BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
『大陸西遊記』ホーム 中国王朝年表

訪問日:2018年2月中旬 『大陸西遊記』~


チェコ共和国 首都 プラハ市 ~ 市内人口 220万人、一人当たり GDP 24,000 USD(全国)


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  チェコ 第 2の都市・ブルノから 都市間バスで 首都プラハ入り(79コルナ、2時間半)
  バスターミナル(Praha Florenc)から、マサリク駅 や プラハ中央駅を歩く
  ギネスブックにより「世界最大の複合城塞施設」と評される プラハ古都マップ
  観光税(人頭税形式 15コルナ or 60ユーロセント)と プラハ現代マップ
  旧市街の 城壁跡地(ナ・プシコピェ通り)と 火薬塔(火薬門)
  火薬塔上から見る チェコ国立銀行 と ヴィートコフの丘(ヤン・ジシュカ銅像)、古戦場跡
  火薬塔から プラハ王城、城壁、旧市街地を 一望する
  旧市街地(プラハ歴史地区)を歩く ~ 中央広場、聖ニコラス教会、旧市庁舎、いけず石
  フス派(新教徒派)の 牙城・ベツレヘム礼拝堂 と 小さなドーム型教会
  プラハ 城郭都市マップ
  ヴルタヴァ川 沿いを歩く ~ クランナーの噴水、スメタナ博物館、カレル橋
  1503年完成の カレル橋を歩く ~ 旧市街橋塔 と 見事な彫刻群
  【豆知識】ヴィシェフラット城塞の 歴史 ■■■
  プラハ城郭都市 絵図
  ヴルタヴァ川 西岸地区を歩く ~ 川上の砂州の今昔、モステツカ通り、スミジツキー宮殿
  マラーストラナ広場の 聖三位一体柱 と 聖ニコラス教会(モーツァルトの パイプオルガン)
  プラハ王城 と ペトシーン公園内に 現存する「飢餓の城壁」
  プラハ中央駅前から 空港への専用バス AE に乗る(60コルナ、30分)
  【豆知識】プラハ市 歴史年表 ■■■




この日は、チェコ 第 2の都市・ブルノ(Brno)から、長距離バスで首都プラハ(Prague / Praha)入りした。
昼前に、ブルノ駅前のホステルをチェックアウトして、最寄りのケバブ店「ROJ KEBAB」でテイクアウトし(95コルナ)、駅横のバスターミナル(Hotel Grand 前)から大型バスに乗り込む(下写真)。座席指定はなく、また乗客も少なくガラガラ状態だった。
バス車内で、テイクアウトしたものを昼食代わりにほおばった。

プラハ

なお、このバス乗車券は、前日にバスターミナル(Grand Hotel前)にあった FLiXBusのチケット売り場で直接、現金購入したものだった(上写真の右端)
その料金表には、11:00発 79コルナ、11:40発 234コルナ、 12:00発 79コルナ、12:40発 234コルナ、、、という案内があり、異様な値段差にビックリしたが、特に急いでなかったので、安価な 12:00発のチケットを購入しておいた。この高額バスは高級仕様タイプとか、寝台タイプなのだろうか??なお、バス乗車券はネット予約も可能で、FLiXBus、AMS Bus社など 3社が運行しているようだった。
予定通り、バスは正午 12:00ちょうどに出発する。本来は、14:30にプラハ着予定だったが、 14:15と早めに 到着する

プラハ

巨大なバスターミナル(Praha Florenc。上写真)に降り立つと、他の多くのバス利用客に交じって徒歩で市街地へと向かう。すぐに、最寄りの地下鉄駅「Florenc」に到着した。

地図上では、筆者の宿泊予定のホテル近くのはずだが、いまいち、現在地がつかめず最初は苦労した。何度か、地下鉄下まで降りるなど(下写真左)、無駄な往来を重ね、周囲の人に聞きながら、だんだんと現在地が分かってくる。

プラハ プラハ

なんとか道路脇の地図を確認しながら徒歩移動し、中央駅を挟んで真逆に位置していた宿泊予定のホステルを目指す。
路面電車沿いにソコロヴスカー通りを西進し、ハヴリーチコヴァ通りの交差点を南進する。すると、かなり年季の入った古い駅舎前を通りかかる(上写真右)。
ここは、プラハ・マサリク駅(チェコスロヴァキア初代大統領トマーシュ・ガリッグ・マサリクに由来)で 1845年に開設されたプラハ初の鉄道駅という(チェコ国内初は、1839年開設のブルノ鉄道駅)。古いヨーロッパの駅らしく、先頭車両から電車がホームに入り、最後尾から出発するホーム設計だった。かつては、ウィーンやドイツ・ドレスデンへの国際列車も運行されていたらしいが、現在は近距離列車のみが発着しているという。

そして、駅南面のヒベルンスカー通りを東進し、最初の交差点でオプレタロヴァ通りを南進すると、急に視界が開けて緑地公園に至る。通行人たちがたくさん出入りしていたので、筆者も同じく公園に入ってみると、その後方に巨大なプラハ中央駅プラハ・フラヴニー・ナードラジー Praha hlavni nadrazi (Praha hl.n.)が駅舎を構えていた。
こちらの駅舎は 1871年に開設されたというが、駅構内は真新しいモダンな雰囲気で、先ほどの古いマサリク駅とは 1世紀ほどのタイム・ラグを感じる差だった。ここは目下、多くの外国人観光客が利用する国際列車の発着駅となっている。
そんな駅舎の差にビックリしながら、駅前公園を通過し、一路、ホステルを目指す。なお、この駅前公園はかつて存在した、長大な外城壁が立地した場所である(建造は 1350年代)。下地図の赤〇

プラハ

そして、ようやく 15:00過ぎにロビーに到着できた。
ここは、ホステル・オプレタロヴァ (Hostel Opletalova)というホステルで、シャワー、トイレは共同だったが、寝室はツイン部屋を一人料金で宿泊させてもらえた(アゴダ料金込で、29.33ユーロ)。
チェックイン時、都市税という名目で、15コルナ or 60 ユーロセントを払わされる。これは人頭税方式で、一人あたり、という換算額だった。ホテル予約サイト「アゴダ」では決済されず、当日、チェックイン時に現場で、ホテルが徴収する義務を負っているようだった。 フランス・パリ でも同様に、ホテル予約サイトとは違う、人頭税方式でチェックイン時での現金徴収があった。カード決済はできないので、注意したい。

ここのホステルのスタッフはともてフレンドリーな女性で、いろいろお勧めの観光地を地図で説明してくれた。例のアールヌーボービルの屋上にあるカフェは特別にお勧めよ💛とのことだった(具体的な名称を言ってくれたと思うのだが、聞き取れなかった。。。)。翌朝早くのフライトで、空港バス乗り場に近いロケ―ションから選択しただけのホステルだったが、結果としては、正解だったと思う。
ここまでの移動ルートは、下記の赤ライン。

プラハ

部屋に荷物を置くと、すぐに外出する。
先程の古いマサリク駅前まで戻り(下写真左)、その西に見えていた、 火薬塔(火薬門)を目指す(下写真右)。

プラハ プラハ

間もなく、火薬塔(火薬門)に到着する(下写真)。この塔は、かつての市城壁に設けられていた、ゴシック様式の楼閣を有する城門跡である(とは言っても、この楼閣塔が建設された 1475年当時には、さらに外周に外城壁が建造されており、内側の城壁は無用の長物と化していた)。

写真右半分のアールヌボー様式の洋館はプラハ市民会館で、クラシックコンサートなどが開催されるという。ここの 1Fに入るカフェは、高い天井と大きな鏡、窓、シャンデリアなどが見応えのある有名店らしい。
プラハ


このプラハ市民会館(Municipal House)の場所は、かつてボヘミア王が居住した宮殿跡地である。1383年のヴァーツラフ 4世時代から、対立王時代の 1485年に国王一家がプラハ王城へ引っ越しすまでの期間、王宮として機能したが、その後、建物は徐々に管理が行き届かなくなり廃墟と化す。ようやく 20世紀初頭に解体され、1905年に現在の洋館建設が着手されたというわけだった(1912年に完成)。 1918年、この建物でチェコスロヴァキア共和国の独立が宣言されることとなる。

そして、この宮殿に連結するように建造されたものが、火薬門(Powder Tower)であった(2F部分に渡り廊下が設けられていた)。
この城門は、もともとは「聖アンブローズの塔」と通称されていたが、ヴァーツラフ 2世(1271~1305年)の治世時代に「山の塔」へと改名され、全面的に建て替え工事が着手される。その名前の由来は、王室直轄の銀山があった、クトナー・ホラの町へと続く街道が連結されていたことに由来する。

神聖ローマ皇帝を兼ねた名君カール 4世(1316~1378年)の治世下、旧市街地の外に新市街地が新設されると、旧市街地を取り囲んだ城壁は無用の長物となり(当時、市城壁には 13城門が設けられていた)、そのまま補修されなくなった「山の塔」城門も荒廃し続け、プラハ市民から邪魔者扱いされるようになっていく。それでも、新市街地から旧市街地へ入るための城門として、引き続き、存続し続けた。

そして、次王を継承したヴァーツラフ 2世(カール 4世の次男)が新邸宅として、この「山の塔」脇に宮殿を建設することとなる。それから 5代を経て、ボヘミア王にウラースロー 2世(1456~1516年)が即位した直後、この戴冠を祝うプラハ市評議会によって「山の塔」の建て替えという形で、新しい楼閣門が献上されることとなる。国王の宮殿に隣接して再建されることとなったため、町のシンボルとしても壮麗なデザインで設計される(1475年に工事着手)。以後、防衛のための城門というより、王宮や町の装飾品としての機能が期待された楼閣門(「新塔」と通称された)は、税関収集品を貯蔵する倉庫として使用されることとなる。当時、土地は今よりも 9m低く、往時の建設遺構が今も地下深くに眠っているという。
しかし、ウラースロー 2世は、市民の間で沸き起こる塔不要論と度重なる宗教抗争に辟易し、この新塔の完成を待つことなく、1483年から大規模改修工事が着手されていたプラハ王城へ引っ越ししてしまうのだった(1485年)。以後、王室は旧宮殿や新塔に立ち寄ることはなかったという。
このため、プラハ市民らは新塔に興味を失ってしまい、無用の長物として存続か破却かの議論が巻き起こる。とりあえず工事の完遂が決議されるも、最後の天井部分は簡易な補強だけで急ぎ終了された痕跡が今も残されているという。そのまま長い間、使用されていなかった新塔であるが、17世紀に火薬倉庫として転用されることとなり、それが現在の命名につながっているわけである。

1757年にプロイセン軍がプラハを包囲した際、砲撃により塔は大いに損壊する。 1799年にようやく破損部分が撤去されることとなった。
1836年、ボヘミア王として即位したオーストリア帝国皇帝フェルディナンド 1世(1793~1875年)が即位&戴冠のため、この城門を通過し、プラハ王城内にあるプラハ大司教の本部「聖ヴィート大聖堂」までパレード行進を行うに際し、この火薬門が行列の入り口門に定められる。なお、フェルディナンド 1世は 1848年の 3月革命を期に、逃亡先のオロモウツで退位を余儀なくされ、続いて甥のヨゼフ 1世(1830~1916年)が即位すると、同じくこの城門を通過して戴冠式が挙行されたという。以後、フェルディナンド 1世はプラハ王城で 30年近い余生を送ることとなる。
彼の死の直後にあたる 1876から 10年にかけて、火薬門はネオ・ゴシック様式に全面改修される。この時、設計者のヨーゼフ・モッカーは、カール橋に設けられた旧市街橋塔(Old Tpowen Brigde Tower)を参考にデザインしたという。現存する壁の彫刻群や塔内の 186階段も、この時に完成されたものである(高さ 65m)。




その前に通る直線通りは、ナ・プシコピェ通り(堀上にある通り)と命名されている。下写真。

「百塔の街」として名高い中世都市・プラハであるが、もうこの街には市城壁はない。 1760年、旧市街を囲んでいた内城壁(高さ 10m、全長 1,700m)は取り壊され、その外周に掘削されていた水堀の埋め立てに使われてしまったという。これよりさらに外側に、新市街地を内包して取り囲む、総延長 3.5km、高さ 6mの外城壁がすでに存在していたため、城内を分断していた内城壁が撤去されたというわけだった。

プラハ プラハ

とりあえず、旧市街地(歴史地区)を俯瞰したいと思い、火薬塔(火薬門)に上ってみた(100コルナ)。
上へ登る狭い塔階段や木製の古い床板などは見応えがある。上がる人と降りる人がすれ違う度に道を譲りあう状態は、観光客へのプラハのいたずら、といった趣きだった。この不便さもまた、訪問者たちには刺激的であり、小さなイベントなのだろうと感じた。下写真は、頂上部の内外の様子。

プラハ プラハ

この塔上 からは、絶景を堪能できた。

下写真は、東方向。ちょうど筆者が歩いてきた、鉄道駅がある方向だ。
下写真の右下にある灰色の建物は、チェコ国立銀行。チェコ紙幣コルナを発券している。ちょうど、「堀上にある通り」沿いに位置していた。

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なお、この写真中央に見える小山はヴィートコフの丘で、フス戦争前半期、フス派のチェコ人らを率いて連戦連勝した将軍ヤン・ジシュカ(Jan Žižka、1374~1424年)の銅像が建立されている(世界第三位の巨大ブロンズ騎馬像)。彼は、1420年6月12~14日にカトリック派に加わった神聖ローマ皇帝ジギスムント配下の正規軍をこの丘で迎撃し、大勝利を収めている(下絵図)。かつて、このエリアは皇帝ジギスムントの父カール 4世の葡萄農園が広がっていたという。
あわせて、丘上にはチェコと、チェコスロバキアのために殉じた人々を祀る慰霊塔と紀念堂も設けられている(1928~1938年に建設)。

ブルノ(Brno)から到着したバスターミナル(Praha Florenc)から、よく見渡せた丘だった(冒頭写真参照)。
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下写真は、西方向。プラハ王城と、それに続く旧市街地を一望したもの。このすべてが城壁で囲まれていたわけである。
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下写真は、北方向。

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下写真は、南方向。写真左下の灰色建物は、先ほどのチェコ国立銀行。眼下の通りがナ・プシコピェ通り(堀上にある通り)で、かつて内城壁と水堀が設けられていた場所だ。

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火薬塔(火薬門)を下りて、そのまま旧市街地(プラハ歴史地区)を抜けて行く。下写真
さすが「歴史地区」に指定されたエリアだけあって、観光客がうじゃうじゃいた。この一週間、筆者が訪問してきたチェコ、ポーランドの中小都市にあった古城なんて全く見向きもせず、このプラハだけしか見どころがないと言わんばかりの人・人・人のごった返しよう。「世界遺産登録」のブランド力は、ビジネスに直結することを見せつけられる。この旧市街地は完全に観光客用のショッピング・ストリートで、全く興味を惹かれなかった。

また物価も高騰しており、チェコやポーランドの地方都市に比べて、国際的観光都市プラハのそれは圧倒的に高かった。 国内第二の都市ブルノ の 2~3倍は普通にしていた。この都市だけが世界水準のマネーが飛び交っている雰囲気だった。人口約 1000万人ほどの小国チェコがユーロに加入せず、自国通貨を堅持できるのも(2018年現在)、この世界的観光都市の存在があるからだろう。当然、プラハ市内は何でもかんでもが、カネ・カネ・カネで、どこのトイレも有料だった(15コルナ or 60 ユーロセント)。その他の中小都市では、無料が多かったのに。

プラハ プラハ

広い中央広場(プラハ旧市庁舎前)にたどり着いた。

下写真の中央の教会は、聖ニコラス教会(聖ミクラーシュ教会)。プラハ市のフス派信者にとって非常に重要な教会で、毎週日曜日の朝にはミサが開かれている。しかし、地元プラハ市民にとっては、毎夜のクラシック・コンサート会場としての方がよく知られる。教会建築の独特の音響効果もあり、聴衆を圧倒する演出に定評があるという。
なお、ヴルタヴァ川の西岸側(レッサー タウン地区)にも、同名の教会がある。同一の建築家が同じような建築様式で設計したものという。

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下写真の、ドラキュラ城のような尖塔だらけの教会は、「ティーン前の聖母マリア教会」。「ティーン」とは税関を指し、かつて存在した税関建物の前に位置したことから、地元民が呼んだ教会愛称の名残りという。


11世紀には、この場所に既にロマネスク様式の教会が立地していたことが分かっている。ゴシック様式へ改装された 14世紀、ヤン・フス(1369?~1415年)より前に教会改革を訴えたコンラッド・ヴァルドハウゼン(1326~1369年)が、ここで説法を行った記録が残されている。
現在のプラハ旧市街市がほぼ現在の姿に整った 14世紀中葉、教会は大規模な拡張工事とともに、新ゴシック様式へ全面改装が行われる。この工事は 16世紀初頭まで世紀をまたいで継承されることとなった。現存する高さ 8mの尖塔群の完成は 1511年など、教会の部分、部分によって完成した世紀が異なるのが特徴となっている。

ヤン・フスの宗教改革の際、この教会はフス派の拠点として重要な役割を担うも、白山の戦い(1620年11月8日)で新教徒派が敗れると、フス派だった教会はカトリック派に接収される。
1679年、不幸にも大火により教会建物のほとんどが消失されてしまい、さらに 1819年の大火では、北側の尖塔を失うこととなった。都度、すぐに再建工事が施された後、 19世紀後半に全面改修が進められ、現在の姿に完成されるのだった。


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また、上写真の赤い屋根の洋館は、ゴルツ・キンスキー宮殿といい、現在、内部は中世から現在に至る各種芸術作品を展示する美術館となっている。


この宮殿建物は、ゴルツ伯爵家によって 1755~1765年の間に建設されたものである。建築家キリアン・イグナツ・ディーンツェンホーファーによってロココ調で設計され、当初からピンク色と白色の漆喰で外装が覆われていたという。しかし、完成から間もなくの 1768年、キンスキー大公家がゴルツ伯爵家からこの邸宅を購入することとなる。こうした経緯から、後世、ゴルツ・キンスキー宮殿と通称されるようになるのだった。

作家・思想家フランツ・カフカ(1883~1924年)の父、ユダヤ人ヘルマン・カフカ(1852~1931年)が高級小間物商を営んでいたころ、彼はこの邸宅の一階部分に店を間借りしていたという。その息子のカフカは、この洋館内に開校されていた中学&高学校に通学していた(1893~1901年)。
第一次大戦から第二次大戦の戦間期にあたる 1922~1934年、邸宅内にポーランド共和国大使館が入居していた。

第二次大戦後に東欧諸国でソ連の影響力が強まると、 1946年の総選挙でチェコスロヴァキア共産党が政権を奪取する。直後に共産党指導者クレメント・ゴットワルド(1896~1953年)が首相に就任して共産主義化を推し進めることとなった。最終的に非共産系の勢力を政界から完全排除する 1948年2月のチェコスロバキア政変(チェコ・クーデター)が起こり、同国は完全にソ連体制に組み込まれる。その政変の最終局面で、首相だったゴットワルドがこの邸宅のバルコニーから、広場に集まった群衆に向けて演説を行っている。同年 6月14日、ゴットワルトが大統領に就任し、国有化、共産主義政策がますます推し進められるのだった。
翌 1949年以降、この邸宅は国立美術館の管轄となり、その管理の下、現在、美術館が運営されているわけである。



プラハ プラハ

さらに西へ歩みを進める。細い路地エリアが続く。上写真。
そうこうしていると、観光客ルートから外れてしまったようで、住宅街の路地に迷い込んでしまった。旧市街地の路地裏は見応えがあり、全く飽きることはなかった(下写真左は、ジーンズ店の看板)。

下写真右は、路地の曲がり角にあった「いけず石」。狭い路地の交差点付近は、馬車や荷車が度々、壁を擦るなどの事故が発生したため、こうした角石を設置していたのだろう。

プラハ プラハ

下写真左は、道中で通過したベツレヘム礼拝堂。
1391年に豪商が自らの邸宅を改装して礼拝堂を建立し、そのまま地区集会所として使用されるようになった建物で、 1402~1412年までプラハ大学哲学部の神学研究者ヤン・フス(1369?~1415年)が度々、宗教改革についての講義を行ったという(神聖ローマ皇帝カール 4世の次男で、次代の国王を継承したヴァーツラフ 4世の、王妃ジョフィエも聴講に通ったらしい)。まさに初期宗教改革の現場となったスポットと言える。その後、プラハ大学(カレル大学)の所有となり、続いて 1662~1773年にカトリック・イエズス会が管轄するも、後に国有化され 19世紀に取り壊されてしまう。 1949年に一般住宅を立ち退かせ、5年の歳月をかけて、現在の礼拝堂へ復元されたという(1954年)。

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そのまま路地を南進していると、コンヴィクツカー通り沿いに、小さなドーム型教会を発見した(上写真右)。正式名称は、「Rotunda of the Finding of the Holy Cross」といい、 1125年頃に建立された、ロマネスク様式の教会である。
当初は、 南郊外のヴィシェフラット(Vyšehrad)地区からヴルタヴァ川沿いに通じる街道上にあった、小さな村落のための教会で、周囲には共同墓地が設けられていたことが判明している。プラハを欧州最大級の都市へと発展させたカール 4世の治世下の 1365年頃、新設された新市街地区にあって、地区レベルの教会へ格上げされていたことが史書で確認されている。

1625年、カトリック派のドミニコ修道会へ譲渡されるも、ヨーゼフ 2世(1741~1790年。女帝マリア・テレジアの長男)の政治改革の一環で 1784年、カトリック各宗派が追放されると、この教会も閉鎖され、以後、建物は倉庫として使用されるだけとなった。1860年に住宅開発のため、この旧教会建物の撤去計画が持ち上がるも、市民らの反対運動により、破却を免れる。その後、個人オーナーから市議会が買取り、修復工事が施されて地元で大切に保存されてきたのだった。現在、カトリック派の地区教会として使用されているという。

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下は、城壁都市時代の古地図に見る、ベツレヘム礼拝堂とドーム型教会の位置。

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しかし、さすがに周囲に観光客を全く見かけなくなり不安になってきたので、地元の通行人にカレル橋への行き方を確認する。
さらに西へ進んでみると、ヴルタヴァ川沿いに出ることができた。
ちょうど、「クランナーの噴水(Kranner's Fountain)」という記念塔の脇だった(下写真の右手の塔)。これは、オーストリア皇帝フランツ 1世(最後の神聖ローマ帝国皇帝。1708~1765年)を紀念するため、建築家ヨーゼフ・クランナーがデザインし、ヨーゼフ・マックスが彫刻したネオゴシック調の銅像という(1845年建立)。しかし、第一次大戦後のオーストリア=ハンガリー帝国解体直後に撤去され、しばらく国立博物館内で保管された後、2003年に再度、この場所に再設置されたという。
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このヴルタヴァ川沿いから、カレル橋やプラハ王城を一望できた。下写真。
右端の洋館は、スメタナ博物館(チェコ人民族主義作曲家のベドジフ・スメタナの資料館)。右端に三つ並ぶ白テントの並びに、ベドジフ・スメタナ(1824~1884年)の銅像が見える。日本の教科書でも定番の『我が祖国(モルダウの流れ)』の作者である。

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そのままスメタナ博物館とレストラン脇を通過し、カレル橋に至る。下写真から、これらの建物群は河畔に出っ張る、波止場上に設けられていることが分かる。

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カレル橋 上には、たくさんの観光客が往来していた。

このカレル橋東岸上に旧市街橋塔(Old Town Bridge Tower。下写真の中央)があり、どうやらここにも登頂できるらしかったが(138階段)、この日は気が付かなかった。

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カレル橋の両脇は見事な彫刻群が陳列されており、一つ一つに見応えがあった。
橋上では、観光客たちが思い思いに写真撮影や、散策を楽しんでいた。なお、このカレル橋が歩行者専用になったのは 1978年で、それまでは馬車や荷馬車、自動車なども往来していたらしい。

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橋の西から北にかけては、王城とその城壁が連なった丘陵が遠くに見渡せた。下写真。

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下写真は、カレル橋南側の眺め。
遠方に見える小山(ヴィシェフラットの丘。現在、丘上には巨大な聖ペテロ&パウロ大聖堂が立地する)に、かつてヴィシェフラット(Vyšehrad)城塞が築城されていた。往時には、あの手前まで市城壁が連なっていたわけである(下地図参照)。

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ヴィシェフラット(Vyšehrad)城塞は、プラハ王城と対をなす拠点基地として、チェコ民族を母体とするプシェミスル朝によって 9世紀頃、最初の城塞が建造されたと考えられている。当時、チェコ民族は主にヴルタヴァ川西岸を主たる居住区としており(下地図の茶色ライン)、この領域を守備する前衛拠点として築城されたわけである。

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10世紀後半、ボヘミア王ボレスラフ 2世(?~999年)が石造りの円形教会を城塞内に建立する。 11世紀後半には、ヴラチスラフ 2世(1035?~1092年)がもともと木造で建造されていた城壁を、石積み城壁を有するロマネスク様式の城塞へ大改造し、あわせて自身の王宮も増設して、ここを王都に定めたのだった(1070年)。この時、要塞内外に数多くの教会群が建立され、そのうち、聖マルチン円形聖堂や聖ペテロ&パウロ教会が今日まで存続されているわけである。しかし 1100年、次代のボヘミア王ブジェチスラフ 2世(1092~1100年)により、居城がプラハ王城に戻される。

時は下って 200年後のカール 4世の治世時代、ゴシック様式の城塞として大規模に再建され、楼閣付きの城門や石壁の宮殿、15の石塔などが増設される。また、城内の教会もゴシック様式へ改装される。この時、プラハ市城壁とも連結され、ヴィシェフラット城塞はプラハ市域の南端を抑える拠点として機能するようになる(下絵図)。

17年間も続いたフス戦争時代初期、市街地を占有するフス派(初期プロテスタント)と、城塞とプラハ王城を拠点とするカトリック派との間で激しい市街戦で行われる。市街地と接続されていた城塞は、フス派の攻撃の的となり、城塞は早々に完全包囲される(1419年8月16日~)。
1年以上にも及ぶ包囲戦の末、翌 1420年11月1日、フス派がプラハ郊外のパンクラック平野の戦いで大勝利を収めると、 籠城軍の援軍に来ていたカトリック十字軍は潰走することとなり、同日中にも城塞籠城軍は降伏に追い込まれるのだった。この直後、フス派は城塞を完全破壊し、廃墟のみが残されることとなる。

以降、数世紀にわたって、荒廃した城塞跡地とその城下町には貧困民らが集住するようになる。彼らによって教会も早々に再建され、教会は南方に広大な荘園を有するようになっていく。

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1526年にハプスブルク家がボヘミア王を兼務するようになると、プラハの街もオーストリア帝国の支配地に組み込まれる。引き続き放置され続けたヴィシェフラット城塞跡地であったが、 17世紀中頃、ボヘミア支配の強化を進めるハプスブルク家により、城塞跡地の住民らが追い出され、中世の城塞跡が完全に一新されて、バロック様式による近代的な砲台要塞へ大改造されることとなる。ギネスブックでも認定されている「プラハ王城複合城塞群」の一角がこの時に誕生したわけである。あわせて、教会群もバロック様式へ全面改装されている。

しかし、1866年にハプスブルク家により管理が放棄されると、要塞跡地一帯は教会敷地となる。1870年代に入ると、プラハ市内で古い建築物の撤去作業が進められるようになり、あわせて市城壁の破却作業がスタートする。 1885~1887年、ヴィシェフラットの丘は国家的な墓地として整備され、同時に、聖ペテロ&パウロ教会がネオ・ゴシック様式に改修されて、今日に継承されているわけである。




なお、上の古地図から、カレル橋の西端には細長い砂州があったことが分かる。現在でも、河川上の離れ小島として踏襲されていた(下写真左)。

プラハ プラハ

そのまま、王宮城下の旧市街地「レッサータウン地区」に至る(上写真右)。
橋から続くメイン・ストリート「モステツカ通り」を前進し、一つ目の三差路を北上してみる。路面電車駅「Malostranské náměstí」があった(下写真左)。

下写真右は、その北端にあるスミジツキー宮殿(Palace Smiřických)の正面通路下。

プラハ プラハ

この スミジツキー宮殿であるが、1354年には、すでにこの場所にルネッサンス様式の宮殿が建設されていたことが判明している。

1573年、四角形の宮殿建物(中央に中庭を持つ、四面体の構造であった)のうち、通りに面した部分をスミジツキー家が購入し、一族の邸宅として使用し出す。 1603年頃、邸宅の角面に飾りとなる塔が増築され、さらに 1612年には建物全体が全面改装されて、バロック様式に改築されることとなった。
1618年5月22日には反ハプスブルク派の秘密会合が開催され、翌 23日、その会合を率いたメンバーらによって多くの民衆が動員され、プラハ王城へ大挙押しかけることとなる。この時、王の使者である国王顧問官 2名と書記の 3名が窓から投げ落とされるという、第二次プラハ窓外投擲事件が発生する。これが発端となり、欧州全土を巻き込む三十年戦争(新教徒派 vs カトリック派)が幕を開けるわけだが、 白山の戦いで皇帝軍が市民軍を大破すると、宮殿は皇帝に没収される。そのまま貴族家の邸宅に分割され、 1763年に一括でモンターグ伯爵家に下賜される。翌 1764~65年にかけて、オーストリア出身の建築家ヨーゼフ・イェーガーの設計により、上に 1階分が増築されるなど、大規模な改修工事が加えられることとなる。
19世紀に入り、内部がアパートに改築され民間に払い下げられる。最終的に 1895年、オーストリア帝国下のチェコ民族議会に売却され、同議会施設の一部として利用されるようになり、 1993年と 1996年に、議会により修築工事が施されて、今日 の姿となっている。

プラハ プラハ

そのまま王城へ向けて西進していると、マラーストラナ広場前を通過する(上写真左)。広場中央には聖三位一体柱(Column of the Holy Trinity。左手の塔)が立地し、その後方には巨大な聖ニコラス教会(聖ミクラーシュ教会。入場料 70コルナ)が控えていた。聖三位一体柱はペスト流行の終焉を感謝すべく 18世紀に建立されたもので、欧州各地に設置されたものの一つという。特に有名なものとして、2000年に世界遺産に登録された、オロモウツ市の聖三位一体柱がある

なお、この聖ニコラス教会はもともとはゴシック様式で 1283年建立といい、その後、1735年に大規模改修されてバロック様式となり、今日まで継承される由緒ある教会という。先ほど、旧市街地の中央広場で見た同名の教会で、同じ建築家がデザインしたという。モーツァルトがプラハに滞在した折(1787年10~11月)、この教会のパイプオルガンを演奏したエピソードを持つ。

そのままネルドヴァ通りの坂道を西へ進むも、観光客らしい姿はどこにもなく、もう博物館も営業時間外だし、途中でやめて引き返すことにした。ちょうどイタリア大使館前だった(上写真右)。

このレッサータウン地区には、米、英、独などの西側主要国の大使館も集中しており(日本大使館も)、冷戦下の共産党政権時代、聖ニコラス教会脇のレッサー塔(1755年に完成。聖ニコラス教会と連結されているが、終始、レッサータウン地区政府に帰属し、火災などの物見台、時計台として利用されていた)が監視施設として機能したという。


2018年現在、プラハ王城(Prazsky Hrad)は総面積 70,000 m²を誇る、世界最大の城郭としてギネスブック上に登録されている。王宮や教会系の建物群、10世紀のローマ調の建築物から 14世紀のゴシック様式建築物、南の出丸であるヴィシェフラット城塞まで、すべてワン・セットとなった「複合城塞施設」と評されている。

プラハ王城の入場料金は 250コルナ(Bチケット)で、営業時間は冬季(11~3月) 6:00~23:00、夏季(4~10月) 5:00~24:00となっている(年中無休)。しかし、博物館や教会、王宮などの建物には、また別の営業時間と入場料が設定されているらしい。
プラハ

なお、このプラハ王城の南西(ペトシーン公園)と北西に、部分的に外周城壁「飢餓の城壁」が残っているようなので、次回のプラハ訪問はこの一帯を重点的に巡りたいと思う(下地図の赤ライン)。

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あわせて、プラハ市の歴史や文化に関する展示があるという、プラハ市博物館(Prague City Museum)にも立ち寄ってみるつもりだ。営業時間 10:00~18:00(毎週月曜休館)、入館料 120コルナ。



途中で、マクドナルドでトイレに寄るも、ここも有料で諦めた。欧州のトイレはいちいち料金制で面倒だ。
そのまま観光客に交じって、カレル橋を渡り、旧市街地の路地や中央広場を抜けて、火薬門を越えると、もう観光客はいなくなる。往路と同様、プラハ中央駅まで歩いて帰る。中央駅構内のコンビニで水、ピザの切れ端(25コルナ)を購入し、ホテルで軽食をとる(18:00過ぎ)。

1時間ほど休憩した後、駅構内のスーパーで再度、買い物し、ホステル前のトルコ料理屋で米料理を食べた。ドイツ、東欧諸国では、我々アジア人はトルコ料理がもっともお手頃、かつ米料理が食べられるスポットと言える。中華料理屋も見かけるが、大衆的というより、ちょっと着飾ってアジア料理を楽しむ白人たちの料亭といった雰囲気で、お値段も高め。その分、大衆化されているのがトルコ料理屋なのだった。
最終的に 2コルナ硬貨だけを残して、ホステルの部屋に戻った。

なお、プラハには、また中欧、東欧への旅路で立ち寄るであろうから、今回の旅ではそれほど重視せず、交通の起点として経由しただけだったが、それまで中欧を 1週間旅して最後にプラハ入りした感想からすると、予想通りと言えばそうなのだが、あまりに観光地化され過ぎて興ざめだった。
欧州の「都市生活」を一期間、味わう、というのなら非常に適した街だろう。便利な交通機関、鉄道とバスの巨大ターミナル駅、どこにでもあるレストランとショップ、人工的に用意された娯楽施設(○○○博物館や催しなど)が、十分にもてなしてくれる。
しかし、そこには東欧エリアの他の諸都市が持つ素朴さと、古民家群が静かに織りなす中世風景は完全に失われ、「観光アミューズメント都市・プラハ」という新分野を体感する空間となっていた。

これを裏返せば、世界の観光客を受け入れる体制は万全で、ホテルの数量、人々の英会話力、豊富なショップ群、そして、常時厳戒態勢の警察組織(街中の至る所に立っている。中央鉄道駅では常時見回りしていた)などが、安全と安心を訪問者らに保証していた

プラハ

翌朝、中央駅前の空港バス乗り場に 7:10過ぎに到着した。10分後の 7:20に空港バス AE(Airport Express。下写真左)が停留所に入ってくると、順番待ちの人達が順次、乗車し、 7:30にバスは出発する。運賃は 60コルナ(釣銭をもらえる)で、バス運転手に直接、支払って、乗車チケットを手渡される。
プラハ プラハ

下は、空港バス時刻表。

プラハ

30分ほど走ると、第一ターミナル(EU以外へ出発)、第二ターミナル(EU域内へ出発)の順に停車する。筆者は パリ 経由便での日本帰国だったので、第二ターミナルで下車し、フライト・チェックインした(パスポート・チェックなしで、そのまま荷物検査場まで直行できた)。
ここで、異様な違和感を覚える。なぜか、荷物検査前にいるスタッフは、若い美女ばかりが配置されていたのだった。単なる美人ではなく、本当にモデルさんみたいな女性陣で、チェコ空港のハイレベル・サービスに感動した。しかし、荷物検査機を過ぎた後は、ベテラン職員たちが待ち構えていた。明らかに、この検査機前の若い美女たちは、アルバイト要員なのだろうと直感できた。

また、空港内の案内掲示板が、チェコ語、英語、韓国語だけだったのが気になった。街中でも、中国人についで多いアジア系訪問者は明らかに韓国人だった。歴史的に何か遠因があるのだろうか。

そして、プラハ国際空港 9:50発、11:40にパリ・シャルルドゴール空港に到着し、13:35 パリ 発、翌朝 9:25の 東京 成田着便で帰国した



年代 プラハ

出来事
880年
ボヘミア地方を支配した、チェコ民族主体のプシェミスル朝(ボヘミア地方の地場豪族)の実質的な始祖・ボジヴォイ 1世によって、フラチャヌィの丘上にプラハ城が築城される。プラハは古くからヴルタヴァ川沿いの交易集落として栄え、当時、西岸側のみに居住区が形成されていた。
ボジヴォイ 1世は自らキリスト教徒となり、キリスト教布教と封建制を柱とする支配体制の確立を図るも、未だキリスト教を受け入れず、また王権体制を拒絶する旧来からの地方豪族も多かった(下地図)。同時に、周辺では西からはドイツ人が、東からハンガリー人らが勢力を伸張させていた時代でもあった。

プラハ

1085年 プシェミスル朝ボヘミア王のヴラチスラフ 2世(1035~1092年)が、ポーランド王を兼務することで、初代(大)ボヘミア王に即位する。プラハ司教との対立もあり、王城をヴィシェフラト城塞へ移転させる(1070年~)。
しかし、次代の国王ブジェチスラフ 2世(1092~1100年)により、王宮はプラハ王城へ戻される。
1172年
ヴルタヴァ川を渡る、ユディティン橋(カレル橋の前身)が架橋される。2世紀後に洪水で倒壊することとなる。
1235年 プシェミスル朝ボヘミア王のヴァーツラフ 1世(1205~1253年)により、都市防衛と洪水対策のため、プラハ旧市街地を取り囲む市城壁が建造される(高さ 10m、全長 1,700m)。
1306年 ヴァーツラフ 3世(1289~1306年)がオロモウツで暗殺されると、ボヘミアを支配したプシェミスル朝は断絶する。その妹エリシュカ(1292~1330年)が結婚した、ルクセンブルク王家がボヘミア王を継承することとなる。その後、エリシュカは、後述する名君カール 4世(1316~1378年)を産むこととなる。
1345年
中央ヨーロッパ、ドイツ語圏初の大学、プラハ大学(現在のカレル大学)が開校する。
これは、パリの宮殿で学び(7~14歳)、1333年に故郷プラハに帰還した、当時 17歳の王子・カール(カレル。1316~1378年。上の王妃エリシュカの長男)が、自身が子供時代に暮らした国際文化都市パリに匹敵する都市を、故郷プラハでも造り上げようという意欲の下、押し進めた都市開発の一環であった。当時のヨーロッパでは、 パリ やローマ、コンスタンティノープルが筆頭クラスの大都市であり、プラハはまだまだ地方豪族の首府レベルであった。彼は、フランスやドイツ、イタリアなどから名だたる芸術家や建築家らを呼び寄せ、プラハ王城の拡張工事に着手し、パリのノートルダム大聖堂 を参考にして、現在でもプラハ最大規模を誇る聖ビート教会の建造に着手している。

1340年に失明した父のボヘミア王ヨハン(1296年~1346年。上で、プシェミスル朝出身の王女エリシュカが結婚した、ルクセンブルク王家出身の人物)に代わり、23歳の彼は皇太子の立場で、次々と諸策をリードしていくタイミングに当たった。
1347年9月2日 父の死後、正式にボヘミア王カール 4世として即位する(31歳)。同時に神聖ローマ皇帝にも就いたことから(当時、パリ時代の家庭教師ピエール・ロジェがローマ教皇クレメンス 6世として出世していたため、そのコネが働いた)、プラハは神聖ローマ帝国の首都となる。
1348年3月8日
プラハ旧市街地の外周部分に、新市街区が新設される。
それまで 3地区(王城、レッサータウン、旧市街地)で構成されていた王都プラハを、さらに大拡張させるべく、旧市街地の市城壁の外周にさらに新市街地の開発が着手される。カール 4世は、新地区の開発から 18ヵ月以内に新エリアに居住し、石積みの家屋を建てた者すべてに対し、優遇税制や数々の特典を与えたことから、都市人口を急増させることに成功する。こうして 1500もの家屋や役所、教会、修道院などが一気に建設され、また旧市街地内にあった屋外市場をこの新市街地区へ移設させるなどし、新市街地区は急速に発展を遂げることとなる。
4地区体制となったプラハ市であるが、それぞれが役所を有し、自警団が組織されるなど、独立した自治特権が与えられていた。4地区あわせて、プラハ城下には 4万人の住民が居住し、当時、欧州でも最大級規模の都市の一つとなる。14世紀当時の欧州大陸において、これほどの規模の都市開発は類を見ないものであった。
1350年代には、その新市街区を取り囲む市城壁の建設作業が着手され、わずか 2年の工事を経て、高さ 6m、総延長 3.5kmの城壁が完成する。病院門、山門、馬門、豚門という名の 4城門が配置された他、四角形の櫓塔なども複数、増設され、防衛力の強化が図られることとなる。
1357年-1380年 かつてユディティン橋が架橋されていた場所に、橋の再建工事が着手される。23歳の建築家 Peter Parler が総責任者に抜擢され、積み木、赤い砂岩、小石などを基礎土台とする橋桁の設置工事が進められる。水面から 12メートル上に設計され、支柱の数が 24 から 16 に減されて橋桁アーチが広めにデザインされることとなった(長さ 520m、幅約 10m)。完成後、「石橋」とだけ通称されていたが、今日まで保持される過程で、後世、「カレル橋」と通称されることとなるわけである。
1360~1362年
カール 4世が、「飢餓の城壁(飢えの壁。Hladova Zed)」の建造工事を進める。王城や貴族らの邸宅が建ち並んだマラストラーナ地区を守備するために、王城のあるペトシーンの丘を削って掘り出した泥灰土を積み上げて建設される(高さ 4~4.5m、厚さ 1.8m)。凹凸壁や 8ヵ所の前哨稜堡も設けられたという。以後、1624年、18世紀中期、近代期(1923~25年)など、幾度にわたって強化工事が続けられることとなる。
もともとは、Zubatá(のこぎり歯壁) や Chlebová(パンのための壁)などと称されたが、壁建設工事が始まった翌 1361年に領内で飢饉が発生し、失業中の貧しい労働者らの生活を支えた公共事業の様相も呈したことから、チェコ人から英雄視されるカール 4世の善政の一つと結び付けられて、後世、「飢餓の城壁」と通称されるようになったわけである。現在でもペトシーン公園に 1,200mほどが現存する。
1370年 旧市街地の中央広場に、「ティーン前の聖母マリア教会」の建設がスタートする
1378年 カール 4世の死後、次男・ヴァーツラフ 4世(1361~1419年)が神聖ローマ皇帝&ボヘミア王位を継承するも、国際外交、財政政策で失策を重ね、1400年に神聖ローマ皇帝を廃位される。さらに自領ボヘミア支配もおぼつかなくなり、実弟のハンガリー王ジギスムント(カトリック派)の傀儡政権と化し、自身が保護してきた新教徒フス派に対しても政策が不安定化することとなった。
1391年 ベツレヘム礼拝堂の建立。
この礼拝堂では、1402年からプラハ大学の学長となっていたヤン・フス(1369?~1415年)も説教者の一人として登壇し、度々、熱弁をふるっていくことになる。この時代、ヴァーツラフ 4世が自由な宗教活動を保証していたことが後押しとなり、プラハが新教徒派の牙城となっていく。
1415年7月6日
カトリック批判を展開し、プロテスタント運動の先駆者として有名人となっていたヤン・フスは、前年秋から開催されたコンスタンツ公会議(3教皇の乱立という、カトリック教会の大分裂問題を解決すべく、1410年から神聖ローマ皇帝となっていたハンガリー王ジギスムント【1368~1437年。ヴァーツラフ 4世の実弟。カール 4世の子】が主催)​に招待されると、そのまま拘束されて裁判にかけられ、異端者として火刑に処される。
1419年7月30日 プラハでは、フスを処刑されたことに不満を募らせる新教徒らを横目に、ボヘミア王ヴァーツラフ 4世は、実弟の神聖ローマ皇帝ジギスムントの介入により、プラハ市中の教会すべてに対しローマ・カトリック教会へ強制改宗を布告する。一方で、新教徒派への思い入れもある王ヴァーツラフ 4世は、「新市街地区」にフス派専用の議会を新設した。これに対抗し、「旧市街地」の議会は、域内のフス派の過激派を投獄して粛清を進めるようになる。

同年 7月30日、フス派の群衆が旧市街地の市役所に押しかけ、参議会員のドイツ人らに収監中のメンバーらの即時釈放を迫る。ヴァーツラフ 4世の率いる王宮側の支援も期待し、当初は罵倒や投石だけの抗議であったが、やがて暴徒化して市役所の門を破壊し、群衆が市議会内に乱入すると、市議会議員ら 7名を建物窓から投げ捨て、群衆らが持ち出していた槍や刀で串刺しにしたという。こうしてフス派による第一革命(第一次窓外放出事件)が勃発したのだった。
新教徒フス派に肩入れし、気にかけていたヴァーツラフ 4世はこの事件を聞いて卒倒し、そのまま死去してしまうのだった。以後、ボヘミア王は実弟の神聖ローマ皇帝ジギスムントが継承する。ますます憤慨したプラハ市民らによって、いよいよフス戦争が始められるわけである。
1419〜1436年
フス戦争。神聖ローマ皇帝ジギスムント vs プラハ市民のフス派。
前半期は、フス派を率いた戦術家ヤン・ジシュカ(1374~1424年)が活躍し、ローマ教皇が支援したカトリック十字軍を圧倒する。戦争後半では、フス派の理解者だったポーランドと、ドイツ騎士団との紛争に巻き込まれ、フス派は壊滅し戦争は終結する。
1475年
ボヘミア王ウラースロー 2世(1456~1516年)の即位にあわせ、市民らが寄贈する形で、火薬塔(火薬門)の建設工事がスタートする
1503年 カレル橋が完成する
1583年
神聖ローマ皇帝ルドルフ 2世(1552~1612年)が、王都をウィーンからプラハに遷都する。 1612年に崩御すると、実弟のティアス(1557~1619年)が皇位を継承し、王都は再び、ウィーン に戻される。
  ※ 1526年以降、オーストリア帝国ハプスブルク家がボヘミア王を継承していた。
1618年5月23日 神聖ローマ皇帝となったティアスであるが、カトリックとプロテスタントとの融和策を進めるも、カトリック強硬派の従弟フェルディナント大公(後のフェルディナント 2世)がボヘミア王に即位すると(1617年)、プロテスタント色の強かったプラハでは市民対立が最高潮に達する。この時、第二次窓外投擲事件が発生する。
1618~1648年
三十年戦争(プロテスタント派 vs カトリック勢力)
1620年 白山の戦いでボヘミア軍が敗北
1621年6月21日
白山の戦いの処分として、27人のボヘミア貴族が旧市街広場で処刑
1635年5月30日 プラハ条約の調印
1648年
ヴルタヴァ川西岸(プラハ城がある地区)をスウェーデン軍が占領・略奪
1741年11月 オーストリア継承戦争(1740~1748年)で、フランス・バイエルン連合軍がチロル地方など北オーストリアと、プラハ一帯のボヘミアを占領する。これにより翌 1742年、バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトが神聖ローマ皇帝カール 7世として即位する。しかし、同年、オーストリアとハンガリー連合軍にプラハが包囲&奪還され、さらにバイエルンの本領まで侵攻&占領されてしまうこととなる。

プラハ

1744年 プロイセン軍によるプラハ占領。
第二次シュレージエン戦争下、プラハは電撃的に侵攻してきたプロイセン軍に攻囲され、約 2週間の攻防戦の末に降伏する。しかし、兵站の確保に悩まされたプロイセン軍は、間もなく襲来したオーストリア軍を前に撤退する。
1757年5月6日
プロイセンとオーストリアによるプラハの戦い。
続く 7年戦争中の 1757年にも、プラハはプロイセン軍に包囲されるも(1757年5~6月)、この時はオーストリアからの救援軍によって落城を免れている。度重なる外国勢力の進駐で荒廃していたプラハ王城であったが、1753~75年にかけて、女帝マリア・テレジア(1717~1780年)によって再建されることとなった。
1784年
プラハの 4行政区(新市街地区、旧市街地、レッサータウン地区、王城)が統一され、プラハ市が成立する。こうして唯一の市議会により統括されるようになった都市プラハは、旧市街地の市役所建物を行政庁として使用することとなった。
1848年には 5区目としてユダヤ人街(ゲットー)が新設され、同年に即位したオーストリア帝国皇帝ヨーゼフ 1世(1830~1916年)にちなみ、「ヨゼフォフ地区」と命名される。現在も、このままの地名が継承されている。
1848年
プラハ・スラブ会議の開催
1848年6月2~12日、世にいう「聖ヴァーツラフ(チェコ民族)会議」(地元チェコでは、民族守護聖人としてヴァーツラフ 1世が称えられていることに由来)がプラハで開催されると、ハプスブルク帝国下にあるスラブ国家の代表者らが初めて一同に集うこととなった。このとき、現在のオーストリア帝国を、連邦制へ改編する可能性についての議論が繰り広げられる。現体制下で、スラブ民族国家も一定の自由と責任ある立場を確立したいという願いの表れであった。

6月17日
この会議に触発されたスラブ民族主義者らがプラハ近郊で武装蜂起すると、オーストリア帝国軍により鎮圧される。オーストリア皇帝フェルディナント 1世(1793~1875年)は、王都ウィーンをも大混乱に巻き込んだ革命騒動の鎮定のため、同年 12月、逃避先のオロモウツで退位を余儀なくされる。直後に、甥のフランツ・ヨーゼフ 1世(1830~1916年)が王位を継承する。フェルディナント 1世は引退後、プラハ王城内に住み続け、当地で死去した(1875年)。
1866年
普墺戦争終結にともなう、プラハ条約の調印。
オーストリア帝国を盟主とするドイツ連邦体制は解消され、プロイセン王国がドイツを統一する契機となる。
1874~1879年
ベドルジフ・スメタナ(1824~1884年)が『我が祖国(モルダウの流れ)』を作曲
1918年10月 第一次世界大戦におけるオーストリア=ハンガリー帝国の敗戦により、チェコ・スロヴァキアが独立する。民族独立運動家のプラハ大学哲学部教授トマーシュ・ガリッグ・マサリク(1850~1937年)が初代大統領に就任し、首都がプラハに定められる。
1938年
ナチスドイツが、ズデーテン地方へ進駐(ドイツ国境付近だったため、もともとドイツ系住民が多かった)
プラハ

1939年3月 ナチスドイツがプラハ進駐を開始(チェコ・スロヴァキア解体)。プラハがドイツ支配下のベーメン・メーレン保護領の首都となる。
同年 9月、ドイツ軍がポーランドへも侵攻を開始すると、第二次世界大戦が勃発する。
1945年
2月14日:プラハ空襲
5月5~8日:ナチスドイツ支配に反対する市民蜂起
5月6~11日:プラハの戦い、ソ連軍の到着、ナチスドイツ支配の終了
ドイツ系住民の追放
1968年 プラハの春(主にチェコ人)、ソ連軍による弾圧
1992年
プラハ歴史地区がユネスコ世界遺産に登録
1993年1月1日 チェコ共和国とスロヴァキア共和国(首都は ブラチスラヴァ)が分裂。プラハがチェコ共和国(人口約 1000万人)の首都となる。現在、プラハ王城内に、チェコ共和国の大統領府も併設されている。
もともと両者は同じ西スラブ民族であったが、長い中世の時代にチェコ側はドイツ民族、スロバキア側はハンガリー民族の影響を受けて異なる文化を形成していく。現在でも方言程度の違いだが、両者は別の言語を有しており、互いに反目しあっている。経済格差は圧倒的にチェコ優位で、スロヴァキア国民(人口約 545万人)はプライドを優先して分離・独立したのだった。


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