BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2026年2月下旬 『大陸西遊記』~


香港 新界区 元朗 ② ~ 区内人口 67万人、 一人当たり GDP 45,000 USD(香港全体)


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 ▼ 旧・東頭約(大圍村、東頭村、蔡屋村、英龍圍、山貝村、黄屋村 の七村連合組合)を歩く
 ▼ かつての 要塞集落「英龍圍」の今
 ▼ 東頭村に 残る「天后古廟(1712年創建)」
 ▼ 「鐘聲學校(1934年創立)」の今
 ▼ 最北端の「山貝村」へ。神壇(社壇)や「林氏家祠(19世紀建立)」、古民家など必見!
 ▼ 南邊圍 = 「元朗墟」の旧市街地、玄関二帝廟、長盛街、質屋「晋源押」、古井戸、大王廟
 ▼ 水運交易集落として繁栄した「元朗墟」 = 南邊圍(Nam Bin Wai)の 今昔マップ
 ▼ 【豆知識】 1669年の「遷海令」解除後に創建された「元朗墟」の発展史 ■■■
 ▼ 横洲六村(東頭圍、中心圍、西頭圍、福慶村、楊屋村、林屋村)を歩く
 ▼ 東頭圍に残る 廃墟洋館「娯苑」
 ▼ 【豆知識】陰に陽に、香港社会上層部に君臨する「郷紳」とは? ■■■
 ▼ 洪聖爺と 車公の二神を祀る 古廟「二聖宮(1718年建立)」
 ▼ 【豆知識】「二聖宮」や「車公廟」に祀られる、南宋時代末期の 忠臣・車公とは? ■■■
 ▼ 横洲六村、 古井戸跡、土地公を祀った 社壇(神壇)、黄嶺(豬橫嶺、豬郎山)
 ▼ 【豆知識】「三山二鬱一洲」39集落で結成された 地域連合「達徳約」と 横洲 ■■■
 ▼ 最古の原住民系村落の一つ「大橋村」、村門(囲門)、大砲、牌坊
 ▼ 「大橋村」の 守護神(土地公)を祀る「石壇 爺爺」と、村門の守護神「囲門 爺爺」
 ▼ 【豆知識】大橋村の 歴史 ■■■
 ▼ 【豆知識】科挙地方試験にトップ合格した”小三元”黄子律が開学、「鐘聲學校」 ■■■
 ▼ 朗屏駅から 74番ミニバスで 髻山(丫髻山、海抜 121 m)登山口を目指す
 ▼ 髻山上から横洲六村を見る。
 ▼ 髻山上から大井郷を見る。下山後、盛屋村の 集会所「廣陵堂」を訪問。
 ▼ 大井郷の 盛屋村、大井圍、呉屋村 3集落が 共同管理する「天后古廟」
 ▼ 要塞集落「大井圍」の 村門(二階部分に銃眼あり)と 集落の守護神廟
 ▼ 髻山上から深圳市羅湖区の摩天楼を見る。
 ▼ 髻山(丫髻山)と 大井郷の 今昔マップ、かつては小半島だった



この日は、「元朗駅」北側に展開される集落群からスタートする。下地図の「大圍村」「英龍圍」「蔡屋村」「東頭村」「南邊圍」「山貝村」を巡ってみた。

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下写真左は「蔡屋村(Tsoi Uk Tsuen)」の牌坊。すぐ後方に蔡氏一族の祖先廟が見える。
この集落はその名の通り、蔡氏一族の集落であるが、もともと 3つの別々の系譜を持つ蔡氏が集って立村されたもので、現在もその子孫らが数多く居住している。

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上写真右は「大圍村(Tai Wai Tsuen)」の牌坊。
この集落は、16世紀初めに黄氏と蔡氏一族によって立村されたと伝承されており、 周辺の 大圍村、東頭村、蔡屋村、英龍圍、山貝村、黄屋村 と共に 東頭約(七村連合組合)を構成してきた。東隣の「黄屋村(Wong Uk Tsuen)」内にこの東頭約七村で共同管理してきた二聖宮が現存する。

特に、大圍村、東頭村、蔡屋村、英龍圍、黄屋村 は「五和」とも別称されてきたことから、 現在ある「五和路」や「英龍圍」後方にある「五和公立学校(廃校中)」の名称の由来ともなっている。 また、屯馬線(かつての西鐵線)が開通していなかった時代、蔡屋村から元朗泰衡街までの間を「五和車」と呼ばれる村営バスが往来していたという(1990年代半ばに廃止)。

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そして、この 6村の中でも、最も見ごたえがあったのが「英龍圍(Ying Lung Wai)」であった。 村門を正面とする正方形型の要塞集落であった名残りが今も見られる(上写真)。

上写真の右下に見える神棚は、この集落の 守護神(土地公)を祀る 神壇(社壇)。
伝統的に偶像がなく石で神を象徴しており、男神と女神が対になるように設計されている。 伝統的な規則に倣い、神の見地から見て(参拝者の視点ではない)、左側に男神、右側に女神が祀られている。形状も異なっており、通常、尖った方が男神、丸い方が女神を表している。

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この正門から中へ入ってみると、一直線の路地が集落の守護神を祀る廟宇へと通じていた(上写真)。 碁盤の目のように整然と路地がひしめく要塞集落にあって、最後部に祀られていた。

この集落の由来は、もともと錦田エリアの鄧氏一族の分家筋が、「元朗舊」の周辺部であった西邊圍と南邊圍の二つに分かれて移住していたが、風水上の吉凶に従い当地に集って一つの集落を形成したことに端を発すると 伝承 されている。

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続いて、西端の「東頭村(Tung Tau Tsuen)」に向かう(上写真右はその牌坊)。 この後方には村民の集会所と広場があり、さらに後方には「天后古廟」が大切に保存されていた(下写真)。清代中期の 康熙五十一年(1712年)創建と伝承されているという。

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そのまま細い路地を北上し、元朗舊墟路(Yuen Long Kau Hui Road)に至ると、すぐに「山貝村(Shan Pui Tsuen)」の牌坊を通り過ぎる(下写真の左側)。

その向かいにある巨大な建物は「鐘聲學校」。後述する「大橋村」から移転してきたもの。

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そのまま「元朗舊墟路」を北端まで進んで行くと(T字路から「山貝路」へ改称)、寂れた集落地に行き着いた(「元朗駅」からは徒歩 10分強。611番ミニバスが往来しているが、徒歩でも十分に行ける距離だった)。下写真。

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この北へと細長く伸びる 集落「山貝村」も元朗十八郷を構成する村で、元朗舊墟(旧市街地)から最もはずれた位置に立地している。200年以上前、大圍村出身の 林兆元(林氏 13代目当主)によって立村されて以降、集落の正面には巨大な 池(淡水魚の養殖場)を有してきたという。現在も北側一帯には「南生圍」と呼ばれる湿地帯が広がっており、かつての原風景をイメージしやすい。

英国統治時代の 1911年に人口調査が実施された際、当地の住民数は 273人(うち男性は 118人)の記録が残されている。

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上写真左は、山貝村公所(公民館)の裏手にあった 神壇(社壇)。男神と女神を象徴する石を祀って土地神、集落の守護神として立村時より崇められていた、歴史の生き証人である。

この北端の集落内には、廃墟となった青レンガ積みの古民家がたくさん残っていた(上写真右)。

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中には、その古民家を継承した子孫によって現代風の家屋が増築されている場所もあった(上写真)。二院(二開間)、三院(三開間)設計の家屋を、子孫らが分割相続した結果の改築スタイルである。

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上写真左は、山貝村 71-72號にあった廃墟の古民家。壊れた戸口からは旧式のキッチンや、神棚が飾られた居間などが生々しく見えていた(上写真右)。。。。

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そして、集落の本当に北端に近い場所に「林氏家祠(山貝村 157號)」が鎮座していた(上写真左)。正門が開放されていたので、内部を撮影できた(上写真右)。
この施設は、清代後期の 19世紀に建立されたと考えられており、1930~1960年代までは集落の子供たちの教育の場として活用され、さらに 1967~1968年には幼稚園としても利用されていたという。


再び「元朗舊墟路」を南進し「元朗駅」まで戻ってくる途中に、「南邊圍(Nam Bin Wai)」の入り口案内板を発見した(下写真)。

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ここが元朗の 旧市街地「元朗墟」に相当する場所である。

ここから路地に入り込んでみると、間もなく「玄関二帝廟」に行き当たる(下写真)。清代中期の 1714年に住民らによって建立されたもので、玄天上帝(北帝)と 関羽を祀る。関羽は商売の神とされ、市場や集落で紛争があった際には、この関帝像の眼前で裁定が行われる習慣であったという。
香港には数多くの関帝廟が存在するが、上環地区の荷李活道にある文武廟が最も有名であろう。特に明代から始まった関羽の神格化により、中国人の間で 関兄貴、関公、関帝などと称されて慕われ、その忠義心が高く崇拝された存在であった。

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この角を曲がると、南北の メインストリート「長盛街(Cheung Shing Street)」となる。「酒街」や「利益街」との交差点を通り過ぎながら南進する。

街路沿いには二階建ての青レンガ積み商家が軒を連ねた様子が今もはっきりと残っていた。かつて、それらは 質屋、油屋、酒屋、宿所、腐竹食品店(豆乳加工店)などであったという。
なお、長盛街の 質屋「晋源押」の建物は 20世紀初頭とされ、引き戸(趟攏門)と「蝠鼠啣金錢」のロゴ看板が今も残されたままとなっている。また、利益街に残る同益棧は 19世紀末に建てられた宿屋の跡という。

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途中、古井戸跡も見かけた(下写真左)。

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上写真右は、この 南北メインストリート「長盛街」にあって、集落の中心広場に鎮座する「大王古廟」。

この廟宇は立村時、集落の創始者であった鄧氏が建立したもので、楊侯大王と洪聖大王を祀ったものである。現在、境内に残される記念碑には、1837年に再建された当時にまとめられた旧市街地の歴史が記され、と同時に多くの寄進者や商店名が刻印されている。往時の集落の繫栄を今に伝える貴重な証人となっている。
かつて、この門前には集落住民や市場関係者へ通告を発する掲示板が設置されていたという。

そうした名残りから、この門前に広がる中心広場には豪商や有力者らが居を構えていたようで、その雰囲気を今も色濃く残していた。下写真は「大王廟」の東隣にあった質屋の商家跡。立派な青レンガ積みの邸宅だが、現在は人気が全くない空き家となっていた。

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この他にも、メインストリート沿いには大きな居宅が無人のまま放棄されているものが多かった(下写真左)。
下写真右は、現在の「南邊圍(Nam Bin Wai)」の正面入り口である。

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下写真は、南北メインストリート「長盛街」の 最南端部分(朗日路との交差点)。たくさんの案内板が掲示されていることから、狭いエリアにもかかわらず、溢れんばかりの情報が詰まった場所であることが伝わってくる。

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この元朗の 旧市街地「元朗舊墟」が「南邊圍(Nam Bin Wai)」と別称されてきた所以は、 立村当時にすぐ北側に海岸線が連なっており、集落がその南岸に立地した地形が背景にあるという。 下地図は 1960年代の元朗地区の古地図だが、湿地帯と山貝河がかなり内陸まで広がっていたことが分かる(さらに昔は、内陸奥深くまで海面が広がり、このエリアは入り江となっていたわけである)。

この立村初期の頃、錦田鄧氏 の分家一族の集落に過ぎなかったが、時と共に新界区西部の 中心集落「元朗舊」として成長してくると、葉氏、龍氏、戴氏、杜氏、欧氏など 31もの異姓の氏族らが混住するようになっていく。こうした背景から、「元朗舊墟」にはどの氏族の 祖先廟(祠堂)も建立されてこなかったという。

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元朗エリアで最古の集落とされるのは「大橋村」で、明代より深圳湾岸の 入り江(元朗涌)と山貝河との河口辺りに立地したと考えられる。当時は 広州府東莞県、1573年に東莞県から 新安県(今の 広東省深圳市南山区の南頭古城)が 分離・新設されると、以降は広州府新安県の管轄域となっていた。

清王朝が大陸中国を占領すると、鄭氏台湾との抗争から「遷海令」を発令し(1661年~)、海岸線から 30里(15 km)を無人化すべく沿岸域の住民が内陸部へ強制移住させる。この時、「大橋村」などを含む香港全土、および 広州府新安県 下の南半分が廃村となったと考えられる。1669年にようやく「遷海令」が解除されると村人らは大挙して帰村することとなり、同時に多くの集落が新たに誕生することとなる。このタイミングで、錦田地区 の地主であり統治官を任されていた鄧文蔚が、現在の元朗「西邊圍(下写真)」と「南邊圍」の間あたりに交易市を開設したことから(旧暦 三、六、九日の定期市)、多くの 人、モノ、カネが一気に集積するようになったわけである。

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これが「元朗墟」の起源となるわけだが、当時、海岸線の 入り江(元朗涌)を活用し、水運ネットワークで運ばれてきた物資が水揚げされたり、船が停泊するポイントとなって交易集落は一気に発展して要塞化されていく。船着き場用の南門と陸路街道沿いに東門が設置され、内部には 長盛街、利益街、酒街の三路地が付設されることとなった。

メインストリート「長盛街」沿いに「大王古廟」と「玄關二帝廟」の 2つの廟宇が建立されたのも、この時期であったと考えられる。この他、集落の外側には、二軒の廟宇が並んで建立されていた。天后と観音を祀った廟宇で、錦田の鄧氏が 1712年に建てたものという。

しかし 20世紀初頭に入り、西隣の 天水園 で大規模な干拓が行われた結果、海流にのって土砂が元朗市の船着き場にも堆積するようなり水運機能が喪失されていく。時を同じくして陸路をメインとする自動車の時代が到来し、市街地はより内陸部へと移転され、手狭となった旧市街地は放棄されることとなった。多くの商家がごっそり新市街地へ引っ越ししたため、その建物群はそのまま放置されたり、別人の住宅へ転用された結果、現在も「元朗墟」として 30棟以上の古民家や街並みなどが現存し得たわけである。集落内の廟宇は今も元住民らによって手厚く信仰されており、境内のお香の煙が途絶えることはない。



そのまま朗日路を西進し東頭工業区を抜けて「山貝河」を越えると(この南側に 屯馬線「朗屏駅」がある)、正面に 横洲(Wang Chau)地区が広がる。この中には 東頭圍、中心圍、西頭圍、福慶村、楊屋村、林屋村の 6村が集積しており(上地図)、平屋建ての住宅街が広がっていた。

川沿いの宏楽街を北進していると、すぐの場所に「横洲 楊屋村」「横洲 林屋村」への路地入り口があった(下写真)。この正面に、清代末期~中華民国時代の典型的な切妻型の戸建て民家と、集落の守護神を祀った 社壇(社公、神壇 とも称される)が保存されていた。神壇の左右に出っ張った部分は男女の神を象徴しており、神の見地から見て(参拝者の視点ではない)、左が男神、右が女神となっている。左右の形も微妙に異なっており、尖った方は男神、丸い方は女神を表すという。

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さらに 1分ほど北進すると、別の 集落地「東頭圍」に至る。入り口あたりに村落集会所と小公園、そして 74A番ミニバスの発着所があった(下写真左)。この後方に 廃墟洋館「娯苑」が静かに佇んでいた(下写真右)。

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敷地の内外には駐車場が広がり、特に庭園部分は廃車の墓場と化していた(下写真左)。

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洋館正面は壁が黒ずみ窓ガラスはことごとく破損しており、不気味な雰囲気を漂わせていたが、側面側はまだまだ鮮やかな赤色が残っており、近年に修繕された様子が伝わってくる(上写真右)。


この 巨大邸宅「娯苑」は、新界地区の 郷紳(地主)であり実業家であった蔡宝田が 1927年に建設したもので、当初は母の隠居用に農園を内包しつつ、自身の避暑地として使用していたが、その後、蔡家の手を離れ所有者が次々と変わった後、1950年代より一般開放され市民の憩いの場となったという。以降、誰も手入れする事が無くなり、そのまま廃墟と化したということだった。
なお、蔡宝田は「博愛醫院」の創立委員の一人であり、また郷議員も務める一方、香港建設業界団体の創立委員にも名を連ねるなど、香港の建設業界をけん引した人物であった。

新旧の建築様式を融合させた優雅な英国スタイルの邸宅と庭園は、当時の富裕な郷紳階級の生活イメージを今に伝えると同時に、戦前から残る歴史的建築物としても評価され、1997年の中国返還前からすでに香港行政庁により法定古跡に指定されていた。特にその独特な風情が評価され、名作テレビドラマ『京華春夢(1980年)』や、映画『胭脂扣(Rouge、1987年)』『新精武門(Fist of Fury、1991年)』『新殭屍先生(Mr. Vampire、1992年)』などのロケ地としても利用されたという。
その後、2007年に香港政府機関の古物古跡事務処によって一級歴史建築物に指定されるも、2010年に二級歴史建築物に格下げされた。

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なお、この 郷紳(地主)という階層と制度は現代香港にも継承されており、各地の 教育機関(小中高校など)や公共団体の理事や発起人名簿等で必ず言及される存在で、引き続き、陰に陽に香港社会上層部に君臨し続けている。上写真。



その裏手すぐの場所には、古廟「二聖宮(I Shing Temple)」が鎮座していた。下写真。

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重厚な門や青レンガ壁などは非常に年紀を感じられた。正門石額には「二聖宮」の文字が掲示され(下写真左)、これをくぐって自由に内部観覧できた。

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当地の「二聖宮」は周囲に広がる 西頭圍、東頭圍など横洲六村が共同出資して建立した廟宇で、洪聖爺(南海地方の守護神)と 車公(疫病退散の神)の二神を主神として祀っている(清代中期の 1718年~)。すなわち、正殿の中央には洪聖爺の塑像が安置され、玉の圭を手に持ち、南海水域の守護神としての立場を明示する一方で、右側の偏殿には車公元帥の神龕が設けられ、その周囲に疫病を祓う法具である令旗や宝剣などが配されているわけである。
香港で厚く信仰されている車公を他神と合祀した宗教施設としては、現存する最古の史跡と評価されている(特に 1721年に鋳造された青銅鐘は今も現存しており、その銘文には廟宇建立時の指導者らの名簿が刻印されている)。

現存する社殿は嶺南地方の伝統である二進式スタイルで設計され、清代末期の特徴を有する青レンガ造りとなっている。木造の天井や 格子窓、扉などは見ごたえ十分の年代物で、内部の中庭を挟んで両側の 側室(特に左側の側室はかつて台所として使用され、八年に一度開催される太平清醮の宴席の準備に用いられてきた)を含む建物全体も、非常に保存状態がよい。

近年では、1970~1980年代にかけて部分的な修繕が重ねられた一方、1996年には香港競馬会の資金援助により、政府建築署が施工監督して全面修復工事が実施されている。その際、伝統的工法による復元作業が徹底され、木材加工には伝統的なほぞ継ぎ職人が担当したという。清代末期の伝統的な空間構成や面積、寸法などがそのまま継承された点が評価され、同年中に香港法定古跡に指定されることとなった。
特に、この廟宇は単に郷民らの信仰の中心拠点というだけでなく、集落の文化継承、および郷民による 集会所(裁判から行政執行に至るまでの住民自治活動の場。1950年代以前は民間司法調停機能を担い、紛争当事者は神の前で誓いを立てて陳述する必要があった)としても機能し、「香港の農村社会の信仰体系と村民自治の伝統を体現」する、伝統的な「廟宇即公所」の自治モデルの歴史的遺産として高く評価されている。

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この香港で度々見かける「車公元帥」であるが、伝説によると彼は南宋時代末期の将軍で、江西省南昌市 南昌県五福の出身とされるも、生没年は不詳(没年は南宋滅亡前後の 1278年 or 1279年と考えられている)。

車公は主に江南地方での戦役で武功を挙げるも、猛攻を続けるモンゴル軍に追われる形で、6代目皇帝・度宗の 遺児ら(端宗 = 8代目皇帝、祥興帝 = 9代目皇帝)一行と広東まで逃げ延びることとなる(上地図)。一時的に香港に滞留した皇帝らを警護すべく、自身は西貢に駐屯するも、その地で病没してしまったとされる。この勇将の死を悼んだ皇帝により大元帥の称号が贈られたことから、以降、「車大元帥」と尊称されるとともに、地元民らの手により丁重に葬られ、西貢・蠔涌村の入り口付近に小さな廟宇が建立されて以降(明代中期の 1485年ごろ)、今日まで大切に守られてきたという。

時は下って明代末期の 1630年代、現在の沙田一帯で疫病が大流行したことがあった。対応に困り果てた村民らはこの疫病退散を祈願し、西貢から「車大元帥」の香火を借り受けお祓いすると、見事に沈静化したという。以降、車公は疫病対策の神として大いに称えられることとなり、正式に西貢から香火を分祀されて 沙田・大圍にも巨大な廟宇が建立される(これが現在、香港最大の車公廟となっているわけである。東鐵線の駅名にも採用されており、多くの人に知られる存在である)。

以降、道教の信仰にあわせて神仏の一つに加えられ、香港では特に重要な神となっている(西貢・蠔涌、沙田・大圍の「侯王宮」、元朗・厦村郷羅屋村の「新慶圍 楊侯古廟」が特に有名だが、他にもこの横洲の二聖宮や元朗旧墟の「大王古廟」、塔門の「天后古廟」、大澳新村の「天后廟」、赤柱の「天后古廟」などにも車公が祀られている。また、仏堂や囲村の神堂でも南昌五福車大元帥として車公を祀っており、牛池湾の 万仏堂、賓霞洞、油麻地の 天后古廟、屏山の上璋囲、錦田の吉慶囲 廟宇 などがある)。彼の誕生日とされる旧正月二日には、毎年、各地で車公誕が開催され、翌正月三日にかけて盛大に祝われている。

彼への信仰はますます拡大され、当初は防疫の神としてのみ祀られていたが、時と共に運勢を変える象徴とも解釈されるようになり、特に旧暦正月三日の「赤口」の日には、多くの参拝者の祈願を受けるようになっている。この日は、中国の伝統的な習俗では口論や争いが発生しやすく、各所でトラブルが頻発すると考えられてきたため、人々の調和と平和を損なわないよう新年の挨拶に出かけることは避け、あえて車公廟に参拝し、廟内の風車を回すことで運勢好転を祈願する習わしが定着したという。



そのまま横洲地区の集落地を散策してみる。基本は「朗屏駅」方向へ南進する形とした。

集落内には、清代末期の建築様式である青レンガ造りの古民家が朽ち果てた姿を残したままのものもあれば(下写真左)、 現代風にアレンジされて現役利用されているものもあった(下写真右)。

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迷路のような路地をスルスルと通り抜けていくと、ときどき大小さまざま広場が点在していることが分かる。集落内の住民らの憩いの場、集会の場としていた往時の様子が想像できた。

中には大きな 古井戸跡(下写真右)や、集落の 守護神「土地公」を祀った 社壇(神壇)も見られた。

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下写真は、陸橋上から横洲六村を見渡した様子。後方に見える緑地帯は、海抜 52 mの 黄嶺(豬橫嶺、豬郎山)。

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横洲(Wang Chau)とは、もともと元朗地区の 中心集落「元朗墟」の西側に立地していた小高い丘(現在の朗晴邨マンション群から宏業南街休憩花園の辺りにあったが、周囲の湿地帯の埋め立て工事のために掘削され平地化されてしまっている。付近には「横洲路」の道路名が今も残る)を指していた。

現在は山貝河の河道整備や溜め池などの埋め立てにより、すっかり内陸の土地になっているが、かつては三方を湿地帯に囲まれ、遠くから見ると水上に横たわる陸地に見えたことから「横洲」と呼称されたという。その範囲は現在の朗屏邨と元朗創新園を含み、西側は 天水圍の マンション住宅地 に隣接する広大なエリアを指し、延々と農地と溜め池が広がっていたという(下地図)。

当時と異なり、現在にあって「横洲」の名称を冠する 集落地(横洲六村 = 西頭圍、楊屋村、林屋村、福慶村、中心圍、東頭圍)は、同エリアの北端にあった 丘陵「猪黄嶺(豬橫嶺、豬郎山。海抜 52 m)」の山麓部分に広がる住宅街を指すに過ぎない(上写真)。かつての主産業を支えた広大な農地は都市化と工場建設の過程で完全に喪失し、今日、その集落地のみが取り残される状態となっているわけである。

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その「横洲」の地名が最初に史書に言及されたのは、清代前期の 1684年、中央朝廷内で工部尚書の任にあった 杜臻(1633~1703年)が著した『粤閩巡視紀略』内であった。また、1822年に両広総督の任にあった 阮元(1764~1849年)が編纂させた『広東通志』の中の「兵制」の項にも、「横洲汛:兵十名」の記載が残されているという。

清代後期に至り、この新界西部一帯の約 39の村落が連帯し 自衛互助組織「達徳約」を組織すると(本部は 達徳公所【天水園駅南東に現存】に設置)、全盛期には 170以上もの村落が加盟することとなる。そのコア勢力は「三山二鬱一洲」と称され、具体的には「三山」= 屏山、山廈、横台山、「二鬱」= 蚺蛇鬱(沙江圍 = 天水圍の西岸部)と 掃管鬱(掃管笏 = 屯門の東岸部)、「一洲」 = この横洲、を指したのだった。下地図。

新界区 元朗

1898年に英国が清朝を威圧し『香港境界拡張特別条約』を締結して新界エリアを強制租借すると(同年 1898年7月1日より 99年間)、当地の「達徳約」は 英国支配反対(「抗英揭貼」)を掲げて武装闘争を起こすも(翌 1899年3月28日)、圧倒的な軍事力の前に瞬く間に鎮圧され、多くの郷民が死傷するという大惨敗を喫してしまう(新界六日戦争=1899年4月14~19日)。1933年に達徳公所の正殿横に別室が増築された際、「英雄祠」が設けられ、この決起抗争で殉死した 100名以上の実名を刻んだ立碑が設置されることとなった(横洲出身の犠牲者は、9姓にわたる男性 36名、女性 4名が記録されている)。

1949年、これまでの「達徳約」を改変する形で「屏山郷郷事委員会」が新たに結成されると、横洲の各集落もこれに加盟し今日に至っている。



新界区 元朗

朗屏駅の南東端に残る 本地人集落「大橋村」は、元朗安寧路と 大橋路、安楽路に囲まれた一角に立地する。 このため、村全体の面積は約 2ヘクタールと小規模なまま拡張されず、現在まで往時の姿が残された貴重な歴史の生き証人となっている。

かつて、この 東隣(今の 朗晴邨マンション群が連なる一区画。上写真の左端)に小高い丘があったとされる。このエリアまで「横洲」と呼ばれた時代の名残りは、現在もこのマンション区画東側の 道路名「横洲路」に見ることができる。

新界区 元朗

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さて、この元朗地区でも最古の集落地の一つである「大橋村」だが、周囲の現代的な商業区にあって、明らかに異質な存在感を放っている。
まず目を惹くのが、村門(囲門)とその前に展示されている小型の大砲だ(上写真)。

この大砲は全長約 2.2 m、直径約 15 cmで、その砲身には「BP&C」の文字と英国王室の紋章が刻印されている。2003年3月、集落北側に「朗屏駅」が建設されることとなり、その工事の最中、作業員が村の入口に 牌坊(下写真左)を建てる過程で発掘されたものという。言い伝えによると、日本軍が占領時代に池へ廃棄したとか、もしくは 1899年の反英闘争時に英軍治安部隊へ向けて発砲するも(結局、英軍側にダメージなし)、戦後に発覚を恐れた村民が周辺の池へ投棄したなどと言われている。その後、池が埋め立てられてしまったため、長らく地中に埋まっていたということだった。
一般的に、清代末期の当時、広東省各地にあった要塞集落には、村門前にこのような大砲を一つ以上、配置させる習慣があり、 ここに保存されているものも清代から村門に設置されていたもので(通常、250 kg以下の小型サイズが一般的であったが、廈村郷の鄧氏宗祠前に保存されている大砲のように、500 kgを越える大型のものもあった)、今も集落守護のシンボルとして大切に保存されているということだった。

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次に、集落の正門にあたる村門であるが(上写真右)、香港政府によって三級史跡に指定される歴史遺産となっている。内部には「囲門 爺爺(村門の守護神。下写真左)」が祀られている。

これに加え、集落の西奥には村民の 守護神(土地公)を祀った「石壇 爺爺」が鎮座しており(下写真左)、要塞集落(囲村)の建設当時、囲頭(村の前方)と 囲尾(村の後方)の二か所にあった守護神のうち、後者の神廟の名残りとなっている。
この祖先祠は通常、偶像がなく石で男神と女神を象徴させて祀るスタイルが伝統となっており、古くからの習わしとして、神の見地から見て(参拝者の視点ではない)、左が男神、右が女神として対に配置されている。形状も異なっており、尖った方が男神、丸い方が女神を表すという。

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上写真右は、1939年代に建設されたという 古民家(大橋村 21号)。廃墟となって久しい様子。

なお、当集落を散策していると、「平安」の赤紙がどの家の入口にも共通して掲示されていることに気づく。これは毎年、新年早々に村で行われる祈祷の後に村民に配布される願掛けという。

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 ■ 大橋村(Tai Kiu Tsuen)

元朗十八郷の構成村の中でも最も古い 本地集落(広府人集落)の一つが、この「大橋村」である。往時には西側に山貝河が流れ、三方を 溜め池(淡水魚の養殖池。上写真の北西側に広がる緑地帯もかつては池であったという)に囲まれる水郷の里であった。

この 集落名「大橋」の由来には諸説あり、中心集落だった「元朗墟」との間に 小川(下写真)と池があり、それに架かる橋に由来するとか、宝安県大橋村から移住してきた陳氏一族により地名がそのまま継承されたとする説などがある(その子孫らはさらに ランタオ島 や香港島、元朗の別地区、広西省 方面へ移住し、新たに各地で立村していったと言い伝えられている)。現在でも住民の多くは陳氏一族であり、毎年の 秋祭り「陳参乎祖」には村民百人以上が参列するという。
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その後、元朗地区の都市開発のあおりをまともに受け、周囲に道路や 鉄道、住宅が建設される度に集落の概観は変化を余儀なくされていく。南側の安楽路沿いにある古い洋風ビル群は、特に 1970年代初頭に建設されたもので、現在もそのまま利用されている ー 安定楼(1969年)、安楽楼(1970年)、 寶豊楼(1979年)、鴻運楼(1971年)など。いずれも誠興建築公司によって建設されたもの。
なお、この誠興建築会社は 1970年代に元朗の 名士・古道誠(1973年には元朗の「博愛醫院」理事長にも就任)が経営する同族会社で、 元朗地区の多くの建設工事を請け負って大いに繁栄したという。

しかし、引き続き周囲の都市化が進む中、駅前という好立地から政府や不動産開発会社の要望を受け、山貝河上流の大棠地区への集落移転が合意されており、現在の村人らは一夜にして成金となることが約束されている。2011年9月に香港最大の コングロマリット企業「長江実業」との共同開発が正式発表されているものの(27階建ての 商業・住宅ビル 4棟と、4階建ての商業施設を併設する 商業・住宅複合開発プロジェクト)、今日現在まで工事は全く着手されていない。

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1934年、清代末期に秀才となった 黄子律(別名・黄鐘声)と 黄吉雲(挙人)によって「鐘聲學校」が創立されると、以降、集落の子弟教育の場とされる。「夜明けを知らせる鐘の音」を意味する「鐘聲」とは、彼自らが学んだ郷学校に由来するとされる。

当時、全日制の私立学校であり、黄子律自身が校長を務め、各学年 1クラス制であった。異なる教師が各科目を担当し、同時に伝統的な中国古典を取扱う授業も行われていたという。当初の校舎は、大橋村の南側を走る安寧路沿いの「裕豐洋樓(下写真の「珈琳中英文幼稚園」が入居するビル)」内に間借りしていた。落花生油の搾油工場跡の平屋が転用されたものだったという。

なお、黄子律(1878-1960)は近隣の広東省宝安県出身で、清代末期の 1900年代に入って 県試・府試・院試をそれぞれ首席で合格し「小三元」と称されるほどの優秀さであったという。中華民国時代に入り、地元の香港新界に居を構えたことから、以降、当地の教育振興に尽力したのだった。

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1942~45年の日本軍統治時代に一時閉校された後、戦後すぐに再開校される。1957年に香港政庁から大坡頭排水渠沿いの土地を譲り受け、新校舎の建設が進められると、間もなく公立小学校として全面移転が完了する(住所:元朗舊墟路 29号)。以降もそのままの 学校名「鐘聲學校」が継承され、当初は平屋建てだった校舎も次々と拡張を続け、2005年9月に現在に見られる 7階建ての白亜の校舎が完成されたわけである。



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最後に、朗屏駅西側にある「髻山(丫髻山、海抜 121 m)」へ登るべく、朗屏駅 C出口にあるミニバス乗り場から、74番ミニバス(盛屋村行)に乗車する(6.6 HKD)。上路線図。

「髻山(Kai Shan)」東側の工業地区を進み、大きく半円を描くルートで「盛屋村」に到着した(10分強)。 そのまま終点で下車し、福順路沿いをさらに 5分ほど進むと、髻山の登山口に到着した(下地図の黄色ライン)。

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整備された登山道こそ無いものの、樹木はきれいに刈り取られ視界良好な上、登山者らが踏み固めた土砂道があるので、10分強で頂上まで一気に登れた。

下写真は 南側(元朗駅、朗屏駅方向)を振り返ったもの。先程まで散策していた横洲六村との距離感が分かるだろうか?

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下写真は北側の景色。付近に水田のように点在する池は「魚塘」で、食用の淡水魚が養殖されている。 深圳湾を挟んで、大陸中国側の広東省深圳市 福田区のビル群が立ち並ぶ。

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上写真の左端には、天水圍 のマンション群が見える。かつては広大な干潟と湿地帯が広がっていたエリアだが、清代末期より埋め立て工事が進められた結果、巨大な農地となり、今ではマンション群だらけの 巨大ベットタウン となっている。

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上写真は東側。盛屋村(Shing Uk Tsuen)、大井圍(Tai Tseng Wai)、呉屋村(Ng Uk Tsuen)一帯である。奥に見えるビル群は、大陸中国側の広東省深圳市 羅湖区。

下山後、三集落の中央部を走る福順路を通って徒歩で戻ることにした。

道中に、それぞれの集落地も見学してみる。まず最初に、麓の盛屋村に入ってみた(上写真)。
言い伝えによると、この村は明代中期の 1466年、住民人口が増大した 屏山衙前村から、毛姓もしくは盛姓の一族が移住して立村されたという。

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現在、村の 集会所(村公所)となっている「廣陵堂(上写真)」であるが、屋根の頂上部に大きな紅星が掲げられ(中国共産党の象徴)、建築年である「1971年」が刻まれていた。2階のテラス外壁には「廣陵堂」の三文字が刻印されているが、これはかつて開校していた「群賢学塾」という地元子弟のための私塾時代の名残りという。その隣には切妻を有する青レンガ積みの古民家もあり(上写真の左端)、ノスタルジー 溢れる一角であった。

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続いて、その道路向かいにある「(大井)天后古廟」を見学する(上写真左。案内板があるので分かりやすい)。

廟宇は常時開放されており、内部は自由に見学できた(上写真右)。
左面の内壁に碑文が掲示されており、清代後期の 1863年に大井郷全体の住民からの寄付によって再建されたことが記録されていた。つまり、廟宇自体はもっと前から存在していたというわけである。現在の廟宇は 1981年に改修されたもので、引き続き、大井郷の 盛屋村、大井圍、呉屋村 3集落が共同管理しているという。

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さらに福順路沿いを南進すると「大井圍」前を通過した。上写真。
後方に見える「髻山」が美しい。

この「大井圍」であるが、もともと 梁氏、呉氏、鄭氏の三氏が集住する集落として形成されてきたが、 後方に山を抱える形で東向きだったことから、風水上は縁起が悪いとされ、要塞集落としては正面の村門や防護壁のみが整備され、最後まで後方の防護壁は建設されなかったという。代わりに、集落後方には風水の願掛けから竹林が植樹されていたらしい。

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さて村門であるが、その正面 2階部分には防衛用の銃眼が 2ヵ所残っており(上写真左)、要塞集落時代の緊張感ある日常を彷彿とさせる。
上写真右は集落内に入ってから、村門の後方を見返したもの。

下写真左は、村門内部の様子。銃眼部分には這って射撃できるようなスペースが設けられていた。

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上写真右は、村門からまっすぐ集落内を走るメインストリートを直進し、その突き当りに鎮座されていた廟宇。要塞集落の最後尾に相当する。
この神殿内には古い木像の木龍頭を筆頭に、複数の神仏が合祀されていた。

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上写真左は、「大井圍」の道路向かいにあった「呉屋村」。
後方に控える丘は海抜 62 mで、たくさんの墓が造営されていた。先述の「天后古廟」前の路地から登れる。

上写真右の排水路は、下写真の白丸ポイントから撮影したもの。
このまま徒歩で「朗屏駅」まで戻った(約 20分、下地図の白色ライン)。    >>>> 元朗 ①

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下の 古地図 から、かつてここは海に出っ張る岬部分だったことが分かる。周囲は遠浅の海に囲まれていたのだった。

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