BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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広東省 江門市 新会区 崖山鎮 ~ 区内人口 150万人、一人当たり GDP 27,000 元 (江門市 全体)


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  崖山の 古戦場(南宋亡命政権 滅亡の地)
  崖門砲台



新会区 の中心部から直通の路線バスが運行されている(1~2時間に一本)。
もしくは、江門市中央バスターミナルから古井バスターミナル行の 109番路線バスに乗車し(下写真)、省道 270号沿いのバス停「長沙①」「長沙②」「竹湾」あたりで 下車し、ここからさらに 25 km 南下する。

崖山鎮

崖山鎮


 崖山の 古戦場(南宋亡命政権 滅亡の地)

南宋滅亡の最終戦場跡地である崖山とは、今の江門市新会区の南約 50 kmにある崖門鎮のあたりを指し、海へと至る川の河口部に位置していた。広東省南部を形成する巨大河川・珠江の 亜流の一つである潭江が海へと注ぎ込む下流域一帯は銀州湖、もしくは潭江溺谷湾と地理学上、命名されており、河川というよりは その水の流れから「湖」と区分されるエリアでもあった(江門市新会区中心部から崖門鎮までの 26 km を指す)。その南端は海水の満ち潮と引き潮の分岐点となり、 水の流れはほぼ滞留していた。
そして、その崖山鎮一帯では東面に崖山が、西面には湯瓶山がそびえ立ち、2つの急峻な山の間に 湖と海が接する境界線が形成されており、船舶の停泊には非常に安定した自然環境を醸成していたという(下地図)。

崖山鎮

1279年1月(旧暦)、元朝廷より総司令官に任じられていた張弘范の率いるモンゴル軍が海路より崖山に到着すると、まず最初に南宋方の総司令官・張世傑に対し、降伏勧告を実施するも、即座に拒絶される。
続いて、前年にすでにモンゴル軍にとらわれていた右丞相・文天祥 の直筆文を張世傑に見せて降伏勧告を図るも、これを受け取った張世傑は、手紙上に文天祥が書き記した一首の詩を見逃さなかった。有名な「人生自古谁無死、留取丹心照汗青(古代より死なない人間など存在しようか、それならば、最期まで自分の本望を堅持して忠実に生きようと思う)」の詩文である。張弘范はその詩文をひと目見て、彼の降伏勧告は本望ではないと見抜き、全力でモンゴル軍に対抗する決意を固めたとされる。

崖山の地形は堅固で、守りやすく攻めがたいものであった。
南宋方は、陸地部分に簡易な要塞と皇帝の宮殿「行宮」を建造し、拠点作りを進めていた。
一方、南宋軍の総司令官・張世傑は海上の水軍船 1000隻以上をすべて大縄で連結させ、湾内に巨大船団の砦を出現させていた。そして、皇帝・趙昺はいつでも行宮から、船団陣地の中央に位置する龍舟まで移動できる布陣を構築していたのだった。
船団要塞内では城楼まで増築されたとも指摘されており、楼閣船を船陣の四隅や主要部分に配置して、守りを固めたとされる。
また南宋方は、三国時代の赤壁の戦い に学び、火計を警戒しており、その対策として船に泥をぬって引火を防ぎつつ、周囲には長い木を張り巡らせて、火船が船団陣地内に近づけないように工夫を凝らしていた。

しかし、この時すでに南宋方は完全に孤立していたため、いくら籠城しても外部からの援軍は期待できない状態にあった。また、10万人近い軍民から成る南宋方であったが、その大部分は福建省、広東省から徴兵された農民兵や義勇兵で、多くの非戦闘員の文官、その帯同する家族ら子女も含まれていたとされる。
この窮状を熟知していたモンゴル方も早急な攻撃を避け、持久戦で敵を弱体化させる作戦に出る。
最初に海峡の出入り口を封鎖し、また陸地陣地を攻撃して宮殿や家屋、その他の軍事拠点をたたき、南宋軍をすべて海へと追いやったのだった。こうして南宋方を陸地から寸断して海上へと追い詰め、真水と食事用の薪の補給を絶ち、疲労困憊させることを図ったのだった。

崖山鎮

モンゴル軍は陸路、海路から南宋方の海上要塞に対する包囲網を完成させると、この作戦は的中し、南宋方は船上に備蓄していた食糧などで十日以上、食いつなぐも、真水の備えが不十分で、たまらず海水を飲んだ兵士らは嘔吐や下痢、皮膚荒れに苦しめられることとなった。

これより少し前、張世傑の部下・蘇劉義と方興日がモンゴル軍と戦った際、張世傑の甥である韓某が生け捕りにされる。モンゴル軍はこの甥を張世傑の元に出向かせ、再三の降伏勧告を続けるも、すべて拒絶されるのだった。

崖山鎮

崖山戦線が膠着状態に陥る間に、内陸方面の南宋方の残党勢力を掃討し、広州 を経た、モンゴル軍の 別動隊(李恒の軍隊)が崖山に到着する(上地図)。
ますます勢いに乗るモンゴル軍は、以後も引き続き、満ち潮のタイミングで海流を伝って火器などで攻め込み、引き潮のタイミングでは、陸軍を主に使って海上陣地に火器を打ち込むなど、自在に攻撃を加え、南宋軍の疲労を誘ったのだった。



 元軍を率いた総司令官 張弘范 とは

1234年2月9日に金朝を滅ぼしたモンゴル支配下の 易州定興県(現在の河北省 保定市 定興県)の出身。
1238年、モンゴル政権により蔡国公に封じられていた張柔(1190~1268年。もともとは金朝の将軍であったが、 1218年にモンゴル軍の攻撃に敗れて投降し、以後、モンゴル側の将軍として活躍した)の第九子として誕生する。
1262年に行軍総管に就任し、反モンゴルで挙兵した李璮を済南の戦いで平定する功績を挙げる。そして、1268~1273年に行われた 襄陽、樊城の戦い に参列する。

崖山鎮

このとき、モンゴル軍は両城を完全包囲する大土木工事を実施しており、彼も襄陽城と樊城の間附近の山上に「一字城(日本の城郭用語では、登り石垣)」と通称される直線形の城壁建造を担当している。
さらに、回回砲の導入もあり、まずは樊城が、続いて、襄陽城の南宋軍が降伏するに至る。
1276年2月4日、モンゴル軍の総大将バヤンが南宋の 王都・臨安(今の浙江省 杭州市)にまで至ると、南宋王朝は抵抗することなく全面降伏に追い込まれるのだった。
翌1277年、鎮国上将軍を拝命し、江東道宣慰使に封じられる。

さらに翌 1278年にモンゴル軍の総司令官に任じられ、福建省、広東省に勢力を残す南宋亡命勢力の追討を命じられる。この追撃戦で、彼の実弟・張弘正が先鋒を務め、五坡峰(今の 広東省海豊市北郊外)の戦いで南宋亡命政権の右丞相・文天祥を捕虜とした のだった。
最終的に南宋残党勢力を崖山に追い詰め、その全滅に成功する。彼はそれから間もなくの 1280年2月11日、43歳の若さで病死する。

彼の死後、武芸に達者であった実子の張珪(1263~1327年)はそのまま元朝に出仕し、若くして昭勇大将軍に、1299年には江南行台御史、1315年には中書平章政事と出世し、最終的に祖父の封地を継承し蔡国公に封じられる。文武両道に優れ、65歳の長寿を全うした。6人の子がいたという。


疲労が頂点に達する南宋軍であったが、海峡の南北より波状攻撃を受けても前線は崩れることはなく、モンゴル軍はなかなか突破口を見いだせずにいた。
ここで、モンゴル軍は一計を案じる。
軍船の中で派手に音楽を奏でて宴会を催し、前線の南宋方を油断させて、その隙をついて防衛ラインの突破を図る作戦であった。
3月18日(旧暦2月6日)、張弘范はその配下の軍勢を四つに分け、南宋軍の東、南、北の三方面にそれぞれ一軍ずつ配するととも、張弘范自らも一軍を率いて、南宋軍の前線近くまで迫り、ある楽曲により総攻撃の合図を送ることとした。

まず、北面のモンゴル水軍がいつも通り、潮の流れに沿って宋軍の北辺部隊に攻撃を加えるも、そのまま引き潮に乗って成果なく撤退する。

続いて正午ごろ、総司令官・張弘范自らが率いる水軍本隊が南面から南宋陣地に接近する。
それらの軍船はすべて全面を幕で覆い、内部で宴会を催している風を装いながらゆっくりと接近したのだった。このとき、軍船は音楽に合わせて相互に交信しあっていた。
南宋軍船から矢の雨が降り注がれるも、モンゴル軍の兵士らは盾で身を守りながら、必死に耐え抜く。モンゴル側からの反撃が全くなく、午前の戦いでモンゴル側も本日の戦闘は終わりにしたのだろうと思いこみ、ようやくひと息つけると錯覚した南宋軍が攻撃を停止させた瞬間、モンゴル軍は別の音楽を奏で出す。すると、これを合図に軍船の幕が一斉に取り払われ、南宋軍への総攻撃が開始されたのだった。通常のドラ太鼓による攻撃命令でなかったため、南宋軍は攻撃合図とも感知する間もなく猛攻撃を間近から受けることとなる。そのまま他の3軍も攻撃に加わり、文字通り、全面攻撃が開始されたのだった。
一時間の戦闘の後、南宋方の船団要塞の主力 7隻がモンゴル軍に奪われてしまい、海上の巨大船陣についに突破口がこじ開けられる。
その直後より、南宋軍の軍船は次々に奪われ、阿鼻叫喚の戦線崩壊が始まるのだった。
前線を突破された宋軍は総崩れとなり、モンゴル軍はそのまま宋軍の中央部めがけて総攻撃を続行する。

崖山鎮

ここに至って、南宋軍を率いた総司令官・張世傑は戦闘の大勢が不利と判断し、残存兵力の精鋭部隊を中央に集結させて、先に指示した通り、配下の蘇劉義が率いる船団十あまりの軍船の連結を切断し、モンゴル軍の包囲網を強行突破する作戦に出る。
同時に部下を派遣して、小船で皇帝・趙昺(8歳)と丞相・陸秀夫(43歳)を出迎えに行かせる。現場は大混乱の渦中にあり、陸秀夫はこの小舟の使者が張世傑が派遣した部下なのかどうかはっきりと判断しかね、最悪は元軍の偽の兵士かもしれず、最終的に覚悟を決めたのだった。そして、涙ながらに小皇帝に伝える、「宋王朝はいよいよ最終段階に達しました、陛下も殉国のタイミングです」と。そして、小皇帝を背負って、入水自殺してしまうのだった。

崖山鎮

これに続いて、随行した軍民らも相次いで海へと身を投げ、殉死していったのだった。

崖門の海戦の翌日、すなわち、3月19日(旧暦2月7日)早朝、海上には10万もの死体が浮遊していた。陸秀夫の死体は百姓によって探し出され丁重に弔われた。
小皇帝の趙昺の死体もモンゴル軍により発見される。ひと目見ただけで、高貴で清潔な龍袍を身にまとい、頭には皇冠をかぶり、身上には玉玺を見につけていたため、元兵はその玉玺を張弘范へ見せて、張弘范がこの遺体が小皇帝の趙昺のものであると確認し、これを回収させる。しかし、趙昺の遺体はその後、行方不明となってしまう。
伝説では、百姓によって密かに広東省深圳市南山区の赤湾村に移送され、ここで丁重に弔われたと言われる。今でも、その墓「宋少帝陵」が現存する(下写真)。

崖山鎮

南宋残党勢力を滅亡させた総司令官・張弘范は、崖門の海峡に 隆起する岩石上に「鎮国大将軍張弘范滅宋于此(張弘范、ここに宋を滅ぼす)」の 12大字を刻印させたという。
それから200年の月日が経った明代中期の1486年、巡按御史の徐瑁が岩石上の十二字と南宋方の最終節に心中を大いに痛め、この刻印を除去させ、代わりに「宋丞相陸秀夫死于此(陸秀夫、ここに死す)」の九文字を刻印させる。
その直後、思想家で書家でもあった陳白沙(1428~1500年)が この石板書換えの一報を聞き及び、陸秀夫だけでなく、彼が命がけで世話した小皇帝も加筆して、「宋丞相陸秀夫負帝沉此石下(陸秀夫、小皇帝を背負って、この岩石の下に沈む)」と刻印させようと上奏するも、朝廷内で適切な手続が踏まれないまま廃案とされている。

共産党中国の建国後、もともとの岩石は河川の拡張工事に伴い爆破され消失してしまう。
1964年秋、新会区 人民委員会が書家の田漢に「宋少帝与丞相陸秀夫殉国于此(小皇帝と陸秀夫、ここに殉国す)」の十三の大字を書き記してもらい、付近にあった別の奇石上に刻印を施す。これが現存する石文となっている(下写真)。

崖山鎮

他方、南宋方の総司令官であった張世傑は、海中へ投身自殺した皇帝をお迎えすることが叶わないまま、残存の戦船らを指揮し、その日の夜に包囲網を突破し、海陵島(今の広東省 陽江市 海陵区)への撤退に成功する。残った十数艘の軍船と水軍兵士らも付き従っていた。

張世傑は小皇帝の母であった楊太后(楊淑妃)を擁し、再度、宋朝の趙氏の血筋を皇帝に仰ぎ、再起を図ろうと企図するも、楊太后は実子の昺が自殺したと知り嘆き悲しみ、自身も海へ身を投げ自殺してしまう。張世傑は海辺でその遺体を弔わざるを得なかった。
引き続き、海路で逃避行を続けた張世傑であったが、大嵐の直撃を受け、不幸にも全軍が溺死する。ちょうど、章山下(今の広東省陽江市の南西部の海陵島の向かいの海上あたり)と考えられている。
一説によると、荒れ狂う海上ルートを避けるべく、部下が張世傑に陸地への上陸を勧めるも、彼はこれを拒絶したとされ、すでに死の決意を固めていたとも言われている。

この崖門の戦役後、南宋方の残党勢力は全滅してしまい、モンゴル元王朝の最終的な中国統一が成就されたのだった。これが、中国史上初めて、北方游牧民族によって大陸中国全土が征服された瞬間となった。この事実は、古代から続いた中原の中華文明が消滅したという意味で、「崖山の後、正統なる中華は存在せず」、と比喩される由縁となっている。


崖山鎮

 崖門の砲台遺跡

崖門砲台は、新会区崖門村の東岸に位置する古井鎮官冲村の岸壁上に位置する。珠江が海へと流れ出る 8大河口部の一つを成す崖山水道の河口部を守備することを期待された。

清代中期の1718年に簡易要塞が設置され、1809年に本格的な砲台要塞へと改修されることとなる。
共産党中国が成立して以降も、人民解放軍が駐留し、幾度も増強工事が施されたという。
1989年6月、広東省政府により省級重点文物保護遺跡に指定される。引き続き、緑地化や道路工事などが進められ、 観光地として整備が行き届くこととなった。広東省沿海で現存する最大規模の砲台基地跡とされる。

砲台陣地は上下二段で構成されており、両者ともに 円形を半分に割ったような形状で、背後の岸壁に貼り付くように設計されている。その前面には 海が広がり、海峡に向かって 24基の大砲が配備されていた。現存する3基の大砲は、1842年に 仏山市 内で鋳造されたもので、その重量は2トンもあるという。
この砲台の下段陣地の防塁壁は全長 180 m余り、厚さ 3.5m、高さ 5~7mとなっており、基礎部分は花崗岩の石材を積み上げ、 上辺は土と粘土の混成による土壁で構成されていた(敵軍の火砲で花崗岩の防塁壁が破壊された場合、 その破片が飛び散るのを防ぐため)。
上段の陣地上には、基地全体を監視する指揮台が配置されていた。現在、鎮崖台と刻印されている。


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