BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
『大陸西遊記』ホーム 中国王朝年表

訪問日:20--年-月-旬 『大陸西遊記』~


海南省 海口市 瓊山区 龍塘鎮 ~ 鎮内人口 4.1万人、一人当たり GDP 35,000 元(瓊山区 全体)


 ➠➠➠ 見どころ リスト ➠➠➠  クリック

  瞫都県城(【初代】珠崖郡城)
  博撫村の城隍廟 と 古井戸「神井」、石畳の街道跡、大門跡



この日、投宿先の 7天ホテル(瓊山区)から北上し、旧府城エリア から 69番路線バス(皇馬假日酒店 ⇔ 龍塘鎮政府)に乗車して、南渡江沿いにある海南省博物館を訪問する。下地図。

博物館見学後、再び 69番路線バスに乗って、南郊外の龍塘鎮を目指す(南へ 20 km)。下地図。
この 龍塘鎮(博撫古村)にある潭口村小学校の東側に、珠崖嶺城跡が立地する。ここが、前漢時代に開設された 珠崖郡城(瞫都県城)跡という。

現在、珠崖嶺と通称される小高い丘陵部分には草木が生い茂り、城跡の全容が見渡せない状態となってしまっているが、その内部に足を踏み入れると、正方形型で設計された城域が視認でき、かつ四方を取り囲む 土塁壁(高さ 2 m)がはっきりと確認できるという。
発掘調査により、お椀、コップ、皿、鉢などの陶器類や石器類、屋根瓦などの建築資材が出土しており、主に城内北半分に建物群が配されていたことが分かっている。

瓊山区龍塘鎮

帰路に時間があれば、瓊洲文化風情街にも立ち寄ってみる。公園内には、海口市海藏博物館、黎族部落民族村(テーマパーク)などが点在する、新文化エリアとなっている。ここから、41番路線バスでも市中心部へ帰れる。


瓊山区龍塘鎮

紀元前 111年、前漢朝第 7代目皇帝・武帝が南越国を平定すると、翌紀元前 110年には海南島も直轄支配すべく、珠崖郡と儋耳郡の 2郡を設置し、配下の 16県を統轄することとした。この時、当地に新設された瞫都県城が珠崖郡城を兼務することとなる。

当時、進駐した前漢朝の部隊は海南島の内部への侵入を、主に河川沿いに行っていたと考えられている。その際、河沿いの高台などに適宜、城塞や駐屯基地を設置しつつ、その中から有力なものを県城化したと推察される。
その一つが、この南渡江沿いの 珠崖嶺山(今の 瓊山区龍塘鎮博撫村)に築城された瞫都県城だったわけである。当時、周囲には広大な竹林が広がっており、まさに築城にもってこいの地形と目星が立てられ、山を削り、石を掘り出し、竹林を伐採して、建設工事が進められていったという。

しかし、前漢朝廷から派遣されてきた漢民族の官吏らは、島内の原住民らを蔑視し、横暴なふるまいを繰り返したことから、度々、武装蜂起が発生し、不安定な情勢が続くこととなった。こうした中、儋耳郡役所(郡都は 儋耳県城 ー 今の 海南省儋州市三都鎮旧州村)が紀元前 82年夏に閉鎖され、配下の諸県が珠崖郡側へ編入されると、以降、この珠崖郡城が海南島における最高行政庁となる。

引き続き、前漢朝の官兵らの横柄な統治姿勢は継続され、むしろ加速されていく有り様であった。
紀元前 87年、珠崖郡長官に 孫幸(会稽郡出身)が着任すると、原住民の珍しい 伝統的手織物(横幅が広いデザインの布)を兵士らが略奪し、中央朝廷へ勝手に献上したり、また過酷な課税政策を強行したことから、苦しめられた民衆らはついに郡城へ攻め込んで、孫幸を殺害する事件が発生する。その後、孫幸の子が郡守を継承するも、度々、朝廷へ反乱対策のための支援を要請しており、直轄支配体制は日に日に弱体化していくこととなった。当時、海南島では三年に一度、大規模な民衆反乱が発生しており、前漢朝廷はやむを得ず、郡長官だった孫賈捐の建議を受け、海南島の直接統治体制を放棄することとなった(紀元前 46年春)。こうして、わずか 64年間の歴史で、珠崖郡城は閉鎖されることとなり、以降、海南島は雷州半島へ移転された朱盧県によって、間接統治が図られる。

珠崖嶺城地の所在地に関しては、明確な論拠を示す出土品や史料が存在せず、長年にわたって、学会の中でも論争が繰り返されてきた。今の龍華区遵譚鎮とする説もあり、今日現在でも龍塘説と真っ二つに分かれている(下地図)。しかし、龍塘鎮にせよ、遵譚鎮にせよ、両者はいずれも海口市南部の羊山地区にあったことは共通している(南渡江の河川交通ルートを重視するならば、中核都市・珠崖郡城が、遵譚鎮のような内陸部に立地したことは考えにくいが。。)。実際、いちおう珠崖嶺城跡の方が、中央政府により史跡指定を受けている(2014年7月21日)。

瓊山区龍塘鎮

郡城の歴史が終わってから 1000年後、珠崖嶺の麓部分に 集落「博撫村」が形成されることとなり、その住民らの手により、今に残る城隍廟が建立される(この銘牌上には、往時の郡城に関する栄光が綴られているという)。

地元に残る村史によると、博撫村自体、もともと旧郡城の用水路として残っていた水路沿いに形成されたと言及されており、1000年前の郡城の遺産の上に誕生したことが分かる。この用水路は、海南島沿海と島内の内陸交通ネットワークの大動脈を成した南渡江に直接、アクセスできる地の利を有しており、博撫村は時流に乗って大いに発展することとなる。南渡江沿いに船着き場が設けられ、博撫村から陸路と水路でアクセスできるように工夫されていた。

この村の船着き場から、博撫村前に設けられた大門に通じる、厚重な火山石を敷き詰めた石畳の街道跡が現存するも、往時のように両側に商店が軒を連ねる賑やかさは霧消し、今では竹林と草木に囲まれただけの小道となっている。
この石畳の街道は博撫村をも貫通し、港町のメインストリートを成したわけであるが、これが龍の体のようにゆったりと湾曲していたこと、また南渡江が運び上げていた土砂が堆積され、それが龍の頭部に見えたことから、「龍塘鎮」と通称されるようになったというわけだった。

瓊山区龍塘鎮

なお、この博撫古村の栄光を支えた船着き場跡には、「神井」と呼ばれる古井戸が残されている。
一年中、絶え間なく船が行き交い、海南島の内陸の多くの物資が集まっていた当時、航行を祈願する神廟が建立されており、その跡地に残る井戸という。今は既に神井の水は枯れ果て、井戸の設備全体が雑草で覆われてしまっているが、その異様に高い井戸の壁面だけが際立った存在感を放っており、その中に「神」という文字が残されている。当時、集落の有識者が刻んだ文字で、時とともに「神井」と通称されるようになった、というわけだった。この神秘的な名称にちなみ、往時に人気を博した当地製造の酒は、「神水」と通称されていたらしい。



お問い合わせ


© 2004-2024  Institute of BTG   |HOME|Contact us