BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
『大陸西遊記』ホーム 中国王朝年表

訪問日:2026年2月下旬 『大陸西遊記』~


香港 新界区 錦田 ~ 区内人口 2.2万人、 一人当たり GDP 45,000 USD(香港全体)


 ➠➠➠ 見どころ リスト ➠➠➠ ▼ クリック

 ▼ (錦田)水頭村 と 水尾村
 ▼ 水頭村内の 6私塾のうち、最大面積を誇った 学校施設「鄧虞階書室(19世紀初期に開校)」
 ▼ 6私塾の一つ、「泝流園(知稼堂。18世紀末に開校)」、武挙合格の 顕彰扁額「父子登科」
 ▼ 【豆智識】嶺南地方の 伝統的建築スタイル「二進三開間」とは ■■■
 ▼ 6私塾の一つ、「二帝書院(1821年に建立)」、通学生徒らは「白石巷の子弟」と称された
 ▼ 鄧広瑜(鄧松峰)を顕彰した 祖先廟「広瑜鄧公祠(来成堂。1701年に建立)」
 ▼ 6私塾の一つ、「力栄堂書室(力栄堂。1700年前後に開校)」
 ▼ 広東沿海地域で信仰される 海神・洪聖を祀る「洪聖宮(洪聖古廟)」
 ▼ 6私塾の一つで、武挙試験対策用の 武術訓練施設「長春園(19世紀中期に開校)」
 ▼ 鄧清楽を顕彰した 祖先廟「清楽鄧公祠(思成堂。1490年頃建立)」、鄧氏四大祠堂の一つ
 ▼ 【豆智識】「清楽鄧公祠」門前にある 対聯「南陽世澤 税院家声」の意味とは ■■■
 ▼ 清朝による 鄭氏台湾対策「遷界令(遷海令)」の悲劇 と その生き証人「錦田樹屋」
 ▼ 水尾村 天后宮(天后古廟)と 1936年の 再建エピソード(芬傅法師とは誰か?)
 ▼ 【豆智識】宋皇室と縁戚関係の錦田鄧氏、皇女・趙玉女 と 鄧自明との婚姻秘話 ■■■
 ▼ 錦田鄧氏の 始祖・鄧洪儀の 三人息子(鄧鎮、鄧銳、鄧鋗)を祀る 祖先廟「鎮銳鋗鄧公祠」
 ▼ 1716年に架設された 石橋「便母橋」、鄧俊元の親孝行エピソード
 ▼ 「遷海令」撤廃と鄭氏台湾鎮定を経て、1684年に建立された 記念堂「周王二公書院」
 ▼ 【豆知識】錦田 と 鄧氏の歴史 ~ 新界五大氏族への発展の軌跡 ~ ■■■
 ▼ 錦田川の 対岸「錦田城門新村」が管理する「関帝廟(協天宮)」と 荃湾村民らとの抗争史
 ▼ かつて(錦田)城門村にあった「吉慶圍」「泰康圍」などの 6囲村(要塞集落)
 ▼ 現存する 要塞集落「吉慶圍」、濠、防壁、碉楼(望塔)、神殿、村門(鉄門)
 ▼ 【豆知識】反英闘争(新界六日戦争)と 吉慶圍の鉄門 ■■■
 ▼ 客家集落「呉家村」の シンボル「呉氏家祠」と「郁青別墅」
 ▼ 【豆知識】呉家村の 歴史 ~その 始祖・呉郁青(インドネシア華僑)の半生から ~ ■■■



屯馬線「元朗駅」から徒歩で訪問してみた。「錦田公路」沿いにある 集落地「錦田」の最初の バス停「蒙養小學(Mung Yeung School)」まで、だいたい 30分強だった。下地図の青色ルート。

路線バスだと 77K番と 56番の 2路線が便利だ(元朗駅から 10分)。

新界区 錦田

ここから「錦田公立蒙養学校」脇の 路地(錦田市街)を北へ入っていくと、2分ほど先に公衆トイレがあった。
その後方を走る 大通り「錦田繞道(Kam Tin Bypass)」を渡り(信号 or 地下道)、「錦慶路」沿いに錦田河の橋を渡ると、いよいよ「水頭村(Shui Tau Tsuen)」に至る(ここから「錦慶路」は「水頭路」へと名前が変わる。下地図)。

周囲の 3方向を河川に囲まれた三角州エリアの先端部分に立地したことから、このように呼称されるようになったのだろう(下地図)。なお、この北隣には「水尾村」という別の集落が立地しており(下地図)、三角州の前半と後半部分に位置した地形的背景が読み取れる。

新界区 錦田

旧市街地では(下写真左は、往時より集落脇を流れていたであろう小川の名残り)、順番に指定史跡群を巡っていくことにした。 道すがら、集落内には清代後期からの伝統を踏襲した青レンガ造りの古民家や廃屋が点在しており、趣深い空間を堪能できた。

下写真右は「鄧虞階書室(Tang Yu Kai Study Hall)」。
入り口門は閉鎖されており、内部観覧できない状態だったが、水頭村にあった 6ヵ所の私塾の中で最大面積を誇る施設だったという。 その名の通り、科挙に合格した 秀才・鄧虞階(Tang Yu-kai)が引退後に私財を投じて開設した私塾で、19世紀始めに建設されたという。科挙合格を目指して(For gaining titles at the Imperial Civic Service Examination)勉学に励む地元の子弟らが集ったという。教師らも大陸中国から招聘していたことから、内部は教室だけでなく、教師の宿舎部屋も併設されていた。

二進五開間式の設計であったが、1970~80年代にかけて発泡酒工場へ転用された際、 内部は大いに改造されたという。その後は、現在に至るまで無目的に放棄された状態が続いている(下写真右)。

新界区 錦田 新界区 錦田

下写真は、隣接する「泝流園(左手の肌色壁の施設)」 と「二帝書院(右手の青レンガ積みの施設)」を眺めたもの。両者ともに正門が開放されており、見学自由(無料)だった。

新界区 錦田

この「泝流園(So Lau Yuen Study Hall)」も、地元で「知稼堂(Chi Ka Tong)」と称された私塾であった。現在、香港政府により 三級歷史遺産(Grade III historical building)に指定されている(下写真)。
錦田鄧氏 21代目子孫にあたる 鄧権軒(1755~1822年。Tang Kuen-hin))が 18世紀末に建立したもので、当初より一族の子弟らを科挙試験に合格させるための教育施設であった。上の 私塾「鄧虞階書室」を開設した鄧虞階は、彼の 四男(末子)にあたる人物である。

彼らが生きた 乾隆年間(1736年~1795年)と 道光年間(1821年~1850年)を通じ、鄧権軒の子孫のうち 3人が科挙に合格して秀才となり、4人が武挙に合格していた。こうした一族の立身出世は錦田鄧氏の名声を全国に轟かせ、村全体の教育熱をますます過熱させたのだった。特に鄧権軒の 次男・鄧鳴鶴は中央政界で出世し、六品の官位まで昇進している。

この鄧鳴鶴の主導で後に 私塾道場「長春園」が開設され、武挙試験対策を目指す子弟らに武術訓練を施していくこととなる。

新界区 錦田 新界区 錦田

特に、この「泝流園」の建物正面に掲げられた 額縁「父子登科(Father and Son Ascended Officialdom)」は(上写真左)、両広総督・阮元(1764~1849年)と 広東巡撫・怡良(1791~1867年)によって寄贈された貴重な歴史遺産で、鄧権軒の 次男・鄧鳴鸞(Tang Ming-ying)と、その 子・鄧廷柱(Tang Ting-chu)がそれぞれ父子そろって武挙に合格したことを記念したものである(1821年と 1840年)。

また、正面入り口に掲げられた「泝流園」の文字は(上写真右)、地元出身の武挙合格者だった鄧英元が 1789年に直筆で記した文字という。彼はこの他、錦田の多くの施設の題字を手掛けた人物で、1819年には 郷土史『新安縣志』の編纂にも多額の寄附で貢献しており、地元の発展に尽力した人物として知られている。

彼らのように内外で功名を得た人物は、鄧氏一族 にあって地方士紳に任命され、県役所より代官府審理官として郷の間接統治を委ねられていたのだった。

新界区 錦田

当施設の建築スタイルとしては嶺南地方の伝統が踏襲されており、青レンガ壁の主殿は「二進三開間(2 blocks with a courtyard)」様式が採用されていた(上絵図)。この他、門楼、前院(中庭)、台所 で構成され、その壁面や瓦には吉祥の動植物や文字がデザインされる典型的な設計となっている。

開所当初より教室としての機能以外にも、郷民の訴訟裁定場としても活用されており、度々、住民間の紛争を解決してきた。1926年に「錦田公立蒙養学校」が創建されると、私塾教室としての機能を喪失し出し、1952年に完全閉校される。それでも引き続き、集落の最盛期を築いた鄧権軒を顕彰し、郷民によって大切に守られているわけである。現在は、地元獅子舞団の本部となっている。

新界区 錦田 新界区 錦田

続いて、この西に隣接する「二帝書院(Yi Tai Study Hall)」に入ってみる。上写真。
ここは清代中期の 1821年に建立された施設で、当初は村の有力士紳 16名が共同設立した 文武二帝会(文昌会)の 本部(輪番制で会首を担当した)として、文昌帝君と関帝の二帝を祀りつつ、一族の祭祀を執り行う場所であった。その後、地元子弟らの学びの舎として利用されるようになる(上写真左)。内部は簡素な設計で、植物文様と幾何学模様の漆喰装飾のみが施されている質素なデザインが採用されている。

正門から前庭沿いに白レンガが敷き詰められたことから(上写真右)、地元では「白石巷」と呼ばれており、そこに通う生徒らは「白石巷の子弟」と称されたという。第二次世界大戦以降は学校としての機能を終え、廟宇と地元行事の催行場所だけとなっていたが、1994年に修復工事が行われ、現在は香港古物古蹟辦事處より法定古蹟に指定されている。

新界区 錦田

そのまま集落内を 2分ほど北上すると、廃墟 と化した旧家の横に広々とした広場が姿を現した(上写真)。 写真奥に見える施設が「広瑜鄧公祠」である。

この広場に面する入り口門が開放されていたので、無料見学できた。内部は伝統的な二進一院三開間スタイルで設計されているものの(下写真)、全体的にやや小規模に抑えられている印象だった。屋根瓦、壁面には一面に吉祥模様がデザインされていた。

そもそも、この「広瑜鄧公祠」は「来成堂」とも別称されてきた施設で、清代前期の 1701年に鄧氏 21代目子孫だった 鄧像六(別名:鄧直見)が 17代目子孫だった 鄧広瑜(別名:鄧松峰)を顕彰し建立したものという。1782年、郷民らが資金を出し合って大規模に改修した記録が残されている。

以降も長らく祠堂として郷民らに崇められてきたが、1950~60年代に商店へ転用され、さらに 1970年代末~1980年代初頭には金属製品工場として使われた後、空き家として放棄されていたという。1995年、香港政府によって歴史遺産に認定されると、修繕費用が拠出されて全面改修が進められた。2010年11月12日、正式に法定古跡に指定されている。

新界区 錦田 新界区 錦田

この後方には「力栄堂書室」があった。地元では「力栄堂」、「大書房」などと称されてきた私塾施設跡で、清代中期の 1700年前後に錦田鄧氏によって建立された学校という。1994年に香港政府により二級歴史遺産に登録され、2010年5月17日に一級歴史遺産へ格上げされている。

ここもまた伝統的な二進二院三開間の設計スタイルが採用されており、二進の間にある中庭の両側には側室が増設されていた。左側には 月門(月洞門。中国庭園に多用される円形の門)が設けられている。正殿に掲示された 扁額『齒徳兼優』は、1835五年に 学士・鄧光斗が揮毫したもの。

新界区 錦田

また、「広瑜鄧公祠」の横には明るい色調の「洪聖堂」が立地していたが(上写真の左側)、修繕中なのか、入り口は施錠されていた。

この「洪聖廟」では、香港を含む広東沿海地域で信仰される 海神・洪聖が祀られており、「洪聖宮」とも「洪聖古廟」とも別称される。こうした海洋民らが信仰した海神は、他にも 天后、觀音、北帝、龍母、譚公 などがあり、それぞれが別々に祀られる風習であった。現在、香港内で祀られる洪聖廟は約 20余りが残っており、洪聖爺の誕生日とされる旧暦 2月13日には毎年、盛大な祝賀行事が催行されている。

その後方には「長春園」という長い塀に囲まれた武術訓練所跡が保存されていたが(下写真)、内部見学は不可だった。

新界区 錦田

この施設は、前述の 私塾「泝流園」を創建した鄧権軒の 次男・鄧鳴鶴(Tang Ming-ying)が開設したもので、中央政界で出世し六品の官位まで昇進した武官であった。その子の 鄧廷柱(Tang Ting-chu)も父に続いて武挙に合格しており(それぞれ 1821年と 1840年)、錦田鄧氏の絶頂期を築いた父子世代であった。

帰郷後、鄧鳴鶴は私財を投じて 教練所「長春園」を開設し、武挙試験対策を目指す子弟らに武術訓練を施していったわけである。その構造は伝統的な二進式スタイルが採用され、祖先を祀った 祠堂「留耕堂」も併設されていた。現在、香港政府の古物古跡事務処より一級歴史建築物に指定されている。

この施設は、後にも先にも、錦田エリアにあった唯一の武術教練所で、その門構えからして物々しく、正門 2階部分に銃眼が 2ヵ所、設けられていることが分かる(下写真)。また正門の両側に掲げられた 文字列「長守中原舊、春回大陸新」は、「中原の伝統を堅守し、大陸に新たな春を回帰させる」という目標が謳われたものである(下写真)。今でも園内には武術訓練に使用された鉄製の 青龍偃月刀(『三国志演技』で関羽が愛用した矛)が 3本残されている ー それぞれの重量は 65斤(約 32.5kg、長さ約 2.69 m)、85斤(約 42.5 kg、長さ約 2.74 m)、112斤(約 56 kg、長さ約 2.85 m)。その他、筋力鍛錬用の技勇石や石鎖なども保存されているという。

新界区 錦田

さらに、その北隣にも長大な壁に囲まれた施設が鎮座していた(下写真)。「清楽鄧公祠」である。
ここもカラフルな色調の施設だったが、内部見学は不可だった。

新界区 錦田

この「清楽鄧公祠」は 別名「思成堂」とも称される鄧氏四大祠堂の一つで、その中でも最大面積を誇る。その創建は明代中期の 1490年前後と判明しており、もともとは錦田鄧氏 17代目子孫にあたる 鄧清楽(号は広舍)を顕彰するために建立されたという。 現在残る施設は、1981年に近くの「鎮銳鋗鄧公祠」と共に修繕工事が施されたものである。
毎年、集落で誕生した男子は、その名を「丁口冊」に登記され、その後に正式に族譜に記載される 慣習(「点灯」と通称された = 香港新界に残る独特の客家文化)であった。毎年正月(元宵節)の期間中、鄧氏一族がこの「清楽鄧公祠」に集って祭祀儀式を行った際、前年に生まれた男子らが「点灯」されたという。

広大なスペースを使って三進三間式の廟宇が設計されており、柱や 天井、壁面などには精巧な装飾が一面に施されている。大門の内側には屏風が立てられ、身分の高い貴人や VIP客らの訪問を受けた場合のみ、開帳されてきたという。施設内には康熙帝から下賜されたという「旨嘗換花翎」や「欽点花翎等衛」などの功名牌匾が掲示されており、一族から科挙合格者を輩出した証拠として、また後続の子弟らへの目標として大切に保存されてきたのだった。現在、この施設全体が香港政府から一級歴史遺産に指定されている。

なお、正殿内に掲げられた 額縁「思成堂」であるが、これは 1794年の改修工事の際、初彭齡(1780年の科挙合格者)が揮毫したもので、最初の二文字を書き終えた後に突然死してしまい、最後の「堂」の文字は他人によって記されたので筆跡が異なっている、と言い伝えられている(実際には初彭齡は 1825年 まで生きていたので、別の事情があったと考えられている)。

新界区 錦田

また、大門前には 対聯「南陽世澤 税院家声」の文字が記されているが(上写真)、これは鄧氏一族が 古代・商王朝時代に 南陽の地(現在の河南省一帯)を起源としたことに言及したもので、南宋時代には皇帝から直々に「税院郡馬」に封じられた歴史を記念したものとなっている(北宋朝の滅亡時に多くの皇族男女が北方へ拉致された「靖康の変」に際し、幼女だった宗姫は民間に匿われ、後に南宋軍によって保護されると、その将軍の子供だった鄧惟汲と結婚する。最終的に老婆となった際に自ら申し出て、南宋朝 3代目皇帝・光宗から「皇姑」と認知されることとなり、その 夫・鄧惟汲が「税院郡馬」に封じられたという実話に由来)。


さらに集落を北へ抜けていると、清代末期や中華民国時代の名残りを残す古民家群が目を楽しませてくれた(下写真)。

新界区 錦田 新界区 錦田

集落を東端まで抜けると神木として祀られている大樹下の公園に到達した。下写真。
これが「錦田樹屋」と言われる石積みの古民家遺跡という。

この巨大なガジュマルの古木に関しては謎が多いままであるが、特に清王朝が鄭氏台湾に対抗するために発令した「遷界令(遷海令)の生き証人」という点で注目を集める存在となっている。
現在、その幹の直径は 6 m(地面からの高さ 1.3 m地点)あり、香港最大のサイズである。また、高さとしては 16.5 mで、周囲に広がる枝の長さは最高で 42 mにも達するという。これは大埔地区の 社山村(Che Tsen Village)に現存する巨大 クスノキ(樟樹)とほぼ同じサイズで、香港随一の長さを記録している。

新界区 錦田

そして、このガジュマルの大木がその幹と根で取り込む形となっている廃屋は、現在、屋根瓦は全く残存せず、青レンガ積み壁面の一部と花崗岩製の門枠だけが残るのみである。もともとは明代末期に建てられた鄧氏一族の小屋だったと考えられており、天后廟(別名・北明廟)であったとも、書院(学校施設)であったとも指摘される。もともと二進三間式の伝統的な建築物で、壁は「夾壁」工法(二層の青レンガで壁を築き、中間部分を二層ごとに横レンガで繋ぐ方法)によって組み上げられていたことが分かっている(高温多湿の広東地方にあって、湿気対策と保温効果の最大化が図られる手法であった)。こうした工法が採用された年代から、この施設を飲み込んだ古木の樹齡は 150年以上が確実視されている。中には 300年、400年と指摘する声もあるという。

この 400年説を根拠にして「遷界令(遷海令)の生き証人」と称されるわけだが、その背景は清王朝が鄭氏台湾との戦いの中で実施した海禁政策により、錦田鄧氏一族は大いに被害を被ったという苦難の歴史を強調する意味合いも込められたのだった。1662年より始まった沿岸住民の強制移住政策により(山東省から広東省まで、沿岸 25 km圏内を完全無人化した)、この錦田エリアの住民らも追い出されて集落は荒廃し、そこに無法者らが占拠したことから、ますます治安を悪化させる結果となったとされる。そうした中でもガジュマルの木は成長を続け、傍らにあった建物を取り込む形となったという ストーリー である。

新界区 錦田

その先に「水尾村 天后宮(天后古廟)」があった。この辺りから「水尾村」となる。
向かいには「水尾村公民館(村公所)」、大きな溜池(地元では「平湖」と称されてきた)、古井戸、土地神の 廟宇(社壇、神壇を称される)などが集まっていた。

上写真の村公所の外には貼りだされた大花牌と旗は、旧正月を祝うためのもの。

さて、当地の「天后廟」だが、廟内に清代中期の 1745年に鋳造されたという銅鐘が一つ保存されている。建立当時のものと指摘する説もあるが、そもそも廟宇自体、何度も修築が繰り返されてきたことから、実際にはもっと古い可能性もあり、創建年は全く不明となっている。近年だと 1968年、2013年にも補修工事があった記録が残されている。

新界区 錦田 新界区 錦田

そうした度重なる補修工事の中でも、1936年のエピソードが特に目を惹く。
廟宇内の牌匾に刻印された記録によると、当時、この廟は完全に倒壊しており、遠路はるばるやって来た芬傅法師が多額の 寄附(280銀元=現在価値で 120万円相当)を投じるとともに、この再建工事を積極的にリードしたという。彼(彼女?)は 康王(宋高祖・趙構)の夢を託されたと主張し尽力したことから、再建後の廟宇には康王像も奉納されたということだった。

この芬傅法師という人物に関しては、1930年代の広東省には粤劇界のスター俳優で、画家としても知られていた 鄧芬(1894~1964年。友人&知人からニックネームとして「芬傅」と呼ばれていた。下写真。香港で死去)のことを指す、もしくは当時、広州で出家していた若い 尼僧「芬傅」が存在しており、彼女のことを指すとの説もあるが、詳細は全く分かっていない。さらには、鄧芬が知り合いだったこの尼僧を招聘したいう合体説まで出ている。

新界区 錦田

なお、この康王とは、北宋朝 8代目皇帝・徽宗(1082~1135年)の 第九子、趙構(1107~1187年)を指す(下家系図)。 この趙構は後に 南京 へ逃れて南宋朝を興し、初代皇帝(高宗)に即位した人物である。その娘だった 趙玉女(東莞皇姑墓碑には南宋朝の高宗の娘と刻印されている)は北宋滅亡後に「靖康の変」で多くの皇族男女が北方の金領へ拉致される中、民間へ逃がされ匿われたのだった。その後、南宋軍の一部隊を率いていた錦田出身の鄧元亮によって救出されると、そのまま養育される。そして趙玉女が成人すると、自身の 息子・鄧自明と結婚させたのだった。彼女の生存は、後に南宋朝 3代目皇帝・光宗によって認知され「皇姑」と尊称されることとなる。なお、高宗には男児が生まれず、秀安僖王・趙子偁の子だった 趙眘(趙伯琮)を養子にとって南宋朝 2代目皇帝へ即位させており、光宗はその子にあたる(下家系図)。

こうした背景により、錦田鄧氏は宋皇室の縁戚という誉れ高い一族だったことから、数百年が経ったタイミングで、皇姑の父親だった 康王(南宋朝初代皇帝・高宗)の夢を実現させるべく、この天后廟の再建を実現させ、自身も祀らせたという逸話になっているわけである。

新界区 錦田

また現在、康王を祀る神龕の上には天后廟の再建記念碑が掲示されており、そこに二人の地元紳士、鄧伯裘(字は紹泰、1876~1950年)と 鄧煒堂(1871~1954年)の名が銘記されている。
このうち、鄧伯裘は錦田鄧氏 26代目の子孫で、1915年に泰祥油廠を創業、1923年に 新界農工商業研究総会(今の新界郷議局)の創設メンバーに加わり、1925年には錦田郷民の長年の悲願であった鉄門奪還交渉を成功に導いたリーダーだった人物である。その他、1926年には水門頭に 少岐義学(1926年)を、さらに 1927年には錦田公立蒙養学校の創立にも参与したり、1937年には 錦田般空基地(石崗飛行場)の建設に関与するなど、地元の発展に大いに貢献した人物として慕われており、彼を祀った祠や生前の豪邸は今も集落内で大切に保存されている。

また、もう片方の鄧煒堂も、1919年に博愛醫院を、1938年に 元朗商会(商工会議所)、1946年に元朗公立中学校の創設などに、鄧伯裘と共に尽力した人物であった。


ここから「水頭路」沿いに南進し、「錦田郷村倶楽部」脇にある公衆トイレで休憩する。
この斜め向かいに「鎮銳鋗鄧公祠」が保存されていた(下写真)。1981年に「清樂鄧公祠」と共に修繕工事を手掛けられた祖先廟だ。

新界区 錦田

清代に入り、香港内で最初の科挙合格者となった鄧文蔚が、康熙年間(1662~1722年)に私財を投じて建立した施設で、錦田鄧氏の始祖となった鄧洪儀の三人の子供たち(鄧鎮、鄧銳、鄧鋗)を祀った祖先廟であった。「鎮銳鋗ー鄧公祠」はこの三息子の名前に由来している。
青レンガ積みの伝統的な嶺南様式の建築スタイルで、三進三開間式で設計されていた。廟宇内の 屋根、柱、壁などは吉祥の動植物がデザインされており、プラスの運気を迎え入れるように表現されていた。現在、香港政府により三級歴史遺産に指定されている。

当初は祖先廟だけの施設であったが、後に子弟教育の場としても併用されるようになり、二進(二つ目の中庭)前に 牌匾「茂荊堂」が掲げられるようになったという。これは当時、著名な儒学者だった 蔡學元が 1817年に揮毫したものである。彼は広東省新安県沙浦村出身で、1808年に科挙試験に合格し、中央朝廷の 高級学問所「咸安宮官学」に入学後、肇慶府 および 潮州府 の教授職を歴任した人物であった。 この「茂荊堂」の意味は、香港原産の バラ【バウヒニア、洋紫荊】が周囲に繁茂するように、鄧氏一族の子孫もどんどん立身出世し、才能豊かな人材で満ち溢れるようにとの祈願を込めたものであった。以降、地元では 私塾「茂荊堂」とも呼称するようになる。
他にも、施設内には一族が輩出した科挙合格者を顕彰すべく作成した「進士」牌匾が複数、保存されており、後続の子弟へ模範を示し鼓舞する意図があったと考えられている。

なお、この施設も含め、水頭村と水尾村に点在する建築物には、龍と鯉の模様で装飾された船首型の屋根が冠されているのが 特徴 である。

新界区 錦田 新界区 錦田

さらに前進して少し南側の路地を東へ入ると、すぐの場所に 小公園「便母橋休憩処」があった(上写真左)。
その眼前の小川に、古い 石橋「便母橋(敬母橋)」が保存されていた。上写真右。

もともと、この橋は錦田水頭村に住む鄧俊元が 1710年から 6年の歳月をかけて自費で架橋したもので(1716年完成)、 自身を訪問する母親が川を渡りやすくするために、わざわざ 福建省漳州 から名工らが呼び寄せて工事を進めさせたという。その親孝行ぶりが賞賛され、清代中期に編纂された 郷土史『新安縣志』にも逸話が記録されるほどであった。以降、地元民の生活道路としても大いに重宝されることとなった。

橋面は 6枚の花崗岩板を並べる形で構成されており、それらが石製の橋脚上に置かれるだけのシンプルな設計であるが、これら石材は全く固定されていないことから、それぞれ自由にとりはずし可能な状態という。また橋の両側には手すりとなる欄干も設置されなかった。
1959年に橋に小規模な補修が行われた際、脇に「水頭村便母橋再建碑記」が建立される。さらに 2012年、旧石橋の負荷軽減を図るべく便母橋の傍らに新橋が建設され、同年 9月29日に除幕式が行われる。このタイミングで、両岸にあった鉄製欄干が石製欄干に交換されたという(下写真)。

新界区 錦田

さらに南へ進むと、ダダっ広い駐車場の北端に「周王二公書院(Chau Wong Yi Kung Study Hall)」がポツンと立地していた。下写真左。

嶺南地方で一般的な、青レンガ積みの二進三開間式の設計で、屋根や壁には吉祥の動植物が鮮やかにデザインされている。中央にある中庭の両側は廂房が設けられ(片方は台所)、その上には回廊が設けられていた(下写真右)。一番奥に位置する正殿内に周公と王公の神位が祀られ、建物船体が左右対称に設計されていた。

ここで祀られている周公と王公とは、それぞれ 両広総督・周有徳(?~1680年)と 広東巡撫・王来任(?~1688年)のことであり、清朝廷が導入した沿岸住民の 強制移住政策「遷海令」の撤廃に尽力したくれた恩人ということで、錦田の住民が 1684年に建立した記念堂であった(翌 1685年完成)。その後も度重なる修繕工事を経て現在まで守られてきたという。
目下、香港政府より二級歴史遺産に指定されている。先述の「錦田樹屋」が遷海令の破壊的影響の象徴となり、この廟宇はその悪夢の終焉と未来志向を表現する存在であったと言える。

新界区 錦田 新界区 錦田

そもそも、この建立が開始された 1684年というのは、鄭氏台湾が降伏した 1683年の翌年であり、徐々に解除が進んでいた「遷海令」がようやく福建省沿岸でも完了したタイミングであった(香港エリアは 1669年に解除スタート)。戦後の恒久的な平和の祈願と周王公への謝意、そして強制移住先の異郷の地で命を落とした郷民らの慰霊を兼ねた 報恩祭「太平清醮」が、廟宇前で開催されることとなり、大規模な祭壇や舞台が設置されるイベントが、以降、10年ごとに開催されるようになる(2025年は 34回目を数えた)。
あわせて廟宇内に教室が併設され、子弟教育の場としても活用されていくこととなる。

なお、広東省沿岸ではこの周王二公を祀る廟宇や 神像、木主牌位等が各地で建てられている。当時、新安県 には周王二公を祀る廟宇として、沙頭墟(現在の深圳市西郷と福田付近)や 石湖墟(今の上水の巡撫街あたり)に設けられた報徳祠などが有名であった。その他、香港内の 上水、粉嶺、大埔頭 などの村落では、旧暦の 5月19日と 6月1日に周王二公それぞれの誕生日を祝う年次行事が催行され続けている。

新界区 錦田

上写真は、近年の改修前の古写真。




 ■ 錦田 と 鄧氏の歴史 ~ 新界五大氏族への発展の軌跡 ~

この香港新界区には 錦田・鄧氏、上水・廖氏、新田・文氏、粉嶺・彭氏、上水・侯氏 という「新界五大氏族(The Five Great Clans)」が存在しており、いずれも中原出身の漢民族の末裔で、本地人(広府人)に区分される。ここでは、その最大勢力である「錦田・鄧氏」の歴史について見ていく。

香港エリアには五代十国時代の南漢朝の治世下で、すでに定住して農耕を行う人々の存在があったことが分かっており、特に元朗地区の耕地の大部分は陳氏一族によって開墾されたことから、「陳田」と呼称されていたという。

その後、北宋~南宋時代を通じて鄧氏一族が移住してきた頃、その地形的特徴から「岑里」と呼ばれるようになる。「岑 = 小さいが高い山」の意味であり、北側に 圭角山(後に桂角山へ改称され、現在は「雞公嶺」として知られる)、東側に大刀屻、南側に大帽山によって囲まれつつ、中央部に平原を抱えていたことに由来する。さらに「岑里」で開拓された農地を「岑里田」と呼称したことから、後に省略されて地名自体が「岑田」と称されるようになったとされる。

この北宋時代初期の 973年、江西省吉安市 吉水県(下地図)出身の鄧漢黻が官命を受け広東地方へ下訪した際(当時、彼は承務郎の役人であった。32階級ある文官職のうち 25番目の下級官吏で、京官とも呼ばれた)、地元の素朴な習俗を気に入ったため、この「岑田」の 地(一説には「元朗屏山郷」とも)を隠居地に定めて住み着くようになる。この逸話から、彼は 広東・鄧氏の始祖と評されるわけである。

新界区 錦田

その後、鄧漢黻から数えて 4代目子孫にあたる 鄧符協(同じく 江西省吉安市 吉水県出身。上地図)が 1105年に科挙に合格し、広東省陽江市 陽春県の県長官に任命されると、鄧符協もまた広東地方の風土を大いに気に入り、同じ広東省 北端部の南雄州下の郡長官職を最後に官職を引退すると、そのまま一家ごと「広東省宝安県岑田」に移住してくる(すでに一定数の鄧姓の人々が居住しており、この遠い縁故を頼って移住地を定めたと考えられる)。彼は 圭角山(今の「雞公嶺」)の麓に居を構えると、自身の学識を活かして一族の子弟や 知人、来客らに講学を行うようになり、そのまま集落の北門橋の脇に 私塾「力瀛書斎」を創設したとされる(客人らが投宿できる客室と教室も装備されていた)。なお、この「力瀛書斎」は度重なる建替え工事を経て今も現存しており、香港最古の書院とされている。

1127年に北宋朝の 王都・開封 が陥落し(下地図)、徽宗(8代目皇帝)、欽宗(9代目皇帝)はじめ皇族男女が金軍によって東北地方へ拉致される「靖康の変」が発生すると、徽宗の第九子だった趙構は「南京」へ逃亡し、南宋朝を興すこととなるわけだが(下地図。1138年に「臨安」へ遷都)、その逃走途中に幼かった長女を民間へ脱出させたのだった。しばらく後、その地を南宋軍の一部隊を率いていた 鄧元亮(岑田出身で、鄧符協から数えて 5代目子孫にあたる人物。当時は 虔州【現在の 江西省贛州市 贛県区】下の県長官を務めていた)に発見され、救出されることとなる(1129年)。彼はこの高貴な幼女を自ら匿って養育し、後に自身の息子である鄧惟汲に嫁がせた(出典『鄧氏族譜』)。

新界区 錦田

なお、明代の 1500年前後に劉存業が著した 史書『宋贈税院郡馬紀略』の中では、彼女は単に中州の士官である趙姓の家系出身であり、兵禍のため逃亡中だったと触れるだけで、本当の出自を明かさなかったと言及されており、その真相は判然としない。このため誰もその正体を知ることはなかったが、紹熙年間(1190~1194年)に至り、晩年に差し掛かった宗姫は息子の鄧林に自身の素性に関して記した書簡を持たせ、南宋朝 3代目皇帝・光宗へ届けさせたという。

彼女の存在を知った光宗は「皇姑」と称して礼を尽くし、夫の 鄧惟汲(鄧自明へ改称)を「税院郡馬」に追封し、東莞に土地を下賜することとなった。さらに息子の鄧林は 迪功郎(文官の最末端の官位)に任じられ、残りの 息子(鄧杞、鄧槐、鄧梓)もまた「舎人」として独立した各分家の長となることを認められたのだった。

こうして南宋時代を通じ、鄧氏は皇室の外戚を自任し、皇室と関わる香港唯一の地方氏族として大いに名声を高めることとなった。 今でも新界地区に残る鄧氏宗祠の門前の多くには、「税院家声」と書かれた対聯が継承されている。
しかし、その南宋朝も 1279年にモンゴル軍の侵攻を受けて滅亡に追い込まれると、元王朝の治世下では、堂々と皇室との関係を口外できなくなり、ひっそりと封地だった東莞と 故郷・岑田の地で雌伏の時間を過ごすこととなる。
この期間も鄧氏一族は七世代にわたって繁栄し、五大分家(錦田、龍躍頭、平(屏)山、荘屋村の「五大房」)へと拡大していった。七世祖の長子である鄧元禎の子孫は封地だった東莞の 塘尾、屏山、十八郷、八郷に散居し、次子の鄧元亮の子孫は 東莞の莞城一帯、錦田、廈村、龍躍頭、萊洞 に分かれて集落を形成させていく。その他の三つの分家も、東莞、雁田、懐徳 の各地に展開していったのだった。

その元王朝も最晩年となった 至正年間(1341~1370年)には、各地で民衆反乱と社会不安が蔓延したことから、東莞地方を離れ縁故を頼って多くの鄧氏一族が岑田の地へ再移住してくることとなる。

この混乱期の 1359年、 東莞出身の何真が民衆らを率いて 東莞、恵州 一帯に割拠し、各地に要塞を築いて元軍に対抗し、部下だった欧孟素を 黎洞営(現在の沙頭角莱洞)に、林一石を林村営に、鄒子能を 岑田営(現在の錦田)に配し統括させた記録が残されている。その後、何真は中原を統一した明朝に帰順したことから、東莞伯に封じられると、何氏は名実ともにこの地の支配者として絶大な権勢を振るうこととなり、地元住民らを抑圧し、その田畑を強制接収するなど横暴を極めたという。しかし、何真が死去すると、その一族は洪武帝による 功臣大粛清「藍玉の獄」に連座され、一族郎党ともども滅亡に追い込まれてしまう(すでに死去していた何真も東莞伯の称号を除爵された)。この時の大粛清により、全国で 15,000人が処刑されたと伝えられている。

この明代を通じ、岑田の鄧氏一族はさらなる発展を遂げていく。ますます子孫を増やした一族は、成化年間(1465~1487年)に相次いで 泰康囲、吉慶囲、永隆囲を創建し、その後、さらに水頭村と水尾村を立村していった。
特に、鄧元亮から連なる本家本流が岑田に留まる一方で、鄧洪恵と鄧洪贄の 兄弟(鄧符協から数えて 9代目子孫)は今の 厦村 一帯の広大な土地に目を付け、かつ海に近く漁業や塩業上も至便である点を見出し、この明代中期に 厦村西頭里(現在の祥降囲)と 東頭里(現在の東頭村)に移住し、鄧氏厦村両房を起こすこととなった。その子孫も順調に繁栄し、羅屋村、巷尾村、新囲、錫降囲、錫降村、新屋村 などを形成していく。

新界区 錦田

こうした鄧氏一族の繁栄ぶりは、地名「錦田」の由来となった逸話からも伺える。上地図。

明代も後期に入った 1587年、地元の新安県内で大旱魃が発生し、非常用に備蓄していた保存米も底をついてしまったことがあった。この時、県長官の邱体乾は各地を回り寄付を募って救済策を講じ、各村落から 三、四石や、二、三十石などの小規模な上納を受ける中、岑田の 鄧元勳(洪儀祖より数えて 7代目子孫)のみが気前よく 二千石(千石との説あり)もの穀物を寄贈したことから、県長官より大いに称賛を受けたのだった。後に岑田の地を視察した邱体乾は「土地が肥沃で、この郷は錦のようである」と称え、「錦田」へ改称させたという。
当時、岑田の鄧元勳はこの 宝安県、新安県 下でも有数の大地主となっており、その所有する田畑は、香港仔、薄扶林、裙帯路、鵝頸、九龍、長沙湾などにまで広がっていたとされる。

その明王朝も 1644年、民衆反乱によって滅亡に追い込まれ、代わって清王朝が中国大陸を支配するようになるも、鄭氏台湾を筆頭に反清闘争が各地で発生していた。清朝はこの鄭氏台湾を打倒すべく、その降将だった黄梧が唱える「滅賊五策」を採用し、1662年、沿岸から 15~25 km圏内を無人化して鄭氏台湾の 補給&交易ネットワークを遮断するという「遷海令」を断行する。これにより、新安県(現在の 香港島、九龍、新界を含む)内だけで、3分の2の住民が強制移住を余儀なくされたいう。
この「錦田」の郷でも住民らは強制退去を余儀なくされ、農業、漁業の生計手段を一瞬で喪失することとなった。このとき、錦田鄧氏の多くは南宋時代から縁故があった東莞地方の縁戚らを頼ったと考えられる。

しかし、この沿岸無人化政策による戦果は微々たるもので、むしろ弊害の方が巨大であった ー 沿岸部の産業破壊、田畑などの民衆生活基盤の破綻、無法者たちの跋扈と治安悪化など。こうした窮状と社会不満を見かねた 両広総督・周有徳(?~1680年)と 広東巡撫・王来任(?~1688年)は 1665年、朝廷へ上奏し「遷海令」が広東地域にもたらしている 6つの害悪を上奏し、政策撤廃を願い出る。彼らの尽力もあり、ようやく 1669年より段階的に帰郷が許可されることとなった(台湾に近い福建省沿岸部では、鄭氏政権が滅亡した 1683年まで厳格な遷界令が継続された)。この年、すなわち 1669年に鄧氏一族も錦田へ復帰している。

この強制移住の苦難の歴史を今に伝える歴史遺産として「錦田樹屋」が、郷民によって大切に保存されてきたわけだが、同時に 1684年、錦田の村はずれに「周王二公書院」を建立し(翌 1685年に完成)、遷海令の撤廃に尽力してくれた両広総督の周有徳と広東巡撫の王来任の恩と功績を称えるべく、新たに廟宇を建立したのだった。その翌年、周・王両公を記念するとともに、強制移住時代に帰郷できず亡くなった一族の霊を慰めるため、第 1回太平清醮が開催される。以来、10年ごとに開催され、2025年には第 34回目を迎えたばかりである(香港で記録される最古の「太平清醮」となっている)。この際、「周王二公書院」前には巨大な仮説ステージと建物が設置され、1ヶ月間にわたり住民らが集まって飲食を共にするイベントが催されるわけである。

新界区 錦田

直後より新界西部一帯の経済圏の再建を図った住民らは、錦田鄧氏一族の長となっていた 鄧文蔚(最終的に 1685年に科挙に合格し、現在の 浙江省衢州市 にあった龍游県の県長官などを務める)の主導により、交易市場をそれまでの「大橋墩墟」から、川の対岸にあった 小集落「円朗墟(現在の元朗舊墟)」内に開設することに決定する(出典:『大王古廟再建序【1837年】』)。これは、明代より繁栄していた「大橋墩」が遷海令により荒廃し、全く新しい拠点を設けることで旧村人と新移民らによる対立を緩和しようと図ったため、と考えられている。

以降、近隣の 屏山、錦田、八郷 からの水陸交通アクセスに恵まれた「円朗墟」は急速に発展を遂げるわけだが、同時に住民や商人間の紛争も増えたことから、鄧文蔚は洪聖と楊侯を祀る「大王古廟」を建立し商売繁盛と集落平和を祈願するとともに、こうした私的紛争が発生した際に、廟内の公秤を借りて裁定を図る場としたのだった。同時に、この廟宇の門前広場に 官符広告板(役所からの指示を碑を立てて公布していた)を設置し、人々の集会場所としても機能させていくこととした。

この頃、さらに西部で発展中だった厦村にも毎月 1日、4日、7日に市が立つようになっており、元朗以西から屯門に至る郷民らがこぞって買い物や交易に集るようになっていた。この厦村市はもともと海辺に近く海岸まで水路が直通していたこともあり、香港近海の島々をはじめ、広州湾岸一帯との水上交易網とつながっており、商品の交易拠点としての絶好の地の利を得ていたのだった。
しかし、清朝末期に現在の 天水圍 一帯で堤防が築され田畑の開墾が進められると、大量の砂土が深圳湾に流入してしまい、厦村市の生命線だった水路にも入り込んで水上交通が阻害されることとなり、船舶の航行が不可能となってしまう。こうして厦村市が衰退に追い込まれる一方で、山貝河と錦田河に囲まれた「元朗墟」に一極集中することとなり、中華民国時代を通じてその地位は不動のものとなっていったわけである。

新界区 錦田

また、この鄧氏一族は非常に学問を重視した氏族としても知られ、香港内で最も多くの科挙合格者を輩出した地方氏族であった。その伝統は、北宋代時代に鄧符協が「力瀛書院」を創設したこと(香港最古の書院)、その後、間もなく現在の水尾村付近に五層の文昌塔を建立したこと(後に倒壊し現存なし)、さらに文昌帝君と関帝を祀って子孫の学業成就を祈願したことに、既に始まっていたと言える。

清代中期の 1700年代末には「泝流園(別名:知稼堂)」が建立され、住民間の紛争裁定の場とされたが、19世紀半ばより私塾へ転用され、一族の子弟教育の場となっていく。また 道光年間(1821~1850年)には、鄧氏一族の有力士紳 16名が協力して「二帝書院」も建設され、鄧氏の教育熱はますますヒートアップしていったのだった。

この結果、新界の鄧氏一族の中でも、錦田鄧氏からだけで 12名の科挙合格者を輩出することとなった。 その代表的な出身者は、明代の 1471年合格の 鄧廷貞(後に 江西省吉安市 万安県教諭に就任)、1610年合格の 鄧良仕(最高学府「国子監」へ入学し、その教官に就任)、清代の 1685年合格の 鄧文蔚(浙江衢州府 下の龍游県長官に就任)、1736年合格の 鄧與璋(徳慶州の学正に就任)、1736年合格の 鄧紹周(最高学府「国子監」へ入学し、後に 韶州府 英徳県、連山県、仁化県、陽山県 などの教諭に就任)、1789年合格の 鄧英元(武挙の郷試に合格)、1813年合格の 鄧大雄(武挙郷試に合格)、1762年合格の 鄧晃(文岡書院の講席に就任)らであった。

新界区 錦田

1899年地図

そんな清代末期の 1898年6月9日、日清戦争に敗れた清朝への圧力を強める英国により、深圳河の南岸までの 地域(現在の新界地区)が香港の「安全保障上に必要」との理由で強制租借されると(清朝の総理各国外事衙門大臣・李鴻章と、英国駐中国公使 ドナルド・ドナルドソンが北京で『香港境界拡張に関する特別条約』に調印)、翌月の 1898年7月1日~1997年6月30日の 99年間に及ぶ英国支配がスタートする。

以降、このエリアは現在に至るまでニューテリトリー(新界)と呼称されるわけだが、英国の官憲らが新界一帯の統治を進める中で、翌 1899年4月、新界の 屏山郷、厦村郷、元朗十八郷、錦田郷などの住民が組織的に立ち上がり、その 治安部隊(ほとんどがアジア系兵士であった)と 6日に及ぶ抗争を展開する(新界六日戦争、4月14~19日)。圧倒的な火力差もあり、最終的に郷民側は多数の死傷者を出した一方、英軍側の負傷者は 1名のみと完敗に追い込まれるのだった。この時、特に「吉慶囲」では城壁が強行突破される形で攻略されており、集落のシンボル的存在だった鉄門が戦利品として植民地政府により接収されてしまうのだった。
直後より、英国は屏山の山頂に警察署を開設して新界西部地域の監視を強化するも、1997年の中国返還後に博物館として一般開放されているわけである。

新界区 錦田

現在、住宅価格の高騰対策として積極的な住宅供給を図る香港政府により、新界西部の土地開発が進んでいる。それまであった溜池や農地は空き地となったり、宅地建設が進み、1000年以上にわたって構築されてきた農村風景は劇的に変化しつつある。しかし、引き続き、山沿いを中心に農業を営む郷民らも現存しており、当時の風俗や習慣を今に伝える場面をまだ目にすることができる。現在でも錦田は香港でも数少ない農耕活動を継続する本地人集落の一つであることには、今後も変わりはあるまい。



さらに南進すると錦田川沿いに戻った。この「治河路」を上流側へ南進すること橋 2本分のあたりに、関帝廟が忽然と姿を現した(下写真)。

この関帝廟は、錦田川対岸の「錦田城門新村」の住民が建立、管理しているようで、 その本殿前に「錦田城門新村 協天宮」という看板が大々的に掲げられていた。

新界区 錦田

当地の「関帝廟」は「協天宮」とも別称されており、これらが同一のものと知っていないと、何がどうなっているのか混乱してしまうことだろう。境内入り口にはドでかい 看板「関帝廟」が掲示されているものの、集落内の案内板や廟宇入り口の扁額には「協天宮」とのみ掲げられており、非常にややいこしい。
また、その立地も非常に特徴的で、川向いの「錦田城門新村」が飛び地のごとく、 原っぱのど真ん中にぽつんと廟宇を建てている様は、ある意味、異様でもある。

その主殿に関帝が、側殿に観音様が祀られており、その脇に 16名の村民の名前が神位として安置されている。彼等は、清代末期の 同治年間(1862年~1864年)に、山向こうの荃湾村の住民らとの抗争で犠牲となった城門村の村民を祀ったものという。清代を通じ、香港地区の原住民と新移民との武力衝突は日常化しており、それが故に各地の集落は要塞化されていたわけである。その戦火の犠牲者を祀っているというわけだった。

新界区 錦田

そのまま錦田川を渡り(上写真)、いよいよ「錦田城門新村」へ向かってみる。「錦田繞道(Kam Tin Bypass)」高架下のトンネルを通り抜けると、古い民家や神壇が残る集落に至る。

この右手側が、要塞集落「泰康圍」があった場所で(下古写真の上半分)、その東側に位置したことから道路向かいの集落は「東門村」となっていた。現在、「泰康圍」の防壁は完全撤去されてしまっており、住宅街に飲み込まれてしまっていた。村門跡だけがわずかに残るのみだった。

そして「錦田公路」まで至ると、その道路向かいにあった別の 要塞集落「吉慶圍」の威容が目に飛び込んでくる。 「(錦田)城門村」というのは、この 2要塞集落を含む 6集落を指したわけである。

新界区 錦田

上の 古写真(1960年代に撮影)にある通り、かつては四方を水堀に囲まれていたが、現在は北面に小さな側溝として残るのみとなっている。
下写真は、この北壁面沿いを歩いたもの。

新界区 錦田 新界区 錦田

その両端には 碉楼(望塔)がそびえ立っていた。銃眼も設けられており、往時に日常的だった臨戦態勢が見て取れる。

新界区 錦田

そのまま南側城壁まで進んでいく(下写真)。かつては、この防壁下には水堀が掘削されていたわけだが、今は駐車場になっていた。

城壁途中に出っ張っている城楼は城門跡ではなく、廟宇を祀る神殿の後方部となっている(下写真の中央部)。あとで内側から見学してみて理解することができた。

新界区 錦田

再び北面城壁へ戻ってみる。ここが正門であり、唯一の入り口であった。この一面のみは、旗指し物でド派手に飾られていた。

新界区 錦田

新界区 錦田

この 要塞集落(囲村)の築造は明代後期とされ、倭寇や 山賊、他集落との抗争が激化した時代背景もあって、早い時期から城塞化が進められたと考えられている。長方形型(奥行き約 100 m、幅約 90 mで、総面積 1,361.25 m2)で設計された典型的な囲村で、普段から大型の番犬が複数飼われており、村門の土台部分に犬専用の出入り口を設けるのが伝統であったという。

なお、この城壁建造に際し、まずは竹と木材で壁面の骨組みを作り上げた後に、青レンガを積み上げていったわけだが、その接着用の溶剤が非常に特徴的であった。西洋から セメント技術(香港では「青泥」と呼ばれる)が伝播される以前、客家の職人らは代わりに地元の自然素材を活用し、黄土に石灰ともち米飯、卵白を混ぜた粘着剤を作って青レンガを固定していったのだった。こうして風雨の侵食に耐えうる異常な堅牢さを誇る壁面が組み上げられたわけである。

新界区 錦田 新界区 錦田

上写真は正門から内部へ入った様子。東西の中軸ラインが真っすぐに延びており、その最終点に集落の守護神など 15の神仏を祀る廟宇が鎮座していた。集落の内部は左右対称に整然と 家屋(ほとんどがコンクリート造りの家屋になってしまっていたが、 わずかに古いレンガ積みの古民家が残されていた)が立ち並んでいた。

現在も、集落内には鄧氏一族の子孫が 400人ほどが居住しているという。



この「吉慶囲」は、近隣に建造されていた 要塞集落「永隆囲」、「泰康囲」、「南囲」、「北囲」、「新囲」と共に「錦田六囲」と称される一つで、「本地囲村」の代表的存在として知られる。 「本地」とは清代前期の 1662年に導入された「遷海令」以前から当地に居住していた 人々「本地人(広府人)」の略称で、彼らが外敵からの襲撃に備えて造営した要塞集落を「本地囲村」と総称されたわけである(⇔ 客家人の「客家囲村、囲屋」)。
明代後期の 成化年間(1465年~1487年)に鄧伯経と一族 2人が立村した当初は、防壁はまだ装備されていなかったという。

清代初期の 1661年ごろ、近隣の客家集団や 海賊、野党らの襲撃に対抗すべく、集落のリーダーだった鄧珠彦と鄧直見が主導し、高さ 6 mの青レンガ造りの防壁を集落の外周に増築することとなり、同時にその周囲に水堀も掘削されたと考えられる。水堀の全長は 1,000 mにも達したようで、1721年までに完成したという(現在はほとんど埋め立てられている)。防壁には一定間隔で銃眼が、四隅には砲楼が配置されていた。また入り口門は正門の 1か所だけであり、鉄輪扉で堅守された。この厚さ 18 cmを誇った鉄門に関する有名なエピソードが、1899年の「鉄門事件」である。

新界区 錦田

同年 4月、英国による新界地区の接収に反対し武装蜂起した新界住民らは、各地で英軍治安部隊によって鎮圧されていくわけだが(新界六日戦争。上地図)、錦田地区の住民らがこの「吉慶囲」に立て籠って抵抗した際、最終的に大砲で鉄門が爆破されてしまい、降伏に追い込まれることとなる。
戦後、報復として鉄門が撤去され、ロンドン にまで海路で運び出されて反乱鎮圧の戦利品として展示されることとなる。守備のシンボルだった鉄門を失った「吉慶囲」の住民らは大いに嘆き、以降、何度も英国植民地政府に返還交渉を進めていく。そして、1924年になって錦田鄧氏の代表だった鄧伯裘の代に至り、ようやく英国植民地政府との間で返還合意を見ることとなった。すぐに スコットランド で転用されていた鉄門が探し出され、香港へ送り返されてくると、翌 1925年5月26日午後 4;30、香港総督エドワード・スタッブス(Edward Stubbs)の臨席の下、盛大に返還式典が催されたのだった。

同様に、北に隣接していた「泰康囲」の方でも、正門だった鉄門が英国植民地軍によって撤去されており、戦利品として旧大埔理民府へ移送後、さらに アイルランド へ搬出されていた。1924年の鄧伯裘らによる返還交渉の結果、この鉄門も同時に返却されることとなり、翌 1925年に鉄門が元の正門として再装備されたのだった。



そのまま錦田公路を南進し、呉家村(Ng Ka Tsuen)を訪問することにする(下地図)。

新界区 錦田

少し先にある小さな 公園「錦田波地遊楽場」の路地を西進し、公衆トイレを過ぎたところに汚い小川にかかる橋があり、先へ細い路地が続いていた(下写真左)。これを進むと錦田川沿いの錦石路に出た。正面にある歩行者専用の橋を渡ると、バス停「呉家村」がある。 この真上に歩道橋があるので、エレベーターで上へ登ってみる。上地図。

新界区 錦田 新界区 錦田

その歩道橋上を進む正面に、白亜の洋館が連なっている風景が見えて来た(下写真)。 この異様な風体の洋館は 4棟連なっており、その中に呉家村の臨時公民館となっている「呉氏家祠」と「郁青別墅」が存在するわけである。

新界区 錦田

この「呉氏家祠」であるが(下写真)、2階建ての二進二堂型で設計されており、その 上堂(2階)と 下堂(1階)には各 5部屋が配されていた(上堂の一つの部屋に祖先廟が設けられている)。左右のつなぎ廊下には大きめの部屋が設けられ、中庭を中心に四角形型に外壁を巡らせた客家人の典型的な「囲屋」スタイルが採用されていた。

新界区 錦田

またその隣にある「郁青別墅」は(下写真)、中国と西洋の建築スタイルを融合した設計となっており、正面入り口前には広々とした庭園が設けられていたという。

新界区 錦田

通常、客家の建物は伝統的に南向きに設計されるものだが、香港内の多くの客家人の施設は「自身や子孫に中国人であることを忘れさせないため」北向きに設計されるケースが多く、本施設もその例外ではない。
目下、この歴史的建造物は「呉郁青記念堂」として整備されることが香港政府との間で合意されているものの、2026年現在、全く進展は見られない。

その前の道を西へ進むと(下写真)、大通り「東匯路(Tong Wui Rad)」に繋がっていた。この入り口に呉家村の 正門「牌坊」が建立されていた(上写真右)。ちょうど バス停「呉家村」の下車ポイント。

新界区 錦田 新界区 錦田

2022年の統計データによると、呉家村(総面積 2 km2)には、300世帯以上、1,900人余りが居住していたという。その名の通り、 呉氏が大部分を占める村落だが、他姓の客家人らも混在しており、客家の方言と独特な祭礼儀式や食生活などの伝統的な習俗が今も継承されているという。




 ■ 呉家村の 歴史

この「呉家村」一帯は、もともと鄧氏一族の小規模な集落が展開されつつ、大部分はその農耕地が広がっていた。清代末期に英国が新界地区を半強制的に租借領有すると、以降、植民地政府も新界の土地開発を奨励したことから、新移民の華僑や中国人らが錦田一帯の農地などを購入し宅地開発を進めるようになっていく。
そんな一人がインドネシアで大成した華僑豪商の一人、呉郁青というわけであった。自身の別宅を建設するために広大な農地を購入し、そこに故郷から多くの親族らを呼び寄せ定住させたことから、一気に「呉家村」の宅地化が進むこととなったわけである。

そもそも、この 呉郁青(1869~1949年)なる人物だが、本名は呉順才といい、生まれは 広東省梅州市 蕉嶺県三圳鎮東嶺村で、数年ほど地元の私塾に通っただけで実家の農業に従事する農民家庭の出身であった。そんな貧困生活の中、清代末期の 1901年、32歳のときに 父・呉清亭、実弟・呉香初(1881~1959年)らと共にインドネシアのジャワ島へ渡り、祖父・呉友祖の事業を手伝うようになる。

この 祖父・呉友祖であるが、彼もまた故郷の 広東省梅州市 蕉嶺県三圳から 実兄・呉元泗にジャワ島へ呼び寄せられた移民であった。清代中期の 嘉慶年間(1796~1820年)にオランダ東インド会社の支配下にあった バタビア(インドネシア首都・ジャカルタ)へ初めて渡海した呉元泗は、無一文から露天商を興し事業を軌道に乗せると、貧困にあえいでいた故郷より実弟の呉友祖を呼び寄せ、二人で「元合公司」を設立したのだった。そのまま順調に発展すると、いよいよ 1901年、呉友祖は息子の呉清亭、孫の 呉郁青&呉香初 兄弟をジャワへ呼び寄せ、新たに「順合公司」と「玉成公司」の 2会社を興して日用雑貨品販売事業を任せていくのだった。この呉氏一族が設立した会社群が、インドネシアでも最初期の法人格として記録されており、そのまま彼等は大いに成功して南洋有数の大富豪となったわけである。

こうして 呉郁青&呉香初 兄弟は 20年以上もの期間を現地で過ごす中で、さらに 石鹸工場開業、不動産事業へと手を広げ成功を収めていく。同時期、現地華僑の知人に資金提供して 中国語新聞「天声日報」を創刊させ、東南アジアでも屈指の華僑日刊紙へと成長させている。

1920年、51歳となった呉郁青は故郷への帰路、香港定住を決意し、インドネシアで築いた多くの財産を香港へ移して、九龍地区の深水埗で不動産事業に乗り出すと、一時期は 60~70軒もの不動産を所有し、3大地主の一角として君臨することとなった(1930年代)。この他にもインドネシア、汕頭市、故郷の 梅州市 蕉嶺県などにも、たくさんの 不動産、工場、倉庫などの資産を 購入&所有していった。

下写真は「深水埗警察署(Sham Shui Po District Headquarters and Sham Shui Po Division Police Station)」と 天后廟沿いの街並み。

新界区 錦田 新界区 錦田

下写真は「深水埗天后廟」。

新界区 錦田


当時、英国植民地政府は新界地区への土地開発投資を奨励していたことから、帰国した華僑らは次々と新界で土地を購入し、別荘などを建設していた。この流れに乗り、呉郁青もまた錦田にある広大な農地を購入したわけだが、そのうち、1,000 m2を超える土地に 祖先廟「呉氏家祠」と 別荘「郁青別墅」を建てたのだった(1930年代)。

以降、これらの施設は故郷から移住してくる呉氏一族を迎え入れるための 連絡事務所&簡易宿泊所として機能するようになり、さらに後に隣にもう一軒、客家人の囲龍屋スタイルで二階建ての洋館が建設され、彼等の居住スペースに充てられることとなる(多くは無償で提供された)。呉氏一族の定住を計った呉郁青は、もともと錦田の地に根を張って来た鄧氏一族との関係を重視し、積極的に一族の者に地元交流を促したという。時には錦田鄧氏に賃料を払って家屋や農地を提供してもらうなど鄧氏への配慮を欠かさなかったことから、新移民だった呉氏一族は順当に入植できたのだった。さらに呉郁青は、呉氏以外の別姓の客家人の移住も受け入れたという。

しかし当初、この新開発されたばかりの集落には井戸がなく、飲料水は鄧氏集落の井戸へ出向き水汲みをお願いしていたという。時間と労力がかかる様を目にした呉郁青は、「郁青別墅」の庭園に大きな井戸を掘削させる。完成後は毎日朝晩に集落の人々がこの井戸に集まり、賑やかな光景が繰り返されたという。1970年代初頭までには各家庭に水道管が敷設されるも、引き続き、村人らによって井戸は使用され続けた。後に井戸の欄干横に「飲水思源」と刻印した大理石の記念碑が建立されることとなり、後世の子孫に至るまで呉郁青の功績を伝承するよう図られている。この他、呉郁青はさらに土地を購入し、集落内に織物工場や商店などを展開し、村の雇用と経済発展を積極的に推進していったのだった。

新界区 錦田

同時に、呉郁青とその夫人は集落の子弟教育の発展にも積極的で、妻の弟である曾君徳の協力の下、村に「錦全学校」を設立し、遠方まで他集落の学校に通っていた子供たちの苦痛を緩和させたり、故郷の 広東省梅州市 蕉嶺県に「牖民学校」を設立、さらに 1930年代初頭には、同じ故郷の蕉嶺中学校に広大な「郁青&香初教室」と「清亭教室」の 2教室を増築させるなどしている。日中戦争下の 1941年には、巨額の寄付金を投じて広東省梅州市蕉嶺県三圳に「晋元中学校」を建設した(対日戦争で英雄となっていた 将軍・謝晋元の名を冠した)。これに加えて、呉郁青基金を設立し、毎年、子弟や教員らに奨学金を給付したのだった。

彼のこうした教育界への貢献は各界から賞賛され、香港の有名な 慈善団体「廣華医院(Kwong Wah Hospital、25 Waterloo Road, Yau Ma Tei, Kowloon, Hong Kong)」の理事長にも選出されることとなる(在職期間:1926~28年)。その在任中、貧困患者のために医療費減免を推進したことから、多くの賛辞を得たという。
そして 1949年2月、81歳で香港にて永眠したのだった。

彼の死後、大陸中国で共産党政権が成立すると(1949年10月)、多くの国民党軍人や政治家、商人らが香港へ亡命してくることとなり、呉家村には縁戚を頼って多くの梅州出身の客家人らが流入していくる。その中には 元国民軍中将・涂思宗(広東省梅州市 蕉嶺県出身)、将軍・呉応寰(梅州市興寧市出身)、将軍・陳嘉滄(日本の早稲田大学に留学経験あり)、広東省民政部副部長・鐘季蔚(梅州市梅県区白宮鎮出身)、陳定環&陳定圓 兄弟(蕉嶺県出身)、国民党時代最後の 蕉嶺県長官・陳英傑、人工花ビジネスで大成功した古欣粦などが含まれていた。

新界区 錦田 新界区 錦田

こうして住民人口が激増した 1949年、新界理民府の承認を経て「呉家村」が正式に立村されることとなり、元朗区八郷郷事委員会の指導の下、郷民による自治が開始される。民主的な選挙により、初代村長として 曽君徳(呉郁青の義弟)が選出されると、以降、20年以上もの間、呉家村のリーダーとして村行政に尽くすも、病に倒れたことから引退となり、その後は 呉志通、呉訓保、徐秋麟らが村長職を継承し、2026年現在は徐発堅が村長職を務めているわけである。


他方、呉郁青の 息子・呉炳連(1923年9月~2018年7月11日。5人兄弟姉妹の次男として 汕頭 で出生後、生後 1ヶ月で両親と共に 香港九龍 へ移住する。さらに両親に従いインドネシアへ渡海し、しばらくインドネシアで生活したことからインドネシア語を修得する。10歳の時、父の意向で故郷愛育成のために大陸中国へ送られ、実家のあった 蕉嶺中学、梅州中学へ進学する。その後、中山大学、台湾大学などに在籍するも、日中戦争の勃発により義勇軍に参加し、後に「衛国勇士」の称号を授与されている)は、大連工学院(現・大連理工大学)を卒業後(1949~1953年に在籍)に玉門油田で石油技術の研究員などとして従事後、香港へ戻って父の遺志を継ぎ呉氏集団を設立して企業グループを率いつつ(1962年~)、父の公共福祉事業も継承したのだった。

彼は毎年、呉家村内と故郷の蕉嶺同郷会内に属する子弟のうち、優秀な子供たちに「呉郁青(特別)基金」から奨学金を給付しており、さらに蕉嶺中学校に桂嶺科技実験館を建設したり(広東省内で最大規模)、故郷の交通の便向上を図って嘉応大橋の建設費用を拠出するなど、国内外の慈善事業に惜しみなく寄付を続けたのだった。こうした功績が称えられ、梅州市 名誉市民に列せられており、また企業人としても有名で、第 10回世界傑出華人にも選出されている。その他、香港梅州連合会、香港梅州総商会、旅港嘉応五属同郷会、僑港蕉嶺同郷会の各団体において、終身名誉会長となっている。広東省広州市にある曁南大学の 教員&学生のための奨学金制度も設立するなど、共産党政権下でも「全国革新人物」に選出され、『中国年鑑』に掲載されるほどであった。

新界区 錦田

また、呉郁青の実弟で生涯を通じて兄を支え続けた 呉香初(1881~1959年)であるが、彼も篤志家として知られる。貧しい農家出身で、兄と共にわずかな期間だけ私塾に通った後は父母を助けて農作業にあけくれる少年期を過ごし、1901年に父と兄に従って インドネシア・ジャワ島へ渡海し、経済的成功を収めた人物であった。その後、大陸中国の 国民党(蒋介石政権)に接近し、多額の寄附を行っていく。特に 1935年秋の 黄河水害(黄河が決壊し 7省が被災した。上地図)の際には、湖北省、山東省 の被災地へ国幣 1,000元(現在価値にして 800万円ほど)を寄附して当局から表彰されている(1929年、国民党政府から救災委員会の委員に任命されていた)。その他、兄の寄附による牖民学校や蕉嶺中学校の建設に際しても、多額の援助を行っている。
1959年に彼が死去した後も、その 未亡人・陳潤玉が彼の遺志を継ぎ、引き続き慈善活動に熱心に取り組み続けた。彼女は蕉嶺県に自費で「潤玉幼稚園」を建設した他、蕉嶺中学の「桂嶺教学棟」、華僑中学の「懐郷楼」、福嶺小学の「東明礼堂」などの建設にも多額の寄付を行っている。



このまま錦田の中心部へ戻り、さらに「元朗駅」へ徒歩で帰てみた。実に 4時間も歩き通しとなった。。。。 もしくは、バス停「呉家村」から路線バス 77Kや 64Kなどで帰るか、屯馬線「錦上路駅」から MTRでも戻れる。

新界区 錦田


お問い合わせ


© 2004-2026  Institute of BTG   |HOME|Contact us