BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
『大陸西遊記』ホーム 中国王朝年表

訪問日:2018年2月中旬 『大陸西遊記』~


ポーランド クラカウ市 ~ 市内人口 78万人、 一人当たり GDP 17,500 USD(全国)


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  第四位の都市 ヴロツワフ から 第三位の都市 クラクフへ バス移動(17 ズロチ、3時間強)
  投宿した 駅徒歩 5分の最古級宿 ホテル・ポロニア(1917年開業)
  北面城壁と 外堀の跡地 環城公園を歩く
  当地の見どころ筆頭 !!!、欧州最大の 前哨要塞(バルバカン)
  巨大な 北城門(聖フロリアン門)と 現存する 北面城壁、櫓塔、武器庫
  【豆知識】 聖フロリアン門 と バルバカンから辿る、城郭都市 クラカウの歴史 ■■■
  旧市街地を歩く Ⅰ ~ 福音記者ヨハネ&洗礼者ヨハネ教会、聖マリア大聖堂、織物会館
  旧市街地を歩く Ⅱ ~ 旧市庁舎 鐘楼タワー、歴史博物館 と 中世古絵図
  ポーランド最古 かつ No.1 最高学府の ヤギェウォ大学
  西面城壁跡の フィルハーモニー公園を歩く ~ 聖フランシスコ教会、クラクフ考古学博物館
  南面にヴィスワ川を有する 要害城「ヴァヴェル城塞」
  中庭と古井戸、バーナディン門、櫓塔、オーストリア帝国時代の 軍用道路、ATM機、、、
  【豆知識】古代クラカウ 発祥の地「ヴァヴェルの丘」と ポーランド王国の 王城 ■■■
  丘麓にある 聖カタリナ教会 と 広大な宗教施設群 ~ 若き名君 カジミェシュ 3世 の火遊び
  ユダヤ人居住区を歩く ~ 民族学博物館、コーパス・クリスティ教会、ノビ広場、シナゴーグ
  東面城壁跡地の 環城公園を歩く ~ かつての市城壁の 基礎遺構が 延々と残存する
  クラカウ 今昔マップ
  【豆知識】クラクフの 歴史 ~ モンゴル、スウェーデン、ドイツ、オーストリアらが 席巻 !!!



ポーランド第四位の 都市ヴロツワフ から 18時発のバスに乗って、世界遺産都市 クラクフ(同国第 3位)入りした。バスは事前にネット予約していた(16 ズロチ + カード手数料 1 ズロチ = 17 ズロチ)が、バス乗客のうち東洋系は筆者一人だけだった。
21時過ぎ、終点クラクフのバスターミナルに到着する。バス下車後、自分で荷物を降ろし、そのまま鉄道駅へ向かう他の乗客らの後に着いていく。地図上では、このバスターミナルは鉄道駅の東側に立地し、駅の西側に出ることで旧市街地に至る構造であった。ひたすら直進していると、地下からエスカレーターを 2F分上がって地上階に出ることができた。
ここから駅前のパビア通りを徒歩 5分弱すすむと、オンライン予約していた ホテル・ポロニア(Hotel Polonia)にチェックインできた(22:00 前)。朝食込で、170.02 ズロチだった(1泊のみ)。そのまま荷物を置いて、再び 1 km ほど離れた 駅ショッピングモール「ガレリア・クラクフスカ」へ戻り、マクドナルドで夕食をとる(22:15ごろ)。その向かいに仏大手スーパー「カルフール」があり、22:45ぐらいまで営業していた。スーパーが閉店となると隣接する KFCも閉店したが、マクドナルドだけはまだ営業を続けていた。23時にホテルに戻り、深夜に就寝する。

翌日朝 8:40、1F ロビー近くのレストランで朝飯を食べた。このホテルの食事は最高によかった。欧州の朝食は年々、良くなっている印象だ。先に投宿した ドイツ・ベルリンのホステル にせよ、このポーランドでのホテルにせよ、つくづく実感した旅だった。
11:10にホテルをチェックアウトし、ホテルすぐ脇に広がる旧市街地の散策をスタートする。当地は世界遺産指定されており、すでに観光地としても熟練しているので、今回の欧州旅行では中休み的な訪問地だった

クラカウ クラカウ

なお、このホテル・ポロニア自体も由緒ある建築物だったので、外観を撮影しておく(上写真左)。1917年開業で、市内でも最古級ホテルの一つという。 4階建ての古めかしい洋館内には骨董趣味の装飾品が廊下を彩り、木造の階段がミシミシと音を立て、何か懐かしい味を醸し出していた。内部にはチャペルも併設されているらしかった。
エレベーターも旧式で、内ドアのないタイプだったので、各階に到着すると、外ドアだけを自力で開閉するスタイルだった。部屋も広く費用対効果は抜群だったが、洗面台の水圧が弱かったのは唯一の不満だった。手洗いや歯磨きにやや手間取った。
上写真右は、ホテル部屋から正面の交差点を撮影したもの。ここは複数の路面電車線が交差する、乗り換えターミナル駅「Teatr Słowackiego(スウォヴァツキ劇場)」で、地元市民には交通の要衝ポイントらしかった。

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上写真の緑地エリアが、かつて市城壁の跡地を整備した環城公園である。昨夜のうちに雪が降ったようで、朝から道路が濡れていたが、正午近くに至る時間には、日が当たる道路上は何割か乾燥していた。しかし、日影部分や土砂の部分はまだまだ残雪もあり、また氷になりかけの危険なじゅくじゅく部分もあった

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人の流れに沿って環城公園内を進んでみると正面に、きれいに復元された城壁と城楼が忽然と立ちふさがった。これが世界遺産都市クラカウが誇る、欧州最大の 前哨要塞(バルバカン)であった(上写真)。重厚なレンガ造りの出丸要塞は、間近で見ると圧倒的な迫力だったが、筆者が訪問した日は、なぜか閉鎖中だった。。。

クラカウ クラカウ

しかし、外堀上をまたぐ形で設置されていた石橋や、要塞外の吊り橋構造などを間近で目視することができた(上写真左)。特に要塞門外の前に設けられた横杭の 穴(たぶん、この間に大木をはさんで、敵の城門破壊兵器の突入の障害物としたと考えられる)も非常に見応えがあった。大陸中国での古民家にもよく見られる設計手法である。
この 前哨要塞(バルバカン)だけでも、数百名が立てこもり、数倍の敵をひきつけて十分に抵抗できる構造だった

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そのすぐ後方には、北城門(聖フロリアン門)が控えていた。
本来、これらの 両施設(目下、クラクフ市歴史博物館の管轄下にあり、内部では城郭都市の発展史に関する資料や遺物が展示されている)の共通入場券は 9ズロチということだったが、この日は見学できなかった。。。

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上写真は、北城門「聖フロリアン門(ポーランド語発音:フロリアンスカ門)」の内側。ちょうど市城壁の内側に入ったところ。屋根が設けられた城壁沿いには、絵描き露天商らが複数、陣取りしていた。



北城門(聖フロリアン門)と、その 前哨要塞(バルバカン)

これら両施設は、城郭都市クラカウの北面を防備する要であり、また都市の正門としての役割を担ってきたという。
当時、王家一族(新国王即位のための戴冠式を含む)や 政財界要人、外国の特使らがここを通過して城下町に入城する習わしで、そのまま 聖フロリアン通り(Floriańska 通り)を中央広場まで南下し、さらに 城塞通り(Grodzka 通り)を経由して、ポーランド国王の宮殿「ヴァヴェル城館」まで移動していたのだった。
この楼閣付の 北城門(聖フロリアン門)が建設されたのは 1300年といい(当初はゴシック様式だった)、また、これを補完的に防備する 出丸(馬出し)スタイルの 前哨要塞(バルバカン)が建造されたのは、1498年という。

1241年のモンゴル軍襲来により、一度、灰燼に帰した王都クラカウは、ポーランド国王レシェク 2世の 治世下(1285年)、皇太子チャルヌィの指示により防衛力強化が図られる形で、再建工事が進められることとなる。このとき、北城門(聖フロリアン門)を含む、複数の楼閣付き城門と石積み櫓塔が、南に位置するヴァヴェル城館までの城下町全体を取り囲む形で配置され、それらを二重の市城壁が接続する構造で建設されたのだった。内城壁は厚さ 2.5 m、高さ 6~7 mほど、さらに内城壁の外周に、より低い外城壁が設けられる設計であった。その外周には 外堀(深さ 8 m、幅 22 m)が掘削されていた。このとき、北城門(聖フロリアン門)が城内への正門に定められ、以後、クラクフ毛皮商人商業組合によって門番が常時、配置されて管理されることとなる。
1473年ごろには、城壁沿いに石積み櫓塔が 17箇所、増設されており、さらに 1世紀後には 33箇所にまで増加されていたという。以後も引き続き補強工事が続行され、最終的に 47もの櫓塔(高さ 10 m級)と 8城門を有する城塞都市が完成を見るのだった。
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コズミン森の 戦い(1497年10月26日、ポーランド王国と モルダヴィア公国との間の紛争)の大敗などを経る中で、オスマン・トルコ帝国の脅威に直面したポーランド王ヤン 1世(オルブラフト。1459~1501年)は、城下町のさらなる増強工事を進め、各方位にゴシック様式の 前哨要塞(バルバカン)を建造する(1498年)。堀の反対側に設置された、この円形の前哨要塞は、長い石橋で各城門に連結されることとなった。また、1565~66年にかけて、兵器庫が 北城門(聖フロリアン門)脇に開設されている。

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この強固な防衛体制下で、オーストリア大公マクシミリアン 3世が主導した ポーランド継承戦争(1587~1588年)の初期、ポーランドに侵攻したオーストリア軍のクラクフ包囲戦や(1587年10月14日~11月29日)、 30年戦争末期のスウェーデン軍によるクラクフ包囲戦や(1655年と 1657年)、ポーランドーロシア戦争中のロシア軍による 包囲戦(1792年)を戦い抜くこととなるのだった。

なお、現存する聖フロリアン門(33.5 m)は 1660年に再建され、 1694年に長方形型のバロック様式へ全面改修されたもので、地表の土砂たい積に対応すべく、1 m地上げされたという。
また、楼閣の南面(城内側)には、カトリックの聖人 フロリアヌス(フロリアン)の全身レリーフが、大きな赤い旗を持った状態で飾られたため(現在の像は 18世紀製)、この命名につながったとされる。フロリアヌス(?~304?年)は 3世紀末に現在のドイツ・バイエルン東部で活躍したローマ帝国の将軍で、治安維持のため消防隊を組織するなど、善政を敷いていた人物であった。しかし、ローマ皇帝 ディオクレティアヌス帝(244~311年)の命に反し、キリスト教信仰を捨てなかったため、拷問を受け処刑されることとなる。その死後、煙突掃除人、消防士、釜炊き人らを中心に「火の守護聖人」として崇められることとなり、中央ヨーロッパで広く信仰されて、カトリック教会の聖人の一人に祀られたのだった。ここクラクフでも、都市を火災から守る守護神として崇拝されていたと考えられる。また、1882年には隣に石造りの鷲像も彫りこまれ、今日に継承されているという。

しかし、近代化に伴う経済発展により、都市は市城壁や外堀を越えて郊外へと急拡大し、これらの防衛設備群は単なる障害物とみなされるようになっていく。
また外国勢力によるポーランド分割後、100年以上もの間、市城壁の補修管理は放棄されたままで、すでにかなり荒廃していたという。外堀はヴィスワ川と連結されていたとは言え、市民らのゴミ不法投棄が蔓延して水質は悪化し、その不衛生に起因する健康被害の危険性が危惧されていた。このゴミ溜めと化した障害物に対し、当時、クラクフを併合していたオーストリア=ハンガリー帝国の皇帝フランツ 2世(1768~1835年。神聖ローマ帝国最後のローマ皇帝)が、ついに市城壁の撤去命令を下すこととなる。

直後より、自由都市クラクフ評議会で撤去作業に関する議論が繰り返される中、 1817年1月13日、地元ヤギェウォ大学(ポーランド最古の大学)の教授 フィリックス・ラドゥワンスキが議会で遺跡群の保存を訴える演説を行い、さらに二人の評議員が熱心に奔走したこともあり、一部の防衛施設群の保存が決定される。これが今に残る、北城門(聖フロリアン門)とそれに連結された前哨要塞(バルバカン)なのであった。つまり、このタイミングまで、内外の二重の市城壁と、47もの櫓塔はほぼ完全な形で残っていたとされる。
そして、この武装解除された直後に、1846年のクラクフ蜂起と 1848年のオーストリア軍によるクラクフ包囲戦が行われることとになる。皇帝軍により軍事的に鎮圧された結果、自由都市クラクフは終焉し、評議会は解散に追い込まれる。そして、反乱の主要メンバーらはブルノの城塞監獄に収容されていくわけである

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上写真に見える、北城門の並びの市城壁沿いに増設された 3つの櫓塔も現存されており(往時には、この 10 m級の櫓塔が 47あった!)、それぞれ、カーペンターズ(大工)の塔、ハバダシャ(紳士用装身具商)の塔、ジョイナー(建具屋)の塔と命名されている。これらゴシック様式の櫓塔内部には現在、簡易な祭壇が設置されているというが、一般公開はされていない。

また、1498年に建造された当地の 前哨要塞(バルバカン。上写真)は、欧州大陸で現存する 3つのうちの一つという。他に ワルシャワ(ポーランド。16世紀建造)と カルカソンヌ(フランス。13世紀建造)にも残っているが、このクラカウ市のバルバカンが最大かつ最も保存状態が良好で、その史跡価値が高く評価されている。なお、同じポーランドにあるワルシャワのバルバカンは、第二次世界大戦中にナチス・ドイツにより破却されたものを、大戦後に国民の手で忠実に復元されており、正確には中世期の遺構ではないため、余計にこのクラカウ側の史的価値が高いものとなっている。
当地の 前哨要塞(バルバカン)は、内部に直径 24.4 mの中庭を有する、円筒形のレンガ積み要塞で、上部には 7つの小塔が設置されていた。また、要塞の外壁は 3 mもの分厚さで、4列に並んだ 130の 小窓(銃眼)を装備したものであった。もともとは、北城門(聖フロリアン門)まで通じる専用道路で連結され、通路は防衛柵で保護されていたという。平時には、城内へ入る人々を監督する関所機能も担っていたと考えられている。



そのまま街道沿いに、旧市街地 を散策してみる。街並みは中世そのままの空間が保たれていた(下写真左は、城壁沿いのピヤルスカ通り)。
首都ワルシャワが第二次世界大戦中に徹底的に破壊されたのに対し、旧ポーランド王国の王都クラクフは戦災を免れ、古い町並みがそのまま保持されたことから、「クラクフ歴史地区」として世界遺産に登録される所以となったわけである。

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聖フロリアン通りの一本西隣の「シフィエンテゴ・ヤナ通り」を 5分弱ほど南下すると(上写真右は、1150年に最初に創建され、18世紀に全面改修された 福音記者ヨハネ&洗礼者ヨハネ教会)、中央広場に到着した。下写真左の中央には、聖マリア大聖堂と 織物会館(Sukiennice)が見える。

とりあえず、観光客が吸い込まれていた、重厚感のある織物会館内に入ってみた(下写真右)。
もともと生地商人らの取引市場が開設されていた場所で(14世紀~)、現在、ルネッサンス様式の二階建て巨大建造物となっている(全長 100 m)。 1階部分には民芸品や雑貨類を取り扱うショップが所狭しと入居し(下写真右)、 2階はクラクフ国立美術館となっていた。
こうした屋根付きの市場は、大陸欧州では非常に珍しいスタイルと言える。先に訪問したポーランドの ヴロツワフ もしかり、レグニツァ の野外ノミ市しかり、ポーランドはトルコ風アジア文化の影響を大いに受けている印象だった。

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この聖マリア大聖堂は、クラクフ司教 イヴォ・オドロヴォンシュ(1160~1229年)によって最初に創建されるも(1222年)、20年後の 1241年、モンゴル軍によるポーランド侵攻によって破壊されてしまう。そして、1290~1300年ごろに着手された復興工事を経て、廃墟の跡地に新しい教会が再建されることとなった(1320年完成)。

ポーランド王国の全盛期を作り上げたカジミェシュ 3世の統治時代であった 1355~1365年ごろ、地元の裕福な食堂経営者 ミコワイ・ヴィェジネク(?~1368年)の多額の寄付により、壮麗な大聖堂へと全面改修されることとなる。しかし、1442年に発生した大地震により、せっかくの大聖堂も倒壊してしまうも、すぐに再建工事が進められ、今日に残るゴシック様式の大聖堂が完成されたのだった。現存する高さ 81 mの 2本の尖塔と、内部の聖壇、脇のチャペルなどは、この時に建設されたものという。
なお、この聖マリア大聖堂(入場料 15ズロチ)の塔からは現在、1時間ごとにラッパ吹奏による「ヘイナウ・マリアツキ」という曲が流されており、当地に残る故事を今に伝える名物となっている。これは当時、火災などの急変を都市民に伝達する警報係として配置されていた塔上の番人の一人が、1241年2月のモンゴル襲来の際、その火急を告げる警報のラッパを塔上から吹き鳴らしていたわけだが、モンゴル兵の矢で射殺されてしまい、彼のラッパ音がぱたりと止んでしまった、という悲運のエピソードに由来するという。以後、この曲は長い間、古都クラクフをはじめ、ポーランド全土で愛され続けた名曲となっているらしい。



続いて、この会館の裏手にあったゴシック様式の旧市庁舎 鐘楼タワー(Town Hall Tower)への入場を試みるも(下写真。内部は、歴史博物館 別館となっている)、筆者の訪問した冬季には閉鎖されているようだったので、広場脇にあった歴史博物館 本館建物に行ってみることにする(12ズロチ)。

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この日は常設展示しかない、とのことで、奥の建物の 2Fへ行くように言われる(日本でいうところの 3Fに相当)。
3Dデジタル技術を駆使した古城時代の解説は、非常に見応えがあった。
ヴィスワ川沿いの丘上に城塞が建造され、麓の市街地にも城壁が整備されて、徐々に城域が拡張されていった様子が解説されていた。後にはヴィスワ川沿いの丘南麓と、川の対岸にユダヤ人居住区が設けられ、そこにも別の市城壁が築造されていった、ということだった(下絵図)。このユダヤ人地区は後程、訪問することになる。

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なお、この歴史博物館の別館を成す、旧クラカウ市庁舎の鐘楼タワーであるが、1820年に市街地の大開発と中央広場の拡張にともない、 脇に建てられていた 市庁舎建物(上段写真右)のみ破却された後、そのまま残された唯一の残存部分という。
1967年、このゴシック様式の塔は市により保存が決定され、歴史博物館の管理下に置かれることとなる。現在、この塔の頂上部は一般公開されており、市内のパノラマを一望できる展望デッキとなっている。なお、この塔の中央部には古い機械仕掛けの時計があり、頂上へ上る階段途中でその内部を目にすることできるわけだが、この時計はラジオ電波で管理され、本部基地からの電波を受信して正確な時を刻むシステムが導入されているという。

もともとは 14世紀末に石とレンガを積み上げて建造されたゴシック様式の塔であったが(高さ 70 m)、 1680年の落雷により全焼し、直後の 1683~1686年にバロック様式で再建されたという。しかし、1703年の大嵐により、塔は 55cm傾斜することとなり、ついに 1783年に頂上部が崩落してしまうのだった。 直後に、大司教 カエタン・ソウティック(1715~1788年)により、簡易な補強が施される形で頂上部が再建され、今日の姿の原型となっているという。特に中世期、塔の地下室は拷問部屋を兼ねた、監獄施設であったらしい。
また現在、塔の入り口部分には、一対のライオン石像で設置されているが、 1961~1965年の大改革の際、プワボビツェ在住の古典主義者だったマーティン家の 邸宅(19世紀初期に制作)からクラカウへ移転されたものという。



ここから、西面城壁跡地を散策すべく、ポーランド最古の ヤギェウォ大学(下写真左は本部建物)があるキャンパス・エリアを目指す。ビシルナ通り一帯は、学生街となっていた(下写真右)。

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この大学は現在、ポーランド第一位に君臨する総合大学であり、代表的な学生としては ニコラウス・コペルニクス(1473~1543年。1491~1495年に在籍し、学位取得なく、途中退学している。後に地動説を提唱する)が筆頭に挙げられている。当初はクラクフ大学という名称であったが、1817年にヴワディスワフ 2世ヤギェウォ(1362~1434年。ポーランド=リトアニア帝国を建国し、当時、欧州で最大版図を誇る国家を樹立した)にちなみ、ヤギェウォ大学へ改称されて今日に至る。

そもそもは、今でもポーランド人から「大王」として尊称される、カジミェシュ 3世(1310~1370年。富国強兵策を採用しつつ、近隣和平外交を展開してポーランド王国全盛期を作り上げた功績により、ポーランド人の誇りとされ、ポーランド・50 ズロチ紙幣の図柄に採用されている人物)が創立した大学機関で、当時、史上初のスラヴ人によるスラヴ人のため最高学府であった。 ちょうど同時代を生きたライバルの 神聖ローマ帝国皇帝カール 4世(ボヘミア王)が、王都プラハにカレル大学を創建したことに対抗すべく(1348年)、20年後に自国王都に創立させたものであった。当時、カレル大学は神聖ローマ帝国の王都に必須、という使命感から創立された関係上、領内のドイツ人やドイツ系住民を対象とした高等教育機関であり、ドイツ語文化圏最古の大学と評されるわけである

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そのまま大学キャンパスの南に広がる、フィルハーモニー公園を散策してみた。かつて、西面城壁と外堀が連なっていた場所である。上絵図。

現在でも古めかしいレンガ積の壁が延々と続いており(下写真)、聖フランシスコ教会、クラクフ考古学博物館などの巨大な施設が、広々とした空間に配されていた。

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そのまま緑地公園を一直線に南進していると、眼前にヴァヴェル城塞が姿を現す。下写真

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一般の観光客は、先の中央広場から南へ伸びる、カノニツァ通りを歩いて当地に至るようで、再び多くの観光客に混じることとなった。
早速、その人波に乗って、クラカウ発祥の地となった丘上に上がってみる。

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上写真左は、本来、ヴァヴェル城の正門があった場所と考えられる。現在、ヴィスワ川沿いの南面から入城する設計となっており、この旧市街地に最も近い入口は閉鎖されていた。
上写真右は、この正門前から旧市街地のカノニツァ通りを眺めたもの。

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ここの丘上城塞はあちこちが補修されてしまっており、外壁の石垣を含めて、あまり迫力を感じることはできなかったのが残念だった。

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ただし、城塞の南面真下にはヴィスワ川が流れ、こちら側は非常に要害であった。下写真。

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そして、このヴィスワ川沿いにある入口から、ヴァヴェル城塞の中庭へ入ってみる(下写真)。
この標高 228 mの丘上にそびえ立つ城塞を一見した訪問者は、さまざまな建物が混然一体となっている統一感の無さに唖然とされるかもしれない。これは、建設された年代が数百年単位の差があるためで、ゴシック様式やルネッサンス様式などの洋館が同時代的に存在することになった結果であり、その歴史的経緯を物語る生き証人たちなのであった。

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筆者が訪問した際、特に興味をそそられたのは、洋館や教会建物よりも、中庭の前面部に残されていた石積みの礎石遺構であった(上写真の緑地部分に見える)。中には古井戸も残されており、往時にはここにも何らかの建物があった証拠となっている。最初、「古代集落の跡か?」とも思ったが、どうやら中世期以降の遺構らしい(下の復元イメージ図参照)。

前面に見える教会や屋敷などの建物群は博物館を兼ねて有料だったが、この中庭エリアやお土産屋、トイレなどはすべて入場無料だった。非常に珍しい世界遺産だったと思う。
その中庭脇には、ATM機まで設置されていた。。。。下写真左。

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さて、ひと通り見学後、城塞の丘を東回りで下山する(上写真右は、バーナディン門。丘の麓にあるバーナディン教会から命名されている)。

下写真左は、このバーナディン門と、その脇に建造されていたサンドミエルスカ塔を見返したもの。

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上写真のように、緩やかな坂道が麓まで続いていたわけだが、これは 19世紀、この丘を軍事基地に全面改修していたオーストリア帝国軍により、大砲や馬を丘上へ運び込むために整備されたものという。
なお、坂道途中に見えた上写真右の櫓塔は、セナトルスカ塔(「ルビャンカ」とも別称される)で、15世紀に建設され、この丘上の城塞の中で最も高い櫓塔となっており、度々、この塔の真下で処刑が執行されてきたという。塔の内部自体は平時、王室の衣装用倉庫として使用されていたらしい。


この王城は、ポーランド王国(ピャスト朝)の創始者で、初代国王となったミェシュコ 1世(935?~992年)により、南の国境守備拠点として築城されたのが最初という(970年)。彼とその息子で 2代目国王・ボレスワフ 1世(966?~1025年)により、ポーランド王国は外交、軍事面で急成長し、王国の樹立を成し遂げたタイミングでもあった。

現在のような大規模な城塞となったのは、14世紀にポーランド王国の全盛期を作り上げたカジミェシュ 3世(1310~1370年)の治世下であったという。彼は、軍事・外交・内政の多方面においても大きな成功を収めたため、ポーランド人の誇りとして「カジミェシュ大王」と称えられる人物であった。
その後も建物群の増改築が繰り返され、16世紀に現在の建物の基礎となるルネサンス様式の宮殿へ全面改装されたという(下復元図)。しかし、その後の火災や戦災による破壊、さらに王都がワルシャワへ遷都されたこともあり(1596年)、ヴァヴェル王城は徐々に荒廃していくこととなる。

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1609年の国王ジグムント 3世(1566~1632年)による当地訪問を最後に、ヴァヴェル王城に永久に国王が戻ることがなくなると、旧王城を管理する役人が派遣されるも、王城の広い敷地はしっかりしたメンテナンスが行き届かなくなり、荒廃が進んでしまう。そうした中で、30年戦争が勃発し、スウェーデン軍がポーランド、ドイツ一帯を席巻すると、この旧王城も簡単に占拠されてしまうのだった(1655~1657年と、1702年の二度)。

さらにポーランド分割反対派が決起したポーランド内戦下の 1794年6月15日、プロイセン軍によってクラカウが占領されると、ますます城塞の破壊が進むこととなる。この時、ポーランド王の戴冠の剣から王家の勲章がはぎとられてベルリンへ持ち去られ、溶かされて金や宝石、真珠へと解体されるなど紛失してしまい、目下、残存部分のみベルリン海運業本部に保管されているという。
翌 1795年の最後のポーランド分割後、ポーランド王国は完全に消滅し、ヴァヴェル城塞はオーストリア帝国の管理下に組み込まれる。直後に、オーストリア軍は丘上の王城跡を大改修し、近代的な軍事基地へと変貌させる。このタイミングでさらなる大規模破壊が進み、また地形も大いに加工が加えられてしまうのだった。その一つが、上で歩いた城塞南面の坂道である。この時、聖ミカエル教会と聖ジョージ大聖堂も同時に破却されたという。

1846年2月のクラカウ蜂起の失敗後、オーストリア帝国により自由都市クラカウの特権ははく奪され、城塞は治安維持のための駐屯軍により、さらなる大改修が加えられると、3棟の病棟を含む軍病院が開設されることとなった。また、この時期、ヴァヴェル城塞以外にも、郊外に軍事基地が 2か所、追加整備され、クラカウは軍統制下に置かれたのだった。以後、度々、ポーランド住民らにより、城塞の丘の返還請求がオーストリア帝国軍に提出されるも、ことごとく却下されることとなる。しかし、歴代国王の遺体を安置した棺桶や墓所などの再整備は許可され、ポーランド市民らによって丁重に保存作業が進められる。

1905年、ついにオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ 1世(1830~1916年)により、城塞基地からの軍徹底が決定され、丘上の施設群は地元ポーランド人に返却されることとなった。第一次世界大戦後、再独立を果たしたポーランド共和国により、さらなる再建と修復作業が進められ、大統領官邸として使用されるも、第二次世界大戦時にドイツ軍が進駐すると、新統治者として派遣されてきたポーランド総督 ハンス・フランク(1900~1946年。戦後にニュルンベルク裁判で死刑となる)の居館に定められる。この時代、市民によって長きにわたって整理、保護されてきた、王城内の多くの装飾品が紛失されることとなった(戦後、カナダ等へ散逸していた装飾品や美術品の一部が返還されている)。
その後もポーランド人によって丁寧に復元作業が進められ、ついに 1978年、ヴァヴェル城塞がクラカウ旧市街地の筆頭遺跡として、世界遺産に登録される。長年にわたる市民の努力により、現在でも敷地内には歴代国王の戴冠式が執り行われた ヴァヴェル大聖堂や旧王宮、王の棺などが、見事に修復、保存されている。



下写真は、坂道を下り切った麓から、ヴァヴェル城塞を見上げたもの。ちょうどこの交差点に、路面電車「ヴァヴェル駅」があった。

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そのまま大通り「ストラドムスカ通り」を南進し(下写真)、ユダヤ人地区を訪問してみた。それまでの観光地エリアと比べると、明らかに物寂しい雰囲気が蔓延していた。

特に気になったのは、大陸中国の南部に見られる騎楼のような建物群だった。これは チェコ・プラハブルノ にもあり、アジアやイスラム文化の影響かと思われる。

クラカウ クラカウ

しばらくすると「ディエトラ通り」という、中央に緑地帯を有する道路に行き当たる(下写真左)。かつて、ユダヤ人居住区と古城地区との間にあった河川の跡地である。この河川の両岸にも、市城壁が張り巡らされていたわけである。

すぐ先に、アレクサンドリアの聖カタリナ教会があった(下写真右)。この一帯は、スカウカ教会などの 教会施設群や修道院、尼僧用建物が連なる、厳かな宗教的空間が広がっていた。

クラカウ クラカウ


この広大な宗教施設群の敷地が誕生した経緯であるが、それはポーランド王国随一の名君とされるカジミェシュ 3世(1310~1370年)の治世時代にまで遡るという。
当時、若かりし国王カジミェシュ 3世は好色にふけった生活を送っており、これを見かねた王都クラカウのカトリック司教長ヤン・ボザンタが、教会の牧師マルチン・バリチュカを特使として国王のもとへ派遣し、その自堕落な生活を諫める伝言を伝えると、これに激怒した国王は、この特使の牧師をヴィスワ川に沈めて処刑してしまう。しかし、ローマ教皇クレメンス 6世(1291~1352年)に破門にされることを恐れた国王は司教会に陳謝すると、教皇は国王の罪を不問とし、その代わりに領内に数多くの教会新設に尽力するように依頼を出す。こうして国王自ら主導する形で、数多くの教会がポーランド国中に建設されることとなり、カトリック教会は棚からボタ餅式に勢力拡大のきっかけを手に入れたのだった。
その一環で新設されたものが、この聖カタリナ教会であり、また聖マーガレット教会なのであった(1343年ごろ)。特に、聖カタリナ教会奥の修道院敷地は、先の処刑で水死した牧師が埋葬されていた場所という。国王はこれらの建設を聖アウグスチノ修道会に委託したため、以後、それらの管理もこの修道会が今日まで担ってきたのだった。

工事を経る中で、このヴィスワ川沿いの広大な敷地には、ゴシック様式の教会関連施設がたくさん建ち並ぶようになるも、それらが完成される前に巨大地震が発生し、河川氾濫と火災により完全に灰燼に帰してしまったという。直後より再建工事が着手され、数百年かけて作業が進められている中、大国間どうしの陰謀によるポーランド第三次分割に巻き込まれ、クラカウがオーストリア帝国領に編入されると、この川沿いの広大な敷地は 1846年2月のクラクフ蜂起を機に増派された帝国駐留部隊の基地に転用されることとなった(19世紀中期)。しばらくして駐留部隊が撤退すると、再び聖アウグスティヌス修道会へ返却される。今日に継承されるゴシック様式のこれらの宗教建築群は、こうした波乱の歴史の生き証人なのであった。
現在、聖女の祝日 11月25日、修道会自体の祭日 8月28日、修道女リタの祭日 5月22日などで、毎年、多くの信者を伴って盛大な祭典が催されているという。



再び、路面電車が走る大通り「ストラドムスカ通り」に戻ると、正面にクラクフ民族学博物館が見えていた(下写真左、のっぽな緑屋根)。

この前の細い路地を東進すると、斜め前に広大な庭を持つ 教会「コーパス・クリスティ大聖堂」があったので、その敷地を軽く散策してみる(下写真右)。ここも、先の国王カジミェシュ 3世の治世時代に建立された教会で(1335年)、特にその広大な敷地から 15世紀以降、修道院として利用されてきたという。

クラカウ クラカウ

その北側にノビ広場があり、庶民の屋外マーケットが広がっていた(下写真左)。屋台でサンドウィッチやホットドックが売られており、この日も多くの若者たちが軽食を楽しんでいた。

このユダヤ人地区は、旧市街地区のように手入れされていない分、年季の入った古民家や建物、路地が散見された。一部は富める者となったであろうが、基本的には長らくシナ地区と呼ばれる貧民街だった場所で、今でも物寂しい名残りを町の節々で感じた。このノビ広場のマーケットのみ、にぎやかな雰囲気だった。

クラカウ クラカウ

そのまま 1ブロックほど北上してミオドバ通りに至ると、急に立派な シナゴーグ(ユダヤ教寺院)が目の前に現れる(上写真右)。裏手には、地元ユダヤ人のためのコミュニティ・センターが併設されていた(後方のガラス窓の建物)。


当地のユダヤ寺院は 1860~1862年に建設されたもので、地元では「ムーア人の復活」と別称されているという。寺院自体は中央部の高い建物をメインとし、左右対称に翼状に伸びた部分で構成され、ちょうどオーストリア首都ウィーンにあるレオポルトシュタット・テンペルと同じデザイン設計となっている。
その機能は礼拝所のみならず、ユダヤ人住民のための集会所であり、またコンサート施設となっているらしい。特に、感謝祭の祭りでは、多くの人でごった返すという。

建立当時、クラカウの町はオーストリア=ハンガリー帝国領の一部で、多民族に寛容な政策もあり、壮麗な装飾で飾られたシナゴーグだったらしいが、第二次世界大戦中、当地に進駐してきたナチスドイツによって破壊され、その建物は軍の弾薬庫として使用されて荒廃してしまったという。
戦後、再びユダヤ人住民らの手により礼拝堂として改修される。1985年まで旧礼拝堂が使用された後、世界中からの寄付により、1995年から全面改修工事が着手され、 2000年に完成されたものが、現在の建物となっている。

クラクフの町には、当地区を中心にかつて大規模なユダヤ人居住区が広がっていたが(1241年のモンゴル襲来により壊滅した王都を復興するため、多くのユダヤ人らの移住が奨励されたことに由来)、当地のユダヤ人らが第二次世界大戦中、ここから 2時間離れた場所に開設された アウシュビッツ強制収容所(ポーランド南部のオシフィエンチム市)に、片道切符で送り出され犠牲になったのだった。



さて、再びホテルまで戻ることし、ユダヤ人地区を後にする。
先程の 路面電車「ヴァヴェル駅」の交差点まで戻り、聖ジャイルズ大聖堂(下写真左)の脇から、人通りの少ないグロツカ通りを一直線に北上した。途中、聖アンドリュース教会、聖ペテロ&パウロ教会などを経由しつつ、まっすぐ進んでいると、三位一体教会(下写真右の正面に見える、茶色壁の建物)が建つドミニカンスカ通りに至る。

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ここを東進すると、環城公園 にたどりついた。かつての東面城壁(高さ 6~7 m、厚さ 2.5 m)と 外堀(深さ 8 m、幅 22 m)が立地した跡地である。なんと延々、当時の城壁跡の土台遺構が残されていた。下写真。

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下写真左は、途中で見かけた教会の外壁の一部。城郭都市時代、教会の外壁なども城壁と融合していたのだろうと推察される。

この環城公園の北端には、第二次大戦時か、共産主義時代に設置された軍事用トーチカと思わしき、コンクリートの突起物も保存されていた(下写真右)。

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下地図は、本日の移動ルート。

クラカウ

15:10にホテルに帰り着き、トイレを借りてから荷物を回収すると、そのまま 駅ショッピングモール「ガレリア・クラクフスカ」へ移動する。 KFC隣のケバブ店で 16.5ズロチのセットを頼んだ。チリソースがかかったチキンと野菜だけの食べ物だったが、とてもおいしかった。
コインを使い切るべく、KFC前のスーパーでザラミと水を買う(15:45)。紙幣 110ズトチと 50セントぐらいが余り、次回のポーランド訪問までキープすることにした。


16:00発の ブルノ(チェコ)行バスに乗車すべく、ギリギリでバス・ターミナルに到着するも(15:50)、待合スペースにあった電光掲示板などに一切、案内はなく、非常に焦った。そして、売店のおばさんに質問し、地下ではなく、地上 2Fが発着場所だと教えてくれた。すぐ目の前のエレベータで上へ上がる。Information の女性に確認し、17番ゲートに行くように指示される。こうして、なんとかギリギリで、バス乗り場にたどり着けた。ちょうど乗客が並んで乗車しつつ、自分たちの荷物をトランクルームに積み込んでいる最中だった。
運転手に ブルノ??と聞くと、トランクルームに積め、という。電光掲示板にはブルノの文字は全く無く、最終目的地のみ掲示されているので、初めての客には絶対、乗車ホームは分からないと思う。

予定通り、バスは出発する(16:03)。ポーランド国内の高速道路はきちんと舗装されており、全く揺れを感じなかった。ここから国境をまたいで、チェコ第二の都市ブルノ入りすることとなる(20:40着予定)
事前のネット予約で、9ズロチ + 座席選択 5ズロチ + カード手数料 1ズロチ = 15ズロチだった。



クラクフ市の 歴史

現在、ポーランド最長の河川であるヴィスワ川沿いにあって、ヴァヴェルの丘上には、石器時代にすでに集落が形成されていた痕跡が確認されているという。
この河川交易を通じて発展を続けたクラクフの町であったが、876~879年にはスラヴ系民族のモラヴィア王国の領土に併合されるも、ハンガリー人の侵入にあってモラヴィア王国が滅亡すると、そのままハンガリー人の支配を受けることとなる。さらに 955年には、これを排除したボスニア王ボレスラフ 1世(915~972年)の率いる、ボヘミア王国(王都プラハ)の支配下に組み込まれるのだった

そして、ボヘミア王国に接近した地元豪族のミェシュコ 1世(935?~992年)が、晴れてポーランド公に任命される。彼はボスニア王ボレスラフ 1世の娘を娶ってボスニア王国との縁戚関係を基に台頭し、ピャスト朝ポーランド王国の建国に成功するのだった(王都は、現在のポーランド中央部にあるグニェズノ)。その子のボレスワフ 1世(966?~1025年)は、さらに軍事と外交力を駆使してポーランド王国の勢力伸長を成し遂げる。そして、その孫のカジミェシュ 1世(1016~1058年)の治世下、ボヘミア王国の軍事介入などで王都グニェズノが灰燼に帰すと、このクラクフへ王都が遷都されるのだった(1038年)。
これ以降、ヴァヴェル王城内には、教会群を含め、多くのレンガ積みの建造物が増築されていく。ここから 1569年までの約 550年間、ポーランド王国の王都として栄えるも、 1241年2月にモンゴル軍の襲来を受けた際、王都は焦土と化してしてしまうのだった。この時、王都から脱出していたポーランド国王ヘンリク 2世ポボジュヌィは、同年 4月9日に残党兵を集結させ、レグニツァの大平原でモンゴル軍に陸戦を挑んで大敗し、戦死に追い込まれる(下地図)

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その後、徹底的に蹂躙されたポーランド王国は内部分裂し、モンゴル支配地や各地の豪族、貴族らが割拠する戦国時代を迎える。そんな中で皇位を継承したボレスワフ 5世(1226~1279年)により、 1257年、王都クラクフの再建工事が大規模に進められるのだった。この時、ヴロツワフ の町を参考にし、税制優遇や交易特権を市民に与えることで、都市の権利を高めて内発的発展を促す手法が採用されたという。また、激減した人口を補填すべく、大量のドイツ人、ユダヤ人らの移民も奨励された。
しかし、1259年に再び、モンゴル軍の襲撃を受け、再建途上の王都は再び灰燼に帰したのだった。 1287年にもモンゴル軍の第三次攻撃があったが、この時は新たに整備された城塞設備により、モンゴル軍の撃退に成功している。

1335年、ポーランド王カジミェシュ 3世(1310~1370年)の治世下、まだまだ城下町の再建が途上であったことから、引き続きユダヤ人の移住が大規模に進められ、彼らには河川交通に適したポイントということで、ヴィスワ川の中洲エリアの土地が与えられ、自治特権が付与されることとなる。
同時に、城下町の西に形成されていた郊外地区 2箇所も王都クラクフに編入され、城下町全体を自身の名にちなんでカジミェシュ地区と命名する。1362年には、城下町カジミェシュ地区の市城壁に全面改修が加えられる。

また 1364年には、同王により クラクフ大学(後にヤギェウォ大学へ改称)が創立されると、王都はスラブ民族の中心都市として多くの人材が集うこととなった。中欧で プラハ・カレル大学 に次いで、二番目に古い大学として記録される大事業であったが、さらに同王は自身の名を冠したばかりだった城下町カジミェシュに、二つ目の高等教育機関の新設を目論んでいたが、1370年に死去したため、ついに開学にまで至らなかったという。

以後、クラクフ市はポーランド王国の王都であり、またハンザ同盟の加盟都市として、多くの職人や商人、各種商工業組合、芸術家などが集結し、さらに中欧エリアでの数少ない大学の存在と王立裁判所などの開設により、ポーランド文化の都として大いに花開くこととなった。その黄金期は 15~16世紀に訪れ(下地図は、1530年当時のポーランド王国最大版図)、この時代に旧市街地の中央広場に現存する、織物取引所や聖マリア教会などの壮麗な建物が次々と建てられていったわけである。同時にカジミェシュ地区でもユダヤ人によるシナゴーグ寺院が多数、創立されると同時に、ボヘミア地方から次々とユダヤ人が流入し人口を増やしたことから、川の対岸にも居住区を拡張し、カジミェシュ地区評議会から追加的に市城壁建造の許可を得ることとなった(1608年)。

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1572年、ポーランド王ジグムント 2世が子宝なく死去すると、ヤギェウォ朝が断絶する。貴族(シュラフタ)運営の 身分制議会(セイム)勢力が強まり、王権の弱体化が進み、形式上のポーランド王位は、選挙によりフランスのアンリ 3世(ヴァロワ朝最後の フランス王)が継承することとされた。以後、短命の外国人君主が順次、ポーランド国王を継承するも、こうした政治の不安定化は、王都の重要性を低下させることとなる。
この時期、徐々に王国の中心は北のワルシャワへと移行しており、ついに 1596年、ジグムント 3世(1566~1632年)は、ポーランド・リトアニア連合王国の王都を、正式にクラクフからワルシャワへと遷都する。

都市クラカウの衰退にさらに拍車をかけたのが、17世紀前半の三十年戦争、 18世紀前半の大北方戦争でのポーランド全土の 荒廃(旧王都クラクフにもスウェーデン軍が乱入して強奪の限りが尽くされた)と、ペスト大流行であった。この時期、20,000人ものクラカウ市民が死去したという。そして、国力の弱ったポーランドは 18世紀後半、大国間の陰謀によりポーランド分割が行われ、完全に王国が消滅に追い込まれるのだった。クラクフを含む王国南部がオーストリア帝国領に組み込まれると、オーストリア領ガリツィアへ改称される(下地図)。

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1846年2月、市民らが反オーストリア帝国を掲げてクラクフ蜂起を起こすも、帝国軍により鎮圧されると、都市の自治特権まで奪われてしまい、駐留してきたオーストリア帝国軍の軍政下に置かれる。それでもクラクフはポーランド文化の中心地として、ポーランド市民にとっては心の故郷として留保され続けるのだった。

第一次世界大戦を経て、1918年に オーストリア=ハンガリー帝国が解体され、ポーランド共和国として独立するも、第二次世界大戦期にドイツ軍の占領を受けることとなる。このとき、ポーランド総督に任命されたハンス・フランクは、クラクフのヴァヴェル城に入居して首府とし、ポーランド統治にあたっている。1945年、ソ連軍により軍事解放された後、ポーランドは共産圏に組み込まれて再独立を果たすのだった。

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