BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2018年5月下旬 『大陸西遊記』~


浙江省 嘉興市 南湖区 ① ~ 区内人口 70万人、 一人当たり GDP 100,000 元 (嘉興市 全体)


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  上海浦東空港から 嘉興市中心部へ ~ 空港バス と 19番路線バス 合計 72元(3時間弱)
  小西門横街、県前街の 界隈 ~ 古城時代の 秀水県役所、学府、軍事演習場の跡地
  環城西路沿い(かつての 西面城壁跡)の 京杭大運河 と 船文化博物館
  古城内の 丘陵エリア ~ 瓶山公園 と 子城公園
  標高 30 m近くある瓶山と、その麓に残る古井戸「霊光井」、秘密の カラオケ特訓場!
  子城公園裏手(北面)の 廃墟公園 ~ 旧浙江省栄軍医院 と 巨大地下壕
  子城公園(三国時代の 孫権築城~清末の嘉興府役所が鎮座した敷地)と 府南街・府前街
  環城南路(かつての 南面城壁跡)と 南湖
  浙江省内の 水運ネットワークの一大拠点だった 嘉興州城
  旧市街地の 東城門地区の 今昔 ~ かつての 繁華街地区から イスラム界隈へ
  【豆知識】南湖区の 歴史 ■■■
  1921年8月初旬、中国共産党の 第一次全国代表大会が 南湖上で開催される



上海浦東空港に到着後、空港バスで 2時間かけて嘉興市中央バスターミナルに到着したここから ローカル系の 19番路線バスに乗り換えて、嘉興駅や古城地区へと北上することにした(2元)。40分ほどで古城地区の中心エリアである、禾興南路と中山東路との交差点に到着する(下地図)。

南湖区

最終的に、この交差点付近の 億(e)代酒店(一泊 129元)に投宿できたわけであるが、それまで何軒ものホテルに「外国人は取り扱いできない」ということで断られた。

なお、このホテルを探し当てるまでに、いろいろ道端の通行人たちに 7天ホテルや如家ホテルなどのチェーン系ホテルの場所などを質問してみたのだが、100%皆、親切に最初から最後まで対応してくれた。場所に詳しくない人でも、すぐにスマホを取りだし、地図アプリを検索して、なんとか 力になろうとしてくれた。大陸中国の旅でここまで親切に対応してくれた土地は他に無かった。さすが中国屈指の富裕エリア・浙江省で、人々はゆとりのある印象だった。

南湖区 南湖区

また、この交差点には真新しい ショッピングモール(旭輝広場)があり、滞在中の食事には困ることも無く、非常にラッキーなスタートを切れた(上写真右)。

翌日、ホテル前の禾興南路をやや北上し、ホテル裏手にあたる小西門横街を西進する(下写真左)。この小西門とは古城時代にあった 水門「小西門」に由来している(下古地図 参照)。

南湖区 南湖区

その一つ目の交差点が、県前街だった(上写真右)。
古城時代、この北側に秀水県の県役所が開設された名残と考えられる。同時に併設されていた嘉興県役所は、嘉興府役所が入る子城内に入居していた。

南湖区

そして、今は廃墟と化していた嘉興賓館の脇を通る賓都路を横目に、環城西路まで直進する。
この嘉興賓館あたりには、かつて学府や演習場があり、嘉興府城内の学問、軍事の中心地区を成していた(下古地図 参照)。
目下、新しいショッピングモールを建設中で、これから数年後には中山東路沿いの南北を挟んで様変わりすることだろう。

さて、環城西路沿い(かつての西面城壁跡)を勤倹路まで北上し、勤倹大橋を渡る(写真左)。

南湖区 南湖区

この水路(西面の掘割跡)が京杭大運河である。下写真。
下写真中央の運河沿いにある、帆が立てられた茶色の建物が船文化博物館だったが、中は廃墟と化しており、閉館されている様子だった。ここはかつて運河沿いにあった造船所の跡地という(上写真右。1958年開業。 2003年に博物館へ改修)。

南湖区

再び勤倹路を経由して、ホテル前の禾興南路に戻り、そのまま東隣になる 瓶山公園 まで徒歩移動した。下地図の 青ラインは ホテル ~ 船文化博物館赤ラインは ホテル ~ 瓶山公園

南湖区

瓶山公園と南向かいにある子城公園は一連の丘陵地帯を形成しており、古城時代、この丘陵地帯の南半分が府役所の敷地だった(下地図)。

南湖区

三国時代の 231年、呉の孫権が禾興県城として築城した城塞は、まさにこの丘陵地の南端に立地したわけだ。
秦代の紀元前 222年に築城されていた 由拳県城(当初は長水県城と呼ばれたが、紀元前 210年に改称)は、実際にはどこに位置したのか判然としておらず、上記の三国時代に由拳県が禾興県へ改称されるにあわせて、県役所が新たに移築された形での、新城塞 の建造となった、と解釈されている。

南湖区 南湖区

瓶山公園であるが、現在でも標高は 20~30 m程度あった(上写真)。公園内部もかなり広く、池や風流亭、休憩施設などが豊富に配され、地元の高齢者らの集いの場を提供していた。

南湖区 南湖区

その中に、地下道の入り口らしきものがあった(上写真右)。かつての日中戦争時代の防空壕の名残かと推察された。
公園内の地下道入り口は封鎖されていたが(上写真右)、中からカラオケの歌声が響き出ており、カラオケバーがあるらしいことは見当がついたが、なぜ入り口にカギがかかっているのか不思議に思った。もしや。。。秘密の特訓中なのか。。。と疑ってみたが、公園下まで降りて、中山東路沿いまで出ると合点がいった。下写真左の左端に見える赤文字「瓶山舞庁」というスナック風カラオケ店があり、この店が地下防空壕を占有しているようだった。

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また、中山東路沿いの瓶山公園入り口正面には古井戸が保存されていた(上写真右)。

史書によると、この瓶山の西面には、明代中期に当地出身で進士に合格し中央政界で 兵部尚書(国防部長クラス)や 刑部尚書(司法部長クラス)まで勤めた 項忠(1421年~1502年)の広大な邸宅があり、その名残から瓶山の麓には項家末裔によって祠堂と書斎が設けられていたという。これらの家屋は現存しないものの、当時の井戸だけが残されており、それが項忠家の 古井戸「霊光井」として今に伝えられているという

南湖区 南湖区

さて、中山東路を渡って(上写真左)、続いて南面の子城公園を見学する。最初は、瓶山公園のすぐ向かいの高台エリアかと思っていたが、それらしい看板や解説は何もなかく、地下防空壕を転用したダンスクラブの跡地が広がるだけになっていた(上写真右)。

南湖区 南湖区

この廃墟の高台公園は、どうやら最近まで浙江省栄軍医院の敷地だったそうで、公園内に無数にある防空壕出入口や通気口、トーチカなどを見るにつけ(上写真)、戦時下の防空壕施設をそのまま残しておいて、有事には地下病院へと転用できるように温存していたのだろうか。。。と妄想してしまった

南湖区 南湖区

高台公園を出て、東隣の建国南路を南下し(上写真左)、子城公園がある丘陵エリアを南側から接近してみることにした。
かつて、建国南路沿いにあったであろう、ショッピングモールの 建物(上写真左の城門デザインの建築物など)は空洞化して廃墟となっていた。それを横目に通り過ぎて、府前路の通りを右折してみる(上写真右)。

南湖区 南湖区

すると子城公園の正面入り口に到達できた。正面には巨大城門と城壁がそびえたっていた(上写真左)。これは 1928~1929年に撤去されてしまった嘉興府城の城壁遺跡の中で、唯一、現存する古城時代の遺構という(約 100m)。
五代十国時代、呉越国により外周城壁が建造されて以降、「子城」と通称されようになった当地は、三国時代の孫権築城以来、県役所、府役所が開設されてきた敷地であり、清末に太平天国軍が占領した当時は、听王府が設置されるなど、常に嘉興市一帯の中枢を担った場所であった。
高さ、 厚みともに約 3.6 m幅の城壁が全長約 1 kmにわたって取り囲み、内部面積は 7.5万 m2あったという。

現在、子城内は瓶山公園と同じく、中国式庭園になっているようで、風流亭のような建物が複数見えた。
筆者の訪問当時、公園入口前は掘割の整備中で、子城公園を観光地化しようとする工事の真っ最中だった(上写真左)。入城は諦めて、そのまま正門前の府南街を南下し(上写真右)、斜西街や紫陽街を経て環城南路まで出てみた(下写真左)。

南湖区 南湖区

その昔、この環城南路沿いに巨大な南面城壁が、その外周には掘割が延々と連なっていたわけである。相当に絶景だったことだろう(下写真左)。
上写真右は、外堀にかかる紫陽橋から、かつての外堀を眺めたもの。

この巨大城壁は、唐末の 888年、呉越王の銭鏐により潤州制置使に任じられたばかりの 阮結(843~888年)が、子城(嘉興県城)の外周に建造したものが最初で(間もなく、阮結自身は病死する)、南宋時代末期の 1276年、王都・臨安 を攻略したモンゴル軍がそのまま江南地方を席巻した際、この嘉興城も落城し、城壁が破壊されてしまうまで存続した、という。
当時、城の周囲には、食用になるキササゲの木が群生したことから、梓城とも別称された。

100年後の 1370年、江南地方を統一した明の朱元璋 により、再び巨大城壁が再整備され、以後、550年にわたり巨大城郭・嘉興府城の威容を見せつけるも、中華民国時代の 1927年、浙江省政府により城壁撤去が決定されると、翌 1928~1929年の工事で完全消滅し、その跡地は環城路に生まれ変わったのだった。

南湖区 南湖区

さてさて、南湖内の小島に見える七重塔であるが、壕股塔といい(上写真右)、濠罟塔や濠孤塔とも別称される。高さは 63.36 mで、入場料 10元という。

この壕股塔は古城時代から外堀沿いにあり、その外堀の曲線が人の股に似ていたことから、このように命名されたとされる。壕股塔と禅寺が最初に建立されたのは、外周城壁が整備された呉越国時代、もしくは北宋時代と考えられており、以降、宋代、元代に最盛期を迎えたという。
その後も度々修復が重ねられ、明代に大規模な再建工事が施される。以後も嘉興府城下の七塔八寺の一角として君臨してきたが、 1960年代に線路工事があり、旧来からの塔は撤去されてしまう。現在の塔は元々あった場所に近い線路脇に 2004年に再建されたものである

南湖区

明代中期の 1430年ごろ、嘉興府城は中国全土のベスト 33の主要都市にランクインしており、江南地方随一の大都会と称されていた。その発展を支えたのが、京杭大運河を主軸とする水運ネットワークであった(上古地図)。



  南湖

南湖は、浙江省嘉興市区の南東部に位置し、かつては陸渭池、もしくは彪湖とも呼称されていた。
南湖は東湖と西湖の二つに分かれており、その形状が オシドリ(鴛鴦)が首を交錯させてているように見え、さらにかつては湖面上にいつもカモ科のオシドリが生息していたため、鴛鴦湖とも別称されたという。

隋朝により京杭大運河が掘削されると、周辺都市とともに、嘉興県城も急速に経済発展が進むこととなり、全国から南湖を愛でるべく、多くの見物客が訪れたという。
北宋時代以降、この南湖と 紹興市 の東湖、そして、杭州 の西湖をあわせて、浙江三大名湖と通称されるようになり、浙北省エリアの観光名所として君臨していくこととなった。


 嘉興市 と キリスト教

アヘン戦争の終戦処理となった南京条約締結により(1842年)、アヘン取引とともに合法化されたキリスト教が一気に中国へ流れ込んでくる。その布教を目的として、宣教師らが上海を経由して次々と嘉興市エリアに入り込むと、市内の各所に数多くのキリスト教会が開設されていくこととなる。
上海近郊に立地した嘉興市は、修道院や教会、礼拝堂などがかなり早くから進出した地域で、キリスト教の中国全土への伝播に非常に重要な橋頭保を提供することとなったのだった。



古城時代、南城門から東城門あたりの南東方面に商業エリアが発達し、さらに東城門外にどんどん市街地が拡大されていったという。
この東城門一帯の旧商業地区は現在、古民家がたくさん軒を連ねる閑静な旧市街地となっており、かつての賑やかな繁華街の面影は全く残されていなかった。

南湖区 南湖区

環城南路沿いを北上し、環城東路まで至ると、イスラム寺院(清真寺)が目に飛び込んできた(上写真)。 この一帯では、ベールをかぶった イスラム教女性(顔は中国系)や イスラム文字、イスラム(清真)食堂などが至る所にあった。大年堂前の通り一帯だ(下写真)。

南湖区 南湖区
南湖区

イスラム教徒らが 古城時代から当地区に集まっていたとすると、東面城壁のギリギリ脇にあって、東門の商業エリア界隈で、団結して一定の勢力を保持していた名残りと推察される。

南湖区 南湖区

なお、中華民国時代の 1928~29年の工事で完全撤去された城壁であるが、当時あった四城門 ー 東門(春波門)、南門(澄海門)、西門(通越門)、北門(望呉門)のうち、 北門と東門の跡地に記念碑が立てられたとの前情報を得ていたのだが、この東門橋辺りをくまなく探し、住民らに質問してみても、全く発見できなかった。


嘉興市南湖区の 歴史

春秋戦国時代、呉越の国境最前線地帯となった現在の嘉興市域は、両国に数々の戦場を提供することとなった。そして、越が呉を、楚が越を滅ぼし、最終的に秦が楚を滅ぼして江南地方を併合すると、翌紀元前 222年、会稽郡下で長水県が新設される。その位置は、現在の子城公園あたりと推定されているが、正確な場所は分かっていない。

紀元前 210年、始皇帝の一行が当地を巡遊した折、この地が旧楚国や旧呉国の伝統の地で、その地形と地名が自身の帝位に反抗的な印象を与えたため、十万人余りの人夫を動員して、山々や湖水地方の地形を変えてしまう大土木工事を断行する。あわせて、江南地方各地の地名まで変更させることとなった。その一環で、近くにあった由拳山に由来して、長水県が由拳県へ改称されることとなる。

時は下って後漢時代の 129年、 会稽郡が 銭塘江(杭州湾)で南北に分離されると、由拳県は北側の呉郡に属した(下地図)。

南湖区

三国時代の 231年、呉の孫権が由拳県一帯の水田エリアの肥沃さを称え(下絵図)、自国の五穀豊穣を祈願し、由拳県を禾興県へ改称させる。
さらに、翌 232年には元号まで変更し、黄龍(自身が皇帝に即位した呉建国初年 229年から 3年間)から「嘉禾(232~238年)」へ改元している。

242年2月、孫権の 長男・孫登(32歳)の死により、三男の 孫和(19歳)が皇太子につくと(次男の孫慮は 232年に 20歳で死去)、孫和の諱名とダブったため、禾興県はさらに嘉興県へ変更させることとなった(そのまま呉郡に帰属)。
現在、嘉興市がその略称で「禾」の文字を用いるのも、この三国時代の行政区名に由来している。

南湖区

西晋時代、続く 南北朝時代、隋代、唐代もこのままの行政区が継承されるも、五代十国時代の呉越政権の治世下で、嘉興県が 杭州 の管轄区へ移籍される。
同時に、嘉興県城内に開元府が開設されると、嘉興県、海塩県華亭県 の 3県を統括した。これが、嘉興県城内に初めて州府レベルの上級役所が設置された瞬間となる。
さらに 940年、呉越王の銭元瓘が嘉興県城内に秀州を新設する。

北宋朝により呉越国が併合されると(978年)、秀州が嘉禾郡へ改編される。
南宋時代の 1195年、嘉禾郡が嘉禾府へ昇格されると、さらに嘉興軍へ改編された。
元代の 1276年、嘉興軍が嘉興府安撫司へ改編されると、さらに後には嘉興路総管府へ昇格される。

南湖区

時は下って、 清末の 1911年11月7日、辛亥革命で嘉興府が清朝の支配下から脱すると、嘉興軍政分府が新設される。
1912年正月、中華民国政府が成立すると府制が廃止され、県制のみ存続されることとなる。以後、嘉興府は嘉禾県へ改編され、後に嘉興県へ改称される。

1921年8月初旬、中国共産党の 第一次全国代表大会 が南湖上の一艘の遊覧船上で開催され、史上初めて中国共産党の成立が宣言されることとなった。その中には毛沢東の姿もあったという(下写真)。

南湖区

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この時代、まだ嘉興県城の城壁は完全に残っており、城門も 4箇所そのままあったが、同年、北門と東門の間に、新たに一か所の出入口が増設される。

しかし、1927年に地元政府の決定により、翌年から城壁撤去工事が着手され、1929年前に完全に消失して、環城路として整備されてしまうこととなるのだった。

南湖区

全城壁の撤去後も、かつて外周を囲った掘割跡や京杭大運河は今も残されており、往時の嘉興府城の都市スケールを体感することができる点は非常に良かった。

また、旧市街地にはかつての古城時代に由来するであろう路地名や地名が数多く残されていた。環城北路、環城西路、環城東路、環城南路、城北路、城南路、小西門横町、県前街、道前街、精厳寺街、府南街、府前街、府東街、県南街、東門橋など。


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