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中原統一後の秦の始皇帝と華南遠征



香港特別行政区 ~ 人口 740万人、 一人当たり GDP 48,000 USD


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  九龍城塞(九龍城砦)と九龍砲台
  尖沙咀砲台
  西九龍砲台遺跡(英軍)
  官涌砲台
  宋王台(南宋末期、当地まで逃避してきた宋王が休息のため、腰かけたという海辺の岩)
  東涌砲台
  分流砲台(石笋砲台、石壁砲台、鷄翼角砲台、大嶼山砲台)
  屯門
  赤柱砲台 (Stanley Battery)
  砲台山地鉄駅
  第二次戦争時代のトーチカ跡(香港島)



【 香港の歴史 】

新石器時代より、すでに九龍半島一帯では人類の生息が存在したとされる。
中原を統一した秦の始皇帝により、紀元前 214年に 嶺南全土も武力併合が完成されると、翌紀元前 213年には中央集権体制の確立が企図され、 南海郡、象郡、桂林郡の3郡が新設される。
このとき、香港エリアは南海郡下の 番禺県(現在の広東省広州市) の管轄下に組み込まれた。

南越国(紀元前203年~前111年)を経て、 前漢王朝の治世時代、香港一帯は南海郡下の博羅県(今の恵州市恵東県梁化鎮)に統括された。

東晋時代の332年、南海郡の東部が分離され、東莞郡が 新設される。東莞郡下には宝安県、興寧県、海豊県 などの6県が配された。 また、東莞郡役所は 宝安県城(今の広東省深圳市南山区の南頭古城) 内 に設置され、現在の香港、深圳市、東莞市一帯を統括することとされた。

香港

以後、南北朝時代を通じ徐々に行政区が縮小された東莞郡は、ついに隋代初期に廃止される こととなり、すべて広州府南海郡に再吸収されることとなる。以後、香港エリアは南海郡下の宝安県に統括された。

唐代の757年、宝安県が東莞県へと改名される(管轄領域はそのままであったが、県役所が 東莞古城 へ移転)。 香港地区は、そのまま東莞県に帰属した。

南宋末期から元代初期の争乱期、中原の漢民族らが流民となって大量に華南地方へ移住する。 このとき、香港エリアの人口も激増し、文化発展が大きく進んだとされる。

元朝の時代、江西行省に帰属される。また、現在の九龍半島西部にある 屯門(青山湾) が、アジアの海上交易が活発となる中、 広州港への寄港地の一つとして台頭し、巡検司が設置される。一帯の海域の治安と監視が 主な任務とされた。

明代後期の1573年、東莞県から 新安県(今の広東省深圳市南山区の南頭古城) が分離・新設されると、香港エリアもここに移管される。以後、英国による割譲(1842年)まで、 この広州府下の新安県の管轄域に帰属された。

香港

清代を通じ、広州港は対外開放された唯一の港町であったため、その河口エリアは 多くの商船が航行、停泊するエリアとなっており(上地図)、清朝は防衛網の構築を 急ピッチで進めることとなった。

清朝後期になると、いくつかの漁村が点在する香港島一帯の海域にも、広州貿易で寄港していたイギリス人らが短期上陸しており、すでに同島のビクトリア湾が東南アジア地域でも屈指の良港であることは発見しており、世界にその名も徐々に知られるようになっていた。こうして、英国の 香港シフトが進むこととなる。

1834年から 広州英国領事館 に赴任し、1836~1841年には全権商務総監として在留英国人コミュニティのトップを務めていたチャールズ・エリオット(1801~1875年)が、清朝によるアヘン取締の強化政策に抗議して、全英国人ら伴って広州から退去し(1839年5月24日)、マカオ を経て、洋上にてイギリス艦隊と合流する(同年8月末)。そのまま海上を香港まで移動し、九龍砲台(現在の九龍塘あたり。下地図) とその沖合いで清国軍の海軍と最初の交戦があり(同年9月4日)、多数の清国艦船を沈没させるも、兵力差から拠点占領までには至らず、そのまま海上へ逃避し、香港島の南側(現在のスタンレー地区)にコロニーを開設する。

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同年11月3日には虎門沖で川鼻の海戦が勃発し、英国側との本格開戦を覚悟した清朝廷から欽差大臣(アヘン取締り担当)に任命され、 広州へ派遣されてきた林則徐は、翌1940年始めに広州に到着するや否や、広東省の沿岸部の既存の砲台基地へ強化 工事を施すとともに、新たに複数の砲台陣地も建造していくこととなる。
その一環で、香港九龍エリアに新たに 尖沙咀砲台官涌砲台 が新築され、現在の広東省深圳市市南山区に 赤湾砲台、現在の広東省珠海市にあった 前山塞 にも砲台が それぞれ増設されたのだった。

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英国側も議会決議を受け、1840年夏までに大艦隊を広州沖へ派遣し、いよいよ秋口から第一次アヘン戦争が開始されることとなる。最終的に、1842年8月29日の南京条約の締結で戦争は終結し、清朝は 5都市を開放し、また多額の賠償金を英国へ支払うことが約された。これと合わせて、香港島が正式に英国領として割譲される。

なお、この南京条約前の川鼻条約の締結時(1841年1月20日。直後に、清朝により一方的に破棄される)に、すでに清朝との間では香港島の割譲が合意されており、これに伴い、同日付で全権代表のエリオットが、香港の初代総督に就任している。しかし、同年8月にはエリオットがテキサス共和国の総領事へ異動となり、2代目総督としてヘンリー・ポッティンジャーが就く。彼の代で、正式に南京条約に基づき、 香港島の割譲が実行されたことになる(実質的に初代総督とカウントされている)。

香港島を割譲された後、清朝政府は対英最前線エリアとなった九龍半島に立地した九龍砲台を大改修する形で、九龍塞城(九龍城)の築城を急ピッチで進める(下古写真)。
しかし、度重なる英国からの圧力に 屈する形で、1860年には九龍半島全体の英国への追加割譲も余儀なくされる(北京条約)。

この時の割譲は九龍要塞外の九龍エリアと規定され、九龍要塞内は引き続き、清朝の官吏が治安業務を担当した。このため、清国領の飛び地状態となるも、 中国側(清朝、後に中華民国、共産党中国へと継承)の統治能力が低下する中で、どの政府も 介入できないことを背景に、犯罪者の巣窟となって、後に悪名高い「九龍城」と呼ばれる 無法地帯へ発展していくこととなる。

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最終的に1898年、新界地区と262の諸島群も英国が強制的に租借(1997年までの99年間)することとなり、こうして現在の香港特別行政区の一帯が英国統治領となった。そもそも香港を、香港島、九龍、新界と分割して考える習慣は、この英国による三段階の簒奪順に由来している。

1941年12月8日、米国の真珠湾攻撃とともに、英国の東アジア拠点であった香港の空軍基地(かつての啓徳空港一帯)を日本軍が空爆し、第二次世界大戦が始まる。日本陸軍も中国広東省から香港九龍半島へ一気に南下を進め、2週間にも及んだ攻防戦の末、同月25日、香港駐留の英国軍が日本軍に降伏し、日本領となる(~1945年まで)。日本軍の占領下、物資不足と軍票紙幣の乱発は猛烈なインフレ経済をもたらし、香港市民らを困窮させていく。また、日本軍は積極的に、中華系住民らを大陸中国へ移出させ、人口調整による物資不足の解消を図っていくこととなる。

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第二次世界対戦後、「自由経済モデルの実験場」と比喩された香港経済は急速に発展を遂げ、ニューヨーク、ロンドン と並ぶ世界三大金融センターと称されるとともに、アジアNIESを構成する新興発展地域としても注目を集める。
1982~1984年、中英間で返還交渉が進められ、1997年7月1日の中国返還へとつながる。

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下の写真は、大陸中国の香港政界介入に反対すべく、2014年10月1日から勃発した雨傘革命で、デモが最高潮に盛り上がっていた九龍モンコック地区で撮影したもの。道路にはバスや自家用車がそのまま放置されていた。。。

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