BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2019年9月上旬


山梨県 韮崎市 ~ 市内人口 3万人、一人当たり GDP 379万円(山梨県 全体)


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  JR甲府駅からの 電車の旅 ~ 東京・新宿(2,270円)/ 富士(1,660円)/ 松本(1,890円)
  JR韮崎駅の 駅前商店街「中央町」と その裏手にそびえ立つ 平和観音像、雲岸寺 窟観音
  【豆知識】雲岸寺 と 徳川家康 ■■■
  【豆知識】自然の 芸術作品・七里岩 ■■■
  【豆知識】甲州街道 と 韮崎宿 ■■■
  釜無川 と その水源地帯・南アルプス山脈の織りなす 雄大な自然風景
  武田橋を越え、白山城を目指す
  【豆知識】甲斐武田家(清和源氏 = 皇族の血統)の歴史 と 白山城 ■■■
  【豆知識】甲斐武田氏の 後詰め城・白山城の 全容マップ ■■■
  甲斐武田氏の 氏神・武田八幡宮 を訪問する
  【豆知識】武田八幡宮 ~ 平安時代からの古刹 と 国宝歴史遺産 ■■■
  左遷身分から 甲斐・清和源氏を乗っ取っとり 甲斐武田家の礎を築いた、武田信義の居館跡
  武田の里 マップ
  国道 141号線 ~ かつて武田信玄が信濃遠征で使った 軍用道路(逸見路、諏訪口)



甲府駅 からの中央線下り普通列車は、1時間に一本程度しかない。 甲府発 13:13にて、韮崎駅で下車する(13:25)。下写真は、甲府駅からの 料金表(2019年9月現在)。

韮崎市

韮崎市

駅前 にある、きれいなショッピングセンター入口脇に入居していた韮崎市 市民交流センター「ニコリ」で電動自転車を借りる(600円)。普通自転車の場合、レンタル料は 200円だった。
スタッフの方、曰く、韮崎は坂道が多く、電動自転車がオススメとのこと。結果的にこの助言は正しかった。
韮崎市

JR韮崎駅の線路下をくぐって、韮崎の 旧市街地「中央町」を通過する(下写真の中央部。後方に JR韮崎駅のホームが見える)。
そして、すぐ西側の 丘陵上(下写真)に立地する巨大な平和観音像を目指してみた。

韮崎市

一つ目の信号を右折し、 高さ 18.3 mの 平和観音像(1961年完成)がそびえ立つ急斜面を自転車で上がろうとしていると(上写真)、左手に洞窟を発見する(下写真左)。
洞窟をくぐってみると、雲岸寺の窟観音が鎮座していた(下写真右)。

韮崎市 韮崎市
韮崎市 韮崎市

とても迫力のある洞窟だった。
この側面から平和観音像まで徒歩で登れるようだったが(上写真右)、夏の日差しが強いので止めておいた。



 雲岸寺 と 徳川家康

平安時代の 828年、弘法大師・空海(774年~835年)が東日本を行脚し、広く庶民教育の重要性を説きつつ真言密教の布教活動を展開中に、七里岩に立ち寄り、その南端の崖面にあった洞窟に当地での布教を祈念して石造の観音像を安置したと伝えられる。
以後、地元民らの間で細々と保護・崇拝され、洞窟内の仏像は徐々に増加されていったという。
時と共に、弘法大師の訪問遺跡として有名となった霊場窟観音を守るべく、真言宗の祖慶和尚が道場の雲岸寺を創建したのが、室町時代中期の 1464年2月という。

その後、時は下って 1603年2月に徳川家康が征夷大将軍に任命されると、翌 3月、全国の大名に対し大号令が発せられ天下普請が行われる。この一環として雲岸寺でも新しい社殿の建設が着手され、同時に、幕府から黒印地一石四斗四昇余りと屋敷 150坪を寄進され厚遇を受ける。しかし、曹洞宗の強かった地元での信者獲得に苦労し寺運が傾き、1615年、 恵運院(甲府市塚原町)六世の国州天越和尚によって真言宗から曹洞宗へ改宗され、現在に至る。現存の本堂は 1983年12月に再建されたものという。
この江戸幕府による天下普請令は以後も度々、発令され、建前は鎮護国家祈願、国土強靭のための国家施策であったが、その実、各地の大名に経済的、人為的な負担を強いて余力を削ぐための定例の大土木工事となった。

なお、1582年6月2日の本能寺の変により織田信長が急死すると、3月の武田氏滅亡後に弾圧を受けて苦しめられていた 武田遺臣らが 信濃、甲斐各地で蜂起し、織田の統治体制が崩壊する。 これにあわせて、6月早々にも上野から信濃へ 北条氏政・氏直父子が侵攻を開始すると、 そのまま信濃衆の帰順を得て、一気に諏訪地方まで占領し、甲府盆地への侵攻を伺うまでに至る。 同じく武田遺領と旧家臣団の吸収を目論む徳川家康も対抗して出兵し、諏訪口を抑える 要である七里岩上に諸軍を配置して北条軍と対峙する(8月、天正壬午の乱)。
このとき、徳川家康は後述の新府城跡に本陣を置いており、この七里岩の南端という要衝に立地した雲岸寺の境内にも、徳川軍の一部が配置されたと推察される。

韮崎市


 七里岩

なお、上で言及した七里岩であるが、奈良時代には空海が立ち寄り、戦国期には 武田勝頼 により新府城が築城され、また徳川家康が大軍を展開した地であるが、ここは自然の妙で形成された台地で、その稀有な地形から往時より地元で信仰の対象とされ、また軍用道路としても利用されてきた古代からの要衝であった。
現に、七里岩の岩肌や洞窟には「祖母石」「屏風岩」「大士洞」「伊勢山」などの地名が古くから存在し、地元でその風光明媚さや神秘をたたえられてきたのだった。

もともとは約 20万年前に八ヶ岳(上写真の後方に見える巨大な山)が噴火し、地震を伴って流れ出た 岩屑(がんせつ)流が堆積してできた台地で、この上に釜無川と塩川が流れ込むようになると岩盤が徐々に削られ、長い年月を経て 7里(約 28 km)に渡って連なる浸食崖が形成されたという(上写真の緑地部分)。

韮崎市

その台地は平坦ではなく、高さ 40~150m 程度の凹凸面が続いており、 100余りの 小高い丘(流れ山)の集合体となっていた。その両端を河川によってえぐられ、切り立った岩壁が延々と続くこととなったわけである(上写真は、西に流れる釜無川にかかる武田橋上から撮影したもの。右端に平和観音像の真っ白い姿が見える)。
そのうちの一つの小山を利用して築城されたのが、武田勝頼 の新府城というわけである。


 甲州街道 と 韮崎宿

江戸時代、この釜無川と七里岩との間に甲州街道が整備されていた。だいたい、現在の国道 17号線~国道 6号線のラインに相当する。 そして、ちょうど七里岩の南端、つまり平和観音像のすそ野一帯に 宿場町「韮崎宿」が発達していたのだった。本町交差点から南側で、国道 6号線沿いの一帯である。
この韮崎宿は信濃南部、甲斐西部で生産された年貢米の一大集積地となっており、ここから釜無川を下って、笛吹川との合流地点から 富士川沿いに駿河湾を経由して江戸 へ搬出されていたという。

現在、数少ない韮崎市内の宿泊施設の中でも老舗である「清水屋 旅館」は、この街道沿いに 1845年(弘化二年)に開業し、現在も営業中という。また、この街道沿いに立地した豪商の邸宅内にあった土倉は現在、韮崎市民族資料館に 移築・保存されている。



さて、雲岸寺を後にし、中央町の商店街を通り抜けて、国道 6号線との本町・交差点に至る。ちょうど江戸時代、宿場町「韮崎宿」が栄えたエリアである。

ここから北上し韮崎市役所脇を通り抜けて川の土手を登ると、釜無川 と武田橋が見えた。下写真は土手道(国道 20号線)上から、西に続く巨大な南アルプスの 山々(赤石山脈)を眺めたもの。

韮崎市

下写真に見える橋が、武田橋。

韮崎市 韮崎市

下写真は、武田橋から釜無川の 上流方面(諏訪口)を臨んだもの。
釜無川は西に広がる南アルプス山脈を水源としており、大雨や雪解け期には山脈中の水がここに流れ込み、たびたび洪水被害をもたらせたという。
この下流側に、有名な「信玄堤」が建造されたわけである。

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さて武田橋を越え、そのまま直進して緩やかな斜面をまっすぐ登っていくと、正面に 白山城(韮崎市神山町鍋山)を有する巨大な山々が連なっていた。

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この白山城自体は、南アルプス山脈から飛び出した 小山部分(標高 570 m)に築城されており、鍋山砦とも通称されたという(下写真)。

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 甲斐武田家の歴史 と 白山城

平安時代、第 56代目・清和天皇(850~881年)は多くの子を成したが、そのほとんどが臣籍降下し、関東甲信越地方の国司などに任命される。特に子孫が繁栄したのが、第六皇子・貞純親王(873?~916年)の子・経基王の末裔という。彼は 源経基(?~961年)と名乗り、938年に武蔵介として東国に赴任して以降、 東国各地の地場の武装集団を束ねて 地方勢力(東国武士団の誕生)を形成していく。

その 孫・源清光(1110~1168年)の時代に入ると、開墾された領地も親族に分与され続けた結果、一帯の土地は細かく細分化されてしまい、親族どうしの内紛も頻発するようになる。自身は 常陸国那珂郡武田郷(茨城県ひたちなか市武田)を地盤としていたが、1130年、同族の佐竹氏とのいざこざの責任をとらされて、朝廷より常陸国から追放され、甲斐国八代郡市河荘(山梨県西八代郡市川三郷町)への転封を命じられる。泣く泣く源清光は一族を引き連れ、左遷先の甲斐国北西部の 山あい(前述の八ヶ岳の山麓あたり)へと移住してくる。
当時、すでに甲斐国司として同族の源氏が執政しており、その監督を受けながらの立場であったと考えられる。同族の領地内で肩身の狭い貧困生活を余儀なくされたわけであるが、そうした逆境の中、源清光ら主従一行は力を合わせて周辺の土地を開墾し、自らは若神子に拠点を構えつつ、自身の子 10余人の男子に次々と開拓した土地管理を任せるべく、各地に居館を建造させていく。こうして源清光父子は周辺の武士団を配下に収めつつ、瞬く間に 甲斐国北西部(三郡)で勢力圏を拡大し有力土豪として台頭するのだった。

他方、国司を担った甲斐源氏の当主らは、京都 で保元の乱(1156年)や 平治の乱(1160年)が勃発する度に出兵を要請されたため、領国経営へのにらみが疎かになったタイミングであった。源清父子らは着々と甲斐国内の空白地に勢力を伸ばし、いよいよ 甲府盆地(当時の国府中心地は 塩見市あたり)へと進出していく。
そして、源清光の 次男・源信義(1128~1186年)が後を継いで一族を率いると、さらに勢力を拡張し、最終的に甲府盆地の大部分をその勢力下に置いたと考えられる。

韮崎市

こうした過程で、武田八幡宮が鎮座する武田の荘に父から領地を与えられていた源信義は、その地方の守り神であった武田八幡宮にあやかり、武田姓を名乗るようになる。(そもそも信義自身も 1140年に武田八幡宮で元服し武田太郎と号し、ゆかりも深かった)。こうした武田の荘を支配する主として、名実ともに 甲斐源氏・甲斐武田氏の頭領を宣言すると、その居館をさらに増強しつつ、またその後詰の城塞として白山城を築城するのだった。
ここを本拠地として甲府盆地への勢力拡大をさらに押し進め、その 子・武田信光の時代には盆地全体の掌握に成功し、その本拠地を国司役所があった 甲斐国八代郡石和荘(古代より 縄文文化、弥生文化、古墳文化が花開き、甲府盆地の中心集落が立地していた)に移転し、石和館を開設する。
以後、武田家の本拠地がこの七里岩周辺に戻ることはなかったが、そのまま武田八幡宮や白山城などは維持され、甲斐武田家の重要な継承遺産として代々、大切に保護されていくこととなる。

なお、武田信義(1128~1186年)の生きた時代は、ちょうど源平合戦のタイミングに相当し、源頼朝(1147~1199年)、源義経(1159~1189年)、木曽義仲(源義仲。1154~1184年)らと肩を並べ、清和源氏一門としてリーダーの一翼を担うこととなる。
平家追討の中核を担った源頼朝に協力し、甲斐武田氏は甲斐の武士団を率いて信濃や駿河などに転戦し、武田信義の 子・信光に至っては、自ら源義経に従って 木曽義仲戦(1184年1月、宇治川の戦い)や、一ノ谷の 戦い(1184年3月20日)にも参戦している。
その手柄から、武田信義は頼朝から駿河守護にまで補せられたが、やがて有力武将の勢力を削ぐ源頼朝の政策により度々、謀反の嫌疑がかけられ、その釈明に追われながら 1186年に病没する(享年 59歳)。
以後、武田家は甲斐守護のみ継承することとなった。

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さて、後詰の城として築城されていた白山城であるが、甲斐武田家の 氏神・武田八幡神社と同じ山裾に位置しており、一族にとってもシンボル的な城塞であったと考えられる。実際の居館や政庁は平地部に開設されていた。

当時、向かいの七里岩の東面に主要街道が通っており、武田信義が拠点を開設した 居館(武田の荘)は、必ずしても政治、経済上のメリットが享受できる地の利はなく、あくまでも甲斐武田氏の象徴的な地に君臨するためであったと考えられる。また、当時はまだまだ甲府盆地の支配をめぐって同族らが群雄割拠しており、防衛に適した高台の台地上が優先的に選択されたとも考えられる。

そんな甲斐戦国時代の最中、後詰めを期待された白山城であるが、中世の城塞らしくすべて土塁で建造されていた。しかし、その考え抜かれた城郭設計は高く評価されており、また木々の根に守られて、現在まで山頂の本丸を中心に中腹や背後の尾根に 土塁、堀切、堅堀などの遺構が生々しく残るため、訪問者に人気のスポットとなっている。特に、馬出曲輪に残された枡形虎口や堀切の遺構は必見という。また、城塞の南北にはムク台烽火台と北烽台の遺構も残り、山城の全容が大規模に残る城郭遺構として、2001年1月に国指定の歴史遺産となっている。

韮崎市

1582年6月の本能寺の変後に起こった天正壬午の 乱(同年8月)では、徳川家康は新府城跡に布陣し、七里岩全体に軍を展開した。そして、徳川方に組した甲斐の武田遺臣の一部がこの白山城に配置され、城郭のさらなる強化整備を行っている。
最終的に江戸時代の 1670年ごろ、廃城となった。



山裾の用水路沿いの自動車道路を右折し、韮崎大村美術館の脇を通過した(下写真は、ちょうど博物館前から韮崎市街地を見下ろしたもの)。
このまま丘陵地を上ると、白山城の登山口を兼ねる 白山神社(白山権現)に至る(上城郭図参照)。

韮崎市

そのまま 用水路「徳島堰(江戸時代初期に掘削された 農業用水路)」沿いを北上する(下写真。諏訪方面を臨む。遠方に見える大きな雲で隠された山が、八ヶ岳だ。当初、あの山裾に甲斐武田一族が左遷されていた)。
水路沿いは道幅が狭く、何度が自動車にすれ違った際、車間距離がギリギリだった。

韮崎市

そして、直進すること 5分程度で武田八幡宮の山裾に到着した。大きな看板と 二ノ鳥居(県指定文化財。下写真)が見えたので、すぐにこの坂上にあることが分かった。

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それにしても、すごい坂だった。電動自転車でないと、かなりきつかっただろう。。。
こんな急な坂の両脇にも民家が軒を連ねており、ついつい日常生活のご苦労を想像してしまった。。。

境内入口にあった総門と 石鳥居(下写真左)はかなりの年代もので、見応え抜群だった。
日中なので、巨大樹の下は涼しかったが、早速、蚊にかまれた。

韮崎市 韮崎市

境内はきれいに保持されており、手入れが行き届いていた。
下写真左は、総門から一段上の舞殿を見上げたもの。

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伝説によると、古墳時代、父の 景行天皇(第 12代目)より東国民族の平定を命じられた 日本武尊(やまとたけるのみこと)は、その遠征の途上、自身の息子らに主要な領地を与えて統治体制を確立させていったという。
このとき、甲斐国には日本武尊の 王子・武田王が配せられ、甲斐西部の山裾に 居館(桜の御所)を設けたという。後に当地で武田王が死去すると、その居館跡に祠が建てられ武田武大神として崇められるようになり、またその遺体は附近に現存する「王仁塚(わにづか)」に埋葬されたという。

時は下って平安時代初期の 822年、嵯峨天皇(第 52代目、在位 809~823年。父は桓武天皇)の勅命により、九州・宇佐八幡宮を全国に分祀させた際、当地の 地神(武田武大神)を祀った祠に八幡宮が建立され、これ以降、あわせて武田八幡宮と通称されることとなったというわけである。

さらに清和天皇の 治世下(858~876年)、自らも深く帰依した京都石清水八幡宮の分祀を全国に進め、各地の祠やお堂などに勧請して合祀させる。このとき、武田八幡宮にも 京都の石清水八幡神 が合祀された。
これがきっかけで、清和天皇の王子らが姓を下賜され臣籍降下として、全国、特に東国へ派遣されていった際、その子孫である清和源氏の 一族(旧皇族出身者の末裔ら)も、この八幡宮を信仰することとなったわけである。その代表例が、鎌倉幕府を成立させた源頼朝による「鶴岡八幡宮」の造営である

特に 1029年、甲斐国司(甲斐守)として、京都 から派遣された 源頼信(甲斐源氏の祖)とその末裔らの厚い崇拝を集めたのが、この武田八幡宮であった。以後、釜無川の西岸一帯は武田の荘として通称されていくこととなる。
特に文武にも優れた 武田王(武田武大神)を祀った古刹だけあり、武神、弓矢の神としても信仰され、武士の気風にも合致して末永く信仰されたのだった。

その後も、甲斐源氏の八幡宮として大切に守られ、常陸国から転封されてきた源清光らもこれを崇拝し、勢力を徐々に甲府盆地へ伸長させると、武田八幡宮を取り込み、実子・源信義の元服式を八幡宮で執り行わせる。このとき、源信義は武田太郎と改名し、その山麓部を開墾して居館を設けるとともに、周囲に城塞を建造し、また多くの土地を八幡宮に寄進して、政教一体で 武田八幡宮=甲斐武田家の正統な家柄、という心理的イメージを作り上げていく。これにあわせて、武田八幡宮が甲斐武田家の氏神に定めわれたのだった。
もともと甲斐源氏らが帰依していた武田八幡宮の名称を姓として継承したことは、甲斐源氏のルーツを甲斐武田家が乗っ取った形とも言える。

当八幡宮を武田の氏神とする信仰がますます定着する中、甲斐国で割拠した一族や国人らを統一した武田信虎によって、甲斐武田一門の氏神であり、また武神として称えられ、 八幡宮の大規模な改修工事が着手される。
こうして武田の氏神を抑えた信虎は、順調に甲斐統一を成し遂げるも、子の武田晴信により駿河追放となると、父・信虎が 10年前から手掛けた八幡宮の再建工事を完遂すべく、信玄はさらに半年の工事を進めて、 最終的に 1541年12月23日に完成させるわけである。現存する本殿は、この時のものという。

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現存する多くの建造物(1929年4月に国の重要文化財に指定された 本殿、拝殿、神饌殿、神楽殿、神楽装東舎、隨神門、社務所、石鳥居、正面石垣、大鳥居、輿石、為朝神社社殿、若宮八幡宮社殿、手水舎など)や 広大な境内は、武田信虎・信玄父子の手によってなされたものということで、非常に貴重な文化遺産となっている。
また、武田勝頼 滅亡の寸前、同夫人が武田八幡宮へ戦勝を祈念して訴えた切々たる願文も安置されており、武田家三代には深いかかわりを今に伝える歴史遺産という。江戸時代に入ってからも広く地元で敬愛され、保護されてきたのだった。

なお、境内神社となっている為朝神社、若宮八幡宮であるが、保元の 乱(1156年7月)で上皇方に組し敗者となって伊豆大島に流された 源為朝(1139年~1170年?。巨漢で弓の名手だった)を祀ったもので、その武勇は源氏一族の間で神聖視されていた。伝説によると、伊豆大島から脱出し、鬼二匹を従えて甲斐の武田信義のもとに身を寄せた源為朝は「武田為朝」と名乗って生き続けたとされる。そして、当地で没した為朝の霊を祀ったのが、為朝神社ということになっている。現存の社は 1816年建造という。



撮影後、下り坂は山裾の国道 12号線との 交差点(武田八幡宮入口)まで一直線に下りれた。

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そのまま国道 12号線を北上し、一つ目の信号交差点を東へ右折する。
ここが、「神山町武田」という集落地だった(下写真の民家群)。

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「武田」という集落地なんだし、武田公民館という名になるよね。。。(下写真左)
集落地のメインストリート沿いに、一列に配された墓石群が気になった(下写真右)。

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この道をさらに直進すると、「武田信義の居館跡」の大きな看板があった(下地図)。

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田圃のあぜ道を通って、民家横に残る居館遺跡公園まで行ってみる。

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まさに、畑の一角に位置した。
実際には、居館は 250 m2ほどの巨大な敷地を有していたが、今は民家・耕地が入り混じってしまい全容を偲ぶことは不可能となっている。
ただ、当時の遺構と見られる土塁の一部は現存し、 また 御屋敷、お庭、お旗部屋、み酒部屋、的場、お堀、金精水、具足沢などの地名が今も残っているという。
2008年に行われた発掘調査では、水晶や中国産陶磁器などが出土しているらしい。

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甲斐源氏ゆかりの武田八幡宮の 地元一帯(武田の荘)を支配し、甲斐源氏の惣領としての地位を確立した 武田信義(1128~1186年)は、甲斐武田家の 4代当主としてカウントされる。

その初代は清和源氏の末裔として甲斐国司に就いた 源義光(1045~1127年。後三年の役を制した源義家の弟で、新羅三郎とも称した)で、続いて甲斐国司職を継承した源義光の子孫らを差し置き、常陸国から左遷されてきた同族の 源清光(1110~1168年。初代・源義光の孫にあたる)父子が、甲斐源氏の惣領を乗っ取った形で公称したわけである。
そして 19代目当主・武田信玄 のとき、武田家は最大版図を形成するのだった

韮崎市

居館跡を撮影後、集落地を後にし、長い坂を下っていくと、武田信義を供養した 五輪塔(鎌倉時代の墓に相当)が境内にある(鳳凰山)願成寺があった。
そのまま坂を猛スピードで下って釜無川まで移動すると、きれいなピカピカ校舎を持つ韮崎西中学校前を通過する。中学校の駐輪場に自転車がたくさん止まっているのに驚いた。生徒たちは自転車通学も OK なようだった。

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そして武田橋を渡り、再び、七里岩がある対岸へ戻った(下写真左)。
そのまま土手沿いの国道 20号線を川沿いに北上する。

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一つ目の信号交差点「一ツ谷」を右折し、東進する。本当は、このすぐ右手の坂道を上るべきだったが、気づかずに トンネル「清里ライン」内を 5分弱の サイクリング後(上写真右)、出口最初の交差点向かいにあるセブイレブンでアイスを食べた。ここから道を踏み間違ってしまった。
その脇道をまっすぐ北上し、途中の自動車道路を東進して、国道 141号線沿いに至る。ここをしばらく北上していたが、途中、格安カラオケチェーン店前で引き返すことにした。

電動自転車の電源が自動的に切れていたため、サドルが重く、なんか疲労感もあって、ここで新府城訪問を断念することにした。そのまま、国道 141号線をまっすぐ南下した。だいたい 15分程度のサイクリングで韮崎駅に到着した。
途中、新府エリアという看板があったが、なぜこんな南の位置に。。。と不思議に思っていたが、実際には、筆者はもう新府城の緯度まで北上していたことを、後で地図を見て知った。。。

なお、この国道 141号線は、かつて逸見路、諏訪口と称された主要街道で、江戸時代に甲州街道が七里岩の西側に整備されるまで、この東側の交通路をつたって人々が往来していたという。江戸期には甲州街道が釜無川の氾濫で一部通行不能となる度に、迂回ルートとして活用され、人々からは「原道」と通称されたという。
また、戦国期には軍用道路としても利用され、武田信玄が信濃侵攻 や 川中島の戦いに出撃する度に通過した道でもある。

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韮崎駅では 20分ほど待って、16:02発の 甲府 行の 上り電車(1時間に一本しかない!)に乗車し、そのまま甲府市内で投宿した。

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