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中原統一後の秦の始皇帝と華南遠征



広東省江門市 ~ 人口 451万人、 一人当たり GDP 46,000 元


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  恩平県城(海安県城、斉安県城)
  新寧県城
  盆允県城(新会郡城)
  新会県城(岡州城、義寧郡城)
  新夷県城(平夷県城)
  崖山の古戦場(南宋朝滅亡の地)
  崖門砲台



【 江門市の歴史 】

春秋戦国時代、現在の江門市域は瓯越の地に分類されていた。
紀元前221年に秦の始皇帝が中原を統一すると、続いて、嶺南地方への遠征を開始する。 5年越しの戦闘の末、華南一帯の武力併合に成功し、紀元前213年、 この地域に郡県制が導入され、桂林郡、南海郡、象郡の3郡が設置される。その中心とされた南海郡下には四会県、番禺県、博羅県、 龍川県の4県が配された。このとき、江門市域の大部分は、四会県(県役所は現在の江門市新会区にある会城鎮府跡に開設)に帰属し、 一部は桂林郡下に置かれた。
その秦朝も間もなく滅亡し、中原が再び戦乱となる中、趙佗が嶺南の3郡を武力併合し、 南越国を建国する。しかし、前漢王朝の武帝により、紀元前111年、 南越国も滅ぼされ、その領土は前漢王朝の支配下に組み込まれる。 嶺南地方一帯にも中央集権体制を浸透させるべく、行政区の再編が行われ、 南海郡、蒼悟郡、郁林郡などの9郡が新設される。 四会県は引き続き、南海郡の帰属とされ、江門市域の大部分もここに属した。

後漢王朝の時代も、引き続き、南海郡四会県の管轄下に 置かれた。 後漢朝末期の220年、合浦郡より分離され高凉郡が新設される。 郡役所は、思平県城(県役所は今の恩平良西鎮恩平舗)に開設された。
三国時代、呉の領土下にあった222年、思平県は海安県へと改名され、 また四会県の東南部が分離され、 平夷県(県役所は今の司前鎮旧市街地―鎮前路、廟前路、衛門街など路地名が残る)が新設される。 四会県同様に、平夷県もまた引き続き、広州南海郡の管轄下に置かれる。


江門市

東晋朝の末期の420年、南海郡と新寧郡から分離され、ちょうど中間地点に新会郡が新設される(上地図)。郡役所は盆允県城(現在の江門市新会)に開設され、郡下に6県(盆允県、新夷県、封平県、 初賓県、義寧県、始康県)を統括するものとされた。下地図。

江門市

南北朝時代の陳朝統治下、思平県は斉安県へと改名される。
隋代初期の590年、新会郡と平陳郡が廃止され、南海郡に吸収される。このとき、江門市一帯は南海郡下の新会県の管轄域となる。 598年、斉安県は海安県へ改称される。隋代、唐代を通じて岡州に帰属され、その州城は新会県城(かつての盆允県城)内に設置された。
唐代初期の621年、岡州の管轄下に新会県と義寧県、恩平県(海安県より改名)が入れられる。 640年に岡州は廃止され、再び広州の直接管轄下に置かれた。
宋代は広南東路広州新会県に、 元代は江西行中書省広州路新会県となっていた。

元末明初期(1363年)のころ、現在の江門市中心部(蓬江区)一帯に集落が形成されていたとされる。もともと、江門集落は蓬莱山の西山あたりに広がっていたため、墟頂とも古称されていた。
明代を通じ、江門市域は広州府と肇慶府に分かれて管轄された。広州府下では新寧県(1499年に新設)と新会県が、肇慶府下では恩平県(1478年に新設)が主要な県城であった。

江門市

明末清初期の混乱期、反清武装蜂起が各地で続き、明の残党兵力が各地で跋扈していた。大陸側での戦闘は収束に向かい、あとは台湾の鄭氏の勢力のみとなった折、清政府は2度「遷界令」(1662年と1664年)を発令し、海岸地帯の住民を内陸部へ強制移住させる政策に出る。このとき、江門市域の居住民らも内陸へ強制移住させられている。1669年に遷界令が停止されると、 江門一帯に住民らが戻るようになる(鄭氏台湾が最終的に降伏するのは1683年)。

江門市

清代も明朝時代の行政区がそのまま踏襲され、清朝末期の1867年、それまでの土司制度が廃止され、直属広東布政司の下、赤溪庁が新設される。 1870年、陽江県が直隷庁へ昇格され、肇慶府から分離された陽春県と恩平県とを統括した。
1902年の中英続議通商行船条約が締結され、1904年3月7日に江門の港湾地帯も対外開放されることとなる。これに合わせ、江門に税関(今の北街付近)が設置される。

江門市

なお、現在の江門市中心部は、明代初期にようやく集落が形成され、以降、徐々に拡大されていった漁村兼水運交易の中継地点を成した場所であり、現在のような行政の中心都市になったのは、共産党時代に入って1983年に市制が確立されて以降である。

江門市

それまでの中心地は、恩平地区一帯にあった。後漢末期の219年に、 南海郡下の四会県から思平県が分離・新設されて以降、海安県城、斉安県城、恩平県城へと 改名され、今日に残る旧市街地を形成してきた。現在、城壁や城門は全く残されていないが、 路地名にかつての記憶がしっかり刻みこまれていた。西門街、百貨店西門支店、恩平西門車駅、西門教師村、恩城鎮、東門街、東朝街など。

江門市

また、台山地区の旧市街地にも、かつて県城(新寧県城跡)があった。明代に新築された城壁跡などは一切残されていないが、やはり路地名にかつての記憶が息づいていた。環城北路、環城西路、西濠路、学宮路、県前路、環南后街、南門路、環城南路、南門西路、南門橋、中国工商銀行南橋支店、城東路、正市街など。

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