BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2018年 2月上旬 『大陸西遊記』~


広東省 江門市 蓬江区 ~ 区内人口 80万人、 一人当たり GDP 68,000 元 (蓬江区 全体)


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  珠海市 から 江門市中央バスターミナル へ、続いて 中心部の繁華街「五邑城」へ バス移動
  江会路を散策 ~ 中華民国時代から残る、造船工場、製紙工場労働者らの ハイカラ古民家群
  白沙公園 と 造船ドック跡
  バス停「東砲台橋」と 砲台陣地跡
  水運交通の大動脈だった 江門水道(蓬江河)の 今昔
  宋代から発展した 旧市街地「墟頂」を歩く
  映画のロケ地にも使えそうな、大規模な 騎楼群(1930年代建設の 歴史地区)
  釣台故跡~広東省出身の儒学者で、唯一孔子廟に合祀される 陳献章(陳白沙)を偲ぶ場所
  白沙祠(陳白沙紀念館、江門市博物館)
  【豆知識】陳白沙(1428~1500年)の 人生 ■■■
  【豆知識】蓬江区の 歴史 ~ 巨大な騎楼群、誕生への歩み ~



マカオ 国境を越えてすぐの 拱北口岸バスターミナル(広東省珠海市香洲区)から 1時間 に一本、江門行のバスがある(運賃 50元、所要時間 90分)。

そして、江門市中央バスターミナルに到着後 隣接する地元の路線バス・ターミナルから、 102番路線バス(3元)に乗車し、中心部の 繁華街「五邑城」へ向かう(下路線表)。市街地内の複数の大通りは慢性的に渋滞するポイントがある様子だった。

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約 25分程度で市街地の中心部である、勝利路沿いの五邑城エリアに到着する。
この繁華街のど真ん中にある 7天ホテル(江門地王広場支店)に投宿した(120元 × 2泊= 240元)。

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なお、この「五邑」とは、江門市下にある 新会県、台山県、開平県、恩平県、鶴山県 の 5県を指して総称される同市の代名詞で、時に「四邑(新会県、新寧県、開平県、恩平県)」とも、「六邑(新会県、台山県、開平県、恩平県、鶴山県、赤溪県)」とも別称されたという。これらいずれの地域も、海外に出稼ぎ移住した華僑らを多く輩出しており、世界各地でそれぞれの出身県ごとに同郷会を組織するほどの連帯感で、江門市出身というよりも重視されているという。

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ホテルで荷物を置くと、早速、江門水道(蓬江河)沿いを見学してみようと、上写真の 三角塘公園(中央の緑地部分)を回って江会路沿いに散策をスタートしてみた。
ちなみに、上写真はホテル部屋からの景色。左手後方に見える橋は、勝利路から東へ延びる勝利大橋。

先ほどの 102番路線バスの一つ先の バス停「華僑中学(旧名称は「江門造紙工子弟小学」といったらしい)」に至ると、地元民の生活空間が広がっていた。特に、路地裏(江興里)にはハイカラな装飾の旧家屋群が軒を連ねていたので、その異空間に少し入りこんでみた。

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温州 にも似たような装飾の家屋を目にしたことがある。ここの居住区は、もともと清末の 開港以来(1904年)、河川沿いの埠頭裏に造船工場、製紙工場などが発展する中で、中華民国時代の 1930年代に労働者らの住宅街として開発されたものらしい。同じような住宅が延々と建ち並んでいた。

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このままさらに江会路沿いを南下すると、香港 の 大手飲食チェーン「大楽家」や 米系 KFC、大陸中国大手スーパー「人人楽」などがある、おしゃれな新開発エリアに行き着いた。

この少し先に、白沙公園 がある。当地で人生の大半を過ごした 儒学理論家・陳献章(陳白沙。1428~1500年)を紀念した 公園(1920年に陳白沙が客人をもてなした 建物「嘉会楼」の遺構が発見されたことに由来して開園)で、園内トイレは無料だった。

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ちょうど、この白沙公園の向かいに 江門水道(蓬江河)があり、その対岸に廃墟となっている造船工場の建物が見えた。下写真。
かつての造船ドック跡がマンション開発とショッピング・エリア へ大変貌中だった。

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さて、ここで方向転換し、江門水道(蓬江河)を北上してみることにした。

バス停「白沙公園」から ⑩番路線バスに乗車し、江会路沿いを移動して、堤中路沿いに 江門水道(蓬江河)を遡る。この先の「東砲台橋」というバス停名が気になったので、途中下車してみた。

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ここはちょうど 江門水道(蓬江河)が天沙河と合流する三差路になっており、その北側の 川岸(下写真正面に見えるピンク色のマンションあたり)にかつて砲台陣地が設置されており、その名残りが地名に反映されているということだった。

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上写真はバスを途中下車し、江北橋上から砲台陣地があったという、北岸側を撮影している。
下写真左は、江北橋から天沙河を眺めたもの。下写真右は、江門水道(蓬江河)の下流側。

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背後に控える 鶏米山(現在の鶏爪山公園)の山上にも、かつて狼煙台が設置されていたという。

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なお現在、江門水道(蓬江河)沿いの川岸には露店散髪屋が 数人、並んでいた。同業者が仲良く並んで生業を営むのも中国の特徴であろう。下写真。

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下写真 は、ちょうど砲台陣地があった場所から、江門水道と天沙河の合流地点を臨んだもの。河道(上流側)の先に、東華大橋が見える。

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続いて、その東華大橋まで ⑩番路線バスで戻り、逆に砲台陣地エリアを見てみることにした。
江門水道の東岸には、江門演芸センターの巨大な建物が目立っていた(下写真の右手)。

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下写真は、東華大橋から江門水道の上流側を見てみたもの。結構、大きな貨物船も往来していた。

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写真撮影後、再び砲台陣地があった河川合流ポイントまで徒歩で戻ってみた。そして、砲台北路沿いの バス停「東砲台橋」から ⑤番路線バスに乗車する(2元)。約 20分のドライブで、ホテルがある 五邑城エリア(勝利路)に戻れた。
なお、このバスに乗車していると、狼煙台が設置されていたという 鶏米山(現在の鶏爪山公園) が住宅地の狭間から、ちらちら見ることができた。

途中、港口一路沿いでロンドン風の 2階建てバスを目にした。。。。普通に路線バスのようだった。
また、宮殿スタイルの 建造物「江門市文化城」がやたら目立っていたので、写真撮影してみた(下写真左)。どうやら文化芸術新興を目指す第三セクターらしい。

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上写真右 は、港口一路と東華一路との交差点付近にあった、中国の 中央銀行「人民銀行(江門市中心支店)」の建物。中国の建造物には、ほとほと圧倒された。
この日は、いったんそのままホテルへ帰った。

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翌日、ホテルを朝 10:00に出発し、五邑城のメインストリート勝利路を渡って旧市街地の散策を進める(上地図)。

常安路との突当りに墟美食市場があった(下写真)。
なお、この江門の 旧市街地「江門墟(墟とは、旧市街地の意)」であるが、かつては下写真右奥に広がる丘陵上に市街地が形成されていたため、墟頂街と通称されていた。

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ここから南へ進むと、歩行者天国の常安路歩行街があった(下写真)。まだ午前中だったので、店舗もまばらに開店しているだけだった。

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そして、常安広場(この北面の騎楼群も見応えがあった)を通り抜け、書院路(1760年開校の景賢書院などが立地した)を直進する。枝分かれや交差する路地群は、書院横(下写真右)、倉后路(河川沿いに設けられた倉庫街の裏路地、が由来)など、旧市街時代の記憶がしみ込んだ地名が多かった。

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このエリアでは、何本もの路地に渡って騎楼群が張り巡らされており、映画のロケ地かと思えるぐらいの規模と本格さだった。

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書院路の突当りには地元民の 青空露店 マーケット「水街市場」が永遠と続いていた。筆者が訪問したこの日、中国旧正月前と週末が重ねる日だったので、買い物客も多かった。

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そうこうしていると、釣台故跡(蓬江区堤中路 1号)を通り過ぎってしまったようだったので、堤東路を南へ戻っていると、騎楼の建物群の中に、一つだけ中国伝統様式の廟所建物を発見した(下写真)。明らかに「釣台故跡」だった。

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内部は非常に簡素なお堂で、儒学者・陳献章(陳白沙)を祀る祠と、複数の解説板が陳列されているだけだった。しかし、きちんと管理人も配置され、トイレも含めて、すべてが清潔に保たれていた。

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陳献章(陳白沙)は母親の死を看取った 後(享年 91歳。白沙自身も当時、70歳だった)、ますます読書と思索に励むようになり、その合間に、街歩きや釣りを楽しんだとされる。

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この「釣台故跡」は、彼が自らの儒教研究と釣りや琴などの余暇時間を過ごすために建てた小屋に由来しており、その死後、陳家の物件として保持され、最終的に廟所へと改修されたのだった。

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下の旧市街地を描いた古地図にも「釣台」が描かれており、数百年も前から、地元の誇りだったことが伺える。しかし、その実、建物の管理状態は最悪で、 1736年に新会県長官として赴任した王植が陳白沙の足跡を訪ねて当地を訪れた際、その荒廃ぶりを嘆いた 文章『修復釣台記』が残されている。彼の尽力により、 1738年1月に 3つの建物が直線型に連なる三進院スタイルと、さらに川辺に釣り台の亭を設けた豪華な廟所が完成されたのだった。以後、新会県下の 8大観光名所の一角を担うまでになったという。

時は下り、清代後期に入ると土地の占有問題で陳家と地元の別家が対立する。長年、手入れが行き届いていなかった釣台廟はすでに倒壊しつつあり、保全か撤去かで意見が分かれたのだったが、これを見かねた広東省順徳の 学者名士・李文田(1834~1895年)、張南山、黎兆堂(1827~1894年)らが調停に加わり、両者の対立はいったん落ち着きを見せる(1865年)。
そのまま再び廃屋として放置された後、ようやく 1886年に修築工事が施され、1888年に完成を見る。この時、三進院スタイルの廟所が再建されるも、1927年に長堤路の建設にともない、奥の建物 1つだけが残されることとなったわけである。

その後、中華民国時代、共産党時代を通じ、釣台故跡の廟所は何らの修繕も行われず荒廃が進むも、1979年に江門市が再建に着手し、1983年、市政府により歴史遺産指定を受けるに至る。

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釣台故跡を見学後、前に通る 堤東路(下写真)沿いのバス停「釣台路」から ⑩番路線バスに乗車する(2元)。そして、いったん五邑城エリアまで戻った。

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続いて、陳献章(陳白沙)を祀った 白沙祠(陳白沙紀念館)を訪問すべく、五邑城エリアから勝利路沿いを西へ移動し、白沙大道沿いの市政府前のバス停から ②番路線バスに乗車する(2元)。そして、バス停「白沙祠」で下車した。

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白沙祠(陳白沙紀念館、江門市博物館)は入場無料だった。

この正面に立つ立派な木造の 門(貞節坊)には「貞節」「母節子賢」の文字が掲げられているが(下写真)、 これは 陳献章(陳白沙)の 母・林氏がその夫の死後に再婚もせず、貞節を守って陳家に尽くした苦労の人生を称え、1477年に最初に建立したもの(母親はこの時はまだ存命で、 1496年に 91歳で死去することとなる)。1611年に再建されて今日に至るという。

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そもそも この白沙祠は、陳白沙の業績を称えた明朝廷により、1573年に建立が決議され、翌 1574~1584年にかけて建設工事が手掛けられたもので、正面から 春陽堂、貞節堂、崇正堂、碧玉楼の 4つの建物を直線型に連結させた四合院式スタイルとなっている(下地図の中央⑪)。

なお、この白沙祠が完成した 1584年、14代目皇帝の 万暦帝(在位:1572~1620年)自らが詔勅を発し、孔子廟への合祀が宣言される。こうして彼は、広東省出身者で唯一の儒教神となるのだった。
当祠は 1979年に広東省により歴史遺産の保護指定を受ける。

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祠内では彼の学問研究の様子や、一族の住まいの復元家屋などが公開されていた。展示コーナーでは、陳白沙の弟子らの業績や、白沙村の 歴史(附近に天沙河という川が流れており、その川辺に大量の小さな白砂が堆積されていた。その支流が村内にも流れ、白沙河と通称されていたことに由来)、村の 無形文化財(伝統舞踊や祭事など)の案内などが解説されていた。

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下写真は碧玉楼といい、もともと彼の居所があった場所で、また母親を看病した空間とされる。伝説によると、彼が大事に保管していた碧玉を一度、紛失してしまい、再び見つけ出したときに、この場所に碧玉などの家宝保管用の倉を併設させたことから、碧玉楼と通称されるようになったという。

1584年に明朝廷の肝いりで陳白沙廟が建設されて以降、現在まで継承される貴重な歴史的建造物となっている。

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廟所裏手には、彼の父母の墓が丁重に保存されていた(下写真左)。
陳白沙の 父・陳琮は 1428年(旧暦)9月、27歳で病没しており、同年(旧暦)10月に誕生する陳白沙を見ることなく世を去っている。母親の 林氏(21歳)は再婚することなく、 1496年に 91歳で死去すると、その夫の墓と合葬されたのだった。このとき、陳白沙もすでに 70歳となっていたが、母の墓標を自ら執筆したという。

また、正面の白沙大道沿いには、丁寧に整備された中国式庭園が設けられており、地元の伝統的な漁船などが展示されていた(下写真右)。

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陳白沙 は、その本名を 陳献章(1428年11月27日~1500年3月9日)といい、明代の思想家、教育家、書法家、詩人で、孔子廟に祀られる聖人のうち、広東省出身者で唯一の人物である。江門学派の始祖と評される。

彼は、もともとは新会県下の都会村で誕生するも、10歳のときに(1438年)、祖父・陳朝昌(陳渭川)が一族郎党を引き連れ、この白沙村仁賢里へ移住し、附近の大蘆山の 西側山麓(現在の父母の墳墓がある丘陵斜面上)に居所を構えた際、随行してきたのだった。家屋の建設とともに、一族の 祖先廟所「世頼堂」がまず開設されたという(陳白沙もその存命中、『世頼堂銘』という家系図や家訓集を編纂している)。

なお、陳白沙の 父・陳琮は 1428年(旧暦)9月、27歳で病没しており、同年(旧暦)10月に誕生する陳白沙を見ることなく世を去っている。これ以降、母親の 林氏(当時 21歳)は再婚することなく、陳家に付き従って当地へ移住している。
以後、長く陳家は白沙村に永住することとなり、特に学問優秀であった陳献章は地元民から白沙先生と呼称され、以後、陳白沙が通用名となっていく。

20歳の春に秀才に合格し、同年秋には郷試を受験し、受験者の中で第 9位の成績で挙人となる。しかし、1448年4月から 国子監(明朝運営の最高学府)へ進学するも、1451年に試験に落第すると、しばらく 江西省 へ遊学し、著名な朱子学者の 呉与弼(1391~1469年)の門下生となる(27歳)。

しかし、わずか半年後に白沙村へ戻ってくることとなった。
以後、彼は自分の 書斎「陽春台」を建てて閉じこもり、読書三昧の日々を 10年間続ける。静かに座学に没頭する過程で、光明が開け世界や天地宇宙の理を体得する修養法を提唱するようになる。その博識は広く世に知られるようになり、度々、官吏の職を手当てされる。
1466年には国子監、1483年には 翰林院(皇帝直属の秘書機関)での仕事に就くも、数か月後にすぐに退職し、故郷に帰って自宅がある白沙村で母親の看病をしつつ(1496年に 91歳で天寿を全うする)、後続の門下生への教授と、思想体系の執筆に勤しむ。後に彼の執筆原稿は、弟子により『白沙子全集』として編集される。この時代に蓬江河沿いに建設したのが、先の釣台の建物であった。

その門下生には 湛若水(1468~1560年。哲学家、教育家。尚書省内の長官などを務めた)や 梁儲(1451~1527年。内閣首輔など高級官僚を歴任)、王陽明(1472~1529年。江西巡撫などの 高級官吏職を歴任。「心即理」の陽明学の開祖)らがいる。

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なお、陳白沙は精神的なストレス軽減や健康生活に心がけたことから、 72歳の長寿を全うしたという。彼の 兄・陳献文も 76歳まで生きるという長寿一家であった。その後、陳家の子孫は中国全土へ飛散していくも、この白沙村仁賢里には未だに 300名以上の子孫が住んでおり、すでに 22世代、23世代目という。

2004年に白沙郷仁賢里に残る陳氏の子孫らにより陳氏宗親聯誼会が結成され、毎年(旧暦)9月9日にこの白沙祠で総会と陳白沙の供養会が執り行われているという。



見学後、白沙大道を少し北へ戻り、永康二街を通って、昨日の 香港 資本「大家楽」や 米系 KFC、中国大手スーパー「人人楽」が入居する、おしゃれなショッピング・エリアを目指し、路地を歩いてみた(下地図)。

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上地図の阜康里で目にした、ローカルな地元民の居住空間が印象的だった。中華民国時代の 1930年代に大量に建設されたというハイカラな中洋折衷スタイルの古民家群が、昨日訪問の バス停「華僑中学」裏(江興里)からここまで延々と連なっているようだった。

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路地裏を散策後、白沙公園を再訪して、環市三路を北へ移動し、白沙祠まで戻る(上地図)。
続いて、バス停「白沙祠」から 103番路線バスに乗車し、新会区 へ向かった(2.5元)。



 蓬江区の 歴史 ~ 巨大な騎楼群、誕生への 歩み ~

1000年前まで、江門市中心部(蓬江区)一帯は、海面に浮かぶ一つの小島に過ぎなかった。
小島の中で岬として突出していた部分が、蓬莱山(今の中山公園あたり)、烟墩山(対岸の江海区蓬苑里)、鳳凰山(今の文化城の建物あたり)とそれぞれ命名されていたという。

この蓬江区の存在が最初に史書に言及されるのは、元代末期の 1363年のことで、蓬莱山の西側の斜面上に集落地が形成されており、江門墟と総称されていたという。「江門」とは、江門水道(蓬江河)を挟んで蓬莱山と烟墩山との間に立地した地理上の性質から命名されており、特に、蓬莱山の丘陵部の斜面上に市街地が形成されたため、高台の「街」ということで「墟頂街」と通称されていたという。

蓬江河の河川敷は、現在の興寧路、倉后路、長堤路の一帯まで及んでおり、毎月 2日、5日、8日には周辺の人々が船で集まって自家栽培の農作物などを売買する市場を「墟頂街」で開設していたのだった。時は下り、その庶民市場が常設化されることとなり、墟頂街の斜面下へと拡大し、今日の青空庶民マーケットが形成されていくこととなる。売鶏地、京果街、打鉄街、猪仔墟(安龍里)、缸瓦地(泰寧里)、灯篭街(京果街の一部分)、糍街(東南勝街)、棺材街(新盛街)などの地名は現在も使用されており、この常設市場で賑わった商店や商材に由来するものという。

珠江三角洲エリアの重要な水運交易集落として発展した江門墟であったが、清代初期の 1662年と 1664年、清朝廷により遷界令を発令されると、中国華南の沿岸部に居住する住民は海岸線から 25 km以上離れた内陸部に強制移住させられることとなり、江門墟もこの退去区画内に位置したため、江門墟の住民や商店などが強制閉鎖に追い込まれ、一斉に退去を迫られたのだった。

ようやく 1669年に遷界令が廃止されると、廃墟となっていた江門墟に再び住民らが戻ることとなり、村や市街地が急ピッチで再興される。

人口急増と経済活動の活発化にともない、1754年、清朝廷が新会県に江門墟内での 役所支部(県丞署。副県長官が派遣される)の開設を許可すると、早速、丘陵斜面上の一等地であった「墟頂墟」内に設置される。こうして江門市中心部に、初めて行政機関が開設されたのだった(後に廃止される)。
市街地はますます拡大し、斜面上で不便だった墟頂墟から市街地の中心は斜面下へと移転され、江門水道(蓬江河)沿いに集落地が急拡大し、天沙河を越えて、さらに北へと土地開発が進んでいくこととなった。
反対に、墟頂墟は都市開発に取り残されることとなり、今日の古民家エリアとして観光地化されることとなる。清代の県丞署が開設された役所外壁は今でも住宅地の一部に転用されて残っており、また、余慶里、三桁瓦旧跡、永安按当舗(質屋)などの建物が現存し、歴史の生き証人となっている。

この丘陵斜面に設けられた 33段の石階段から(下写真)、2015年に 33墟街として旧市街地が整備され、観光地化されたのだった。

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1841年のアヘン戦争以後、中国各地の港湾都市が対外開放を余儀なくされると、以後も度々、通商条約の交渉を強制され、ついに 1902年に中英続議通商行船条約が締結されると、この 江門水道(蓬江河)沿いの港町も開港を余儀なくされる(1904年施行)。そして 1906年、税関が開設される(現在の蓬江区北街あたり。税関庁舎は現存せず)。
これ以降、北街には キリスト教会(基督教北街堂)、鉄道駅(新寧鉄路北街駅遺跡として保存中)、貿易商社の 事務所ビル(亜細亜石油公司)などが建設され、新興開発区となっていく。

他方、蓬江河沿いの石湾直街や長堤路の集落地は順次、騎楼へと建て替えが進められる。これは、清末民初の時代、江門は対外開放政策で大きな影響を受け、海外へ移住する華僑を多く輩出し、また彼らが持ち帰った富が再投資され、商業地区が大規模に拡張されていったためという。

1925年8月6日、当時の(中華民国)広東省政府が江門の埠頭エリアを省直轄地区に指定すると、同年 11月26日、江門市政庁(すなわち、後に市政府)が初めて成立する。しかし、間もなくの 1931年に江門市制が廃止されると、再び新会県下に組み込まれた。

共産党中国時代の 1951年1月12日、新会県下の江門鎮が再び分離され江門市へ昇格される。一時的に、肇慶市や仏山市などに編入されることもあったが、今日まで江門市として存続し続け、最終的に旧県都であった 新会県城跡(新会区)をも統括するまでに立場が逆転している。


なお、江門市街地では白タクは数える程度しか目にしなかった。特に、繁華街の五邑城のバス停と江門市バスターミナルでだけ声をかけられ、それ以外は皆無だった。しかし、街中を走る正規タクシーこそがすべてメーター無しのシロタク、というオチだった(口頭での値段交渉要)。


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