BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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大阪府 守口市 / 摂津市 ~ 守口市人口 14.5万人、摂津市人口 9万人、一人当たりGDP 470万円


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  守口城跡(森口城。難宗寺、盛泉寺)
  江戸時代の 宿場町「守口宿」、本陣跡、一里塚跡、高札場跡、大塩平八郎の書院跡
  大日砦跡(織田軍に抵抗した、石山本願寺の 51支城群の一つ)
  宮ノ下渡し跡(淀川の渡し船)
  江口城跡(大隅神社、1549年6月 江口の戦い)
  三千樋跡(明治時代に開設された用水路 取水口)
  鳥飼の渡し跡(淀川の渡し船)
  鳥養(飼)牧跡(平安時代からあった、貴族専属の 牛馬の 飼育牧場「近都牧」の一つ)
  黒丸城(鳥飼砦、鳥養砦)跡



関西周遊では、この 大阪中心部(JR大阪駅前、難波、心斎橋、四ツ橋エリア)に連泊したい。関西最大のホテル激戦区というわけで、男性専用シングル 3,000~5,000円台も多い。 新幹線や JR京都線の新快速が発着する JR新大阪駅前(枚方市) まで移動すると、シングル、ツインともに 4,000~5,000円台のホテルも多く、選択肢はより広い。 この大阪中心部からは、京都奈良 エリア一帯まで日帰り往復できるので、 1~2週間ほど連泊したいと思う。

この日、散策予定の守口市、摂津市内では、レンタサイクル店はなかった。
全国展開する HELLO CYCLINGのアプリをダウンロードすれば、24時間シェアサイクルを利用できるようだが、当地だけの利用になりそうなので、止めておいた。淀川対岸への散策を含め、半日間ほど徒歩移動で頑張ってみることにする。

守口市

地下鉄・谷町線の「守口駅」で下車後、駅東側へ出てみる(上地図)。
駅から 5分ほど離れた場所にある難宗寺あたりが、「守口城(森口城)」本丸跡地とされる(上地図)。境内にある太鼓楼前に、江戸時代の街道「京街道」の記念碑があるだけで、城跡に関する記念碑や案内板は設置されていなかった。二ノ丸跡地とされる敷地には、現在、盛泉寺が立地するも(上地図)、周囲は完全に宅地開発されてしまっており、現在、城郭の痕跡すら見当たらない状態だった。

守口城(森口城)に関する資料自体も乏しいが、最も大きな事件は応永の乱での初戦であった(1399年11月)。当時、大御所・足利義満(すでに将軍職は嫡男・足利義持へ譲位済)と対立していた大大名・大内義弘は、軍を自領の河内・和泉国に展開し守りを固めていたが、その河内国最北端の城だった守口城(森口城)にも家臣・杉九郎を配置させていた。しかし、幕府軍 3万に対し、大内軍は総勢でも 5000だったため、杉九郎に守口城(森口城)を放棄させ、全軍を に構築した陣城に集めて、幕府軍を迎撃することとなる。結局、同年 12月21日の総攻撃により大内義弘は討ち取られ、大内軍は潰走に追い込まれる。
また、その後の応仁の乱や畿内での騒乱でも戦場となった記録が見られ、信長による石山合戦時には、明智光秀が一時、守口城(森口城)に陣所を構えていたとされる。

守口市

また、この近くには江戸時代の宿場町「守口宿」が開設されており、その「本陣跡」「一里塚跡」「高札場跡」「大塩平八郎の書院跡」「江戸川乱歩の住居跡」などを刻んだ記念碑の他に、由緒ある寺院、ちょうちん屋など、わずかながら宿場町の風情を残す建物も残されていた。宅地開発により街並みは完全に変わってしまっているが、少ないながらも残存する旧家を改装し、喫茶店や写真店などをオープンさせているお店もあった。上地図。

当時は、すぐ近くに淀川が流れており、その跡地に、秀吉が諸大名に命じて築造させた河川堤防「文禄堤(1594~96年)」の遺構が、700 mほど現存する。上地図。


関ケ原合戦の翌 1601年、徳川家康が 江戸京都 を結ぶ主要ルートとして「東海道」を整備する。当初は四十数駅の宿場町が設置されたが、最終的に五十三駅(大名・幕府役人・勅使・宮家らが宿泊する公認宿舎=本陣の所在地)となった。
また家康病死直後より、2代目将軍・徳川秀忠が 大坂城 の再建に着手すると(1616年)、京都~大坂間の街道「京街道(豊臣秀吉が 伏見城 ~ 大坂城間で整備した河川堤防上の道路)」も「東海道」に組み込まれ、新たに 4駅が増設されて 57駅体制が完成する。この時に設置されたうちの一つが、守口宿であった。

守口宿は、大坂 を出て最初にある宿場町で(2里、約 8 km)、次の 枚方宿 へは 3里(約 12 km)の距離にあった。しかし江戸時代を通じ、淀川の舟運がますます発展し、陸路移動が減っていくと宿場町自体の地位は低下していったようである。それでも、清滝街道(大坂 ⇔ 奈良 間の街道。今の国道 163号線)との分岐点でもあったため、一定数の旅籠や茶屋は営業を続けることができたという。幕末の 1843年の時点で、住民人口 764人、117軒の建物があった記録が残されている。



続いて淀川沿いを北上し、北隣にある鳥飼橋まで徒歩移動する。この鳥飼橋の辺りに、かつて「大日砦跡(守口市大日町)」があったという(下地図)。現在は、道路脇に「藤之森」と刻印された記念碑が建つのみだった。

信長による本願寺攻めの直前(1570年ごろ)、石山本願寺 の支城として、紀州出身の鈴木重幸(穂積氏)が築城したもので、そのまま自身が籠城し、信長軍を大いに苦しめたとされる。当時、畿内の平野部には無数の大河が大阪湾へと注ぎ込んでおり、陸路移動が困難な地形であった。その水郷エリアに、一向宗勢は 51もの支城群と水上ネットワークを構築し、織田軍に抵抗していたようである。
最終的に、信長と本願寺本部との和睦が成立すると同時に開城し、そのまま廃城となったと考えられる(1580年ごろ)。

摂津市

続いて鳥飼橋を渡り、淀川の対岸に至る。このすぐ南側の河川沿いにある、味生神社前に「宮ノ下渡し跡」の記念碑が設置されていた。上地図。

「宮ノ下渡し」は、河内国大庭大切(今の守口市)と摂津国嶋下郡一津屋村宮ノ下(今の摂津市)を結ぶ渡し船で、戦国時代末期の 1560年代にはすでに存在していたという。当時は、川幅が約 300間(約 550 m)もあり、摂津と河内を結ぶ重要な交通手段であったが、最終的に 1954年(昭和 29年)の鳥飼大橋完成により廃止となっている。

さらに淀川を進み、神崎川との合流ポイントを渡ったところに大隅神社(大阪市東淀川区大桐)があり、この周辺が「江口城跡」だったという(上地図)。目下、大隅神社内に保存されている左右 2体の狛犬が、当時の江口城内にあったものと伝承されるものの(「江口」の刻印あり)、これ以外、記念碑や解説板も含め、城跡に関する痕跡は全く残されていなかった。

さらに、1889年の明治政府による淀川の改修工事により、淀川自体の河道が大きく変化してしまっており、当時とは全く想像もつかない地形となっている(もともとは、北面を流れる神崎川の川幅が大きく、東面~南面を流れる淀川の方が狭かったという)。このように、三方向を河川に囲まれる要害の平城だったわけだが、現在では完全に住宅街に埋もれてしまっていた。


三好政長(1508~1549年)によって、江口の戦い(1549年6月)以前に築城されていたとされる。
和泉国一国と摂津国の大部分を抑える三好長慶(1522~1564年)に対抗すべく、淀川流域に点々と拠点を設け、 一向宗の総本山・石山本願寺 への交信ルートを確保しようと図ったと考えられる。こうした背景から、淀川下流域の最前線拠点だった 榎並城 に、自身の息子・三好政勝(宗渭。?~1569?/1615?年)を配置させたのだった。下地図。

結局、長慶軍に包囲されてしまった榎並城を支援すべく、三好政長は第二の前線拠点だった江口城に自ら入城し、三好長慶と対峙するわけだが、2週間に及ぶ包囲戦と兵糧攻めを受け、最終的に総攻撃によって戦死に追い込まれることとなる。城内から逃走を図った際、他の城兵らと共に溺死してしまったとされる。
その後、長慶に従っていた高山重清(中川重清。中川清秀の父)に江口城が与えられ、そのまま城主となっているが、その後の廃城時期などは全く不明という。

なお、この高山重清(中川重清)は、もともとは常陸国出身の武士で、桓武平氏良文流の後裔という高山重利の次男と伝えられる。 1535年ごろに常陸国から京へ移住し、その後、摂津国に入って中川清村に仕えたとされる。しかし、主君・中川清村が嫡男・中川清照を合戦で失うと、気に入っていた高山重清と自身の娘を結婚させて婿養子に迎え、中川重清へ改名させたという。
また、高山右近の父・高山友照は、この高山重清と兄弟で、共に摂津国へ移住後、兄の出世にともない、高槻城主 へと昇進していったようである。下地図。

その後、中川重清は稲田城(今の兵庫県三田市下深田)に本拠地を定め、摂津国の小大名へとのし上がっていくわけだが、畿内では三好長慶が覇者として君臨するようになっており、長慶の傘下に加わっていた 池田城主・池田勝正(?~1578?年)に従属して領土保全を図るも、1564年に長慶が急死すると、畿内は再び不安定化し、摂津国北部の国人・山崎恒政(山崎右馬允)が池田城や稲田城を陥落させ、中川重清らも逃亡を余儀なくされるのだった。その後、再び池田勝正らは勢力を挽回して、池田城、稲田城などの奪還に成功するも、家臣だった荒木村重が池田勝正を追放し、強制的に池田家の婿養子として家督を乗っ取ってしまう(1570年)。中川重清はそのまま荒木村重に臣従し、中川家を存続させていくこととした。1571年8月の白井河原の戦い 後は、荒木村重と共に織田信長の旗下に加わり、畿内の合戦に駆り出されていく(この頃には、家督を長男・中川清秀へ移譲していた)。

摂津市

さて話を江口の合戦(1549年6月)に戻すと、そもそもこの合戦は、 13代目将軍・足利義輝を支える管領・細川晴元政権下での、有力家臣・三好家の家中騒動に端を発するものであった(主君・細川家自体も分裂中で、それぞれの細川家当主を担ぎ上げて大義名分とした)。

これより以前、三好家の当主は、長慶の父・三好元長(1501~1532年)であったが、同じ一門出身の三好政長(1508~1549年)が主君・細川晴元に取り入って讒言を重ねたことにより、最終的に晴元・政長にけしかけられた一向一揆勢によって戦死に追い込まれてしまうのだった(1532年6月)。
父を失った長慶(1522~1564年)は 11歳で家督を継承するも、まだまだ幼少だったことから、いったん母国・阿波へ緊急帰国することとなる。その間に三好政長は元長名義だった畿内の所領を勝手に強奪してしまい、ますます細川政権下での存在感を増していく。同年中に阿波で元服し、正式に三好家当主となった長慶は、翌 1533年、再び畿内に上陸し、父の仇・三好政長とも表面上は連携しながら、細川政権に加わって畿内各地での戦役に積極的に従軍していった。戦績を積み重ね、めきめきと頭角を現した長慶であったが、主君・細川晴元は三好政長をひいきし続けたことから、これに不満を持つ摂津国の国人衆らを味方につけて挙兵し、政長の子・三好政勝が籠城する 榎並城 を包囲することとなる(1548年10月)。

この時、丹波国に隠居中だった三好政長は、主君・細川晴元の支援を得て自ら摂津国へ出陣し、三宅城(城主・香西元成) へ入城する。しかし当時、細川晴元、三好政長に味方する軍勢は少なく、東隣の 南近江守護・六角義賢 からの大規模援軍の到着を待つ必要があり、長慶軍が包囲する榎並城へは手が出せる状況ではなかった。
そんな不利な戦局の中、政長は息子の救援を最優先して三宅城から出撃し、危険を冒して敵地のど真ん中にあった江口城に進駐してきたわけである(少年時代より長慶を知っていたことから、三好政長の油断は大きかったと思われる)。結局、江口城は、瞬く間に長慶軍によって完全包囲されてしまい、2週間、容赦ない完全孤立状態に置かれた後、総攻撃を受けて戦死に追い込まれるのだった。

京から摂津国境まで進軍していた細川晴元の本隊は、三好政長戦死の報を聞くや、あわてて へ引き返し、将軍・足利義輝らを伴って、近江国へ逃亡することとなる。以降、三好長慶が京を含む畿内一円を支配していくわけである。
一方、榎並城からの脱出に成功した三好政勝(宗渭。?~1569?/1615?年)は、細川晴元や 13代目将軍・足利義輝らと合流すべく近江国へ逃亡した後、他の国人衆らと協力し、度々、京や畿内へ進出しては、三好長慶と戦火を交えることとなる。最終的に 1558年9月、長慶に帰順し、許されて配下に加えられる。1564年に長慶が急死すると、跡を継承した三好三人衆の一角に躍進し、新たに畿内に進出してきた織田信長と激突していくのだった。



さらに、もう少し淀川沿いを南進してみると、「三千樋跡(大阪市東淀川区南江口)」という用水路の取水口跡があった(上段地図)。明治期に行われた淀川の改修工事に伴い、それまでの河道が大きく変わって農業用水が引けなくなる田畑が続出し、河岸沿いに新たに複数の取水口(樋門)が設けられたうちの一つ、ということだった。

摂津市

今度は、逆に淀川沿いを北上してみる。
鳥飼橋まで戻り、さらに北隣にある「鳥飼仁和寺大橋」まで移動することにした。その途中に、「鳥飼の渡し跡」「鳥養(飼)牧跡」があった。上地図。

まず「鳥飼の渡し跡」であるが、かつて淀川流域はたくさんの河川が入り乱れており、渡し船が各地に運航されていたものの一つで、 1614年の大坂冬の陣の直前、大坂城 を追放された片桐且元(1556~1615年。賤ヶ岳の七本槍 の一人で、秀吉子飼いの家臣だった)が、実弟のいる 茨木城 へ入る際、家臣団共々この鳥飼の渡しから渡河した記録が残されているという。
昭和期に入っても存続され、1933年に大阪府直営となって以降は無料化されていた。しかし、1954年に鳥飼大橋が完成し、また 1975年に淀川護岸工事が着手されるに及び、淀川本流で最後まで運航されていた本渡し船サービスも、ついに廃止されている。

続いて「鳥養(飼)牧跡」であるが、平安時代に朝廷専用の牛馬が飼育されていた牧場跡という。
当時、牧場は三種類あり、皇室(姻戚関係にあった藤原摂関家を含む)専用の牛馬を飼育する「御牧(勅旨牧)」、兵馬や牛車用の牛を飼育する朝廷専用の「諸国牧(官牧)」、そして、京都 の周辺に設けた貴族らのための「近都牧」が存在していた。このうち、「鳥養牧」は「近都牧」に属し、当時 6か所あった一つで、諸国から税などの目的で貢上されてきた牛馬が一時的に飼育され、適宜、都へ送られていたという。
摂津市

最後に、摂津市鳥飼地区にあったという「黒丸城(鳥飼砦、鳥養砦)跡」に立ち寄ってみる。
現在、周囲は物流会社倉庫、工場などが立ち並び、城跡の遺構は全く残っておらず、府道 15号線沿いに城跡記念碑と解説板が立地するだけだった。かつては「城ノ前」「内殿」「地殿」「相撲」「治部内」「黒廻」などの小字名が周囲に残っていたという。

この黒丸城に関する詳細資料は全く伝わっていないが、戦国時代に三好家や細川家で勃発した家中騒動や、織田信長の畿内平定戦などで、主に三好方の支城として機能したと考えられている。当時、淀川水系は複数の河川が入り乱れ、流域全体に多くの水郷地帯を形成させており、あちこちに平城スタイルの城塞が設けられていた。そのうちの一つだったようである。

摂津市

ここまで来て、再度、徒歩で戻るのも大変なので、府道 15号線(鳥飼仁和寺大橋線)沿いのバス停「鳥飼本町一丁目」から、近鉄バス(茨木線・八防)に乗車し、終点「南摂津駅」へ向かうことにした(1時間に 2~4本あり。乗車時間 10分弱、上地図)。
ここから大坂モノレールに 1駅分乗車し(2分、250円)、「大日駅」で下車後、地下鉄 谷町線で「東梅田駅」まで移動し(20分、280円)、そのまま JR大阪駅前 に帰り着くことができた。


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