BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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海南省 三亜市 ~ 人口 70万人、一人当たり GDP 37,000 元


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  崖州城(寧遠県城、臨振郡城、振州城、延徳郡城、寧遠郡城、珠崖軍城、吉陽軍城)
  唐代の高僧・鑑真(688~763年)の 台風被災後の上陸地点 と 滞在した「大雲寺」
  臨川県城(臨川鎮城。今の三亜市吉陽区臨春村の東側に連なる打狗嶺の中腹あたり)
  吉陽県城(藤橋鎮城、藤橋巡検司、永寧巡検司。今の三亜市海棠区藤橋鎮)



【 三亜市の 歴史 】

海南島(ちょうど日本の関東地方と同じ面積)では、遅くとも 1万年前には、古代人類の生息があったことが確認されており、春秋戦国時代以前には、百越の地、特に 駱越族(ベトナム人の祖先)のテリトリーに組み込まれていた。

秦の始皇帝が華南地方を征服すると、中央集権体制に組み込むべく、三郡を新設する。この時、海南島は 象郡(郡都は、臨尘県城に開設 ー 今の 広西省崇左市)に統括されるも、島内には一切の県城も開設されず、実際には放棄されたままであった。

紀元前 111年、前漢朝第 7代目皇帝の武帝により南越国が滅亡に追い込まれると、華南地方はすべて前漢朝の直轄領に組み込まれる。翌紀元前 110年、海南島を統括すべく、珠崖郡と儋耳郡の 2郡と 16の県役所が島内全域にわたって配置される(下地図)。

三亜市

時は下って 610年、隋朝廷は海南島の南西部を分離し、寧遠県城(今の 三亜市崖州区崖城鎮)を郡都とする、臨振郡を新設する(上地図)。

唐代初期の 622年、臨振郡が振州へ改編されると、同時に 臨川県(今の 三亜市吉陽区臨春村の東側に連なる打狗嶺の中腹あたり)が新設される(上地図)。 628年には、延徳県(今の 海南省楽東黎族自治県黄流鎮)の一部が分離され、吉陽県(今の 三亜市海棠区藤橋鎮)が新設される。
742年、振州が延徳郡へ、756年には寧遠郡へ改称された後、758年に再び、振州に戻される。

五代十国時代、振州はそのまま踏襲されるも、配下の県役所は削減され(特に南漢王朝時代の 950年ごろ)、最終的に 寧遠県と吉陽県の 2県体制となる。この時、臨川県も廃止され、寧遠県に吸収合併されていた。
北宋時代の 972年には振州が崖州へ、1073年には珠崖軍へ、1117年には吉陽軍へ改称される。

三亜市

明代初期の 1368年、吉陽軍が崖州へ戻される(上地図)。 1439年、寧遠県(今の 三亜市崖城鎮)が廃止され、その行政区は崖州に直轄される。

清代も、明代の行政区が踏襲される。
清末の 1905年、崖州が散州から直隷州へ昇格されると、万安県(万県、万州)陵水県昌化県感恩県 の 4県を統括した(下地図)。

三亜市

中華民国初年の 1912年、全国で州制が廃止されると、崖州は崖県となる。
1954年10月、崖県役所が、今の 三亜市崖城鎮 から 三亜市吉陽区(中心部)へ移転された後、1984年5月19日に三亜市へ昇格され、今日に至る。

なお、この「三亜」の地名であるが、三亜河(旧名:臨川水)に由来しており、三亜東河と三亜西河がこの地で「丫字形」に合流したことから、三亜と命名されたという。既に、明代の史書に「三亜村」「三亜里」の地名が記録されていたことが分かっている。


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