BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2019年11月中旬 『大陸西遊記』~


愛知県 一宮市 ~ 市内人口 24万人、一人当たり GDP 400万円(愛知県 全体)


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  真清田神社の神官で、一宮城主・関氏の寺社領だった JR尾張一宮駅 エリア
  がっかりさせられた 一宮市博物館
  尾張屈指の 大禅寺「妙興寺」で、時空を超えた圧倒的な 世界観を見せつけられる
  旧鎌倉街道沿いの 名刹・妙興寺の誇る 佛殿、山門、勅使門、総門
  【豆知識】妙興寺 ■■■
  河曲橋(子生和橋)~ 源平合戦初期、源頼朝の 叔父・源行家が 平氏軍の追手と 交戦した
  田んぼエリアに成り代わった、陸田城跡
  鎌倉街道沿いに発展した集落群 妙興寺 ~ 陸田城 ~ 下津宿 ~ 下津城
  地名の由来エピソードが 特徴的な 川曲神社、子生和町、名鉄線「島氏永駅」



投宿した 岐阜駅前 から、JR東海道線 で尾張一宮駅へ移動する。
駅東口側にあったという一宮城跡地を、駅ホーム上から遠望する(下写真)。

一宮市

この一宮城であるが、上写真の右端に写るメインストリート沿いに立地する 三菱東京UFJ銀行前に、城跡を示す石碑が建つのみとなっている。往時には、東西が約 50 m、南北が約 90 mの城域を誇り、四方を幅 3.6 mの堀と土塁で守られていたという。皇室、幕府から篤い帰依と保護を受けてきた由緒ある真清田神社を北に配し、その神官であった関一族が 門前町(今の本町商店街)の真南に築城した居館城塞で、当時、寺院や門前町をも取り囲む総構えの大土塁が外周を取り囲んでいたという。関康正、長重、長安の三代が城主となるも、1590年の小田原戦役後、家康が関東へ移封されると廃城となった。
特に見学はせず、そのまま名鉄線に乗り換えて、一駅先の「妙興寺駅」で下車する。
ここから住宅街を抜けて、一宮市博物館を訪問した(下写真)。

一宮市 一宮市

普通に、一宮市に関する歴史博物館として見学を希望していたのだが、目下、特別展を開催中で、この期間は特別展との共通券 400円の購入が必須とのことだった。常設展(200円)だけを見学したいと申し出ても、「別売りはありませんので、特別展が無い時に再訪してください」、とのつれない返事。 平日午後で全く混雑もしておらず、おまけに市街地からも離れている立地で今後の訪問客の見込みも難しそうな博物館なのに、あまりに「前例主義」にこだわるお役所スタイルに唖然とさせられた。
愛知県下でも財源力が弱く、国からの地方交付税交付金に頼る自治体なら、なおのこと、財源確保に工夫を凝らす努力が必要なのではないだろうか。博物館見学に関しては、抱き合わせ商法だけでなく、特別展と常設展の入場を選択できるようにすることで筆者も気兼ねなく支払いたいところだったが、結局、入館せず、そのまま退散することにした。

東隣には尾張屈指の大禅寺「妙興寺」があり、ここは見学無料だった。

一宮市

上写真は、妙興寺本坊と 鐘楼(写真左奥の白壁の建物)。この鐘楼は江戸時代に建てられたもので、現在、愛知県指定の有形文化財となっている。

一宮市 一宮市

上写真左は、鐘楼脇から本坊に入ったところ。立派な唐門造りの入口を有する建物で、現在、修行道場となっていた。

上写真右は、本坊向かいに陳列されていた「さざれ石(石灰質角礫岩、Calcareous Breccia)」。岐阜県の天然記念物に指定されている石灰質が含まれた石で、石灰岩が湧き水で溶解し、石灰質の作用により、小石がコンクリート状に溶結して固まってできるという。国歌「君が代」の 歌詞「「君が代は千代に八千代にさざれ石の 巌(いわほ)となりて苔のむすまで」に出てくる。

境内は広大かつ神妙で、コケや植物は静まりかえり(下写真)、その厳粛さは訪問者を圧倒するものがあった。こういう場所は、一人で訪れてみるに尽きる。自然の声が聞こえてきそうな幻想的な空間だった。

一宮市

下写真 は、妙興寺の佛殿。

一宮市

下写真は、山門(正門)。後方に佛殿が控える。

一宮市

下写真は、佛殿から山門を眺めたもの。

一宮市

下写真は、国指定の重要文化財となっている勅使門。
南北朝時代の創建当時の遺構として唯一のものとされる。一宮市内で最も古い建造物とされ、軒ぞりの美しい線、柱の粽反りの美しい線、柱の粽構成など、各所に施される彩色に白壁が映える優美さが特徴という。禅宗が隆盛を振るった鎌倉期の雰囲気を大いに残す傑作と評されている。

一宮市

下写真左は、総門。後方すぐに上記の勅使門が控える。
下写真右は、境内から総門外を眺めたもの。

一宮市 一宮市

室町期の妙興寺にあった創建当初の総門の形状は不明といい、現存する総門は近世の築とされる。尾張徳川家の筆頭家老であり、犬山城の 5代目当主、成瀬正太(なるせ まさもと)が、8代目藩主・徳川宗勝から 名古屋城 内にあった屋敷地に隣接する邸宅を譲られ、両屋敷地を一つに合体させたため、以後、片方の門が使われなくなったという。長らく未使用となっていた、この武家風の見事な門は後に寺に寄進され、総門として再利用されることとなったのだった。
桁行 6.77 m、梁間 2.7 mの三間薬医門で、武家屋敷門にふさわしい堂々たる建築スタイルを誇ったが、1959年9月 伊勢湾台風 で倒壊してしまう。現在の門は 1962年9月に再建されたもの。

人気のない境内は広大かつ静寂で、その中にポツリポツリと由緒ある建物群が立地する様は、まさに時空間を越えてタイムスリップした感覚に陥る。先ほどの博物館での不快感を払拭するに十分すぎる時間だった。

一宮市

この境内の東外側に旧鎌倉街道が通っており(上地図)、その名残が今も地名に残る。
東市場、文右衛門東、十三堂、狐畑、横道、仏供田、西之口などの地名から、寺院の周囲は門前町として集落地が形成されていたことが窺い知れる。



 妙興寺

旧鎌倉街道沿いには大小さまざまな寺社が残されているが、その中でも尾張きっての名刹とされるのが、この妙興寺である。古くから「尾張に 杉田(過ぎた)の妙興寺」と、その存在感を称えられてきた。

もともとは南北朝時代下の 1348年、僧の 滅宗宗興(1310~1382年、めつしゅうそうこう。嵯峨源氏の子孫で 尾張・中嶋氏の出身)がその父母報恩のため開山した臨済宗の寺院で、直後の 1353年、北朝方の 後光厳天皇(在位:1352~1371年)の勅願所として「国中無双禅刹」の勅額が奉納され、北朝政権の帰依と保護を受けて台頭する。

この当時、正平一統(足利尊氏が南朝へ降伏)により南朝方の勢力が増大し、北朝方は度々、本拠地の 京都 を占領され近江へと臨時遷都を余儀なくされていた。天皇、上皇まで南朝方へ拉致された北朝軍は皇統の正統性を失っていた中、後光厳天皇を 擁立・即位させたわけで、できるだけ全国の武家、寺社勢力からの協力を得るべく、全国各地に優遇の約束を発していたのだった。その当時の遺産が「国中無双禅刹」の勅額である(現在、重要文化財に指定されている勅使門前に掲示)。最終的に後光厳天皇は 3代将軍・義満の治世時代初期に退位すると、すぐさま院政を敷くも、北朝を支える幕府政権と対立することとなった。その後、成長した足利義満により南北朝が統一されると(1392年)、北朝の正統性と存続が認められたことから、故・後光厳天皇(1374年崩御)が各地に発した勅願や約束が生きることとなり、妙興寺は尾張国内でその寺勢をますます急成長させた、というわけである。

一宮市

その伽藍配置は、勅使門、放生池、三門、佛殿を南北一直線上に据え、総門をやや東に寄せる。この配置は 京都 の妙心寺など禅宗本山で見ることができ、鎌倉時代の禅宗伽藍配置の典型とされる。現在の建造物の多くは、明治初期の 1890年の大火、および 1891年の濃尾大地震などで焼失、倒壊し失われた。その後、徐々に再建され、現在見られる伽藍配置は江戸期に描かれた『尾張名所図絵』と同じになっており(上絵図)、境内全体が愛知県指定の文化財として保護されている。


さて続いて、南に隣接する稲沢市内の陸田城を目指し、踏破してみる。
近鉄線沿いまで戻って南下し、名神高速道路から東進する。南側へ渡ると交通量が極端に少なくて歩きやすかった。なお、この高速道路南側から稲沢市となる(北側までは、一宮市)。

そして、トラックなどがたくさん通る 南北道路(トチノキ通り)に行き当たる。ここを南下し大江川を渡る際、下記のような解説板が設置されていた(下写真)。

一宮市


この大江川を渡る 河曲橋(子生和橋)とは、もともと 鵜沼川(木曽川の旧名)の分流として流れていた小川に架けられた鎌倉街道沿いにあった橋で、天災などで度々流失されるも、都度、再建されてきた。『張州府志』によると、尾張 初代藩主・徳川義直 もこの橋の再建を手掛けたと言及されている。

平安末期の源平合戦初期の 1181年、源義朝の弟で、頼朝の叔父にあたる 源行家(1142 ?~1186年)が 鎌倉街道(下地図の中世東海道)上の 交易集落・下津宿(おりづやど。今の 稲沢市下津高戸町)に陣を構え、この橋で平家軍の追手と決戦したという。

一宮市

これより以前、三河・尾張国の反平氏勢力をまとめていた源行家は墨俣川の 戦い(1181年4月。岐阜県大垣市墨俣町)で 平維盛 、平重衡の率いる平氏軍に大敗し、当地まで退却してくるが、再びその追手に破れたのだった。その後、頼朝の元へ逃亡し相模国に一時滞在するも所領要求が拒否されると頼朝から離れ、 1183年に木曽義仲と協力し入京するが、やがて不仲となり、頼朝と対立した源義経と結ぶも四国渡海に失敗し(1185年)、結局、和泉国日根郡近木郷に潜伏中に北条時定の手勢によって捕縛され斬首される。



この 南北道路(トチノキ通り)は旧鎌倉街道に相当する。あまりに自動車の往来が多いので、一本東側の農道に入って南下を続けた(下写真)。

一宮市

農道は大助川という用水路に沿って敷設されており(上写真)、ここを 15分ほど南下すると、田圃のど真ん中に、ぽつんと石碑が建てられていた(下写真)。
ここが陸田城跡である。

一宮市

一宮市

一宮市

南側 300m先には、地元の治郎丸中学校が立地していた(上写真)。一帯の農道は、中学生たちの ランニング・コースにもってこいの環境だろう。

一宮市

一宮市

なお、陸田城の詳細は分かっておらず、織田信雄(1558~1630年。織田信長の次男)の 家臣・陸田市左衛門の居城という情報以外、築城期も含め全く不明という。陸田市左衛門は同時に 坂田城(今の 稲沢市坂田町)も居城としたことが分かっており、それぞれ時期が異なるかも不明となっている。

周辺の地名には城下町をうかがわせる「陸田丸之内町」「西の口」「陣出」などが残る。なお、現在の「陸田村」は JR線路の東隣に立地しており、城域と城下町が東西に分断されているため、全容がつかみにくくなっている。下地図。
実際には、旧鎌倉街道沿いの 集落地「陸田村」一帯を支配する城塞だったことが分かる。

一宮市

さて、再び近鉄線を目指し、西に広がる住宅街を直進した。稲沢市子生和町(こうわちょう)の 北屋敷、西屋敷、南屋敷、中屋敷など、何やら意味深な地名が気になった。これは、川曲神社(下写真)周辺に発展した門前町に由来するという。

一宮市

また、子生和町の地名であるが、少し上流に古来あった子生和橋がその由来とされる。すなわち、室町時代の 1424年、遊女であった照手姫が恋人の小栗判官との再会を期して 7日間の祈願を実施し、そのおかげで再会を果たし、やがて無事に子を授かったという伝説に絡み、これと類似するエピソードが地元の男女間でも発生したということに起因するらしい。

一宮市

そのまま川曲神社前を通過し西へ進むと、用水路を渡る。ここから西は大和町氏永という地名になった。周囲は、何やら歴史を感じる地名がずらりと並んでいたのが気になった。上地図。

その正面には 亀京寺(曹洞宗)があり、大きな 融雅(ゆうが)観音像が建立されていた。下写真左。

一宮市 一宮市

ここから少し北へ行くと、名鉄線「島氏永駅」に到着できた(上写真右)。田舎の駅で、常駐の駅員はいなかった。
この特徴的な名称は、駅東側が 一宮市大和町氏永(旧氏永村)、西側は 稲沢市島町(旧島村)という市境界線上に立地し、両住民が駅名決定でもめたことに由来するという(1930年)。
ホームは狭い箇所があり、お年寄りとか転倒すると大変だろうな。。。と妄想してしまった。

下写真は、島氏永駅から南側を臨んだもの。中央部に見える巨大屋根が、前述の亀京寺である。

一宮市

ここから一路、岐阜(名鉄岐阜駅)へ戻った(約 30分、410円)。


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