期にそのまま海岸線であった地形である。
そして、直後に現れる立派な黒塀の屋敷沿いに路地を東進する(下写真左)。そのまま城跡公園へと入る登り坂があったので(下写真右)、ちょうど半周する感じで城跡公園へ戻ってきた。

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城跡の北西端から城内に入る形になるわけだが(下写真左)、城跡の北側斜面が南面に比べて相当に緩い傾斜となっていることを再確認させられる瞬間となる(下写真右)。

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織田信長が活躍した戦国期、ちょうどこの鳴海城の真下まで海岸線が迫っており(下地図)、旧東海道沿いはまさに波打ち際だったわけである。当時から、遠浅の海は満潮と干潮時に大きく地形が変化したという(かつて「鳴海潟」と呼称されていた)。

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その遠浅の海は江戸期に入り、急速に陸地化が進み(河川土砂の堆積と人工的な埋め立て作業)、旧東海道が整備されると、40番目の 宿場町「鳴海宿」が誕生することとなる。
現在、この旧街道沿いには本陣や庄屋などの旧家屋が現存しており、地名にもその名残が刻み込まれていた(本町、作町など)。下写真。

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鳴海城 は西面と南面を海に囲まれ、北面は緩やかな坂面となり、東側には 丘陵地帯(天神山)につらなる出入り口が存在していたと推察される。裏を返せば、この北面と東面が鳴海城の弱点であったため、幾重かの曲輪を有し、空堀と土塁で厳重に防備されていたと思われる。今ではそれらの遺構は完全に破壊されているものの、海に飛び出るような岬上に築城されていた堅固な地形は非常にはっきりと体感できた。
織田方も北面と東面にそれぞれ 丹下砦と善照寺砦、中島砦を設置して、陸路の封鎖で対抗しようとした意図が伺える(下地図)。

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下写真左は、鳴海城(根古屋城)跡の案内板が掲示されている旧成海神社の 天神社 の境内と、そこから城跡公園を眺めたもの(下写真右)。後方に広がる緑地部分が城跡に相当する。

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古代より、眼下の扇川を含む平野部には 海(鳴海潟)が広がっており、ここから仰ぎ見る形で天神山がそびえたっていた。この山頂に飛鳥時代後期の 686年に神廟が設けられ、成海神社へと成長することとなる。室町時代前期の足利義満の 治世時代(1400年前後)に、その配下の武将であった安原宗範が天神山のロケーションに目をつけ、鳴海城(根古屋城)の築城工事に着手する。このとき、成海神社は北側の乙子山へ移転される。しかし、成海神社の天神祠は鳴海城の鎮守神として、引き続き城内に安置されていたようで、これが現在の場所に残っているわけである。



 織田・今川の 20年戦争と 鳴海城(根古屋城)

織田信秀(1508?~1551年。1527年に織田家の当主就任)時代には、三河国の西部にまで伸長した織田方の勢力も、 1550年より信秀が病床に伏して 以降(1552年正月に死去。享年 42)に織田家で内紛が勃発している間に、徐々に後退を余儀なくされ、三河領内の拠点の守備崩壊はおろか、尾張国内の家臣団の離反も招くこととなる

そんな最中、織田家の有力家臣であった山口氏が自身の本拠地である鳴海城と笠寺城とともに、調略によって周囲の拠点であった大高城と 沓掛城 をも引き連れて、今川方に寝返ってしまう(1551年末)。これに激怒した信長は 1553年、自ら兵を率いて鳴海城を攻撃するも、失敗に終わる。

これら諸城の裏切りにより、今川方は尾張領にまでその勢力を拡大し(下地図)、その国力は 100万石(駿河、遠江、三河、尾張の一部)にまで膨張することとなった。

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しかし、織田方も粘り強く抵抗し、翌 1554年には三河国知多郡の 土豪・水野氏と協力して、今川方の手中に落ちていた 村木砦と笠寺城の奪還に成功する。ますます勢いに乗る織田方は今川方の最前線基地となっていた鳴海城を包囲すべく 1559年、丹下砦、善照寺砦、中島砦を築城し、また南の 大高城 の周辺にも丸根砦と鷲津砦を新設して攻勢をかけていく。
こうした緊迫する尾張国境からの援軍要請にこたえるべく大軍を発したのが、今回の 今川義元(1519~1560年。1536年に今川家第 11代当主に就任)自身による出陣なのであった。長年、尾張の織田家との抗争関係に終止符を打とうとしたのが第一目的だったわけだが、そこで思わぬ奇襲攻撃に遭い、不遇の死を遂げてしまうのであるー 桶狭間の戦い(1560年6月12日)

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戦後、その要害さと東部国境の要ということで、信長は最古参の 重臣・佐久間信盛(当時 30歳過ぎ)を 城主につける。

最終的に、豊臣秀吉により 1590年夏、小田原征伐が完了し、全国統一が成ると、同年秋に徳川家康が 関東へ移封される。これと同時に、尾張国を統治していた織田信雄も関東移封を指示されるも、頑強に拒否したため、秀吉により所領自体をすべて没収されてしまうこととなった。
以後、尾張は 豊臣秀次 の領土とされ、秀次切腹後は 福島正則 が統治する。 鳴海城は、この豊臣秀次時代に廃城となったと考えられる。



続いて、善照寺砦 の跡地へ移動してみる。
鳴海城と善照寺砦とは一つの高台をなす 丘陵地帯(天神山)の東西両端に位置しており(下地図)、善照寺砦の方が高地にあった。

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そして驚いたのは、その両者の距離である。徒歩でたったの 6分だった。まさに、目と鼻の先に両陣営が対峙していたことになる。

現場の地形から推察するに、一つの独立系の 高台エリア(天神山)の西端の岬部分のみを鳴海城が城塞化したとは考えずらく、おそらく、この 丘陵地帯(天神山)全体にいくつか曲輪を設けて、出丸や武家屋敷も含めて要塞陣地化していたと推察される。
下写真は、丘陵地帯の途中から鳴海城跡を眺めたもの(後方の緑地部分)。

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当初は、完全にこの高台全体を掌握していた鳴海城方も、1559年に入り反転攻勢を強める織田方によって、高台地帯の西端の城郭部分にまで追い込まれていたと考えれば、すへてのストーリがしっくり来ると思われる。
すなわち、織田方は反転攻勢の過程で、高台一帯の出丸や武家屋敷群を占拠し、その一部を構成していた善照寺の敷地跡を改修して、要塞化したわけである(善照寺砦の誕生)。

もし、この東端の善照寺砦がゼロから建造されたのであれば、羽柴秀吉の墨俣一夜城よりも厳しい環境下での築城工事となっていたはずである。鳴海城と善照寺砦はそもそも、走ると 3分程度で到達できる位置関係にあり、今川方からの妨害を受けないわけがない。
しかし、もともと当地に高台を利用した出丸や屋敷群が複数あり、それを織田方が何らかの形で占領していて、これに強化工事を施しただけ、というならつじつまがあう。特に、東端は今川方との交通路の要衝にあり、また、丘陵地帯の中でも最も高台に相当したので、鳴海城方としても重要な防衛ポイントとなっていたはずである。

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このとき、鳴海城の在番を委ねられていたのが今川家の譜代家臣である岡部元信 で、地元の土豪や住民らの支配もままならない状態で、織田方の攻勢をうけていたと考えられる。これを救援すべく 駿河、遠江、三河の大軍を引き連れて出陣してきたのが今川義元本人だったわけである。

こうした 丘陵エリア(天神山)を東西に分裂させる形で立地した鳴海城と善照寺砦であったが、地形としては明らかに善照寺砦の方が高台にあり、有利であった。一部の歴史家の間では、この善照寺砦の立地は、鳴海城攻撃だけを目的としたものではなく、さらに東方から襲来する今川方への備えという意味でも織田方の最前線基地の役割を持たせた、という指摘が主流となっている。

この高台上には現在、鳴海小学校(下写真左)を中心に住宅街が広がり、地形が平坦化されて、以前の状態が想像できないが、地元に残る 地名「鳴海町矢切」、「鳴海町砦」、「鳴海町石畑」などから、当時の名残を感じ取ることはできると思う。

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6月12日当日桶狭間の今川本陣 の急襲前に、織田軍は 清洲城(愛知県清須市)を出発し、熱田神宮 に参拝してから、丹下砦を経由し、この善照寺砦に入城している。ここで休息がてら敵軍の動向に関する情報を収集し、後から馳せ参じてくる軍勢 2000の集結を待つこととなった。
これだけの大人数が丘陵地帯の麓を移動してきたら、鳴海城側もすぐに察知したに違いない。
そのまま今川軍本陣に対し、「織田方の本隊、善照寺砦にあり」との一報を早馬で発したと思われる(6月12日午前)。

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ここから、織田方はさらに善照寺砦を下りて、扇川沿いの水田地帯の農道を縦 1列になって中島砦へと移動したようで、敵方に急襲されるとひとたまりもないリスクを犯しての、最前線への行軍となっていたようである。『信長公記』によると、この移動の際、家臣たちが敵方から丸見えで、かつ 一列縦隊でしか歩けない細い農道の移動を避けるように進言するも、信長は聞き入れなかったとされる。

ここで、猛烈な雷雨が 1時間ほど降りしきる。
今川、織田軍ともに進軍を休止せざるを得ず、双方の時間が止まることになる。
しかし、この雷雨の中、実は織田軍は中島砦をも出陣して、今川本軍が通過中だった 桶狭間の丘陵地帯 まで軍を直進させていたのだった。善照寺砦と中島砦には多くの軍旗を残し、あたかも本軍が滞在しているように見せかけたと言われる。
対する今川軍はまだ 1時間前の早馬情報で時計の針が止まっており、織田方は善照寺砦で籠城、さらに鳴海城を攻撃する構え、という思い込みの中にあった。
この認識のギャップを生んだ雷雨により、織田軍は勝利の女神を微笑ませたといえる。

雷雨の中、釜ヶ谷(現在の 名古屋短期大学キャンパス一帯)に到着した織田軍はここで天候の回復を待つ。
そして、雷雨が静まりかけ、今川軍の各部隊が木々の下や陣幕の中で引き続き休息していた、まさにその中を、織田軍が一気に切り込んだのだった。「おけはざま山」を背に丘陵地帯の中央を通る、狭く細い街道沿いに陣を張っていた今川軍は総崩れとなり、兵士らは午前中に通過してきた沓掛城からの道をそのまま引き上げようと右往左往する中で多くが戦死することとなった。最後まで 総大将・今川義元を守備した近衛兵 300騎の奮戦も空しく、谷間の田んぼエリアまで追い込まれ、ついに義元は討たれてしまうのだった。

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 今川義元の遺体はその後、どうなったのか?

大将を失った今川軍は占領した城や砦も放棄し、塵尻になって撤退していったという。今川義元の首は、翌日から早速、織田方の 本拠地・清洲城下に晒されることとなった。
他方で織田方は各方面へ軍を展開し、残党兵力を掃討しつつ、国境地帯の各拠点を再奪取していき、尾張国境線を回復することが叶ったというわけである。
こうした中で、大高城を占領していた松平元康軍も三河の本拠地へ戻って、今川方の在番を追い出して先祖代々からの本拠地・岡崎城を回収し、三河の西部を今川勢力から分離、独立させることになるのだった。

這う這うの体で本国へ逃げ帰った今川軍の家中にあって、織田方との最前線の守備を長らく務めてきた鳴海城だけはなかなか開城せず、それどこらか織田方の攻撃を何度も撃退して持ちこたえていた。
城将の岡部元信は、城の明け渡し交渉の過程で、主君の今川義元の首の返還を要求し、これを受け取ると、堂々と城から出て、東へ向かって帰国の途に就いたという
こうして義元の首は今川方により駿河本国への持ち帰りが図られるも、初夏の暑さから腐敗の進行が早く、やむなく帰路の途上にあった 寺(現在の東向寺:愛知県西尾市)に首を埋葬する。
ちなみに義元の胴体は、今川本軍が総退却の際、運び出していたものの、同じく腐敗が激しく、帰路の途中で埋葬する。これが、現在の 大聖寺(愛知県豊川市)の義元の胴塚となっている。



話を少し前に戻す。桶狭間の戦い の前年の 1559年、織田方が善照寺砦の築城工事を進めたころ、その後方支援基地として中島砦も建造される。東方から攻め寄せる今川方の攻撃を最初に食い止める役割を担っていた最前線基地・善照寺砦の前衛陣地と言える。

鳴海城跡から東へ徒歩 10分の位置にあり、善照寺砦からは坂道を下りて徒歩 5分とかからない場所に配され、ちょうど、扇川と手越川の合流ポイントに形成された中州上に築城されたので、中島砦と命名されたのだろう。

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現在は、民家の裏庭に大きな石碑が立つ記念公園となっているだけで、砦時代の土塁や地形は想像もできないぐらいに宅地開発されてしまっている。

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しかし、江戸期に整備された 東海道 が砦陣地を貫通するように敷設され、多くの街道往来客たちがこの地が織田信長公の陣地遺跡と知り、鳴海宿の名所として訪問したものと推察される。

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江戸時代に入って埋め立て工事により陸地化が進んだ鳴海潟で、まだまだ新興の 宿場町 だった鳴海宿であるが、もともと手越川と扇川が合流する河川交通の要衝でもあり、交易都市として急速に発展していったはずである。

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旧東海道(国道 222号線)はしっかりと現存しており、沿道には古民家や商家の名残を残す町並みが所々に見受けられた(上写真左)。
また旧宿場町の東側 入り口(緑区鳴海町平部)で、現在、国道 1号線との交差点にあたるポイントには、江戸時代に設置された 常夜灯(英訳だと、All Night Lamp !!)が保存されていた(上写真右)。
表面には「秋葉大権現」、右に「宿中為安全」、左に「永代常夜燈」、裏面に「文化三酉寅正月」の文字が刻まれ、1806年(文化 3年)に設置されたものといい、旅人の目印や宿場内の安全と火災厄除などを、秋葉社(江戸時代に火防の神として信仰を集めた)に祈願したものという。

この日は終日、雨天でかなり疲れた。


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