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新界区 天水圍(廈村郷 / 屏山)
訪問日:2023年10月上旬、2026年2月下旬 『大陸西遊記』~
香港 新界区 天水圍(廈村郷/屏山)~ 区内人口 29万人、 一人当たり GDP 45,000 USD(香港全体)
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香港最大級の(廈村郷)祖先廟「鄧氏宗祠(友恭堂。1750年建立)」、500 kg巨砲、牌坊
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VIP客用の 宿所「礼賓楼」、2階の客間と 1階の台所が残る
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学校施設「友恭学校」、鄧氏一族の子弟のための私塾から官立学校へ(1952年)
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【豆知識】厦村郷の 歴史 ■■■
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石塔「聚星楼(文塔)」、明代初期の海岸線の名残り
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香港唯一の 公所(集会所)跡「達徳公所」、新界西部の約 39の 村落組合(郷約)の本部
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【豆知識】新界西部の 村落組合「達徳約」と 対英闘争(新界六日戦争)の記憶 ■■■
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社公(村公。村の神)を祀る 社壇(神壇)と 山貝河跡の古池
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防壁(囲壁)と 村門(楼門)で固めた 要塞集落(囲村)の代表例、「上璋囲」の今昔
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全長約 1 kmの 歴史文化回廊「屏山(坪山)文物径」マップ
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楊侯古廟(南宋時代末期に亡命政権を支えた 忠臣・楊亮節と車公を祀る)と 古井戸
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香港最大級の 祖先廟「鄧氏宗祠(Tang Ancestral Hall)」、700年以上の歴史を持つ
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愈喬二公祠(明代中期の 16世紀初頭に建立)
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聖軒公家塾、広東省内で展開された科挙対策用の 子弟教育機関(家塾、書室、卜卜齋)
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私塾「覲廷書室」、元々は息子が 父・鄧覲廷を祀った 祖先廟(1870年建立)だった
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私塾教師や VIP客用の 宿舎「清暑軒」、1899年4月の反英闘争直後に英国政府が一時接収
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洪聖宮(天文学、地理学に精通した「海の神」として唐代の 広州刺史・洪熙を祀る)
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私塾「若虛書室(維新堂)」、明代末期に建立
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今は「屏山鄧族文物館」。かつては、英国駐留部隊の 駐屯所&警察署跡(1899~1965年)
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水郷の 里「屏山(坪山)郷」の今昔
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【豆知識】屏山(坪山)郷の 歴史 ■■■
屯馬線「
元朗駅
」下にあるバスターミナルから、K65 路線バス(流浮山行)に乗車する(下路線図)。
地下鉄運営母体の MTR社が運航する路線バスということで、「
元朗駅
」まで MTRに乗車した直後だと、無料で乗れた(いちおうは Octpus Card を提示するも課金無し)!!
本来の運賃は 5.1 HKD(下写真)。
15分ほどで「天水圍駅」下を通過後、2つの目の バス停「
厦村
」で下車する。
その降車場所は、真正面に厦村の牌坊が立ち、その後方に広がる集落を一望できる開けたスポットだった(下写真)。
集落の真正面に、巨大な「(廈村郷)鄧氏宗祠」が鎮座していた。入り口は地元老人たちの憩いの場となっているようで、何をするでもなく話し込んでいる高齢男性らが数名いた。下写真。
正門前には村守護のシンボルだった 大砲(500 kg超の大型サイズ)が保存されていた(下写真左)。
下写真右は、「廈村市」時代の名残り。清代後期には、新界西部における交易の中心集落として君臨していた時代があり、この集落の脇まで水路により海岸線がつながっていたことから、水上交易で大いに栄えたのだった。
宗祠の境内に入ってみる。地価が高騰する香港とは思えないぐらい贅沢に空間を使った伝統的建造物で、分厚い青レンガ壁や 木造瓦葺き屋根、木製の太い柱すべてが見ごたえ抜群だった。下写真。
この宗祠は香港最大の祖先廟の一つで、厦村に移住し鄧家の分家集落を作った鄧洪贄と鄧洪恵を祀ったもの。清代の広東地方で広く普及した伝統的な三進二院式の設計となっており(香港に現存する事例は少ない)、2008年2月1日に香港法定古跡の指定を受けている。別名「友恭堂」。
本祠堂は清代中期の 1749年に着工、翌 1750年に竣工し、続く 1751年に正式に主祭神を祀る形で落成された。清代後期の 1837年と 1883年の 2回、大規模な修繕工事が施された記録が残っており、現在まで古い建築部材や付属の文化財が良好な状態で保存され、その歴史的価値を高く評価されている。中殿内には、清代の科挙功名牌匾と十六枚の聖諭牌匾が掲げられ、祖先が清朝廷から授与されてきた功績が顕示されている。
今でも
、毎年行われる春秋二祭や提灯点灯などの宗族行事のメイン会場となっており、また十年ごとに開催される太平清醮でも主会場を務める。
この西隣には 宿所「礼賓楼」が併設されていた。客室は二階部分らしかったが、内部見学できなかった(上写真左)。
派手な金字瓦屋根と木造テラスが特徴的で、客室前に中庭があり(上写真左)、その向かいに文昌帝君と武曲星君を祀る神殿が配されていた(上写真右)。当時、この客間は鄧氏一族が VIP客をもてなした場所だったが、1950年代頃には「友恭学校」の教員用宿舎として使用されたという(下写真の木造部分)。
2008年2月1日に香港政府から法定古跡の指定を受けているが、正確な建設時期は 不明(1924年以前から存在していたことは確実という)。
この下に台所があったようで、そのまま保存されていた(
下写真左
)。
いったん宗祠まで戻る形で外へ出ると、続いて宗祠後方へ続く脇道を進む。すぐの場所に「友恭学校」の校舎と敷地が保存されていた(上写真右)。
ここは、鄧氏一族がその子弟に教育を施すための学校跡というわけだが、敷地自体が立入禁止で、柵外からしか撮影できなかった。下写真。
この「友恭学校」も 1924年以前から既に存在していたようだが、正確な建築年は不明という。もともとは伝統的な三間構造であったらしいが、1952年に政府補助学校となった際に増築され現在の姿となっている。開校後は生徒数の増加に伴い、1940年代には「宗祠」の一部施設や「礼賓楼」も教室や教員宿舎として転用されていたという。1964年に閉校。
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厦村郷の 歴史
この香港新界エリアには
錦田・鄧氏
、上水・廖氏、新田・文氏、粉嶺・彭氏、上水・侯氏 という新界五大氏族が存在しており、いずれも客家の末裔である。厦村の立村には、このうち 錦田・鄧氏の家系拡大が大きく関係している。
それは北宋時代初期、鄧漢黻(下家系図)という人物が
江西省吉安市
吉水県から 広東省元朗エリアへ移住してきたことに始まる。
その後、一族は周辺の土地開墾を進めるとともに、元朗平野一帯へと集落を拡大させていくこととなり、北宋時代末期の 1103年には、四世目の子孫にあたる 鄧符協(下家系図)が
岑田(現在の錦田)に移住し、圭角山の麓に集落を形成するとともに、「力瀛書院」を創建して子弟教育を主導したとされる
。その後、彼の子孫はますます繁栄し、続く 南宋時代、元朝時代を通じてさらに各地へ集落を拡張し、「五大房」と総称される分家ネットワークを構築していくのだった(下家系図)。
引き続き、鄧元亮(上家系図)の末裔らが岑田に留まる一方で、鄧洪恵と鄧洪贄の 兄弟(鄧符協の九世孫)は今の厦村一帯の広大な土地に目を付け、かつ海に近く漁業や塩業にも適した土地柄である点を見出し、明代中期に 厦村西頭里(現在の祥降囲)と 東頭里(現在の東頭村)に移住し、新しい 2つの 村落(「鄧氏厦村両房」と称される)を興すこととなるわけである。この子孫も順調に繁栄し、周囲に新しく 羅屋村、巷尾村、新囲、錫降囲、錫降村、新屋村 などを立村していく。
そして清代初期以降、厦村には毎月 1日、4日、7日に定期市が立つようになり、元朗エリアから屯門に至る郷民らがこぞって買い物や交易に集まるようになる。この「厦村市」は海辺に近く水路が海路へ直通していたこともあり(下の古地図)、香港近海の島々をはじめ、広州湾岸一帯との水上交易ネットワークと接続され、大いに繁栄したという。
しかし、清代末期に現在の 天水圍一帯(湿地帯と干潟が広がっていた)で埋め立てが進み田畑の開墾が進行すると、大量の土砂が深圳湾に流入してしまい、「厦村市」の生命線だった水路にまで入り込んで水上交通が阻害され、船舶の航行が不可能となってしまうと、「厦村市」は衰退に追い込まれていく。一方で、山貝河と錦田河に囲まれた「
元朗墟
」が台頭することとなり、中華民国時代を通じてその地位は逆転されていったわけである。
そんな清代末期の 1898年6月9日、日清戦争に敗れた清朝への圧力を強める英国により、深圳河の南岸までの 地域(現在の新界地区)が香港の「安全保障に必須」という口実で強制租借されると(清朝の 総理各国外事衙門大臣・李鴻章と、英国駐中国公使 ドナルド・ドナルドソンが
北京
で『香港境界拡張に関する特別条約』に調印)、翌月の 1898年7月1日~1997年6月30日の 99年間に及ぶ英国支配がスタートする。
以降、このエリアは現在に至るまで ニューテリトリー(新界)と呼称されるわけだが、英国の官憲らが新界一帯の統治を進める中で、翌 1899年4月、新界の 屏山(坪山)郷、厦村郷、
元朗十八郷
、
錦田郷
などの住民(「達徳約」という地域連合組合を結成)が組織的に立ち上がり武装闘争を展開すると、英軍の 治安部隊(ほとんどが現地雇用されたアジア人兵士であった。下写真)と 6日に及ぶ衝突を繰り広げる(新界六日戦争、4月14~19日)。最終的に郷民側は多数の死傷者を出して大惨敗し、負傷者 1名のみという英軍に降伏するのだった。以降、英国は新界西部の統治拠点として屏山に警察署を開設し、実効支配を強めていくこととなる。
見学後、「
天水圍駅
」まで徒歩で戻り、駅構内を通り抜ける形で南東側へ移動する。出口 Eから外へ出られるようになっており、 駅からも見えていた 石塔「聚星楼(Tsui Sing Lau Pagoda)」を訪問してみる。
駅から 50 mと離れておらず、1分ほどで到着できた。
現在、内部見学は 1F部分のみ可能だった(毎週月曜、水曜日 9:00~13:00、14:00~17:00 のみ)。 警備員が一人おり、内部に祀られていた神廟を撮影しようとしたら制止された。
明代初期の 1382年、鄧彦通(屏山鄧氏の七代目の子孫)が寧国府長官に任命され(府役所は 宣城県城【今の
安徽省宣城市
宣州区】内に開設)、現地に赴任した初日の夜、ある夢を見たとされる。それは故郷の空、北西の方角にたくさんの星がきらめく中、突然に星々が落下し北西端の河口あたりに集まり出したという。そのタイミングで目覚めた鄧彦通は、故郷に伝承されていた予言を思い出す。それは立村の際、風水師が村民に伝えたという不吉な内容であった。
実際、立村した始祖から自身まで 7代続く屏山鄧氏の家系にあって、男子はわずか 12人のみで、うち 4人が早世するという、男子不足に悩まされてきた歴史的事実があった。
夢の内容と一族の行く末に不安に感じた鄧彦通は、改めて風水師を招いて邪気の防止法を尋ねると、「北に集まる星々のために楼閣を建て、その力を集めることで邪気は祓われる」との予言を得る。彼はすぐさま故郷の 屏山(坪山)北西端に七重の仏塔を建立し、文武の神々を祀って北煞(北からの邪気)を防ぐよう指示したため、郷民らは早速、寄附を募って仏塔を建設したのだった。
すると、水害は治まり(かつては、現在の「天水圍駅」あたりが海岸線で、この塔が建つ場所はもともと河口部であった。こうした地形的背景から集落は度重なる水害に悩まされてきたという)、さらに鄧彦通からの 7代目以降の間に 22人もの男子が誕生し、うち 10人は新たな集落を立村する始祖となり、さらに数人は科挙に合格して地方官へ立身出世し、うち二人は故郷に公祠 2堂を建立するまでに大成することとなった。中には 80代、90代まで長寿を全うした者もおり、最終的に屏山鄧氏は 1,500人以上もの男子を輩出したという。その後も彼らの中から多くの科挙合格者を出し、複数の士人や官吏を政界へ送り出す名家となっていく。こうした一族の繁栄は塔に祀られた 文曲星(北斗七星の一つで、文運を司る神を象徴する第四星を指す。中国古代の 神話・伝説において、朝廷に採用され高官となった人物は、文章が巧みであったことから文曲星が地上に降りたものと解釈されていた)の加護と信じ、郷民らは「文塔」と称して大切に崇めてきたという。
建立当初は七重の塔であったが、台風の影響により現在は三層のみが残る(高さ約 13 m)。青レンガを積み上げた六角形で設計されており、最上層には文運の 神「魁星」が祀られている。香港に現存する唯一の古塔として、2001年12月に法定古跡に指定された。
ここから駅前まで戻り、聚星路を少し東進すると、眼下に「
達徳公所
(Tat Tak Communal Hall)」が見えて来る。
周囲の土地がかなり地上げされており、公所(公民館)はかなり低地に立地している印象だった。実際、つい近年の再建工事まで、建物は度々、水没していたようで、地面全体が苔で覆われていたという。
入り口内に、暇を持て余している警備員が一人いた。建物は近年に復元された様子で、特に歴史的な時間が持つ重厚さは感じられなかったが、常に清潔に保たれていることが分かる。
本施設は清代後期の 1860年前後に建立され、150年以上もの歴史を有する。村落連合(「郷約」という)の集会所であり、同時に祭祀会場でもあり、また門前広場で開催する露天市場の管理者という多面的な顔を持ったことから、香港で現存する唯一無二の公所遺跡となっている。現在、この建物は香港政府によって一級歴史遺産に指定されている(1998年~)。
かつて、
屏山(坪山)
の集落は 深圳湾(后海湾)岸にあって、水陸交通の要衝であった。
その上、清代後期まで栄えた「厦村市」と、清代末期より台頭した「
元朗市(元朗墟)
」との中間ポイントという位置関係もあり、新界西部エリアにある約 39の 村落(
錦田
、
元朗
、屯門、蓮花地、
横洲
、山下村、龍鼓灘、掃管笏など)が 連合組合(「郷約」という)を組織した際、「達徳約」と命名され、その本部が 屏山(坪山)に設置されることとなった。
下地図は、1899年当時の様子。
1857年に至り、組合本部が村はずれの「聚星楼」近くに設けられることとなり、正式に「達徳公所(公民館)」と命名される。
事務所には常駐の警備員を配置し、深圳湾の対岸の大陸中国側から度々、襲来していた海賊に対して警戒させるとともに、 公所前の空き地を近隣集落の商人たちに開放し、定期市「屏山市」を主宰するようにもなり、その警備も担当させたのだった。 この市は「達徳約」によって管理され、その収益源に組み込まれる。
そして連合組合の初代組合長は、地元の屏山鄧族の 20代目子孫である鄧瑞泰(1804年に武挙に合格し、武略尉衛守府へと出世した。彼には 6名の子がおり、その子孫もまた多くが武挙に合格したことから、一族は「祖孫父子兄弟叔侄文武登科」と尊称された)が選出され、二代目会長はその三男だった鄧勳猷が継承することとなり、以降、屏山鄧族が兼任するスタイルが定着する。
1866年、公所の左右両端に側殿が増築される。左廂は「慰寂祠」、右廂は「英勇祠」と命名され、近隣村落や海賊らとの武力衝突で犠牲となった 組合員ら(「烈士」と尊称された)を顕彰していく場とされた。
1898年、英国が清朝廷と『展拓香港界址專条約』を締結し、新界地区を強制租借すると、翌 1899年3月28日、達徳約は「抗英揭貼(反英宣言)」を決議し、構成集落(屏山鄧族、錦田、元朗、厦村及び十八郷)から資金を募って武器を購入し、各集落の男子を組織して英国進駐軍に共同抵抗していくこととなる。こうして「達徳公所」は反英闘争の本部という役割も担うことになるのだった(下地図)。
結局、同年 4月に勃発した六日戦争(下地図)で一方的惨敗に追い込まれた「達徳約」は、英軍に完全降伏する。この時、連合組合側の死者数は 173名、英軍側の死者はゼロといい、しかも英軍はアジア殖民地から調達した兵士を投入しており、実質的にアジア人どうしの戦闘となっていた。
直後より、旧「達徳約」ネットワークの監視も兼ねて屏山郷に 英軍駐屯基地(兼警察署)が開設されることとなり、最初は郷内にある「覲廷書室」と「清暑軒」が臨時事務所として強制収容されるも、同時に屏山の山頂に大規模な洋館建設が着手され、同年中に正式移転される。
以降、「達徳約」の活動は沈静化してしまうも、日中戦争が勃発した 1938年、ナショナリズムに高揚した「達徳約」の旧集落らが再び活発化し、連合組合の 事務所「達徳公所」の再建計画が持ち上がる。直後より各集落は寄附金集めに奔走し、現在に見られるスタイルで再建されるとともに、40年前の反英闘争で犠牲になった烈士を弔うべく、公所正殿に石碑を祀ったのだった。
その石碑の上部に掲示した扁額には金色で「忠義留芳」の四文字が刻印され、上段に「民国二十八年(1939年)春初吉日」、下段に「蔡宝田偕男栄業敬題」と付記される。両脇の対聯には「達顯英靈如在望、德成敢勇永留名」と明記され、烈士一人ひとりの氏名が掲示されたのだった(屏山郷 81名、横洲郷 33名、沙江郷 18名、長莆郷 1名、下岸郷 3名、鞍崗郷 1名、上村郷 4名、元崗郷 4名、台山郷 5名、鰲磡郷 6名、山下郷 5名、管乙郷 5名、懐徳郷 3名、 錦田郷 1名、西路疍家蓢 3名の計 173名)。宗族としては、鄧、林、陶、蘇、李、蔡、黄、梁、楊、洪、薛、鄭、馮、 荘、陳、曾、関、何、胡、莫、彭、簡、黎、駱、張、程、房、許の 28姓に渡っており、鄧姓の犠牲者が最も多かった。この石碑の前には文昌帝君と関帝を祀る、石製の神主牌も祀られている。
第二次大戦中の 1943年、閉校中だった 屏山公立達徳学校(上の古写真は創立メンバー。いずれも鄧姓の紳士階層)は、この公所施設で 1年間だけ再開された後、元の校舎へ戻されることとなる。1951~1958年には、キリスト教児童福祉会が「達徳公所」を借りて孤児院を開設するも(「元朗児童教養院」)、その後は私立小学校として転用されることとなり、引き続き、児童教育の場として活用され続けたのだった。それも 1970年代に閉校されると、以降は空き家のまま放置されてしまう。
その後、香港政府によって天水圍で大規模な宅地開発が進められると、一帯の湿地帯や池などが埋め立てられ、さらに土地自体も地上げされたことから、公所が建つ場所は周囲の地面より約 1 mほど低くなってしまい、低湿地として取り残されることとなる。以降、十数年にわたり周囲からの水が流れ込む浸水被害に晒され、青レンガ壁の一部は剥がれ落ち、建物内には苔が生い茂り、深刻なダメージを受けてしまうのだった。1990年代には後方の斜面から土砂崩れがあり、建物裏側が土で埋まる被害まで発生してしまう。
1997年、香港政府により施設改修と保存が決議されるも、排水設計などで予算見積もりに手間取り、ようやく 2013年から地上げを伴う大規模工事が着手され、2016年に現在の姿へ復元されたのだった。こうして、もともとの二進三開間の伝統的スタイルに、1866年に増築された左右両側の側室、そして 1950年代の「元朗児童養護院」時代に増築された南東側のキッチンと食堂、という間取りが保存される形となったわけである。
再び「
天水圍駅
」までの道を戻り、続いて「東華三院郭一葦中学」沿いのカーブを南進していく。 途中、水面いっぱいに蓮が覆う小さな池を通過した(下写真左)。ちょうど「屏山天水圍公共図書館」の真下あたり。
これは、かつて屏山の集落群脇を流れていた河川の名残りである。
その傍らに「社壇(社公、神壇とも別称される)」が残されていた(下写真右)。
一見すると墓所かと思われたが、これは村全体の安全と繁栄祈願のために祀られた、「社公 = 村公(村の神、土地神、祖先神、福の神)」を祀る神殿という。通常、その神壇は簡素なレンガ積みの設計で、素朴な石を神様の象徴として祀る。伝統的な習わしにより、神様側から見て(参拝者の視点ではない)、左側の石が男神、右の方が女神となっている。通常、尖った石を男神、丸い石を女神とされる場合が多い。
そのまま 150 mほど進むと、要塞集落「
上璋囲
(Sheung Cheung Wai)」の入り口に到着した。下写真。
正面の村門に入ってみると、2階建てになっていた(下写真左)。
ここから集落最後尾にある守護神の廟宇まで、一直線の路地が通じていた(下写真右)。
下写真左は、村門の裏面。表面はきれいな灰色一色だったが、裏面は黒ずんでいた。本来は、これぐらいの年紀が入っていたことだろう。
上写真右は、集落最後尾に祀られていた廟宇。やはり壁は黒ずんでいた。
この両者が一直線で結ばれ、左右から横線の路地が交わり、碁盤の目のように整然と建物が建ち並んでいた当時の様子が今もはっきりと残っていた。
そして、このメインストリートの中央部はやや道幅が広くなっており、広場的な空間が設けられていたことが分かる(下写真左)。その脇のちょうどベストな場所に、古民家が保存されていた(下写真右)。
集落内の路地は 2012年、往時のままの砂岩で補修されたばかりという。
「上璋圍」は、2009年に香港政府によって指定史跡に選定された、全長約 1 kmの 歴史文化回廊「屏山(坪山)文物径(Ping Shan Heritage Trail = 屏山郷に現存する 12ヶ所の史跡群。下地図)」のうち、唯一の 囲村(要塞集落)である。
100~200年前の香港には、このように「防壁(囲壁)」と「村門(楼門)」で守備を固めた正方形型の 集落(「囲村」「囲屋」と呼ばれる)が、あちこちに点在していた。清代の広東省各地では各地に見られたもので「嶺南式囲屋」と総称される。通常、その規模は小さめで、四面のうち一面のみに 出入り口(囲門)が設けられ、内部は碁盤の目のように整然と民家群が配されていた(下写真は、
広東省深圳市
の「元勛旧跡(笋崗老圍)」)。
この「上璋圍」もこの伝統的設計に忠実であり、清代中期の 18世紀末に立村されている。東隣の「坑頭村」の鄧氏一族の分家が独立したものという。
現在、4面あった 防壁(囲村)のうち、南面を除く 3面がすべて撤去されてしまっているが、伝統的な囲村の設計構造や集落内の配置、その空間的規模感を今に伝える貴重な歴史遺産として評価されている。かつては、この防壁の外周を水堀が掘削されていたが、現在はすべて埋め立てられてしまっている。また、現在見られる村門や 神殿、防壁いずれも、
2004年
に全面修築されたものである。
そのまま「
上璋囲
」前の 道(屏山南北路)を曲がりくねりながら東進していくと、1分ほどで「(屏山)楊侯古廟(Yeung Hau Temple)」の入り口に至る。道路脇に大きな古井戸が残されていた(下写真左)。
この井戸は、もともとは「坑頭村」の村民の飲料水源として整備されていたが、「上璋囲」の立村以降は、両村で共同利用されたという。つまり、18世紀末に「上璋囲」が立村される以前から存在していたわけである。
さて、この奥にある「楊侯古廟」だが(上写真右)、伝統的な三間構造のシンプルな設計で、元朗エリアに残る 6ヵ所の侯王廟の一つとされる(建立時期は不明だが、すでに数百年の歴史を持つと考えられている)。正殿に 侯王(南宋時代末期に亡命政権を支えた 忠臣・楊亮節は、死後に功績を称えられ「楊侯王」へ封じられた)と、同じく亡命政権を支えた車公も副神として祀られ、これに加えて左殿に土地神、右殿に 金花娘娘(花夫人、金花聖母とも尊称される。中国で古くから信仰されてきた子宝の女神)が祀られている。
特に、楊侯(楊亮節)と 車公の二人は亡命政権の一行が香港エリアに一時滞在中、それぞれランタオ島と西貢に駐屯していた中で病没したと伝承されており、その忠義と勇姿を惜しまれ、香港で深く敬慕され崇拝されるようになった人物たちである。
また、参拝者の香火からの出火が相次ぎ、当地の廟宇も過去に何度も火災に見舞われてきたとされる。現在、廟宇内の扁額には、1963年と1991年に大規模な修復工事が施された記録が残されている。また、廟内には清代後期の 同治年間(1862~1874年)に鋳造された銅鐘が今も保存されており、毎年旧暦 6月16日には伝統的な祭祀が執り行われているという。
再び古井戸まで戻り、さらに路地を進んで行く。ここから始まる集落が「坑頭村」と「坑尾村」で、先の 要塞集落「上璋囲」の先輩にあたる鄧氏一族の村である。路地は曲がりくねり、所々に古民家が点在していた(上写真左)。
上写真右は「
仁敦岡書室
」。広東省では私塾のことを「卜卜齋」と言ったことから、地元ではそのまま「卜卜齋」と通称されてきたという。現在は完全に廃屋となっており、内部見学は不可能だった。右隣の奥に見える建物は「鄧氏宗祠」。
ここまでで、先程の「上璋囲」から 800 mほどの距離だった。
上写真は、並んで建つ「鄧氏宗祠(左側)」と「愈喬二公祠(右側)」。 「屏山(坪山)文物径」のハイライトと言えるスポットである。
この鄧家代々の 祖先廟「鄧氏宗祠(Tang Ancestral Hall)」であるが(上写真)、香港内で現存する祖先廟のうち最大級のスケールを誇るとされる(全敷地面積は 190 m2、約 56坪強)。特に注目すべきポイントは、宗祠正門に敷居がなく(下写真左)、前庭には赤砂岩製の通路が設けられている点である。これは当時、鄧氏一族に朝廷内で要職に就いていた人物がいたことの証左という。
鄧氏族譜によると、元王朝時代、屏山鄧氏の 5代目子孫にあたる鄧馮遜がここに祖先祠を建立したと記録されており、実に 700年以上の歴史を持つ歴史遺産と考えられている。
現在の廟宇は清代中期の 1700年前後に建設されたもので、当時、広東省一帯で一般的に見られた三進両院式を主殿とし、これに側室と儀門が付随された設計となっている(上写真右)。1990~91年に大規模な改修工事が施されているものの、その 歴史的、文化的価値が評価され、「屏山文物径」の 1スポットとして 2001年12月14日に香港法定古蹟に指定された。
現在も本施設は地元の
祖先祭祀
、節句の祝い、各種儀式の開催、一族の集会などに利用されているという。
上写真は、「鄧氏宗祠」の南隣に立つ「愈喬二公祠(Yu Kiu Ancestral Hall)」。
屏山鄧氏の 11代目子孫にあたる 鄧世賢(号・愈聖)と 鄧世昭(号・喬林)の兄弟が、明代中期の 16世紀初頭に建立したもので、500年以上の歴史を持つと考えられている。当初はこの兄弟から続く 祖先廟(祠堂)だけであったが、1931~1941年、1944~1965年の 期間(達徳学校が正式開校されるまでの間)、屏山各村の子弟のための教育施設として開放されていたという。
北隣の「鄧氏宗祠」とほぼ同じ三進両院式が採用され、その規模もほとんど同じである。
正門脇にある石額には、清代末期の 光緒年間(1875年~1908年)に大規模な改修工事が実施された記録が明記されている。以後も度々補修工事が手掛けられており、現在の姿は
1995年
の工事を経たものという。
さらにその南隣には「聖軒公家塾」があった(上写真)。地元では「卜卜齋」や「一體堂」と称されてきた私塾施設である。
今日現在、入り口門は施錠され、内部見学は不可能だった。上写真右はドアの隙間から内部を撮影したもの。内部はそれなりに人が出入りしている様子はあった。
この施設は、もともと屏山鄧氏 17代目子孫の 鄧聖軒(1672~1733年)が自らの祖先を顕彰するために建立した廟所であった。それから 100年以上経った 1861年に、廟宇の一角で子弟教育のための教室が設けられるようになり、「聖軒公家塾」と呼ばれるようになる。
この他、新界エリアで「家塾」と名付けられた私塾の例として、大埔頭の「敬羅家塾」、上水の「応龍家塾」および「応鳳家塾」、落馬洲の「美徳家塾」、八郷田心新村の「大紀家塾」などがある。これらも全て、もともとは一族の祖先の位牌を祀る家廟が発端となっており、後に学校機能が付与されたものである。
なお、「家塾」「書室」ともに、一族や集落の子弟らに科挙試験合格を目指させることを第一目標とした施設で、一族で共同出資して教師を雇い、『四書』や『五経』等の古典から 漢詩、散文などを学ばせていたのだった。
当時、一族から一人でも合格者を出すと、朝廷から高給と要職が約束されたことから、一族の富と権勢を一気に増すと同時に、役人になれば親族に追贈の官位を付与することも許されたため、祖先の威光と一族の栄光を後世に残すこともでき、村内外でその栄誉を大いに称えられていた。一部の豪商や高官の名家であれば金銭により朝廷から官職を買うこともできたが、在野の一般家庭にとって一族の子弟が文武科挙の試験に合格することは、唯一許された立身出世の道だったわけである。
その後、1905年に科挙制度が廃止された後も、これらの私塾では引き続き、中国の伝統教育が施され続けるも、1931年に 屏山公立達徳学校(1998年に閉校)が創立されると教育施設としての役割を終え、従前の祖先廟だけの機能に戻されていく。その後、達徳学校の方で定員オーバーが発生すると、一部生徒のための臨時教室として使用されることもあったという。
なお、当初この場所に祖先廟を建立した鄧聖軒が誕生した 1672年というのは、1661年に清王朝により順次導入された遷界令が 1669年から段階的に緩和され出した時代であり、鄧氏一族らも徐々に新界地区に帰郷が始まっていた頃であった。屏山鄧氏も「鄧氏宗祠」と「愈喬二公祠(これ以前から、集落の教育施設を兼ねていた)」跡が残っていた当地に復帰し、集落の復興に着手することとなる。それから 200年の歳月を経る中で住民人口も増えたことから、順次、私塾が新設されていったわけである(1822年に「五桂書室」、1861年に「聖軒公家塾」、1870年に「仁敦岡書室(改修)」、1870年に「覲廷書室」、1874年に「述卿書室」が開校)。こうした集落の繁栄と学校施設の急速な増加は、清代後期の 同治年間(1862~1874年)において、一族の中から科挙合格者を複数輩出し、集落の権勢と威光が昇り調子であったことの証左と言えるわけである。
なお、「聖軒公家塾」の「聖軒公」とはすなわち、鄧聖軒を指すわけだが、彼は「愈喬二公祠(Yu Kiu Ancestral Hall)」を建立した鄧家 11代目子孫の 鄧世昭(号・喬林)の子孫にあたる。鄧聖軒の子孫もまた屏山集落の発展に大いに貢献していくこととなる。彼には 鄧徳光、鄧才光、鄧亜旺、鄧義光の 4人の息子がおり、その長男・鄧徳光(1708-1775)は字を応泗といい、 諱は若虚であり、坑尾村に残る「若虚書室」の名称の由来となっている。そして、この鄧徳光には 3人の 息子(鄧兆麟、鄧夢月、鄧芝蘭)がおり、次男・夢月の嗣子である 鄧瑞泰(屏山鄧家の 21代目子孫)こそが、屏山六家の祖となった人物である。
なお、この「鄧瑞泰」の名は「聖軒公家塾」に掲示されている二枚の扁額に明記されている。これは 1804年に彼が武挙に合格したことを記念した碑文であり、後に彼は元朗や屯門などの約 39の村落が 連合組合「達徳約」を結成した際、その
初代会長
に選出されている。
続いて、少し南進すると、真新しいトイレが見えて来る。その道路向かいに、 長いレンガ壁に囲まれた年代物の建物がデンっと建っていた。上写真。
ここは「覲廷書室(上写真の左側)」と、「清暑軒(上写真の右側)」という、清代後期に創立された学校施設跡だそうだ。
ここも内部見学は無料だった。入り口は「覲廷書室(Kun Ting Study Hall)」にあり、そのまま施設内から「清暑軒(Ching Shu Hin)」へ繋がっていた。
この「
覲廷書室
」であるが、清代後期の 1870年に完成した廟宇で、もともとは鄧家 22代目子孫にあたる鄧香泉が 父・鄧覲廷の顕彰のために建立した祖先廟で、その建物の一区角に教室を設けて一族の子弟教育の場とし、科挙試験の合格を目指させたのだった。
一般的な二進式の設計で、第一進は玄関、後進は 正殿(歴代の祖先の位牌を祀る)となっており、その間に中庭が設けられ両側に側室が配されていた(下写真左)。内部を彩る 祖龕、斗拱、屏板、壁画、棟飾り、軒板、灰塑 のデザインはいずれも凝ったものばかりで、当時の職人の粋が集められている。
「覲廷書室」が 1870年に完成すると、すぐに南隣に教師や 学者、VIP客らの宿舎として「清暑軒」の建設が着手され、1874年に完成する(上写真右)。当時、この施設には当初、名称がつけられておらず、建物一階の片隅にある小部屋が「清暑軒」と呼ばれていたことから、後世になって施設名へと拡大解釈されたという。
この「覲廷書室」と「清暑軒」は上述の通り、もともと別個の建物であるが、L字型で設計されていた「清暑軒」の 2階部分が「覲廷書室」と通路で繋げられていた(この工事が複雑であったため、当時、鄧氏は
広州
と
佛山
から専門職人を招いて完成させている)。最初から旅館施設として建設された「清暑軒」は、特に装飾やデザインが豪華で、木彫り、壁画、灰塑、透かし窓、斗拱などが今も見事に残っている(香港競馬会の全額寄付により、1991~1993年に修復された)。上写真右。
このように匠職人や学者らをわざわざ遠方から呼び寄せるなどして、巨大な教育施設を次々に建てていた(屏山)鄧氏一族は、この清代後期の頃、複数の科挙合格者を輩出したり、新界西部の経済交流等を通じて非常に繁栄していたことが分かる。この時代の士紳の豪邸や資力を知るのに、非常に分かりやすい実例と言える。
しかし、その科挙制度も 1905年に廃止されてしまうわけだが、「覲廷書室」をはじめ各私塾では、引き続き、一族の子弟教育が継続され第二次世界大戦の終戦まで機能したのだった。途中、1898年のイギリスによる新界地区の強制租借に反対して香港各地で反英闘争が勃発した際(1899年4月)、住民反乱は英軍の武力によって鎮圧されてしまうと、新界西部の地元反乱の本部となった「達徳約」を監視すべく、英国軍はこの「覲廷書室」と「清暑軒」を召し上げて 駐屯所&警察署を開設する。同年中に屏山の山頂に新警察署の洋館が完成すると、英軍部隊は山頂へ移転され、
再び
、学びの社が再開されたのだった。
この後方に「洪聖宮」と「若虛書室」が並んで建っていた。今では、完全に住宅街に埋もれてしまっていたが。上写真。
この小さい方の施設が「洪聖宮」であり、その創建は明代中期とも、清代中期の 1767年とも指摘される。現在の廟宇は清代後期の 1866年に改修されたもので、1963年にも大規模修繕が施された。現在、香港政府から二級歴史遺産に指定されている。
その設計スタイルは二進一院式で、左右に福徳祠と太歳殿が並び、中央に中庭がある簡素な構造である。現在、この廟内には 1764年鋳造の 鳴子(農作業時に使う鳥よけのための威嚇道具)と、1866年作成の『洪聖宮再建題名記』が保存されているという。
なお、この「洪聖大王」とは、唐代に広州刺史にまで昇進した洪熙の尊称であり、当時、早逝してしまった能吏を惜しんだ皇帝から「広利王」が、さらに宋代に「洪聖広利大王」が追封されたことに由来している。彼は 清廉実直、無私無欲な姿勢で職責に励み人民に慕われる一方で、個人的に 天文学、地理学に精通したことから一般民衆へ正しい自然科学の知識普及を図り、同時に気象観測所を設けて天候予報を試みた人物であった。その結果、沿岸部では実際に海難事故が減少し、漁民や商人らの生活は大いに向上したという。彼の没後、各地で「海の神」として祀る風習が広まり(特に海域生活者の多い香港および、広東省沿海地域で厚く信仰された)、陸海の平安を祈願する祭祀が行われるようになり、毎年旧暦 2月13日には各地でその 生誕祭「
洪聖爺誕
」が盛大に開催されている。
その隣にある、二階建ての巨大施設は「若虛書室(別名:維新堂)」である。上写真。
「屏山文物徑」内の歴史遺産には含まれていないものの、1981年に香港政府によって三級歴史建築物に指された文化財である。明代末期に屏山鄧氏の十八代目子孫である鄧若虚によって建立されたものという。
この施設もまた、鄧氏一族の子弟教育のための施設であり、寮も設けられていた。なお、1960年代に大規模な改修工事が行われた際、内部構造に多数の変更が加えられている。
見学後、再び「鄧氏宗祠」前まで戻る。この正面は大きな駐車場となっており、その向かいに小さな公園が設けられていた。その入り口あたりに小さな大砲が保存されていた(上写真左)。村の守護神だった名残りである。
最後に「聖軒公家塾」と「愈喬二公祠」との間にあった路地を、坂を上る形で東進する(上写真右)。
この一角だけに佇んでいると、200年前へタイムスリップしたかのような空間だった(下写真左)。
そのまましばらく集落地を抜けていくわけだが、所々に古民家が残っており、十分に楽しめる空間だった。
路地は徐々に坂道となり、後方の小山へつながっていることが体感的に伝わってくる。 最後は階段を上る形で屏山の山道にたどり着いた(
上写真右は
、この山道からの眺め)。
さらに山道を進んでいくと、途中から急な坂が上へと繋がっており、5分弱ほど登ると入り口門を過ぎ、 白亜の洋館が見えて来る(下写真)。入り口前にいる警備員がなんの用かと聞いてきたので、洋館を指さすと通してくれた。
この洋館が、前述した英国駐留部隊の 駐屯所&警察署として、1899年に建設された 施設跡「屏山鄧族文物館(Ping Shan Tang Clan Gallery)」だった。長らく「屏山警署(Ping Shan Police Station)」として機能した施設である。
贅沢なことに、ここも完全無料で見学自由だった。建物入り口に入ると右手に受付があり、 パンフレットなどをもらえた。
本館はアーチ型の回廊を持つ 2階建ての施設なのだが、1階部分しか見学できなかった。でも施設内はクーラーが効いており、ゆっくり休むことができた。
古い写真や絵図、鄧氏に関する家系図、寝室やキッチン用具、結婚式の道具などの生活用品、武器などが展示されており、 非常に見ごたえがあった。
本館を出た後、後方には 2棟ほど別館が続いており(上写真右)、同様に写真メインの展示室が連なっていた(いずれも外壁は白色で統一されていた)。最後の赤屋根の別館はトイレだった。
現在の 様子(上写真)とかつての施設では屋上部分が異なっているが、これは後に屋上展望台が増築されたためである。同時に、四方向に複数の銃眼も追加増設されたようである。
反英闘争の六日間戦争を武力鎮圧した英国植民地政府は、新界西部の 中心集落(「達徳約」の総本部)だった屏山エリアの統治と監視を目的に、戦闘直後の 1899年4月22日にこの屏山警署を開設したわけだが、当初は集落内の「覲廷書室」と「清暑軒」の両施設を接収して駐屯していた。同年中に山頂に本施設が完成すると、ここに移転されたのだった。
以降、新界北西地区を管轄する警察拠点であり続けたが、1965年、現在の元朗警察署が完成すると再移転が進められ、この施設は警察犬隊本部兼訓練センターへ転用される。
1997年に香港が中国返還されると「屏山鄧族文物館」への改修が決定され、「屏山文物徑ビジターセンター」へ生まれ変わることとなる。2002年末、三級歴史建築物に指定されるとともに、正式に康楽文化事務署の管理下に入ると、建築署が 1200万香港ドルを投じて大改築を行い、現在のような形で博物館化され、2007年4月15日に一般開放されたのだった。
上写真は博物館から集落地を眺めたもの。上写真の麓に見える屋根瓦の施設が「鄧氏宗祠」。警察署当時は山の木々が全て伐採されていたことから(
上写真
)、「上璋圍」や「聚星楼」、さらには「厦村」まで一望できたはずである。
■
屏山(坪山)郷の 歴史
新界五大氏族の一つである鄧氏は、南宋時代(1127~1279年)に今の
錦田郷
に移住し、定住するようになった。その後、拡大した一族は新開拓地を求めて分家が次々に新集落を立村する中で、1216年、7代目子孫にあたる鄧元禎が屏山の地に移住してきたのだった。
当時、すぐ北側には深圳湾が、西隣には川が流れており、東南側に低い 丘陵(今の屏山)が立地する湿地帯という地形で、農地開拓に適していたことから、瞬く間に新集落は 米、サトウキビ、サツマイモの主要生産地として大成し、「屏山は江南の水郷の美を備えもつ」と称されるほどに繁栄していくこととなる。
最終的に「三囲六村」、すなわち 上璋囲、橋頭囲、灰沙囲、坑頭村、坑尾村、塘坊村、新村、洪屋村、新起村 が立村されたのだった。下の古絵図。
その後の近現代を通じ、都市開発による破壊を免れ得た「三囲六村」は、今日まで数多くの伝統的遺産の保存に成功し、1993年12月12日、香港で初めての「文物徑(歴史文化の道)」=「屏山文物徑」が整備されることとなる。こうして全長約 1.6 kmのルートが整備され、その途中にある 12か所の文化遺産が史跡指定を受けたのだった。
なお、旧警察署の建物だった「屏山鄧氏文物館」だけは政府所有物件だが、その他 11か所の歴史遺産は引き続き、地元民による私有財産のままとなっている。
今回の現地散策では回り切れなかった、残り 2か所の歴史遺産は下記の通り。
■ 述卿書室(下写真)
清代後期の 1874年、屏山鄧氏一族の鄧均石によって造営されたもので、その 父・鄧述卿を祀る祖先廟であった。施設の一角に子弟教育用の教室も設けられ、一族の子弟が科挙に合格するための勉強の場を提供していた。非常に残念なことに、この建物は 1977年に解体されてしまい、現在残っているのはその門楼と扁額のみとなっている。それ以外は住宅街と化してしまった。
■ 秀才故居
この古民家は、屏山鄧氏に属する住民が 6世代にわたり居住してきた邸宅である(160年以上の歴史あり)。 「屏山文物径」内にあって唯一の古民家遺跡であり、2010年12月10日に二級歴史建築物に指定された。見学には予約が必要。
科挙に合格した鄧聖軒と鄧大成がかつて居住したことから、「秀才故居」と通称されるようになったという。
帰路は、博物館下の バス停「屏山屏興里(Ping Hing Lane Ping Shan)」から、 冒頭の K65バス(元朗行)に乗車し、10分弱で「
元朗駅
」まで戻ってこれた。上地図。
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