BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:20--年--月--旬


東京都 三鷹市 ~ 市内人口 19.1万人、一人当たり GDP 800万円(東京都 全体)


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  天神山城跡(新川天神山青少年広場)
  勝淵神社(勝淵明神)、兜塚(力石)
  島屋敷跡(江戸時代初期に、仙川郷一帯の領主となった 柴田勝重の陣屋跡)
  柴田家 家碑、柴田勝重 墓(春清寺)



この日前半は、調布駅西側の史跡群を訪問し、京王バスの 一日乗車券(500円)を購入済だったので、そのままバスを駆使し、調布駅東側の史跡群も周遊してみることにした(下バス路線図)

まず、深大寺城跡(調布市)を見学後、公園東側の バス停「中央道深大寺バス停下」か「深大寺小学校」から、「杏林大学病院」行の 路線バス(調布 35)に乗車し、終点「杏林大学病院」まで移動する(下地図の紫色ルート)。この東側を流れる仙川沿いに、「武蔵 天神山城跡」や 柴田勝家子孫の史跡が点在していた。下地図。

三鷹市

まずは、杏林大学病院の真東にある「勝淵神社(三鷹市新川 3-20−17)」を訪問してみる。

元々、この地には仙川の水源の一つがあり、水の神を祀る神社が創建されていたという。大坂の陣後 の 1615年、幕府から当地領主に封じられた 柴田勝重(1579~1632年)が、この境内に 祖父・柴田勝家(1520代~1583年)の兜を埋め「勝淵大明神」へ改称した、と伝えられている。


猛将・柴田勝家は賤ヶ岳合戦で敗走後、北ノ庄城に逃れて自刃するわけだが(1583年旧暦 4月)、孫・勝重(3歳)らを城外へ落ち延びさせる際、路銀の足しにと、愛用の黄金の兜を持たせたとされる(父・勝政【別名:勝安】は、4日前の賤ケ岳合戦中に戦死していた ー 享年 27歳)。そのまま上野国の 外祖父家(日根野氏)に匿われて成長した後、関東地方へ移封されてきた徳川家康に召し出され、柴田勝重と名乗って、関ヶ原の合戦大坂の陣に参陣し戦功を挙げていく。その功績により、 1615年、幕府より武蔵国仙川郷の地を下賜されて 2520石の領主となった後、もともとあった神社を再建する形で社殿を建立し、その傍らに兜を埋めたとされる(同時に「勝淵大明神」へ改称)。以降、その埋めた場所は「兜塚(力石)」と称されることとなった。

明治時代に至り「勝淵神社」と呼ばれるようになるも、猛将・柴田勝家を祀った神社や「兜塚」を有することから、引き続き「武神」として地元から厚い帰依を寄せられ、武運長久を祈願した「戦争絵馬」が奉納されるなど、大切に保護され続けたという。しかし、戦後の経済成長と宅地開発の中で放置され、境内は荒れ放題となってしまう。 1988年になって、ようやく塚が再建され、今日に至るわけである。3 m四方の台石の中央に、半球状の石が載っかる設計となっている。

なお、勝淵神社のすぐ南にある 丸池公園(新川丸池公園)であるが(下地図)、元々、この付近にあった「丸池(別称「勝ヶ淵」)」と呼ばれる池を復元したものという。 このエリアは、高地から低地へと地形が変わるポイントだったことから、たくさん地下水が湧き出ていたとされる。このため「千釜」と呼ばれるようになり、今の「仙川」の由来となったと言い伝えられているそうだ。この豊富な水を称えて、古くから水神を祀る社が設置されていたわけである。



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そのまま仙川沿いを南進し、「新川天神山青少年広場」を目指す(上地図)。ここが天神山城跡で、公園北側に土塁や空堀の遺構が保存されていた。
ゆったり蛇行する仙川沿いに形成された河岸段丘上に立地し、段丘の先端部分を堀切で切断する形で設計され、曲輪の周囲が土塁と空堀で補強されていた。仙川沿いはそのまま自然斜面を利用するだけの、簡易なものだったようである。

史書の記述もなく、全く詳細は分かっていない城跡だが、こうしたシンプルな設計から、北条氏と扇谷上杉氏との抗争に絡む、臨時城塞(陣城)群の一つだったと考えられている。

河越(川越)城 を本拠地とする扇谷上杉氏の 当主・上杉朝定(1525~1546年)は、小田原の 北条氏綱(1487~1541年。北条早雲の子、氏康の父)の北上を食い止めるべく(1524年に江戸城を占領され、すでに武蔵国の南半分を喪失していた)、配下の 難波田 広宗(生没年不詳)に深大寺城を大規模改修させ、最前線として守備させていた。しかし、北条軍は要害の深大寺城を無視して軍を北上させ、先に本拠地・河越城を攻略してしまうのだった(1537年7月)。扇谷上杉家の残党らは、さらに北の 松山城(埼玉県吉見)へ逃走することとなり(下地図)、実質的に扇谷上杉氏は滅亡することとなる。そのままなし崩し的に深大寺城も開城し、廃城となったと考えられる。この時、深大寺城を素通りした北条軍であったが、背後を狙われる形となる深大寺城への備えとして、複数の付城を配置させていたはずで(北條綱種の牟礼砦、高橋氏高の烏山砦など)、この天神山城も、その北条方の陣城の一つだったのではないか、と推定されている。

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最後に、「島屋敷跡」と 柴田勝重の墓がある「春清寺」に立ち寄ってみる。
ちょうど 天神山城跡(新川天神山青少年広場)から見ると、仙川の対岸すぐの場所にある新川団地一帯に、「島屋敷跡」が立地していたようである。団地内にあるバス停近くの目立たないポイントに、解説板が設置されていた(下写真)。

江戸時代、徳川幕府の旗本だった 柴田勝重(1579~1632年。柴田勝家の孫)の屋敷跡という。
もともと仙川や周囲の沼地などに囲まれた高台という、要害の地形だったことから、鎌倉時代、武蔵国の 国人衆(武蔵七党)の一派である村山党系の金子氏が、居館を構えていたという。しかし、室町時代初期の 1368年に参加した武蔵平一揆の乱に失敗し、平安時代末期から多摩地方を地盤としてきた武蔵七党が一斉に没落してしまうと、新参者だった 関東管領・上杉家(武蔵国守護を兼務)の直轄支配を受けることとなる。その後、200年近く続く関東地方の騒乱に巻き込まれる中で、金子氏の残党らは帰農していったようで、主家の居館跡も放棄されていたのだった。
江戸時代に入り、柴田勝重がこの仙川郷一帯の土地を下賜されると、この金子氏の居館跡地に自身の 陣屋(居館&政庁を兼ねた施設)を建設する。当時、周囲の湿地エリアよりも高台にあり、島のように見えたことから「島屋敷」と称された、というわけだった。

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なお、この 柴田勝重(1579~1632年)なる人物であるが、織田信長の 筆頭家老・柴田勝家(1520年代~1583年)の孫に相当する。厳密には、勝重の父は勝家の 姉の子(柴田勝政【別名:勝安】。1557~1583年。佐久間盛次の三男)であり、実子が幼かった勝家により養子として迎え入れられていた人物であった(下家系図)。 1583年4月の賤ヶ岳合戦で討死すると(27歳) 、長男の 柴田勝重(3歳)は 北ノ庄城 から脱出し、上野国にいた 外祖父・日根野氏に預けられて養育される。無事に成人後、ちょうど関東へ移封されてきた徳川家康により、その配下に召し出されることとなった。

その後、徳川軍として関ヶ原の戦いで初陣を飾り大坂の陣 で戦功を挙げると、仙川郷を含む 500石を加増され、合計 2,520石取りの旗本となる。以降、その家系は幕末まで続くこととなった。

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1632年に勝重が亡くなると(54歳)、領内の 多摩郡上仙川村(現在の 東京都三鷹市新川)にあった春清寺に葬られ、格式の高い宝篋印塔で墓石が造営される(今も現存中)。その後、1698年に勝重の 孫・勝門が三河へ領地移転されるまで、春清寺には柴田家の親族らが葬られ続け、その墓石群が今も保存されているという。

帰路は、往路と同じ路線バス(調布 35)沿いの バス停「都営団地前」か「中原三丁目」からバスに乗車し、同じルートで調布駅前まで直帰するか(冒頭バス路線図参照。1時間に 3~4本あり)、他の路線バスで「仙川駅」へ移動し、京王線各駅停車で「調布駅」まで戻ることにした。


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