BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~


海南省 三亜市 海棠区 ~ 区人口 9万人、一人当たり GDP 36,000 元(海棠区)


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  吉陽県城(藤橋鎮城、藤橋巡検司、永寧巡検司)
  藤橋墓群(アラブ系イスラム商人の古代墓石群)



投宿していた三亜市中心部(吉陽区)の 7天ホテルから出発し、近くの三亜市バスターミナルから、陵水バスターミナルへ移動する(30~50分に 1本、18元。所要時間 90分)。 陵水県下の旧市街地で博物館や古城地区を散策後、午後に白タクをチャーターして、この海棠区藤橋鎮に到着する。

東岸側の「東渓村」あたりの、メインストリート「新民路」沿いで下車した(下地図)。

海棠区

「東渓村」現地では、どこが旧市街地か見当がつかないので、新民路の北側、南側をくまなく散策してみる。そして、藤橋東河の河岸も歩き、対岸側も撮影してみる。かつては、この河川上にフジツタを使って、ツル橋がかけられていたというから驚きだ(下写真)。

その後、この藤橋東河を渡り、藤橋西河との合流ポイントまで移動する。ここが旧市村で、最初に吉陽県役所が開設された場所である(下写真)。しかし今日では、「東渓村」同様、吉陽県城跡の痕跡は全く残されていない。

海棠区

時間があれば、白タクをチャーターし、陵水湾の海岸線沿いに残る、藤橋墓群を訪問してみる。

ここは、唐代から明代にかけて、当地に立ち寄ったアラブ系イスラム商人らの墓石が 45ヵ所も固まって残されており、中国華南地方における最大規模のイスラム墓所遺跡となっている(分布範囲は、東西約 1000m、南北約 500m)。その貴重さから、中央政府により史跡指定を受けている歴史遺産である。下地図。

海棠区

そのまま白タクで 5つ星ホテル「三亜海棠湾聯投君亭ホテル」まで移動し、ここのバス停「龍海風情小鎮(終点から二つ目)」で、33番路線バス(藤橋糖廠 ⇔ 三亜鳳凰国際機場)に乗車すると、高速鉄道「三亜駅」前で下車できる(上地図)。ここから路線バスで、 吉陽区内の 7天ホテルまで帰り着けた


唐代初期の 628年、延徳県(今の海南省楽東黎族自治県黄流鎮)の東半分が分離され、吉陽県(今の三亜市海棠区藤橋鎮)が新設される(振州に帰属。州都は、三亜市崖州区崖城鎮にある崖州古城)。県衙(県役所)は当初、今の旧市村に開設されていた(藤橋東河と藤橋西河の合流地点)。
翌 629年、県の役人が藤橋東河上に、地元民が自前のフジツタ(大紅蔓藤)で作ったツル橋を発見する。船の利用なしに、藤橋東河を渡河する習慣が常態化していることを知ると、すぐに県役所を彼らの集落地である、東岸側の塘村(現在の東溪村)の中心部「正街(長さ 60m、幅 4mの街道)」へ移転させる。同時に、「正街」が藤橋市へ改称され、今日まで継承されていくこととなる。

五代十国時代、海南島が南漢王朝の支配下にあった当時、唐代の行政区が踏襲されていた。この時代、吉陽県はそのまま 振州(寧遠県城 ー 今の海南省三亜市崖州区崖城鎮)に統括される。
北宋朝が五代十国時代を統一した直後の 972年、振洲が崖州へ改編される。その配下には、寧遠県と吉陽県の二県のみが配されていた。

北宋時代の 1073年、崖州が吉陽軍へ改編されると、同時に吉陽県が藤橋鎮へ降格されるも、南宋時代の 1136年に再び、吉陽県へ昇格される。
元代の 1278年、吉陽県が藤橋鎮へ再降格されると、寧遠県(今の海南省三亜市崖州区崖城鎮)に組み込まれる。

明代には藤橋巡検司(地元の警察業務を担当)のみが開設されていた。さらに 1537年には、藤橋鎮城内に小規模な兵士駐屯所が開設される。1574年、駐屯所が拡張化されると、偵察官が二名配置され、崖州沿岸部の東側の守備を担当することとなる。

清代初期の 1645年、藤橋営土官(地元部族を統括する将軍職)の符順道が、強制的に募村(今の濱榔園村)のビンロウ栽培園を占拠すると、地元の黎族がこれに反発し、大規模な武力衝突が発生する。最終的にリーダー蘇九容の率いる反乱軍が藤橋営市を焼き討ちし、州官の符順道を敗死に追い込む大勝利を収めると、これ以上の戦火拡大を望まない清朝廷は、蘇九容の罪を不問とし、円満に事後処理を進めたのだった。

1674年、海棠湾地区で大津波が発生し、村々が水没して、多くの被害を出したという。
1683年、藤橋に兵士駐屯所が開設され、把総官一名と、兵士 150名が配置される。
1738年、藤橋鎮が永寧郷へ改称される。
1740年、永寧巡検司が新設されると、把総官がそのまま巡検司長官職を継承する(下地図)。
1788年、崖州永寧県下にある回風嶺の銅山が、不法に開発されるようになったため、役所によって入山が禁止される。

海棠区

なお、海岸沿いの長大な砂浜が美しい海棠湾であるが、ここには主要な河川三本が流れ込んでおり、それぞれ藤橋東河と西河、龍江河と命名されていた。藤橋東河と西河は最終的に東河に合流する形で一本の河川となるわけだが、その水源は保亭黎族苗族自治県の南西部にある昂日嶺で、全長は 56.1kmを誇る。対して、藤橋西河は、保亭黎族苗族自治県の新政鎮報什村を水源とし、全長 35.73kmという。

唐代には、海棠湾には2つの集落が形成されており、一つが藤橋村、もう一か所が南端の后海村(龍江河の河口部)であった。時と共に、吉陽県城を有する藤橋が繁栄するようになり、藤橋東河と西河の合流ポイント(今の旧市村)あたりに港が形成され、鋪子市と通称されるようになる。藤橋正街でも商業が発展し、多くの店鋪が建ち並ぶこととなった。
宋代には、海南島の黎族の伝統的な紡織品は中国全土で広く知られるようになっており、鉱物資源、食料品など共に、藤橋の港町からも島外へ輸出されていた。

なお、明代初期に全国で屯田開発が進められることとなり、港町「鋪子市」も埋め立てられてしまう。こうして港湾施設が藤橋鎮新街尾へ移転されると、藤橋鎮の集落地が約 20ヘクタール分も拡張されることとなる。
以降も、海棠湾エリアの経済の中枢部として君臨し続け、清代中期に至るまで集落地は拡大の一途をたどり、毎週月曜日、土曜日に大規模な市が、毎週水曜日と金曜日に小規模な市が開催されるようになっていたという。明代以前には、藤橋の城下町では朝市が開催され、午後には終了されていたが、清代後期に至ると、終日にわたって市場が開かれるまでに恒常化していたという。

外部より移住してきた商人らも藤橋に定住し、商売に従事するようになっていく。特に、移民の多かった 広州 出身の商人らによって六行会館や広行会館などの同協会が開設されると、主に同郷の旅客や商人のための旅館として機能することとなり、周囲は食堂やお店などが集積する相乗効果を発揮することとなった。
当地にやってきた海南島内の移住者らは、「金があれば東南アジアへ出稼ぎに、カネがなければ藤橋へ行け」、というスローガンが流通するようになる。藤橋の旧市街地は、まさに「小南洋」と別称される、繁栄ぶりを現出させていたのだった。
あわせて、藤橋の港町には、外国船も寄港するようになっており、マカオ江門ベトナム などを往来する商船が立ち寄っていたという。こうして島内外から人、モノが集まると、その経済効果は郊外の集落地へも波及し、現在の海南省陵水黎族自治県英州鎮や、藤橋東河の上流沿いに保亭黎族苗族自治県新政鎮、三道鎮、加茂鎮などの周辺都市が発展することとなったわけである。

なお、海棠区の区名であるが、言わずと知れた「海棠湾」から命名されていることは自明であるが、そもそも「海棠」の名称は、かつて海棠という名の少女が、地元の漁村が不漁で苦しむ折、自らを生贄として海神に身を捧げて村を救った逸話に由来しているという。



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