BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2018年 2月上旬 『大陸西遊記』~


広東省 江門市 鶴山市 鶴城鎮 ~ 鎮内人口 3.3万人、 一人当たり GDP 61,000 元 (鶴山市 全体)


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  江門市中心部(蓬江区)五邑城エリア から 鶴城鎮へ バス移動(9元、約 50分)
  鶴城鎮バス発着所(屋内スペース無し) と トイレ
  昆源路 と 鶴城鎮役所、墟鎮文化広場
  鶴城村 と 古民家群
  鶴山県城の城域マップ
  鶴城鎮第一小学校 と「下馬石(県役所跡地)」
  南面の外堀跡 と 水運河道の名残り
  茶行路 と 地元慈善施設「鶴城同善分堂」 ~ 戦時中から 鶴城鎮役所を兼務した
  東面の外堀跡 と 地元の裏路地網
  空撮地図から、鶴山県城域を俯瞰する
  郊外に広がる田園地帯から、鶴山県城の地形を見る
  鶴城鎮バス発着所 から 江門市中央バスターミナルへ バス移動(9元、約 1時間)
  【豆知識】鶴山県城(遵名都城)の歴史 と 史跡見どころリスト ■■■



朝 8:20に 五邑城エリア7天酒店 をチェックアウトし、鶴城行のバスを待つ。
そもそもバス停「五邑城」から鶴城鎮へ出発する路線バスが実在するかどうかも半信半疑だったので、バス路線案内板を凝視していると、タイミング悪くバスが通り過ぎてしまった(8:25ごろ)。下写真左。

鶴城鎮 鶴城鎮

十数分ごとの運行だろうと楽観していると、なんと次のバスは 9:35に来た(運賃 9元。乗車時点で運転手に行き先を告げて支払う)。 1時間に一本の運行スケジュールらしかった。。。。

鶴城鎮

つまり、筆者は早朝からひたすら、この勝利路で立ち続ける羽目となったのだった。
とりあえず、毎時 60分ごとに走行されているらしいことは分かった(後述するが、実際には 30分に一本あり、運行ルートが異なっていた)。

鶴城鎮までの道のりは、アスファルト道路なのだが、平坦に舗装されていないためか、かなりガタガタしながら、猛スピードでぶっ飛ばしていった。
約 50分のドライブ後、鶴城鎮 の集落地に入ると、バスは間もなく終点のバス発着所前に行き着いた(下写真左)。
当地のバスターミナルは露店チケット売り場形式だったので、屋内待合所やトイレも無かった。裏手にあった病院内を探してみたがトイレ案内もなく、仕方なく病院外に出ると、昆源路(下写真右)の道路向かいに公衆トイレの案内があった。

鶴城鎮 鶴城鎮

田舎町や地方集落では、こうした屋外公衆トイレが各所にあるので助かる。田舎はトイレを自宅内に有していない家屋も多く、こうした公衆トイレをたくさん住宅地区に設けて、住民らの便意に対応しているわけである。いちおう日々、きちんと掃除されているが、やはり衛生面はまったく期待できない。

鶴城鎮

さて、トイレ使用後、いよいよ古城エリアの散策をスタートする。そのまま前の昆源路を西へ進んでみた(下写真左)。
ちょうど鶴城鎮の役所前に墟鎮文化広場があった(下写真右)。「墟」とは旧市街地の意で、要はここが古城地区であった証拠と言える。

鶴城鎮 鶴城鎮

墟鎮文化広場をさらに西進すると、洋館の廃屋が目に飛び込んでくる(下写真左)。
その建物名を見てびっくりした。防邪教委員会とあり、要はキリスト教弾圧のための地方機関の事務所だった。。。。
この他、周囲には、文化大革命時代を彷彿とさせる工場跡や共産党員宿舎跡のコンクリート廃屋もあった。

鶴城鎮 鶴城鎮

上写真は、この昆源路沿いで見かけた、薪木 を束ねる地元老婆。
少し先に、「鶴城村」の看板があったので、その路地を北へ進んでみる(下写真)。

鶴城鎮 鶴城鎮

小規模な古民家群がずっと奥まで続いていた。

鶴城鎮

鶴城鎮 鶴城鎮

邸宅風の古民家もあった。

鶴城鎮 鶴城鎮

あまり深入りすると地元民から不審者と思われかねないので、途中で引き返す。

鶴城鎮 鶴城鎮

昆源路への出口近くに、衛東文化室の建物があった(上写真右)。旧市街地東部の市民センターみたいなものだろうが、「衛東」という文字から、この辺りが県城の東端であったことが伺える。
だいたいの古城地図は下のような感じだろう。

鶴城鎮

鶴城鎮第一小学校 前をさらに西進し、その西隣の道路を再び、北へ進むと、はるか正面に鶴山市第二中学校の校舎がそびえ立っていた(下写真)。

鶴城鎮


この鶴城鎮第一小学校の校庭の一角に、「下馬石」という歴史遺産が保存されているという。
そこには「文武官員至此下馬(各文武官吏はここにて下馬)」という、石板に刻印された碑文が確認されている(下写真)。かつて、県役所があった名残と考えられる。

鶴城鎮



再び、メインストリートの昆源路を東へ戻り、小学校前の道(文昌路)を南へ進む。と、プレ・スクールを営む民間業者の店舗が!明らかに使用許可を得ていない、チョッパー(ワンピースの登場人物)と、ミニオンズのデイブ(米国アニメの登場人物)が描かれていた。。。。下写真左。

鶴城鎮 鶴城鎮

上写真右は、文昌路 と茶行路との交差点。
文昌路をさらに前進すると小川と橋があった(下写真)。

鶴城鎮 鶴城鎮

民家が川岸ギリギリまで迫っていた。古城時代、外堀と水運を担った河川かと思われる。

鶴城鎮 鶴城鎮

再び古城地区へ戻り、続いて 茶行路 を東進し、バス発着所へ向かってみた。

鶴城鎮 鶴城鎮

この通りは商店が複数、軒を連ねる商人エリアで、明らかに先の昆源路とは趣が異なるものだった。しかし、筆者の訪問日が日曜日とあってか、シャッター街と化していた。

鶴城鎮 鶴城鎮

下写真左は、鶴城同善分堂。1899年に建設された慈善施設跡という(敷地面積 600m2)。地元市民、中国や海外へ出稼ぎに行った地元出身者、現地の富農や豪商ら 1,741名が出し合った寄付金(白銀6383元)により開設されたもの。 中では漢方医者が 8名在籍して、地元民らに向けて処方薬を煎じていた。
日中戦争が開始されると、鶴城一帯では食糧不足から飢饉が起こり、この施設で食料配給も行われている。 1939年に日本軍の空襲により東面が破壊され、十数名が犠牲になったという。その後も、救民施設として機能するも、戦火で大破した施設から鶴城鎮役所が転入されてくる(1944~1948年)と、共産党中国になっても、しばらく鎮役所庁舎となっていたという。

鶴城鎮 鶴城鎮

上写真右は、茶行路と城中路(Y 806)との交差点にあった、地元信用金庫。このすぐ左脇に地元のバス発着所が立地している。

なお、バス発着所を南北に取り囲む昆源路と茶行路であるが、両者間は複数の裏路地で結ばれていた。内部は密集する形で居住区が形成されていた。

鶴城鎮 鶴城鎮

下写真は、茶行路沿いにあった用水路。 かつて、古城地区の東面堀川を成したと推定される。

鶴城鎮

用水路に架かる石橋がいい感じだった。さらに東西に裏路地が続いていた。

鶴城鎮 鶴城鎮

この裏路地を北へと進んでいると(上写真右)、先ほどの昆源路沿いの「墟鎮文化広場」につながっていた。下写真は、昆源路沿いにあった用水路。北側の田園地帯から流れ込んでいるようだった。

鶴城鎮

さて、茶行街を歩いているとき、井戸水を使って洗濯している老婆の姿が目に飛び込んできた(下写真)。気温は 12度ぐらいの寒さだったが、たくましい限りである。
井戸の深さは 1~2m 程度の浅さで、かなり豊富な水脈が地下を流れていることが分かる。

鶴城鎮

ここまでの位置関係は、下地図 の通りである。東面堀川跡と思われる用水路もくっりき見える。

鶴城鎮

清代中期の 1732年に新設された鶴山県城であったが、目下、その城壁や城門は完全に撤去され、その資材は別へ転用されてしまったようで、城塞の形跡はおろか、古城時代の名残りを残す路地や地名すらも目にすることができなかった。

少し遠景を見てみたいとバス停留所前の 城中路(Y 860)を北へ進んで、最初の路地を西へ入ると、農業道路が続いていた。
ここから古城エリアと周囲の山々、田畑を臨む。空気の新鮮さが伝わってくるだろう。

鶴城鎮

上写真の丘陵斜面(鶴山)の麓から中央部にかけて、かつて県城の城壁が連なっていた。

鶴城鎮

ひと通り、視察も終えたので、帰路につくこととする。
事前に、後方に見えるチケット窓口で乗車券を購入し、バス車内で発車を待つスタイルだった。

鶴城鎮

バスの出発時間などは全く分からないので、とにかく、今すぐ出発するという大型バスに乗り込む。江門市中央バスターミナルまで行くことになるが、仕方ない(9元)。どうやら江門市中央バスターミナルと、江門市中心部(蓬江区)のメインストリート「勝利路」を経由して江海バスターミナル(鉄道駅の江門東駅前)まで移動する、2ルートがあるようだった。

鶴城鎮 鶴城鎮

江門市中央バスターミナルに到着後、チケット窓口でこれから向かう 新会区司前鎮 への直通バスの有無を確認してみるが、無いという。
続いて、珠海 行のバス最終便を質問すると、20:50という。
そして、疲労がたまっていたので、隣の KFCでご飯メニューを食べた(38元)。再び、江門市中心部(蓬江区)のメインストリート「勝利路」に戻り、附近を少し散策して夜に珠海行のバスに乗って帰ることとなった。



 鶴山県の歴史

現在、鶴山市域の中央エリアに位置する鶴城鎮内の人口 3.2万人のうち、客家人が 80%を占めるという、鶴山市内でも最も客家人口の多い地区とされる。

秦朝により中原王朝文化に併合される以前、鶴山地区は百越と蔑称されたエリアに属したが、紀元前 214年に秦の始皇帝により華南地方も平定されると、桂林郡、象郡、南海郡の3郡が新設され、鶴山地区もこの南海郡に帰属された。

前漢時代の武帝の治世下にあった紀元前111年、南海郡下が番禺県、四会県、博羅県、中宿県、龍川県、揭陽県の6県体制となると、今の鶴山市エリアの大部分は番禺県下に属した。

三国時代に呉の孫権が嶺南地方も領有すると、222年、平夷県(今の江門市新会区司前鎮河村墟) が新設される。以後、今の鶴山市域は平夷県に属した。
280年、西晋朝が呉を滅ぼし三国を統一すると、平夷県が新夷県へ改称される(広州郡に帰属)。

南北朝時代、劉宋朝が当地を支配した初年の420年、新会郡(郡都は盆允県城)が新設されると配下に 6県を擁する。このとき、今の鶴山市域は封平県と盆允県に分かれて統括された。
以降、宋、斉、梁、陳朝もこの行政区を踏襲する。

隋代には新会県と義寧県に分かれて帰属した(南海郡)。唐代には広州に所属した。
五代十国時代、南漢国の王都「興王府」の直轄エリアとなる。
北宋時代には新会県と新興県に分かれて統括され、それぞれ広州と新州に属した。

鶴城鎮

元代もこのままの行政区が踏襲され、明代には 広州府肇慶府 に属した。

清代の 1649年には、鶴山市域は 新会県 と開平県に属した。
清代中期の 1733年、新会県下の古労都、新化都、遵名都の三都と、開平県下の双橋都の全土、古博都の一部が分離され、新たに鶴山県が新設される。遵名都城が修築される形で県城となった。
城の北側にあった小山が鶴のような形状としていたので、この山の名前から命名されて、鶴山県と命名される(肇慶府に帰属)。これ以後、県域に変更はなく、現在まで続くこととなる。

中華民国が建国されると 1912年、府制、州制、庁制が開始され、道制が導入される。
翌 1913年、河川交通網からはずれた内陸部(大官田鶴邑エリア)から、より平野部(今の鶴山市中心部の沙坪鎮)へ県役所が移転される。こうして鶴城地区は県都から降格され、附城都へ降格されることとなった。

なお、旧県都であったこの鶴城鎮は、その 270年以上もの歴史を通じ、数多くの歴史遺産を残してきた。

鶴城鎮

 1、城廟廟
もともとは、鶴城墟の昆源路の西の端に位置しており、清代の 1740年代に建立される。この乾隆時代初期には県城内に十祠八廟があったとの記録があり、現在、唯一、現存する廟所という。
花藍式の石柱に支えられた脚座、擎撑整座廟宇など、その建築様式は独特な技術様式という。

鶴城鎮

 2、鶴頂亭
1754年、鶴山県第 9代県長官の劉継倡が主導し、県城の裏山(鶴山)の頂上部に建立したもので、文革時代に一度、破却されている。これを命名した劉継倡によると、鶴はその姿と品格が優美だったことから、神に仕える鳥(仙禽)と考えられており、その鶴の清廉潔白さに近づけるように、この山頂の亭に登る者は、汚職に手を染めることなく、立派に役目を果たしてほしい、という願いが込められたものという。
1997年に香港在住の実業家・林輝の寄付に寄り再建され、翌年完成する。現在、鶴城鎮(大官田鶴邑エリア)の代表的な観光名所の一つとなっているという。

 3、天主教堂
昆崙山の山麓で、城西新村に立地しており、村全体がキリスト教を信仰している。当地のキリスト教会の建物は、その規模、デザインともに江門市内でも屈指のレベルを誇るという。

これらの他にも、大王廟、旧城壁、麦家園、楊家楼、七駁橋、雕楼などなどの歴史的建造物が残るというが、筆者は確認できなかった。



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