BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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湖北省 武漢市 ~ 人口 1,050万人、 一人当たり GDP 36,000 元


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  武昌県城(夏口城、【二代目】沙羡県城、汝南県城、江夏郡城、郢州城、鄂州城)
  観光名所・黄鶴楼(三国時代の物見櫓に由来)
  英、露、仏、独、日の漢口租界地跡
  夏口県城(漢口鎮城、夏口庁城)
  沙羡県城(孫呉の【初代】江夏郡城、汝南県城、汝南郡城、涂口鎮城、金口鎮城)
  漢陽県城(後漢末、劉琦が築城した魯山城、漢津県城、漢陽郡城、沔州城)
  亀山の山裾にあった却月城(後漢末、黄祖の居城。江夏郡城。孫権により落城)の跡地
  亀山公園内の魯粛墓
  亀山内に張り巡らされた防空壕
  邾県城(西陵県城、江夏郡城、南安県城、衡州城、黄崗県城、黄州城、新洲鎮城)
  「孔子使子路問津処」と新洲問津書院
  三店鎮城



【 武漢市の 歴史 】

武漢市一帯では、今から6000年前の新石器時代より既に人類の生息が確認されているという。東湖放鷹台遺跡では、古代集落の発掘が進められている。
さらに、武漢市郊外の黄陂区にある張西湾古城遺跡からは 4300年前の集落遺跡が、盘龍城遺跡からは約 3500年前の商王朝時代に当地で栄えた方国の宮城跡が確認されている(下写真)。

武漢市 武漢市

春秋戦国時代期、今の武漢市エリアは楚国の領土下に組み込まれていた。紀元前350年、楚の宣王(熊良夫。在位:紀元前 369~前 340年)が、涂口(今の 武漢市江夏区金口)に沙羡邑城 を新設する。今の武漢市における最初の城郭都市となる。

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前漢時代の紀元前 201年、南郡から江夏郡が分離・新設され、14県を統括することとされる(上地図)。このとき、郡役所は 西陵県城(江夏郡城)(今の武漢市新洲区西)内に開設され、現在の武漢市一帯は鄂県、石陽県、沙羡県(沙羡邑から昇格)などに分かれて管轄された。

時は下って、後漢末期。今の武漢市漢陽区 に却月城と魯山城が、またその対岸(今の武昌区)の蛇山に夏口城が設置される。

190年、荊州牧に任じられた劉表は、蔡瑁、蒯良、文聘、黄祖など、江夏郡安陸県下の名家・黄香族出身の地元豪族たちの徴用に力を入れ、その統治体制の地盤固めを進める。

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当時、北に隣接する南陽郡・揚州に勢力を張った袁術の南下圧力が激しく、劉表は黄祖を江夏郡太守に任じ、その防衛を委ねることとなる。黄祖は当初、前漢時代からの江夏郡都であった西陵県城をその本拠地とするも、翌 191年に袁術旗下の孫堅軍により落城させられる(そのまま劉表が籠る襄陽城まで攻め上った孫堅は、黄祖との挟撃を受け戦死する)。

195年、黄祖は今の漢陽区亀山の北岸に却月城の築城を開始し、翌196年に江夏郡役所をここへ移転して、自身の新拠点に定める。

江東から攻め込んだ孫策は却月城と沙羡県の一帯で黄祖と戦い、黄祖の妻子を捕縛するなど、3戦 3勝を収めるも、200年に暗殺されてしまう。下写真は、孫策軍の侵攻ルートを示す。

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最終的に 208年、孫権により黄祖の却月城も陥落し、黄祖自身も戦死することとなる。この黄祖との戦闘の過程で、孫権は今の武昌区の 蛇山(黄鵠山、江夏山)に城塞を築城していた。これが後の夏口城である。
一方で、黄祖敗死直後に、劉表は自身の長男の劉琦を江夏郡太守に派遣し、新たに魯山城が築城される。漢陽区亀山の南麓に位置された。
この直後に勃発した赤壁の戦いでも、孫権軍は夏口城、そして沙羡県城、さらに南の陸口(今の湖北省咸寧市嘉魚県陸溪鎮)をつなぐ長江河岸に大規模な防衛ラインを敷くこととなる。下地図。

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時は下って 222年、夷陵の戦いで蜀軍の侵攻を、さらに同年冬に魏の曹丕による攻撃を受けるも、呉の孫権は耐え忍び、最大の危機を脱する。翌 223年、呉の陸遜は蛇山にあった夏口城に大改修を施し、長江の防衛ライン強化を図る。同時に、夏口城内に以前から設置されていた物見櫓(瞭望塔)も建て替えされ、後に黄鶴楼と命名されることとなる。


さらに時は下って、南北朝時代の宋朝の治世下の 454年、夏口城はますます拡張され、城内に郢州役所が併設されて郢州の州都となる。

隋代、今の武漢市の中心部には、江夏県(今の武昌区)と 漢陽県(今の漢陽区) の2県城が設置されていた。

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唐代に入ると、江夏県と漢陽県がそれぞれ昇格され、鄂州(郢州から改称)と沔州の州都に選定される。以後、長江沿岸での港湾都市として大いに発展を見ることとなった。上地図。
今でも通称される「江城」という名称も、このときから始まったとされる。
唐代後期の 825年、牛僧孺が武昌軍節度使となると、鄂州城はさらに大拡張され、あわせて、それまでの土壁から石積みの城壁へ全面改築される。

北宋、南宋時代には、武昌県は鄂州に、漢陽県と漢口県は漢陽軍に帰属された。特に、北宋初期の1049年、鄂州長官の李堯俞が鄂州城のさらなる大改修を手掛けている。

南宋時代に金朝に対抗した名将・岳飛はこの武昌県城(鄂州城)に8年ほど駐留し、北伐軍を率いて奮戦している(現在、武昌区にある首義公園 には、岳飛の銅像が建てられている)。下地図。

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元代の 1281年、武昌県城が湖広行省の省都に選定される。
下地図は、モンゴル軍の南宋攻略時の侵攻ルートを示す。江夏城と漢陽城も陥落していることが分かる。

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明代に入り、初代皇帝の朱元璋は、1370年、その第6子である朱楨を楚王に封じる。 朱楨は任地の武昌城へ入ると、ここを王都に定めて、翌 1371年より城郭の大規模改修に着手する。江夏県長官の周徳興が武昌府城の負請を担当し、城門 9つ、城壁の全長 10 km強(高さ 7~10 m)にも及ぶ石積みの大城郭を完成させる。下地図。

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15世紀後半に、漢水(漢江)の流れが大幅に変わる。それまでの亀山の南側から長江に注いでいた漢水が、亀山の北麓を通る直線ルートにて長江と接続することとなった。こうして16世紀中期には現在のような地形が完成すると、北岸に新たな港町が形成されていく。これが漢口鎮 である(上地図)。

漢口鎮はその後、急発展を遂げ、明末から清初にかけては朱仙鎮と景徳鎮、佛山鎮と並び、天下の四大名鎮として中国全土にその名を轟かせ、長江の上中下流域の9省をまたぐ中継交易拠点として大繁栄を遂げることとなった。また、中国産の茶がヨーロッパ世界へ大量輸出された時期にも重なり、東洋のシカゴとの異名を取るほどに、内陸地の水運都市でありながら、世界市場へ大きな影響力を保持する物流拠点として君臨することとなる。

清朝末期、漢口鎮には夏口庁(県役所と同レベル)が開設される。

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1858年には、アロー号事件に伴う、清朝と英仏連合軍により締結された天津条約に基づき、 10の開港都市に追加されて、漢口港も強制開港されることとなる。上地図。
1861年3月、漢口の開港が始まる。こうして、イギリス租界 を皮切りに、ロシア租界フランス租界ドイツ租界日本租界 が順次、開設されていく(下地図)。これらの租界地には、清国政府の干渉が及ばない治外法権が認められ、各国領事館の管轄による警察、工商局、裁判所などが設置された。

武漢市武漢市

下は、清代の漢陽県城の古地図。

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清末の混乱期、武昌城は太平天国軍の攻撃を受ける。武昌府城の陥落(下地図。1853年1月12日)は、清朝を相当に焦らせたものの、1854年10月、再奪還に成功する。
対岸の漢陽府城は、太平天国軍により 1852年12月24日に陥落している。

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1911年10月10日、辛亥革命が武昌城内で勃発する。打倒清朝が唱えられ、ここ武漢が武力蜂起の発端の地となった。
中華民国が成立した 1912年、江夏県が武昌県へ改称される。また、漢陽府が漢陽県へ降格され、夏口庁は夏口県へ改編された。武昌県城が湖北省の省都に選定される。

1917年にはドイツ租界地が、1925年にはロシア租界地が、それぞれ中華民国に返還され、漢口特別区となる。

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1926年には蒋介石による北伐軍が武漢三鎮を占領し、武昌県城内に武昌市を、夏口県城内に漢口市を設置する。 そのまま1927年正月、国民政府はその首都を広州から武漢(漢口市と武昌市を合併させて京兆区とする)へ移転する。
これに合わせて、同年 1月5日、ナショナリズムに湧く数十万の群衆が漢口にあったイギリス租界地へなだれ込み、ついに 2月19日、 英国政府は租界地の返還協定に調印する。最終的に 3月15日、イギリス租界地は完全消滅し、同地は漢口特別区へ編入される。

1937年8月、盧溝橋事件を引き金に始まった日中戦争の開始直後、日本租界地も国民党政府に接収され、租界地はいったん全て解消されるに至る。
しかし、翌年 10月、日本軍が武漢を占領すると、再び、日本租界が復活設置される。
下地図は、日中戦争時代の武漢作戦(中国語:武漢会戦)の様子。

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1945年8月に第二次世界大戦が終結すると同時に、漢口にあった日本、フランスの租界地も国民党政府に接収される。1949年の共産党時代には、一時期、武漢は中央政府の直轄都市にも選定されたが、 1954年に湖北省の省都「武漢市」として独立することとなる。


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