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訪問日:2018年1月下旬 『大陸西遊記』~

中原統一後の秦の始皇帝と華南遠征



香港 九龍区 九龍湾 ~ 人口 202万人(九龍区)、 一人当たり GDP 48,000 USD(香港全体)


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  1930年代建立の黃大仙寺院
  丘陵斜面上に築城されていた九龍城塞 ~ 東頭村道と公園北門
  城塞の役所機関 衙門「大鵬協府」と公園事務所
  南門の礎石遺構と石板(扁額)
  城塞現役当時の様子
  城塞内の学問所「龍津義学」
  九龍城塞付設の桟橋波止場「龍津橋」
  【豆知識】北宋時代に始まる九龍駐屯基地と九龍砲台 ■■■
  【豆知識】九龍の戦いと九龍砲台(Kowloon Battery) ■■■
  【豆知識】アヘン戦争と九龍城塞 ■■■
  【豆知識】日本軍による城壁撤去と戦後の九龍城砦化 ■■■
  官富場(塩田監督署)
  宋王台(南宋末期、当地まで逃避してきた宋王が休息のため、腰かけたという海辺の岩)

  尖沙咀砲台
  官涌砲台
  西九龍砲台要塞(英軍)


現在、九龍城塞公園となっているエリアには、北宋時代に小規模な軍事駐屯基地が設置されて以降、香港島や九龍半島一帯の海域を監督する駐留軍が常駐した。主な業務は、往来する商船の監督・保護と海賊取締り、塩田作業民らの治安維持であった。
つまり、ここは現在の香港特別行政区内で、最も早くに行政機関が開設された場所だったと言える。駐留軍施設は清代に九龍砲台、そして、九龍城塞へと改修されていくこととなる。


 九龍城塞 と 九龍砲台

地下鉄「黃大仙駅」で下車する。
駅前には、黃大仙の寺院がそびえたち、毎日、多くの参拝者が訪れている。大陸中国人、日本人、韓国人など、団体旅行客の訪問必須地の一つになっている。

もともとは、東晋時代に疫病対策で活躍した黄初平(黄仙人)を祀る寺院で、以後も 広東省 内で疫病が流行る度に、祈祷の対象となってきた。中華民国時代の1915年、道教伝道師の梁仁菴によって黄仙人の神絵が広東省から香港内に持ち込まれ、 1921年より現在の地に寺院が開設されたという。現在の本殿は1930年代の建立。

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ここから地下鉄駅構内の地下道をくぐって道路の対岸に移動し、そのまま住宅街を抜けて、東頭村道沿いから路線バス⑩に乗車する。

そのままバス停 2つ目に「九龍塞城公園」がある。ちょうど北門のやや西側に位置する。
バス下車後、北門跡地から公園内に入る。下写真左。

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まず、公園内に入って目に飛び込んでくるのが、急な斜面段差である(上写真右)。古城時代、この北門が最も高台に立地しており、正門を兼ねた南門(築城当時、海に面していた)へ向けて丘陵斜面上に築城されていた(城域は縦 220m、横 119mの長方形型。下古写真)。その城壁は高さ約 6mで、東西南北にそれぞれ一つずつ城門が設置されていた。

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この丘陵斜面の名残は、現在の東頭村道沿いにも顕著に残されていた。左手側が九龍塞城公園、右手側に斜面が残り、高台が続いている。この上に黃大仙寺院が立地する。

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かつての丘陵斜面が、東頭村道の部分だけ平坦に掘削されていることが分かる。

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さて、視点を九龍塞城公園に戻してみたい。北側の垣根沿いに東へ移動する(下写真左)。

かつて、混沌とした毒々しさで悪名を馳せ、無法地帯のシンボル的存在となっていた「九龍城砦」跡であるが、現在は爽やか公園に変わり果てていた。

下写真右は、公園東門。
この公園は入場無料にもかかわらず、幾人もの警備員が常駐しており、香港政府がいかにコストをかけて維持管理し、無法地帯への回帰防止に気を使っているかが伝わってくる。

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東門から公園中央部へ移動すると、 1995年の衙門「大鵬協府」後庁の修復作業時に出土したという 小型大砲 が展示してあった(下写真左)。
この先に、 その修復された衙門「大鵬協府」がある(下写真右)。

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ここは、かつて九龍城塞の統括機関 であった「大鵬協府(水軍拠点を担った大鵬所城【今の広東省 深圳市 龍岗区大鵬鎮鵬城村】の支部機関・大鵬協副将)」と「九龍巡検司」が 同時に入居する役所建物で、現在、公園管理事務所が入居するとともに、城塞展示館として往時の古城時代や不法エリア時代の解説や遺品が展示されていた(下地図の中央①)。
第二次大戦後、この役所庁舎は不法エリア集合住宅区の老人ホームとして使用されていた。

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下写真左は、衙門「大鵬協府」の正門入り口。手前の白い台座は、古井戸跡。

下写真右は、政府が不法エリアの九龍城砦を撤去し、公園工事を進める中で発見された、古城時代の南門の礎石跡の遺構である。現在の地上部分よりも 1.5m低い位置にあったようだ。
礎石遺構の他、「南門」、「九龍城砦」と彫られた花崗岩製の石板(扁額)も発掘されており、これらは第二次世界大戦期、民衆らの機転により、日本軍が城壁や城門を撤去する際、南門の扁額を守るべく、塞城内の土中に埋めて隠したものだとされる。

これら以外にも、南東城門の礎石も発掘されており、また城砦内に設置された排水溝とその横に敷かれていた石畳の街路も出土しているらしい。

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下写真は、古城時代の復元模型(南東の端から見たもの)。城壁上には小型大砲が配備されていた。

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下写真は、南門と衙門「大鵬協府」の正門入り口。

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下は、古城時代の建物マップ。
古城中央部に位置した龍津義学は、1847年の築城と同時に開設された教育施設で、後の無法地帯・九龍城砦時代にも、そのまま学校として転用されていた。なお、先の公園事務所が 入居する衙門「大鵬協府」の正門前に安置されている、一対の石灯篭はかつて龍津義学の門前に あったものという。

当時、城内には他に、武帝廟、演武亭、大教場、軍装局、火薬局、駐留兵士用の兵舎 14部屋などの建物があった。

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下写真は、北門、南東門、南門を俯瞰したもの。
つまり、現在、城塞公園にある「東門」は、古城時代には存在していなかったわけである。

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下写真は、南面の城壁から見た、北西門と北門。古城には「西門」もなかったようだ。

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下写真は、英国統治時代に九龍城塞を撮影したもの(共に1924年当時)。
下写真左は、朽ち果てた衙門「大鵬協府」の門壁前に 大砲が放置されている様子が伝わってくる。また、城塞後方には丘陵斜面が間近にまで迫っていたようだ。
下写真右は、英国人男女が城塞の城壁上を散歩する様子。1850年代より、この城塞は英国人らの人気観光スポットの一つとなっていたらしい。

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なお古城時代、南門の眼前には海岸線が広がっており、桟橋を設けて波止場があった(下絵図)。

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「龍津橋」と名付けられていた、石畳が敷かれた桟橋の遺構が発掘されているという(下写真)。

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上写真は、桟橋「龍津橋」遺跡の解説図。啓徳空港の工事で消失してしまったようだ。



 北宋時代に始まる九龍駐屯基地と九龍砲台

現在の九龍塞城公園の場所に、最初に軍事駐屯地が開設されたのは北宋朝時代で、海岸エリアの治安維持業務が主な任務であった。海岸沿いに設置され、船着き場も併設されていた。
続く南宋、元、明代においても、一定の治安維持拠点が設けられていたという。特に、海岸部の塩田業の監督は歴代王朝の最大の関心事であった。
清代初期、鄭氏台湾による沿岸地域への侵出を阻止すべく、1661年に遷界令が発令されると、1683年までの間、広東省全域では海岸線から20km圏が無人化される(この無人期間の1668年に狼煙台へ改修)。最終的に、遷界令が解除された翌1684年、清朝により狼煙台跡地に再び、軍事施設が開設される。海域監視が主任務であったので、引き続き、船着き場が併設されていた。

清代後期の1810年、駐屯施設が改修され台形型の砲台陣地(九龍砲台)が建造される。九龍湾沿いに 8門の大砲が配備され、常時、42名の兵士が駐留することとなる。下絵図。

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 九龍の戦いと九龍砲台(Kowloon Battery)

広州 英国領事 兼 全権商務総監であったチャールズ・エリオット(1801~1875年)が、アヘン取締りに反対して、1839年5月に英国居留民らを引き連れて一斉に広州から退去し、マカオ へ避難後、 8月末に英国商船艦隊 5隻と合流すると、新たな入植地を求めて香港域内に侵入する(当時から、香港海域の海底の深さと複雑な地形が良好な船舶駐留エリアであることは知られていた)。ついに 9月4日、食糧調達名目で九龍半島に接近すると、そのまま清側の九龍砲台とその水軍基地への攻撃を開始する。
当地の守備を司った参将の頼恩爵(下絵図)が指揮する守備隊は多数の戦船を失い、戦闘としては大敗を喫するも、兵数に乏しい英国軍は陸上の清軍拠点を占領するまでには及ばず、何とか撤退させることに成功する。 これが清国による初めての対英戦争で、九龍の戦いと言われる。

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1839年11月3~13日には、官涌の戦いが勃発し、同じくチャールズ・エリオット率いる英国軍は撤退を余儀なくされ、清英関係は急速に悪化していった。

こうした緊迫の海外情勢の中、次なる英軍の再襲撃にそなえ、欽差大臣の林則徐が主導して、広東省 沿岸各地に砲台基地の新設、増強工事が着手される。その一環で 官涌山尖沙咀 の海岸に砲台基地が建造されている。また、元々当地に存在した九龍砲台にも 強化工事が施されることとなった。

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 アヘン戦争と九龍城塞

1840年に英国より宣戦布告が出され第一次アヘン戦争が勃発すると、1841年1月には 虎門の戦い で、大砲火力の性能差から清軍は大敗する。
このとき、九龍半島の砲台基地は孤立したロケーションにあり、かつまた、九龍砲台の強化工事も途上であったため、兵力の分散を招くだけと判断されて、九龍半島域内の砲台陣地はすべて放棄されてしまう。
後に上陸してきた英軍により無血占領され(3月)、そのまま跡形もなく破却されてしまったのだった(5月)。
翌1842年に南京条約が締結され、清朝の一方的敗戦に終わると、即日、英国による香港島の合法的占有(領土割譲)が開始される(戦争中、すでに英軍は軍事的には占領を完了していた)。

この第一次アヘン戦争でいよいよ対岸の香港島にまで英国の軍事的脅威が迫ってくる中、九龍砲台の強化工事に変更が加えられ、城塞化工事へと切り替えられる。 1846年に城壁の建造が開始され、翌1847年に完成を見ることとなった。

第二次アヘン戦争を経て、1860年の北京条約により九龍半島も割譲されると、清朝の対英最前線基地として九龍城塞の重要度は、ますます高まっていくこととなった。
しかし、圧力をかける英国に屈する形で、1898年6月9日、清朝廷は英国の 新界 99年租借に強制合意させられる。

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この時、新界租借地の範囲内に位置した九龍城塞の取扱いに関し、特別規定が設けられる。
すなわち、九龍城内に駐留する清朝側の全役人の監督、および、城内統治に関する法務、司法事務等は英国の租借権外にあると定められ、そのまま清朝の支配権が担保される。ただし、英国側の香港、九龍地区の治安や軍務を妨げない範囲内で、との条件が付されることとなった。

あわせて、もともと九龍城下に付設されていた船着き場(龍津橋)も清朝側の管理範囲とされ、中国官船や商船などの往来や停泊も許可されることで、城内の官民らの移動手段が保証されることとなった。下地図。

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当条約の規定により、九龍城砦内は英国植民地エリアにあって、清朝の飛地となったわけである。
英国治安当局は条約締結後の翌1899年早々、 正月の爆竹が治安を妨げるという理由で、城塞内に軍隊を派遣し、清の駐留兵や官吏らを 追放してしまう。年内いっぱいは英軍が駐留し実効支配を継続しつつ、清朝政府との間で 譲渡交渉を進めるも、清朝内の混乱もあり交渉進展が見込めず、ついに英軍はこの小規模な 城塞支配を見放し、撤兵してしまうこととなった。
これ以降、清朝も、英国植民地政府も、統治を放棄した無政府空間と化す。

以後も、城塞内の衙門(役所庁舎)や龍津義学(教育機関)の建物は そのまま存続されていたが、治安悪化や不衛生が問題となり、城内の人口は減少の一途をたどることとなる。

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上の地図には啓徳空港(1925年着工)が建設されていない 1904年当時、 英国測量局が作成した地図の一部。海岸線の船着き場と無政府空間の九龍城塞 跡地との間に街「城下町」が形成されていたことが分かる。

下写真は、現在の「城下町」の様子。左は打鼓嶺道、右は啓徳道。
九龍城砦時代から続く古い アパートビル群ばかりの、やや怪しい雰囲気がいい感じを醸し出す。 このエリアは、碁盤の目状に路地が形成されており、その名称も城南道、衛前塱道、侯王道(かつて侯王古廟が あった)、獅子石道、衛前園道、南角道など、古城時代を彷彿とさせるものばかりだ。

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 日本軍による城壁撤去と戦後の九龍城砦化

1941~45年の第二次大戦期、日本軍が香港を占領すると、英軍空軍基地であった啓徳空港を拡張するため、九龍城塞の城壁がすべて撤去され、埋め立て工事資材に転用されることとなった。

大戦で日本軍が敗戦し撤収した後、多くの貧民やホームレスらが九龍城塞エリアに流入するようになり、治安と衛生環境が極度に悪化していく。1948年、香港植民地政府がこの地区内に踏み込み、内部の無秩序を掃討しようするも、住民らに阻止されることとなった。

以後も、中華民国や中国共産党政権がその権利移譲を拒否し続けたため、香港警察や英国植民地政府は介入を許されず、旧九龍城塞テリトリーは、実質的に国家管理の行き届かない地区(三不管―中国不管、英国不管、香港不管)となり、ありとあらゆる犯罪の温床となっていった(九龍城砦の誕生)。

1949年に中華人民共和国が成立すると、華南地区から大挙して避難民らが香港へ流入し、その多くが九龍城砦内に住みつく。
九龍城砦テリトリー内は、中国系マフィア集団・三合会の活動拠点となり、薬物、売春、賭博、犬肉食などあらゆる非法活動が日常的に存在した。また当時、植民地政府は中国医術を正式な免許医療と認めていなかったが、城塞内には無免許の中国医術の診療所なども多数、割拠することとなった。

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1987年に香港植民地政府が正式決定し、1994年4月に九龍城砦の撤去工事が完了すると、九龍塞城公園が開園されることとなった。



   官富場

かつて、九龍半島全体、さらに言えば、今の 東莞市深圳市 の海岸線は、すべて塩田となっていた(下地図)。
大陸中国では、古代より塩は貴重な品目の一つで、これを国家事業とした唐朝をはじめ、多かれ少なかれ、時の政権は塩の生産と販売の独占を目論み、その監督役所を沿岸各地に開設していた。

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 官富場

官富場とは、南宋朝時代に今の香港九龍区の東部海岸一帯を統括すべく設置されていた公営の塩田監督署を指しており、今の観塘区(クントン)の名称の由来となっている。

この九龍地区に、塩田監督署(官富場)が開設されたのは、南宋時代初期であった。北宋時代に九龍城塞の前身となる小規模な軍事駐屯施設が設置された敷地内に併設される形で役所庁舎が建設されたと思われる。
官富場として開設された公営の塩田場はその管轄範囲が今日の観塘区、九龍城区、及び、油尖旺区に及んでおり、地区行政と作業民の監督官として役人と駐留兵が派遣されていた(南海郡下の東莞県に帰属)。当地の塩生産高は県下のベスト4の一角を成したという。

しかし、1163年になって、官富場下で生産される塩生産高が理想とはほど遠い数量であったため、一度、廃止措置が取られて、別の場所に塩田監督役所「叠福場(今の沙頭角の北東部、大鵬湾の南西部)」が新設されることとなった。
後になって、旧官富場エリアの塩産出量が元通りに上昇してきたので、再び、九龍駐屯基地内に塩田監督役所が再開設されることとなる。

南宋末期、宋端宗(趙是、南宋第8皇帝。当時 10歳)とその実弟の帝昺(趙昺、第9代皇帝、当時7歳)を伴う亡命政権の一団がモンゴル軍の追撃を逃れるべく、香港にまで落ちのびてくる。
このとき、官富場の役所附近にあった土瓜湾の大きな岩石の上に幼帝らが腰かけて休息をとったことから、後に宋王台(九龍塞城公園の南側に現存)と通称されるようになったという。

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元代、官富場は官富巡司へ改称され(上地図)、さらに明代に入ると、官富巡検司へと改編される。
巡検司の役所には監督官が 1名、弓兵ら 50名らが常駐し、塩の密造、密売、海賊行為などを監視した。

清代の1661年、清朝政府により 台湾 の鄭政権の孤立化が図られ、大陸沿岸沿いに遷界令が発令されると、沿岸の住民らはことごとく海岸線から 20km圏外に強制移住させられることとなり、これにあわせて、塩田場も廃止される。

遷界令が 1683年に廃止されるも、新たに当地に移住した人々は塩の精製に不慣れで、塩田場はかつての生産量をついに回復させることがないまま、最終的に廃止されてしまうのであった。



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