下写真は、大旗嶺村 21-23號にあった 史跡「子養書室(Tsz Yeung Study Hall)」。
もともとは、梁子養(Leung Tsz Yeung。広東省江門市 台山市の出身)の三人の息子によって共同で 建設、維持された 祖先廟「梁氏宗祠(The ancestral hall of the Leung clan)」で、1924年以前に既に存在していたと考えられている。当初より単進式で設計され、余計な装飾もなく質素なデザインの建物であったという。
第二次大戦終了までは主に 大旗嶺村(Tai Kei Leng Village)と 馬田村(Ma Tin Village)の子弟に、伝統的な中国教育を施す私塾教室としても使用されていた。戦後になって閉校されるも、1970年代から1980年代末にかけて「静心幼稚園(Ching Sum Kindergarten)」校舎として転用されていたという(現在も付近に門札が残る)。また門枠に残る「子以四教、養育三才(The four principles of Tsz education, breeds three talents)」と刻印された対聯は、当時の名残りという。上写真。
彼等は「大庾嶺通道(Dayuling。南嶺五嶺の一つで梅嶺とも呼ばれる。江西省 と 広東省 の境目あたり)」を南下し、南雄の「珠玑巷(Zhu Ji Xiang。唐敬宗・李湛の死後につけられた諱を避けるため、それまでの「敬宗巷」から改称された。梅関古道の南側にある最初の集落で、現在の 広東省韶関市 南雄市珠玑鎮にあたる)」を経由し、広東省各地へ拡散していったと考えられている。宋代、元代にはさらに南下が進み、珠江口(Pearl River)一帯にも定住していく。彼等は南遷したものの、中原にあった自らのルーツに高い自負を持ち続けたことから、「珠機巷情結(Zhu Ji iang Complex)」と揶揄されるようになる。
その文化的特徴の最大ポイントは「大盆菜(Pen Cai Food)」で、特に旧正月の祝賀に際し、集落の人々で集まって「大盆菜」を食べる習慣が堅持されてきた。別名、新安盆菜とも呼ばれ、今でも一族の絆を強化するための恒例イベントとして継承されている。
他方、「客家人」も同様に中原地方から南下してきた人々で、長らく 福建省、広東省、江西省 の山間部で孤立的に集落を築いて生活していたわけだが、ようやく南宋時代末期になって少数が広東省内の沿岸部にまで進出したとされる。しかし、まだまだ例外的な少数の宗族だけで、客家人が本格的に沿岸部へ進出するようになるのは、清代初期の 1669年に 遷海令(Edict of the Coastal Evacuation)が緩和されて以降であった。