BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
『大陸西遊記』ホーム 中国王朝年表

訪問日:2026年2月下旬 『大陸西遊記』~


香港 新界区 元朗 ① ~ 区内人口 67万人、 一人当たり GDP 45,000 USD(香港全体)


 ➠➠➠ 見どころ リスト ➠➠➠ ▼ クリック

 ▼ 原住民系集落「楊屋村」、牌坊、祖先廟「楊氏宗祠」
 ▼ 山貝河支流の 東岸農地「水打壩」で宅地開発された「大旗嶺村」の 今
 ▼ 文武二帝、新界六日間戦争の犠牲者、媽祖を祀る「大樹下 天后古廟」と「将軍の木」
 ▼ 崇正新村にある客家華僑の 巨大邸宅「慎徳居」
 ▼ 【豆知識】インドネシア華僑豪商・梁幹臣が建てた客家様式の 別荘「慎徳居」 ■■■
 ▼ 大旗嶺村に残る 古民家、路地 と 私塾施設「子養書室(元は 祖先廟・梁氏宗祠)」
 ▼ 「唯今(TADAIMA)」、洋食カフェだった。。。
 ▼ 凹頭村に放置される客家式 巨大邸宅「潘屋(蔭華廬、獅子屋)」、戦時中に日本軍が接収
 ▼ 【豆知識】インドネシア華僑豪商・潘君勉の 生涯 ■■■
 ▼ 蠔殼山(149 m)と 第二次大戦遺跡(トーチカ、塹壕)
 ▼ 蠔殼山上から「錦田郷」を見る
 ▼ 鶏公山上から「錦田郷」を見る
 ▼ 【豆知識】香港の 原住民系集落の歴史 ~ 広府人 vs 客家人 ~ ■■■



屯馬線「元朗駅」で下車する。
この駅南側にあるショッピングモールを抜け、元龍街へ抜ける(東端には「光明英来学校」の校舎が立地)。さらに南へと延びる攸田東路を直進し、高速道路「元朗公路」の高架下をくぐると、川沿いの朗河路に出た。下地図の赤色ルート。

新界区 元朗

その正面に細い橋が架かっていた(下写真左)。この橋を渡ると「竹新村」という集落がある。 その入り口あたりに祖先廟と広場があったので、写真撮影してみた(下写真右)。

新界区 元朗 新界区 元朗

この川沿いを少し北へ進んでみると 原住民系集落「楊屋村」があった。 村名が刻印された 牌坊(下写真左)の後方には集会所を兼ねた広場があり、中央に 祖先廟「楊氏宗祠」が鎮座していた(下写真右)。
新界区 元朗 新界区 元朗

少し集落内を散策してみると、古民家がいくつも残っていた。
下写真右は、古民家の半分を遺産継承し改修したものと推察される家屋。残り半分の相続人は、自身の継承分に手を付けていないと想像できる(もともとは二院タイプの旧家だった)。

新界区 元朗 新界区 元朗

再び川沿いに戻り、そのまま延々と南進していくと、「港頭村(623番ミニバスの終点停留所)」入り口を通過した。
さらに川沿いを進むと、巨大集落「大旗嶺村」の入り口に至る(下地図の青色ルート)。

この場所はかつて山貝河支流の東岸にあって「水打壩」と呼ばれており、広大な農地が広がっていたという。 20世紀初めより広東省各地からの移住者が激増し、農地を購入しては居宅を建てる動きが加速する。1920~1930年代に至り、ますます南方向(山側)への宅地開発が進み、その過程で「大旗嶺」へ改称されたという。

新界区 元朗

ここから集落地の中央を走る路地に入っていくと、すぐの場所に公衆トイレがあった(上地図の大旗嶺公厠)。
最初は車が通行できる幅があった路地も、先へ進めば進むほど細くなっていく。周囲の民家はどれも庭付きの戸建てで、約 100年前に宅地を購入して以降、土地ごと継承されてきたことが分かる。中には、庭でアートを楽しんでいる家庭もあった(下写真左)。

下写真右は、途中で見つけた古井戸跡。

新界区 元朗 新界区 元朗

路地はついに極限まで狭くなり、傍らの側溝には蓋も無く自転車走行には危険な気がした。10分ほど進むと、真新しい 公衆トイレ(大樹下公厠)があった。

このトイレ裏手に「天后廟」が鎮座していた(下写真左)。ちょうど側面から境内に入る形となった。廟宇の真横に巨大樹があり、通称「大樹下 天后古廟」の由来となっている。この大木も 御神木「将軍の木」として、大切に祀られていた(下写真右)。

新界区 元朗 新界区 元朗

廟内は神妙かつ厳粛なオーラに包まれており、かつ室温もかなりヒンヤりしていた。内部は三殿で構成され、正殿は天后を(下写真左)、右殿は 文武二帝(文昌帝=学問や科挙の神と、関帝=商売と武運の神)を、左殿は 英勇祠(1899年4月の反英闘争で決起し新界六日間戦争に参加、殉死した郷民ら)を祀る。なお、主神の天后とは 航海・漁業の守護神とされ、今も中国沿岸部で広く信仰されている道教上の 女神(媽祖)である(福建省 沿岸部が発祥とされる)。

内部には、お香やお供え物を販売する店が 3~4ヵ所、並んでいた(下写真右)。

新界区 元朗 新界区 元朗

廟内に祀られる石製の神碑は清代中期の 1786年と刻印されており、250年近く郷民によって大切に継承されてきたことが伝わってくる。ただし、廟宇の社殿に関しては清代後期や、特に 1962年の台風などで幾度も大破した記録が残され、その都度、郷民の手で修復されてきたという。

この天后廟は 元朗十八郷(とは言うものの、実際には 30の集落で構成 = 26の原住民村と 4つの新開発村。元朗中心部の南側~東側一帯のエリア)が共同で開催する 生誕祭「天后宝誕会景巡行」の本会場となっている。毎年、旧暦 3月23日は 天后(媽祖)の誕生日とされており、十八郷に属する各集落と一帯の業界団体が盛大に巡行パレードを行い、最終的にこの天后廟で「風調雨順、国泰民安」を祈願し参拝を行う伝統行事で(1963年からスタート)、爆竹、龍舞、獅子舞、英歌舞 などの華やかな演舞が続くことから、約 1万人の観客を集める一大イベントとなっている。現在、香港の四大伝統祭典の一つに数えられており、特に英歌舞は 潮汕地域 に起源を持つ 300年以上の歴史ある民族舞踊で、無形文化遺産に登録されている。

新界区 元朗 新界区 元朗

上写真左は、廟宇を後方から眺めたもの。典型的な二進スタイルであることが分かる。

見学後、正面に流れる山貝河の支流を渡り(上写真右)、大樹下路を西進して「崇正新村」の集落地に入り込む。
邸宅史跡「慎徳居」を目指す道中、「陳家園」という塀で囲まれた古民家を見つけた。当地の富裕な陳氏一族の居宅跡かと推察できた。下写真。

新界区 元朗 新界区 元朗

そのまま 1分ほどで、巨大邸宅遺跡「慎徳居」に到着した(下写真)。 道中、何らの道案内も解説板もないので、携帯アプリの地図を頼りに路地を進む形となった。

「大樹下 天后古廟」から 10分弱の距離だった。

新界区 元朗

客家集落らしく、邸宅正面には養魚場を兼ねた池を含む、広大な庭園が造営されていたと思われる(上写真の緑地部分)。

周囲は、香港らしい高層マンションによる視界の遮断もなく開放的な空間が広がっており、 豪邸が持つ堂々たる威風が今もはっきりと残っていた。

新界区 元朗

中庭まで自由に入ることができ、邸宅ギリギリまで接近できた。古井戸もそのまま残されていた。

新界区 元朗

しかし、夜には幽霊屋敷と化すんだろうな。。。。と思われる廃墟ぶりだった。

筆者が訪問した際、建物裏手の水場で、近所の女性が手洗いで洗濯していた。不動産が高騰する香港にあって、ここには古き良き香港村落の伝統的風景が今も残存していた。

新界区 元朗 新界区 元朗




 ■ 慎徳居(Shun Tak Kui)ー 崇正新村 171號

この「崇正新村(Shung Ching San Tsuen)」は、主に東南アジア地域へ出稼ぎのため渡海し、ひと財産築いた大陸中国人らが、内戦や治安悪化により帰郷できず、そのまま英国支配下の香港に住み着いたことにより宅地開発がスタートした集落であった(もともとは川沿いにあって農地が広がるエリアであった)。さらに共産党中国が建国された 1949年以降は、香港 へ避難してきた国民党軍人や役人の一族らも定住するようになり、さらなる発展を遂げる。こうした背景から、多様な氏族らが混在する非原住民系の新しい住宅地となっていくわけだが、それでも住民の主な出身地は 梅県(広東省梅州市)、宝安(広東省深圳市)、恵州 などに偏っていたという。

このような集落の成り立ちを反映し、村内には帰国客家の成功者らによってたくさんの邸宅が建てられていく(特に 1930年代)。そのうち現在でも 5邸宅(錦安廬、慎徳居、林屋、蘭欽楼、旧差館)が現存しており、目下、いずれも香港政府によって史跡指定を受け保護されている。それらの中でも最大規模を誇るのがこの「慎徳居」であり、2階建て 2棟の洋館内には 32もの部屋が配置され(全体の専有面積は 1,000 m2 強)、棟どうしの中間部分には開放的な中庭も設けられていた(外壁はコンクリートに石灰を混ぜたものを使用し、そのデザインもシンプルな設計となっている)。

この 大邸宅「慎徳居」は、インドネシアから帰国した 客家人・梁幹臣(Leung Kan-sen)によって別荘として建てられたもので、地元では「大梁屋(Big Leung House)」と呼称されてきた。

新界区 元朗

彼はもともと 広東省梅州市 梅県梅県西陽鎮河北郷大和里の出身で(上地図)、16歳の時にインドネシアへ渡海して雑貨店で働きはじめ、途中から起業して富を築いた後、50歳を過ぎて引退すべく帰郷の道中に香港入りしていたのだった。当時、南北アメリカ大陸や東南アジアなどへ渡海した客家の成功者らは、故郷に錦の旗を掲げるべく帰郷して地元で大豪邸を建てる習慣があり、これらの邸宅は今でも広東省や福建省各地に残っている(広東省江門市 開平市にある望楼群などが有名)。彼もそうした帰郷希望者の一人として、巨額の財産を現金化し 1930年に香港入りしたわけだが、当時、大陸中国では政情不安による治安悪化が蔓延していたことから、帰郷を中断し香港で足止めを食らっていたのだった。

この時、同様な理由で香港滞留を余儀なくされていた 同郷人(梅県出身者)らも多く、彼らの多くはそのまま香港内で不動産を購入し、香港定住を選択する者が続出していた。同じインドネシア帰りの富豪としては、羅質軒、楊雁友、楊衛南&楊竹南兄弟 らがいて、それぞれ八郷蓮花に嶺梅荘を(1932年)、古洞に仁華廬を(1933年)、黄泥墩楊家村に 適廬(1933年)などの豪邸を建設していた。梁幹臣も同郷人の勧めで、まだまだ発展途上だった十八郷内の「紅棗田(下地図)」に土地を購入したわけである(1930年)。

そして、4年後の 1934年からようやく邸宅の建設工事に着手し、故郷の 広東省梅州市 蕉嶺県(上地図)から 47名の左官職人を香港へ呼び寄せ、2年以上の歳月と 2万香港ドルもの資金を投じていく。このとき、建築資材の大部分も故郷から運び込んだとされる。
1936年に完成すると、邸宅は「慎徳居」と名付けられる。入り口門に刻印された「慎言是則、徳行為先(Speak cautiously and morals first)」=「言葉を慎み、徳ある行動を最優先する」の文言がその命名の意図を明示している。以降、梁家の子孫には徳行を重んじる伝統が継承され、現在に至るまで家業を売却せず今も継承されているわけである。

その他、彼は地元集落の発展に寄与すべく、崇正学校や客家廟などの建設に積極的に資金提供したのだった。その開明的で高い人徳は地元の郷紳や庶民から多くの賛辞と尊敬を集めたという。現在もその子孫の一部は集落内に居住し、この邸宅遺産の管理を司っている。

さて、西洋式と中国伝統が融合された本邸宅であるが、1936年の完成後すぐに左棟が、そして 1956年には右棟の翼棟が追加増築されている(ともに平屋建て)。そして、1957年から梁家は地元の学校施設として邸宅を供出し、村民の子弟教育に尽力するも、1960年に近隣に「崇正新村小学校(Shung Ching Primary School)」が完成したことで閉校となる。以降は村民の集会所として利用されていたが、2009年12月18日に香港政府により一級歴史建築物に指定された後、そのまま空き家として放置された状態が続いているという。

なお、この香港滞留を余儀なくされた 新・客家人の傾向として、それまでの客家人の伝統的スタイルだった南向き設計をあえて踏襲せず、多くが北向きに配置されていた。これは北にある神州を望むことを意味し、自身や子孫に中国人であることを忘れないための戒めを意図したという。

新界区 元朗



新界区 元朗

慎徳居の見学後、さらに西進して「大棠路」に出る。ここをまっすぐ北上すると、 元朗の市街地へ戻れた(上地図の緑色ルート)。

途中、東側に広がっていた「大旗嶺村」の北辺エリアの路地も散策してみた。上地図。

新界区 元朗

所々に、青レンガ積みの古民家や洋館が廃墟として放置されていた(下写真)。

新界区 元朗

新界区 元朗

下写真右は、「大旗嶺村 36號 126」と住所表示のあった古民家。

新界区 元朗 新界区 元朗

下写真は、大旗嶺村 21-23號にあった 史跡「子養書室(Tsz Yeung Study Hall)」。

新界区 元朗

もともとは、梁子養(Leung Tsz Yeung。広東省江門市 台山市の出身)の三人の息子によって共同で 建設、維持された 祖先廟「梁氏宗祠(The ancestral hall of the Leung clan)」で、1924年以前に既に存在していたと考えられている。当初より単進式で設計され、余計な装飾もなく質素なデザインの建物であったという。

第二次大戦終了までは主に 大旗嶺村(Tai Kei Leng Village)と 馬田村(Ma Tin Village)の子弟に、伝統的な中国教育を施す私塾教室としても使用されていた。戦後になって閉校されるも、1970年代から1980年代末にかけて「静心幼稚園(Ching Sum Kindergarten)」校舎として転用されていたという(現在も付近に門札が残る)。また門枠に残る「子以四教、養育三才(The four principles of Tsz education, breeds three talents)」と刻印された対聯は、当時の名残りという。上写真。

近年まで婚礼や主要な祭事の度に、梁家一族が 盆菜宴(Pun Choi Banquets)を設けて客をもてなす会場として使用されていたが、2010年1月に香港政府により三級歴史遺産に指定されると完全に空き家となり、現在、梁氏三家の子孫らが 2年交替で建物管理を担当しているという。

新界区 元朗

窓ガラス越しに室内がはっきり見通せた(上写真)。

新界区 元朗 新界区 元朗

見学終了後、いったん元朗駅まで戻ることにした。
駅への帰路、「唯今(TADAIMA)」という喫茶店を発見した。 思わず写真撮影してしまった(上写真)。住所は、新界区元朗建徳街 26號、 益利大廈地舖。

サイト情報を見てみると、日本式のデザートを食べられる喫茶店として紹介されていたが、 外に掲示されていたメニューを見る限り、普通に洋食店だった。

新界区 元朗

続いて「元朗駅」北東端の J出口から出発し、朗和路を東進して高速道路前を左折し(正面に公衆トイレあり)、高架下の歩行者用トンネル通路から東側へ抜ける(上地図の白色ルート)。

トンネルを出て右折し雑木林を進むと、正面に「博愛醫院」が見えて来た(下写真の上半分)。

新界区 元朗

その下に広がる雑木林の中に、古民家「凹頭 潘屋」がポツんと佇んでいた(上写真の下半分)。 うっそうと茂る木々の中にあって、普通は気付かないスポットだろう。

脇道から古民家へ接近できるようになっており、施錠されて内部見学は不可能だったが、 外観を間近に見学することができた。かなりの期間、無人のまま放棄されている様子だったが、 定期的に草刈りなどが行われているようだった。

二つの堂宇と二つの横棟が一続きの細長い家屋を構成しており、正門と左右に小さな門を備える(下写真)。 客家を数多く輩出した 広東省梅州市 梅県の伝統的な建築スタイルという。

新界区 元朗

建物正面には「蔭華廬」の文字が明示されていることから(下写真左)、地元ではそのまま「蔭華廬」と通称されてきたが、もともとは「蔭華公祠」と命名されていたいう。この他、「潘屋」や「獅子屋」とも呼称されてきたとされる。

また門前に軒下には、彩色豊かな彫刻と金箔貼りのイヌワシ木像が両端に配され、 同時に特徴ある八頭の 獅子(ライオン)像も配置されていたことから、「獅子屋」とも呼ばれてきたという。

新界区 元朗 新界区 元朗

邸宅前の庭園部分には池があったであろう痕跡がそのまま残されていた(上写真右)。 当時、この庭は 50 cmほどの低い塀で囲まれた長方形型で、塀の外側に半月形の風水池が配置されていたという。



客家人の典型的な 囲屋式邸宅(真ん中に中庭を配しつつ、四方の部屋でこれを取り囲む正方形、長方形、丸型、半円型の建築スタイル)の代表例と言える「蔭華廬」であるが、香港に残る豪邸遺跡のうち、荃湾の三棟屋、柴湾の羅屋、沙田の曾大屋、新田の大夫第などと共に香港政府下の古物古跡事務処により保護史跡に選定される一方で、その中で唯一、一級古跡の指定を受ける存在となっている。しかし反面、他の施設が博物館や商業施設に転用されたり、引き続き民家として継続利用される一方で、この邸宅だけは現在まで何等の手入れも行われず、放置されたままとなっている。

そもそもの由来は、19世紀初頭、日本から 上海、広東省梅州市、香港、インドネシアと国際貿易や旅行代理業で成功を収めた 実業家・潘君勉(1882~1968年)が、自身の故郷である広東省梅州市梅県南口鎮に父の顕彰を兼て 潘氏「蔭華廬」を建設した際、同時に自身の居住地であった 香港元朗凹頭(当時は「坳頭村」と呼ばれていた。上古地図を参照)にも、全く同じ設計で 邸宅「蔭華廬」を建てたことに端を発している。

もともと父を称えた建物だったことから「蔭華公祠」と名付けられ、今もその正門前には「蔭華廬」の文字が刻印されているわけだが、以降、潘氏の屋敷として使用されたことから「坳頭潘屋」とも通称されることとなった。また、この「坳頭村」には潘姓の客家一族が集住したこともあり、その集落自体が「潘屋村」と呼ばれることもあったという。

当時、この「坳頭村」の大地主でもあった潘君勉は、その一部にこの邸宅を建設すると共に、その後背地を九龍博愛病院へ寄贈し、支部病院を誘致して集落の発展と福祉向上に寄与したのだった。

なお、彼の生い立ちであるが、清代末期の 1882年、今の 広東省梅州市 梅県区南口鎮僑郷寺前村で生まれ、少年期から非常に勉強熱心であったという。1908年の 26歳のとき、叔父・潘祥初が経営していた「萬通安記」に管理職として就職すべく香港に移住すると、以降、めきめきと頭角を現し、インドネシア華僑商人らと懇意を深めつつ起業して、自身の出身地だった梅県から数百名もの青年らをインドネシアへ移民させ、彼らの就労斡旋事業で成功を収める(宿の提供、船賃、パスポートやビザ手配などの旅行サービス事業を主とする会社で、屋号は「南通」と命名)。

徐々に香港政財界において幅広い人脈を形成していった潘君勉は、1916年、同郷出身の旅行代理業者らと一緒に 業界団体「旅港嘉屬商会」を創設し、その初代会長に就任する。また 1938年には、別の 同郷人(丘公治や林翊球ら)と共に「南洋輸出入商会」なる業界団体も結成し、その初代副理事長に就任することとなる。この 1930年代、従弟の潘植我が日本の神戸で 貿易商社「得人和」を設立するとその副支配人に就任したり(神戸や 大阪 などの商品を直接、南洋各地へ輸出)、さらに 1940年代初頭、貿易事業のさらなる拡大を企図し、自ら神戸に「東明公司」を創業して、香港と 上海、そして故郷の梅県区南口鎮にそれぞれ「南通公司」を、香港・九龍 に「南洋織造廠」を創設してインドネシアと結んだ国際貿易事業を展開させていくのだった。

彼はこれらの活動を通じ、革命家・孫文とも知り合い日本で結成した同盟会へ幾度も寄附したことから(1910年代~20年代)、後に孫文より直筆で揮毫した「博愛」を贈られている。

新界区 元朗

その後、ロシアで共産主義政権が樹立され、中国でも共産主義活動が活発化する中、1925年に孫文が死去すると、蒋介石をリーダーとする国民党政権は共産党活動家を弾圧するようになり、孫文シンパらと呼応して潘君勉も共産党革命家らを支援するようになっていく(他にも多くの香港内の指導者階層の人々も助力に加わった)。

大陸側の共産主義革命家らは、1927年8月の南昌起義、同年12月11日の広州蜂起を決起するも、いずれも国民党政権により鎮圧されると、その リーダー層(張太雷、葉挺、惲代英、葉剣英ら)は指名手配を受けることとなり、国内外への逃亡を図っていく。その中の一人に 葉剣英(1897~1986年。下写真)がいた。彼は戦前戦後の共産党中国の政界の重鎮であり、長年にわたり人民解放軍のトップを担った人物であった。

彼は 12月11日の広州蜂起失敗後、広州租界・沙面 に潜伏していたが、12月15日早朝、中国共産党広東省委員会の連絡員であり、広九鉄道の従業員だった李運全の手引きにより鉄道作業員に扮して広州を脱出し、香港へ逃亡することに成功する。以降、李運全の手引きにより、葉剣英は香港内の居候先を転々としつつ(最初は 九龍・油麻地に滞在したが、後に新界地区へ移る)、同じく香港に亡命していた革命家らとの会合を重ね、再起を図ったのだった。その後、彼の母親、妻、そして 実弟・葉道英も香港に亡命してくると、家族全員で大埔墟に居候したという。この時、潘君勉も何度も彼を見舞い、またその経済援助を惜しまなかったという(彼等はいずれも梅県出身の客家人という同郷意識も強かった)。

翌 1928年秋、中国共産党は組織を挙げて葉剣英をソ連のモスクワ中山大学へ留学させることを決定し、同年末、葉剣英はモスクワに渡る。以降も、彼の家族は香港に滞留し続け、潘君勉らが生活支援を続けている。

1932年に大陸中国へ戻った葉剣英は、毛沢東の信任を得て国民党との窓口役を任される。そんな国共対立の最中の 1937年7月より日中戦争が勃発すると、彼は八路軍参謀長に抜擢され、軍事部門のリーダーの道を歩むこととなった。そんな共産党軍に対し、潘君勉は香港にあって西洋薬品や医療機器を大量に寄贈し、同時に多額の資金援助を惜しまなかった。その間も引き続き、香港に残留していた葉剣英の家族支援も欠かさなかったとされる。

翌 1938年5月、国民党による共産党弾圧が苛烈化する中、八路軍参謀長を務めていた葉剣英は病気治療の名目で香港へ再び戻って来る。この二回目の香港滞在中、潘君勉は彼を元朗の 自宅「蔭華廬」に招待し、家族ぐるみの接待で歓待したという(下写真)。この時、潘君勉にさらなる協力を申し出、香港の経済界に募金を呼びかけつつ、二人の甥を八路軍に参加させて大陸中国へ同行させている。

新界区 元朗 新界区 元朗
▲ 上写真左は、潘君勉 と 葉剣英(右。上写真右も)

さらに、潘君勉は国民党による連座の弾圧を恐れず、共産党員だった 李伯球、張文、丘哲らとも交流し、彼等への経済的支援も惜しまなかったという。戦後の 1946年に李伯球らが香港で『人民報』を創刊した際にも資金援助を行っている。

この他、1944年には 温克威、陳柏麟らと共に、故郷の 梅県立第二中学校(現・南口中学校の前身)の設立を提唱して巨額を寄附し、また故郷にあった毅成学校と安仁中学校の校舎建設にも多額の寄付金を拠出している。1950年に南口中学校が校舎建設資金を募った際もまた、自ら率先して寄付するとともに、香港在住の嘉興県出身者商工会のメンバーに積極的に支援を呼びかけて回った。1968年、香港で病没する(享年 87歳)。

なお、第二次大戦中の 1942~45年8月まで、香港を占領していた日本軍の将校がこの田舎の豪邸に目をつけ、新界北地区司令部として強制占拠することとなり、潘家は追い出されていたという(戦後になって再び潘家へ返還されている)。



ここから青山公路を東進し、南面にそびえる「蠔殼山(149 m)」に登ってみる。 登山道が整備工事中だったが、15分弱ほどで山頂まで行ける手軽さだった。

山頂からは、文字通り 360度の絶景を楽しめた。
なお、南面に連なる 掌牛山(220 m、Cheung Ngau Shan)、井坑山(237 m、Tseng Hang Shan)の山脈は、さらに後方にそびえる 九逕山(507 m、Kau Keng Shan)から続いており、その山系の北端の尾根を形成しているわけである。

下写真は、西側の景色。同じ九逕山から連なる山系が見える。

新界区 元朗

新界区 元朗

下写真は、東側の景色。同じ九逕山から連なる山々が見える。その一環にある 大帽山(標高 957 m)が、香港最高峰の山である。山頂周辺の冬季の気温は 0度を記録し、毎年、登山警報が発令されている。

大帽山への登山道路沿いにも中国軍基地があり、周辺では迷彩服の軍人が見られる。 その手前には空軍基地もあり(下写真で滑走路が見える)、かつての英国駐留軍の空軍基地をそのまま継承する形となっている。
2018年9月に開通した「香港西九龍駅」へと連なる高速鉄道は、まさに下写真のど真ん中の地下を走っており、この中国軍基地にも停車できるという設計になっているわけである。

新界区 元朗

下写真は、北東側の景色。奥の方に見えるビル群は、広東省深圳市。
右手の山は、香港で人気の登山先である「鶏公山(海抜 585 m)」。

新界区 元朗

下写真は、北西側の景色。
遠くには、広東省深圳市 の摩天楼が連なる。

新界区 元朗

なお、この「蠔殼山」登山の醍醐味はこれらの絶景以外に、第二次大戦中の戦跡が見られる点にもある。

日中戦争中、中国大陸を席巻する日本軍が援蒋ルート遮断を目的に広東省にも進出する中、香港を支配する英軍は日本軍の香港侵攻を警戒し、国境沿いの山々に防衛拠点網を構築していた。上の「鶏公山」の東側に連なる山々には、このような戦跡遺跡がいくつも残されているわけだが、特にこの「蠔殼山」の戦跡は手軽に見学できる筆頭格と言える。

新界区 元朗 新界区 元朗

上写真左は、登山道の途中にあったトーチカ跡。
ここを最前線とし、後方に延々と塹壕が続いて山頂までつながっている(上写真右)。

下写真左は、山頂部に残る塹壕跡。

新界区 元朗 新界区 元朗

上写真右は、頂上付近にあったトーチカ跡。草木に隠れる形で設計されていた様子が、今も伝わってくる。

いったん「蠔殼山」から下山し、そのまま北東側にそびえたつ「鶏公山」を目指す。徒歩だと 30分強、 603番ミニバス(7.7 HKD)で 5分強で登山口に到着する。

下写真は「鶏公山」から「蠔殼山」側を見渡した様子。

新界区 元朗

新界区 元朗

下写真は「鶏公山」から南側を見たもの。
元朗十八郷の 中心地「錦田村」は、三方を山に囲まれていた地形がはっきりと見て取れる。

新界区 元朗

下山後、再び「元朗駅」まで戻り、続いて 駅西側の集落群 を巡ってみる。  >>>> 元朗 ②

新界区 元朗




 ■ 香港の 原住民系集落の歴史 ~ 広府人 vs 客家人 ~

香港に住む中華系住民は、大きく 5種類に分類される。すなわち、「本地人(Punti)」、「客家人(Hakka)」、「華僑」、「船民」、「新移民」である。

まず、「本地人」とは清代初期の 1669年以前に香港に住んでいた人々の末裔(明代より 広州府 宝安県、新安県 下で戸籍登録されていた住民ら)であり、「客家人」とは 1669年に遷海令が解除されて以降、清朝政府の奨励策により中国内地の山間部から香港に移住してきた人々の末裔を指す。
これら香港へ移住してきた人々の大部分は新界エリアに定住したわけだが、1898年に英国がここを強制租借すると、香港島、九龍半島 を含め、香港全域に住んでいた「本地人」と「客家人」らはすべて「原住民」として同種扱いされることが、英国植民地政府により決定される(以降に中国内地から呼び寄せられた親族らも含む)。

この他、東南アジア方面への出稼ぎ移民らが帰郷途上で 香港 に滞留し、そのまま居住するようになった人々を「華僑」、また ベトナム戦争 前後に香港へ避難してきた人々を「船民」、そして最近になって中国本土から移住してきた人々を「新移民」と区分したのだった。

新界区 元朗

英国による植民地化以前、全く言語も習俗なども異なっていた「本地人」と「客家人」は、開墾した土地や経済的利益を巡って対立を繰り返し、「土客械闘」と呼ばれる武力衝突を度々引き起こしてきた。さらに、この 本地人、客家人内にも多種多様な宗族が含まれており、それぞれでも相互対立する非常に複雑かつ物騒な地域社会を形成していたのだった。

もともと、この広東省一帯には古代より南越人が住んでおり、原始的な農業や漁業を営んでいたが、中原を統一した秦王朝がこの地を併合し直轄支配をスタートさせると(紀元前 214年)、中原地方から数十万人単位の移民らが投入される。ここから、中原文化との言語、習俗の融合が開始されたわけだが、その後も前後漢時代~隋唐時代を通じ、華北地方の戦火を逃れて中原住民(漢民族)が流入し続けることとなり、宋王朝時代に、現在のような広東語、広東文化が成立されたと考えられている。

前述の「本地人」は、この広東語を第一言語としたことから、「広東人」、もしくは「広州府人」「広府人」とも称されることとなったわけである。

新界区 元朗

彼等は「大庾嶺通道(Dayuling。‌南嶺五嶺の一つで梅嶺とも呼ばれる。江西省 と ‌広東省 の境目あたり‌)」を南下し、南雄の「珠‌玑巷(Zhu Ji Xiang。唐敬宗・李湛の死後につけられた諱を避けるため、それまでの「敬宗巷」から改称された。梅関古道の南側にある最初の集落で、現在の 広東省韶関市 南雄市珠玑鎮にあたる)」を経由し、広東省各地へ拡散していったと考えられている。宋代、元代にはさらに南下が進み、珠江口(Pearl River)一帯にも定住していく。彼等は南遷したものの、中原にあった自らのルーツに高い自負を持ち続けたことから、「珠機巷情結(Zhu Ji iang Complex)」と揶揄されるようになる。

その文化的特徴の最大ポイントは「大盆菜(Pen Cai Food)」で、特に旧正月の祝賀に際し、集落の人々で集まって「大盆菜」を食べる習慣が堅持されてきた。別名、新安盆菜とも呼ばれ、今でも一族の絆を強化するための恒例イベントとして継承されている。

新界区 元朗

他方、「客家人」も同様に中原地方から南下してきた人々で、長らく 福建省、広東省、江西省 の山間部で孤立的に集落を築いて生活していたわけだが、ようやく南宋時代末期になって少数が広東省内の沿岸部にまで進出したとされる。しかし、まだまだ例外的な少数の宗族だけで、客家人が本格的に沿岸部へ進出するようになるのは、清代初期の 1669年に 遷海令(Edict of the Coastal Evacuation)が緩和されて以降であった。

この清代初期、清王朝は明朝復興を掲げる地方勢力への鎮圧戦を繰り返し、最後に残った 鄭氏台湾 に手を焼いていた。 台湾島に籠った反清勢力を孤立化させるべく、今の広東省から ‌山東省 までの沿岸部を無人化する政策「遷海令(遷界令)」を導入する(1661年)。これにより、海岸線から 30里(約 15km)以内に住む全住民は、強制的に内陸部に移住させられたのだった。

その結果、香港エリアを含む 広州府 新安県 下では半分以上が無人地帯となってしまう(下地図)。この時、多くの旧住民らは生活基盤を破壊される一方で、無法者らが勝手に廃墟集落や農地などを占拠したことから治安悪化が進むこととなった。こうした惨状に直面し当政策の改善を訴える陳情が数多く朝廷に届けられたため、鄭氏台湾に対する効果も不明なまま、最終的に 1669年、段階的に海禁政策が緩和が進められていく(台湾島に近い福建省だけは、鄭氏台湾が滅亡する 1683年まで無人化政策が堅持され続けた)。

新界区 元朗

こうして順次、旧住民らが帰郷を遂げるも、すでに移住先で新生活を構築していた者も多く、なかなか旧来の状態に戻すことは困難となってしまっていた。荒廃してしまった農地の再開発や地元経済の立て直しを図るべく、1689年、清朝政府は内地の山間部に居住する客家人らを招聘し定住させることを目指すと、以降、沙頭角、大埔澳、沙田、西貢、九龍城、官富城、 筲箕湾、荃湾、元朗などに次々と客家村が誕生していくこととなったわけである(現在、香港内に住む客家人の末裔は全人口 740万人のうち、200万人程度と推定されている)。

しかし、彼等は山間部での生活スタイルをそのまま新天地に持ち込み、先住民系の広府人らとの文化的、習俗的、言語的な融合を拒否したことから(こうした頑なな姿勢を背景に、その伝統が今日まで客家文化として残存され得ているわけだが)、当然、広府人らとの衝突が避けられない事態となっていく(「土客械闘」)。

新界区 元朗

このような広府人と客家人との摩擦関係の常態化、また同時に度重なる 外敵(山賊や海賊ら)の襲来対策として、集落や一族を守るために広府人と客家人双方の集落で自衛のための要塞化が加速することとなり、広東省各地で「囲村、囲屋(英名 : Walled Villages)」が造営されていったわけである。

現存するもののうち代表的な事例は、広東省深圳市 羅湖区に残る筍崗老囲(元勲旧跡。明代初期に建造)、龍崗区平湖の伍屋囲、大囲、松柏囲(明代中前期に建造)、恵州市 龍門県に現存する馬図崗古村(約900年の歴史を持つ)などが挙げられる。

香港エリアの場合、当地最古とされる粉嶺の 龍躍頭老囲(粉嶺囲)、衙前囲村(600年以上の歴史が確実視されており、考古学的調査により明清時代の囲壁、楼閣の基礎台、および堀の遺跡が発見されている)、吉慶囲、衙前囲村、上水囲、山下囲、上璋囲などがある。

現在、広東省深圳市 内や香港内に残る伝統的な広府村や客家村では、「囲」という漢字がつく集落が数多く見られる。1995年5月に 蕭國健、沈思、葉慶芳らがまとめた『香港囲村調査報告』によれば、新界エリアにある 131の村落のうち、村名に「囲」と付くものが 71村あり、囲門があるものが 84村、防壁があるものが 57村、防壁の四隅に楼閣のあるものが 21村あったと報告されているわけだが、そもそも「囲」とは 囲壁(四方を囲む防壁)と村門を備えた集落を指し、以前にこのような要塞集落が立地したことの証左となっている。
特に学術的に、広東省南部地域で本地人(広府系)の人々の要塞集落を「本地囲(広府囲村)」、客家人のそれを「客家囲」と大別し、それらに居住する住民は「囲頭人」と総称されてきた。

ただし、この要塞集落「囲」スタイルはあくまでも例外的な存在で、その他の多くの集落は防壁が構築されることもなく、単に村落へと続く街道沿いに簡単な村門を設ける程度のパターンが多かったという(深圳市羅湖にあった東門村 など)。
このため、単なる「○○村」という呼称の村落と「○囲村」という村落とは、全く異なる存在という認識であった(例えば、香港に残る水辺村と 水辺囲、輻井村と輻井囲とでは全く集落設計が異なっており、全く別個の存在、別次元の村落として認識されていたわけである)。

新界区 元朗

最後に、要塞集落「囲村、囲屋」の基本設計であるが、外周を防壁(囲壁)と水堀が取り囲む環濠集落スタイルが採用され、また各辺の壁面には銃眼が開けられ、その四隅には四方に銃眼を設けた見張り台(望楼、砲楼)が、村門(囲門)の 2階部分には銃眼付の門楼が備えられていた。それら施設の壁面は強固な花崗岩を加工して製造した青レンガが積み上げられており、内部で整然と配された家屋群(家族毎に独立した小屋が割り当てられた)もこのレンガで造営されていた。通常、囲村全体が正方形や長方形型で設計され(客家人の囲村では円形や半円形などの形状も混在していた)、内部は碁盤の目、もしくは櫛状に路地が直線に通されていたわけだが、その中軸線上に村門と祠堂が対局で配されることが一般的であった。村の正門にあたる村門には頑丈な施錠設備があり、一つは鉄製の環を鎖状に取り付けるタイプ(連環鐵門)、もう一つは閂を水平方向に並べたタイプ(木條橫柵門)があった。

さらに、村門前には溜池や水田が設けられ、日常生活上の食料や水源確保に不自由ないよう住環境全体が徹底的に設計されていたのだった。

これに対し、客家人の要塞集落「客家囲」は、やはり「本地囲」とは異なる設計的特徴を有していた。故郷の山間部で建造してきた囲龍屋のデザインを基に、多くの長屋状の住居群を連結し(この「家族単位の小部屋を連ねた長屋スタイル」はもともと広府人の伝統的習俗で、後に客家人が取り入れたもの)、それ自体を防壁とした「囲屋群」スタイルが主に採用されることとなる。こうした設計上の理由から、家屋の壁面は特に分厚く窓は小さいものが多い。さらには四隅に角楼(砲楼、圍斗、瞭望台、更楼)が設けられることもあった。
ちなみに、香港最古の客家集落は「打鼓嶺」とされる。共に、現在も陸の孤島のような緑地帯の中に、ひっそりと当時の防壁を残す貴重な史跡となっている。

このような「敵地の中で住み続ける」ための工夫として、宗族がまとまって集住し協力し合うスタイルは、その後の客家子孫らにも継承され、客家人の典型的な 囲屋式邸宅(真ん中に中庭を配しつつ、四方の部屋でこれを取り囲む正方形、長方形、丸型、半円型の設計スタイルの家屋)へと結実されていくわけである。
その代表例が、沙田博康邨の近く、獅子山隧道付近に位置する「曾大屋(曾氏大屋。旧称に「山下囲」「山廈囲」)」と言える。他にも、錦田呉家村の「郁青別荘」、荃湾の「三棟屋」、柴湾の「羅屋」、元朗崇正新村の「慎徳居」、元朗凹頭の「蔭華盧」などが挙げられる。

新界区 元朗

その後、中国内地での太平天国の乱メンバーやキリスト教徒らの逃亡者、清朝滅亡後の官吏や政商ら、国民党の残党などが時代の変化の中で香港へ亡命してくることとなり、香港経済と人口は爆発的に成長していく。それに伴い物騒な地域摩擦もなくなり、こうした要塞集落は無用の長物となっていく。そのまま集落の発展の中で囲壁や堀が撤去されたり、そのまま集落が放棄されるという 2パターンに分かれていったわけである。



お問い合わせ


© 2004-2026  Institute of BTG   |HOME|Contact us