BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2018年2月中旬 『大陸西遊記』~


チェコ共和国 オロモウツ市 ~ 市内人口 10.5万人、 一人当たり GDP 24,000 USD (全国)


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  ブルノ(チェコ第 2位)から、オロモウツ(同 5位)への 鉄道の旅(100コルナ、1時間半)
  駅から 路面電車沿いに直進し、モラヴァ川 3支流目の ペトラ・ベズルチェ公園を 目指す
  対ナポレオン戦争前、ロシア皇帝 と オーストリア皇帝の 会談の場となった「大司教の館」
  ペトラ・ベズルチェ公園内 に現存する、崖面上に建造された 古城壁は 見応え抜群!
  新進芸術家集団の ウィーン工房を支援者した、オットー・プリマヴェージ の邸宅跡
  城郭都市 オロモウツの 外周に増設されていた 稜堡の一角「王冠フォルト」と 要塞博物館
  オロモウツの 現代マップ
  オーストリア帝国最強の「軍都・要塞都市 オロモウツ」の 全容 !!!
  1642年、スウェーデン軍に 包囲&攻略された オロモウツの弱点 と「王冠フォルト」建造
  ユダヤ人の門から 旧市街地へ入城する ~ ドミニカ修道会 と 聖ミカエル教会の歴史
  旧市街地 歩き Ⅰ ~ いけず石、ホルニー広場、市庁舎、聖三位一体柱(ペスト終焉紀念柱)
  旧市街地 歩き Ⅱ ~ 聖モジツ教会、雪の聖母マリア教会、トリトン噴水、歴史博物館
  オロモウツの 史跡巡りマップ
  聖ヴァーツラフ大聖堂の外周に現存する、稜堡壁を歩く
  【豆知識】ヴァーツラフの丘に 築城された オロモウツ城 と カトリック司教座の一体化 ■■■
  ナチス・ドイツ 占領の遺産 ~ 路面電車 と 駅前道路「マサリコヴァ・トジーダ通り」
  【豆知識】オロモウツ、武装化の歴史 ~ 対モンゴル、スウェーデン、プロイセン戦史 ■■■




滞在先ブルノ鉄道駅 から列車でオロモウツへ移動する。
朝 9:30ごろに駅前のホステルを出発し、9:45に鉄道駅のカウンターで、北東 70km弱の町「オモロウツ」への往復チケットを購入する(200コルナ)。次の列車は、11:18発 → 12:52 着だった。
しばらく、ブルノの町を見て回り、11:10に鉄道駅に戻る(下写真)。

オロモウツ

そのままホームへ入ってみると(下写真左)、すでに列車が到着していた。
チケットを見ると、座席番号が振られておらず、席番番号は決まっていないようだったので、どこでも自由に座ってよいらしい。車両は古風な個室スタイルから(下写真右)、普通の 4人かけボックス席まで選択自由だった。どれも同じ料金という。
また、各車両にはトイレも併設されていた。

オロモウツ オロモウツ

個室風の客室には広い 8人かけの部屋に、それぞれ先客が一人ずつ座って独占使用していた(下写真左)。まさに豪華なプライベート列車のイメージで、 1時間半の旅路を片道わずか 500円ぐらいで満喫できるという、なんと贅沢な列車の旅を楽しめることだろうか!!筆者は男一人だし、占有された個室内にも入りずらいので、4人かけのボックス席に座ることにした(下写真右)。
ブルノ駅 を出発した列車は、しばらく雪景色の平原を走り続ける。

オロモウツ オロモウツ

オモロウツのバスターミナルは旧市街地から距離があるため(鉄道駅に隣接するも、反対側)、ブルノ鉄道駅から列車で向かうのがベスト、というネット情報を信じ、迷わず鉄道移動を選択したわけだが、これが大正解だった。
乗車時間 1時間半のうち、1時間を過ぎたあたりから、都市が増えてくる(ヴィシュコフ Vyskov、プロスチェヨフ Prostejov、など)。それまでの平原風景とは明らかに発展具合が異なっていた。ブルノ(チェコ第二位の都市)とオロモウツ(同五位)は、同じモラヴィア地方に属し、チェコ中部の中核都市として長い歴史を共に歩んだ大都市で、双方ともに郊外に古くから衛星都市を擁していたと推察される。
道中、ブルノ駅前でテイクアウトしていた、トルコ風サンドイッチを食べて、昼食に当てる。予定通り、列車は 12:52にオロモウツ駅に到着した。

オロモウツ オロモウツ

早速、散策をスタートすべく、旧市街地まで一直線に伸びる道路「マサリコヴァ・トジーダ通り」を進む(上写真左。チェコスロヴァキア初代大統領トマーシュ・ガリッグ・マサリクに由来)。徒歩 10分強の移動の道中、3本の橋を渡ることになるが、これは主流のモラヴァ川が 3本に分かれて平原を横断していることに由来する。古くは、大きなモラヴァ川が一本だけであったらしい。上写真右は、最初のビストジチュツェ川。
下写真左は、モラヴァ川本流。下写真右は、三本目のムリーンスカーの小川。

オロモウツ オロモウツ

ムリーンスカーの小川の河畔は、広い森林自然公園「ペトラ・ベズルチェ公園」として整備されていた。この小川がかつて、城郭都市の直接的な外堀を成していたわけである。
そして、川沿いの岩場斜面に、城壁面を発見する。下写真

オロモウツ

ちなみに、上写真の城壁上に見える黄色壁の建物は「大司教の館」で、現在、一部が博物館として一般公開されているという。


この洋館は、16世紀前半にスタニスラウス・トゥルゾー司教(ハンガリーの財閥トゥルゾー家出身で、 1526年以降、ハンガリー王を兼務した神聖ローマ帝国皇帝フェルディナント 1世【1503~1564年。オーストラリア帝国ハプスブルク家の始祖】の旗下に加わり、兄弟そろってそのハンガリー支配に協力した功績により、1497~1540年の長期にわたってオロモウツ司教を務めた)によって建てられたもので、彼の死後もその継承者らによって建設工事が続行され、ルネッサンス様式の邸宅として完成される。
こうして 16世紀半ばに完成した司教の新邸宅であったが、 30年戦争(1618~1648年。新教徒派 vs カトリック勢力の宗教戦争)と 1661年の大火により相当な被害を受け、リヒテンシュタイン侯爵家(ハプスブルク家配下の貴族)出身のカール 2世(1623~1695年)司教により、1664~1669年にバロック様式に再建される。今日残る洋館は、20世紀初頭の火災後、ネオ・バロック様式に全面改修されたものという。

なお、オロモウツ司教区は元来あったモラヴィア司教区が改編・新設されたもので(1063年)、 869年にメトディオスがモラヴィア初代司教に着任してからの歴史を有していた。最初、オロモウツ司教のための屋敷は、当時あった聖ペトル教会近くに開設された、と史書に言及されているが、具体的な場所は分かっていないという。

以後、この邸宅は、数々の歴史イベントで表舞台に立つこととなった。
フランスのナポレオン 1世が台頭する中、 1805年にイギリス、オーストリア、ロシアが第三次対仏同盟を締結し、同年 12月2日のアウステルリッツの戦い(三帝会戦)に臨むわけであるが、この会戦前に、ロシアのアレクサンドル 1世(1777~1825年)とオーストリア帝国皇帝のフランツ 1世(1768~1835年。この時、王都ウィーンがナポレオン軍に占領され、オロモウツに避難していた)が、当館で会談を持ったという。それから数日後に、連合軍は郊外のアウステルリッツで大敗を喫することとなる。
ナポレオン戦争終結後、大国間のパワーバランスで欧州の平和を実現させていたウィーン体制が崩壊しつつある中、その盟主オーストリア帝国でも革命が起き(1848年革命)、皇帝フェルディナント 1世(1793~1875年)が家族とともに王都ウィーンから脱出し、カトリック派&保守派の強かった堅牢な城塞都市オロモウツにまで避難していたわけであるが、その混乱収拾のため、同年 12月、避難先の当地で皇帝退位を決断する。直後に、甥のフランツ・ヨーゼフ 1世(1830~1916年)が皇位を継承する。フェルディナント 1世は隠居後、プラハ王城 に転居し、平穏に余生を過ごすこととなった。
また、ウィーン体制の再建を目指すオーストリアは、新興国ドイツ筆頭のプロイセン台頭を抑えるべく、1850年、平和条約「オルミュッツ(「オロモウツ」のドイツ語読み)協定」の交渉をこの邸宅で進め、同年 11月29日に大国ロシアを巻き込んで最終合意にこぎつけている。

あわせて、この洋館には女帝マリア・テレジア(1717~1780年)や、ローマ教皇ヨハネ・パウロ 2世(1920~2005年)らも足を運んだエピソードが残されているという。
なお、この屋敷前には、マリア・テレジア時代の軍事施設「テレジア兵器庫」の異名をとる、巨大な洋館が立地する。地元の伝説では、マリア・テレジアがわざと壮麗かつ巨大な兵器庫建物をこの大司教宮殿前に建てるよう命じ、皇帝を凌ぐ勢力を誇りオロモウツ城を半私有化していた、カトリック大司教らへの嫌がらせを図ったというエピソードが残されている。大司教側も度々、この兵器庫の建物を撤去してもらうように内外を通じて皇室に働きかけるも、結局、今日まで存続され、1990年代にパラツキー大学の所有となり、現在、同大学の図書館となっている。




大司教の館」の並びには、国立パラツキー大学の校舎が連なる(下写真中央の洋館)。

モラヴィア地方最古、またチェコ国内でも二番目の歴史を誇る大学で(1573年開学。最古は、1345年創立のプラハ・カレル大学)、オロモウツ(当時、モラヴィア王国の王都で、かつ司教座が開設されていた)のイエズス会が主導して創立された公営の高等教育機関であった。 1848年革命では、大学の学生や教授らが民主化運動の主たる活動メンバーとなっている。しかし、保守色の強かったオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世(1830~1916年)により、大学のほとんどの学部が強制閉鎖される弾圧を受けてしまうのだった(1850年代)。
第二次大戦直後の 1946年、再び複数の学部が再開されると同時に、オロモウツ大学からパラツキー大学へ改称されて今日に至る。なお、この名称は 1848年の2月革命で、プラハで開催されたスラヴ民族会議の議長を務めるなど政治家、歴史家として活躍し、チェコ国民から「国家の父」と称えられている、フランティシェク・パラツキー(1798~1876年)に由来している。現在、同大学は中央ヨーロッパを中心に多くの外国人留学生を受け入れており、日本人学生も所属している(英語専属コースあり)。
オロモウツ

川沿いの小高い崖山上に、城郭都市が建造されていた様子がよく分かる公園だった(上写真)。
下の古絵図は、12世紀後期の城塞都市オロモウツ。当初からモラヴァ川脇の丘陵上に築城されていたことが分かる。
現在のペトラ・ベズルチェ公園は、下絵図中央の⑥あたりの湾曲部分に相当する。この部分は、河川でえぐり取られたのか、崖面が細長く形成されていたようで、まさに現在、眼前に広がる壁面なのであった。
オロモウツ

大学の校舎横には、さらに学生寮の建物が続く(下写真の赤レンガ)。

オロモウツ

岩盤と融合する形で城壁が建造されており、その生々しい地形を目の前で観察しながら、1kmの散策は続く。下写真。

現在の城壁面はその全てが原型そのままではなく、最近修繕されたものやコンクリート壁などを混在させながら、公園の端から端まで続いていた。

オロモウツ オロモウツ

なお、城壁は所々に凹凸があったり、城塔があったり、補強用と思われる台座壁面があったりと、いろんな形状が含まれており、単に平面だけの城壁面でなかったのが印象的だった。かつての城壁時代も、このように住宅地区や自然地形に応じて、凹凸していたと思われる。下写真

オロモウツ オロモウツ

上写真左の通用口の真上には、地元オロモウツ出身の銀行家であり、実業家だったオットー・プリマヴェージ(1868~1926年)が建てた、邸宅「ヴィラ・プリマヴェージ」が保存されている。新進芸術家集団「ウィーン分離派」が運営したウィーン工房(1903~1925年)に、多額の経済的支援を行った人物で、その活動後期(1915~1925年)を一手に支えたが、経営していたオロモウツの地場銀行を破綻させるなど、苦境にあえいで私邸も売り払っていた

オロモウツ オロモウツ

上写真左は、ペトラ・ベズルチェ公園の南端。城壁は下部のみ残存し、民家がその上を占領していた。。。
上写真右は、城郭都市オロモウツの周囲に増設されていた稜堡の一つ、「王冠フォルト」の正面入り口。オロモウツの町本体とは、ムリーンスカーの小川を挟んで対岸に立地されていた(下写真)。

オロモウツ

そのまま正面入り口から稜堡内に入ってみる。
事前に、内部にはオロモウツ要塞博物館があると下調べしていたので、正面に見える長い建物(下写真左)を目指し、入場料金 95コルナを支払う。値段が異様に高く、初めは何かあるのか??といぶかしがったが、内部は子連れファミリーのリクリエーション・スペースであったり、科学体験コーナー、自然学習コーナーなどが配置されており、まったくイメージした「要塞博物館」ではなかった。あまり娯楽施設のない、中小都市オロモウツにあって、市民らのリクレイエーション施設兼総合学習センターみたいな場所だった(下写真右)。

オロモウツ オロモウツ

明らかに場違いのアジア人の筆者は浮いた存在だったが、再び、スタッフに「ここは博物館ですか?」と再確認しても、「その通り」というだけなので、諦めて見学を続けることにした。

この建物は、もともとは稜堡内にあった兵舎を改築したものという。下写真左は、この博物館から正面入り口を眺めたもの。広い中庭は、かつて兵士らの軍事教練の場所だったのだろう。

あとで地図を再確認して分かったことだが、この中庭にあったもう一つの建物(下写真右)こそが、筆者の訪問すべき「要塞博物館」らしかった。この時は露とも思い浮かばず、また全く人影もなかったので、博物館とは想像すらしなかった。

オロモウツ オロモウツ

このレクリエーション施設にあって、唯一、役立ったものは、モラヴァ川の流れを年代を追って解説していた、オロモウツ都市模型だった(下写真)。

もともと一本の大河であったモラヴァ川が、時代と共に複数の河川へと分断され、細分化されていった様子が解説されていた。それらが、現在は三本の河川にまとめられているのだった。
現在の要塞博物館の辺りは、かつては河川のど真ん中に位置していたわけである。
この模型を見て、城郭都市の北東端にある聖ヴァーツラフ大聖堂外にも城壁と稜堡跡が保存されていることも発見できた。帰路に立ち寄ることを決める。

ここまでの移動経路は、下記 の白ライン。

オロモウツ


この城塞都市オロモウツ(下絵図)を取り囲んだ稜堡群の一角を成す「王冠フォルト」が、最初に整備されたのは、30年戦争直後の 1655年という。現在の姿に大規模に改編されたのは、女帝マリア・テレジア治世下の 1754年からの大工事であった(完成は翌 1755~56年)。当時から五角形の稜塁 1箇所と、半分の 2稜塁で設計され、今日までその姿を残している。

このハプルブルク帝国による大工事の際、巨大なモラヴァ川の分流と中州地形などを利用し、何重にも稜堡と水堀が整備されたのだった(下地図)。これらの稜堡群の中にあって、この王冠フォルトは特別な存在で、城塞都市へ脇から直接入れる路地を有し、城門に通じていたという。

オロモウツ

ここまで 大改造される以前の城塞都市オロモウツは、外周部分に稜堡などの出丸を一切、構築されていなかった。このため、30年戦争末期の 1642年、スウェーデン軍に包囲されたオロモウツは、城壁ギリギリまで接近され、大砲の集中砲火を浴びていた絵図が残されている(下絵図。戦後の翌 1643~44年の作)。

この戦いにより、オロモウツは 1650年までの 8年間、スウェーデン軍に軍事占領される。そのままスウェーデン軍は南のブルノへも侵攻するわけだが、ついに落城させることが叶わず王都プラハを攻撃中に和平協定が締結され(1648年)、撤兵していくことになる。ここに、それまでモラヴィア地方の中核都市を競い合ってきたオロモウツとブルノの命運が決せられ、以後、ブルノが一歩、先んじることになるのだった。

オロモウツ

下絵図は、スウェーデン軍の包囲陣地からの風景画(1652年作)。野営するスウェーデン軍も、土塁陣地を構築していたことが伺える。

オロモウツ

下絵図(1758年作。南東側から城郭都市を描いたもの)から、モラヴァ川によって形成された三角州や河川沿いに、民家が複数、建ち並んでいたことが分かる。かつて、都市の周囲にはもっと数多くの民家や集落が形成されていたが、外周の稜堡建造のため、すべて退去させられていたのだった。

オロモウツ

さて、近代以降の「王冠フォルト」であるが、もともとはオーストリア帝国軍の兵士詰め所(兵舎)や倉庫が 4棟ほど立地していたが、19世紀中葉に今に残るバロック様式の洋館 2つが増築されると、砲兵研究所が入居することとなる。後に、中庭の小さな洋館(木造 2階建て)の方に、収納する兵器の安全管理のため、外周壁が増設される。王制の廃止後も軍の占有地であったが、時には市民にも開放され、洗濯物干しの場所などに使用されるなど、緩い管理となっていたらしいが、1945年に完全立入禁止となって閉鎖されると、軍隊用の特別倉庫エリアとなる。1967年から敷地の一部が植物園とバラ園へ改装され、20世紀末に市の所有地に移管される。 2008年2月にオロモウツ要塞博物館として一般開放され、さまざまな文化イベント等も随時、開催されているという。

オロモウツ



王冠フォルト を見学後、先程のペトラ・ベズルチェ公園を少し戻る形で、ユダヤ人の門を登り(下写真)、旧市街地エリアへ入り込む。
この門は、かつて城塞都市時代、町へ入るための城門の 1つであったという。下写真は、城内にあったブルクラブスカ-通り沿いの、旧イエズス会研究所前から門を見返したもの。

オロモウツ

旧市街地内部は、まさに中世の町並みだった。
そのままブルクラブスカ-通りを直進していると、巨大な洋館と広場(Žerotínovo nám)に出くわす(下写真)。

オロモウツ

奥の突き当りには、同色の洋館が見える(教会系の幼稚園が入居中)。その前に聖フロリアヌス(カトリック教の殉教者で聖人化されている)の彫像が立つ(上写真の中央あたり)。


建物の北半分は、カトリック派の聖ミカエル教会が建つ(上写真の黒尖塔)。
この場所には 12世紀初頭、既に大天使ミハイルを祀る礼拝堂が立地していたことが分かっている。カトリック修道会ドミニコ派一行がイタリアからポーランドへ移動中に当地に立ち寄った際、ボヘミア王ヴァーツラフ 1世(1205~1253年)がこの礼拝堂と敷地を寄進したことにより(1230年)、間もなく、ドミニコ修道会によって巨大なゴシック様式の教会に建て替えられたのだった(1251年)。
しかし、30年戦争末期の 1642~1650年、新教徒派のスウェーデン軍の占領に遭い、カトリック派の教会は破壊されてしまう。

1676年、オモロウツ司教により再建工事が着手されると、1707年5月9日にレンガ壁に一新された、3つのドームを有するバロック様式で完成を見る。 しかし、徹底した倹約主義を貫くドミニカ修道会は、この豪奢な聖ミカエル教会を終始、好まなかったという。
そうこうしているうちに、オーストリア皇帝&神聖ローマ皇帝ヨーゼフ二世(1741~1790年。女帝マリア・テレジアの長男)の治世時代の 1781年、教会勢力への公的給付金が削減され、かつ経済的基盤のない存続困難な教団や修道院が数多く解散させられる中、ついに 1784年、オモロウツのドミニカ修道会も解散命令を受ける。
その後、建物は普通の地区教会へ転用され、神学校として再利用されることとなった。この過程で、オモロウツ大司教はさらに増築工事を行い、今日に見られる半教会、半洋館の複合施設(Římskokatolická farnost sv. Michala)が出現されたというわけだった。




そのまま聖ミカエル教会前を通過し、聖フロリアヌス像脇を抜けていくと、先述のパラツキー大学前を通過する。この前の Na Hradě ~ ウニヴェルジトニー通りへと続く細い路地を散策していると、パラツキー大学の学生寮が立地する、閑静な住宅エリアに行き当たる。下写真左は、この路地から見えていた、城壁や緑地公園への通路。ちょうど、レストラン Michalský Výpad(聖ミカエルの先っぽ、の意)のあたり。

なお、家屋沿いに設置されていた、石の出っ張り部分が気になった(下写真)。馬車などの往来で、家の壁を守った「いけず石」なのだろうか??この路端の角石は、チェコの首都プラハの旧市街地でも見かけた

オロモウツ オロモウツ

ここから、アフレロヴァ通りを西進していくと、中央広場(ホルニー広場)に行き着く。
そこに巨大な市庁舎と、聖三位一体柱(ペスト終焉紀念柱)が見えてくる。下写真。

広場に忽然と建つ市庁舎の建物は、15世紀に建設されたもので、その立地ポイントもあって独特な雰囲気を醸し出していた。この建物外壁の一部をくり抜く形で、名物の金色時計とからくり人形が収まっている。なお、筆者は気づかなかったが、この市庁舎脇に観光センターもあったらしい。

オロモウツ


上写真の市庁舎右に見える彫像が、オロモウツ市で最も有名な観光名所、聖三位一体柱(ペスト終焉紀念柱。Holy Trinity Column in Olomouc)である。 2000年にユネスコ世界遺産に登録され、その存在を世界に知られるようになった。
17世紀のヨーロッパは大流行したペスト(黒死病)、大規模な気候変動にともなう食糧危機、英蘭戦争や宗教対立による 30年戦争などの戦乱により全土が荒廃していた。その復興を祈念し、欧州各地に建立されたのが、神、キリスト、精霊の三者に未来の平和と安寧を祈願した、聖三位一体柱なのであった。

オロモウツでは 30年戦争が終結し、スウェーデンによる占領状態から解放された後(1650年)、町の復興工事があちこちで進む中で、教会や洋館などがバロック様式に再建されていく。その一環で、聖三位一体柱(ペスト紀念柱)も、別の場所に早々に建立されていた。
しかし、町の住民は初代紀念柱が崇高さに欠けるとして満足しておらず、互いに資金を出し合い、1716年、石工 ヴァーツラフ・レンダーに委ねて巨大な石柱工事をスタートさせる。レンダー死後も配下の職人らが引き継いで 1754年に完成させたものが、現存する紀念柱であった。その巨大さと細部にまで凝った芸術的価値はオロモウツ市民の誇りとなり、除幕セレモニーには女帝マリア・テレジアと、その夫の神聖ローマ皇帝フランツ 1世も招待されて観覧したという。
当時、欧州各地の町々にも 15m級の記念柱がたくさん建立されていたが、この 35mもある記念柱は世界最大を記録することとなり、さらに、最上部には銅に金メッキをほどこした三位一体の像、その下には聖母の被昇天の像、その他聖人像やレリーフなどで精緻に飾られ、見る者を圧倒したのだった。最下層には礼拝堂も設けられていたが、現在は入場不可となっている。
対オ―ストリア帝国との戦争の一環で、プロイセン軍は城塞都市オロモウツを計 3回、攻撃しているが(1741年、1758年、1886年)、徐々に増強された城郭都市はついに落城することはなかった。その際、住民代表がプロイセン軍の指揮官に直談判に赴き、町のシンボルとなっていた聖三位一体柱を守るべく、この破壊阻止を懇願し、指揮官から約束を取り付けた、というエピソードが残されている。




ここから、オプレタロヴァ通りを通過していると、巨大な聖モジツ教会の裏を通過した。

オロモウツ

この聖モジツ教会は、モラヴィア地方のゴシック様式の教会建築の中でも最古級の一つで、特に内部にある 15世紀に製作されたゴシック様式の「オリーブヒルのキリスト」像は、その史的価値を高く評価されており、14世紀から残る十字型アーチ天井や網形アーチ天井、西側の二重らせん階段と合わせて、必見のものとされる。また 1745年、ミカエル・エングラーによって設計されたパイプオルガンは、中央ヨーロッパで最大、全ヨーロッパでも 8番目の巨体を誇るという。

オロモウツ

その正面の、クヴィエトナ通り(途中から「ペカルシスカー通り」へ名称が変更される。路面電車が走るメイン・ストリート)を東進し、駅へ戻ることにした(上写真)。
上写真と、下写真左に見える教会は、近い方が「雪の聖母マリア教会」、遠い方が「聖ヴァーツラフ大聖堂」。

このバロック様式の「雪の聖母マリア教会」であるが、イエズス会管轄の修道院施設の一部で、 1712~1716年に、ミカエル・ヨセフ・クラインの設計で建立されたという。現存する内部のパイプオルガンは、18世紀半ばに制作されたものらしい。

オロモウツ オロモウツ

この「雪の聖母マリア教会」前に、歴史博物館(Regional History Museum)があった(入館料 60コルナ)。営業時間は、4~9月が 9:00~18:00、10~3月が 10:00~17:00。
筆者の約 45分間の見学中、暇そうな博物館員がずっと後をつけてきた。何を心配しての業務なのだろうか。。。
下絵図は、この博物館内に展示されていたもの。

オロモウツ

オロモウツ

上絵図は、町の北側から、近代化し城塞都市を脱皮しつつあるオロモウツの町を眺めている(下地図)。下地図 の赤ラインは、ここまでの移動経路。

オロモウツ


上地図の「テレジアの門」は、城塞都市オロモウツに女帝マリア・テレジア(1717~1780年)が訪問した際に命名された城門という。古代ローマ時代の凱旋門を模して設計されており(1752~1753年建設)、現在は周囲の城壁が撤去され、門だけがぽつんと往時の場所に残るだけとなっている。




博物館を出ると、道路向かいに「共和国広場」があり(下写真)、その周囲に「雪の聖母マリア教会」や「トリトン噴水」があった。このトリトン噴水(下写真の中央部)の彫刻も美しく観光名所らしかったが、冬場だったので水もなく気付かなかった。。。

オロモウツ

そのまま 博物館と旧兵舎建物(下写真左の黄色壁の建物)との間の路地「ハナーツケーホ・ブルク通り」を下ってみると(下写真左)、コジェルジュスカー通り沿いに城壁片を発見できた(下写真右)。
オロモウツ オロモウツ

道路で寸断されている生々しい残骸が印象的だった(下写真左)。城壁面は民家に利用され、引き続き、壁として役立っている様子。

オロモウツ オロモウツ

ここから北東端の、聖ヴァーツラフ大聖堂外周に残るという稜堡壁を見に行く。

大きめの自動車道路ドブロヴスケーホ通りを経由し、その先にある緑地公園「ポト・カテドラーロウ Sv. ヴァーツラヴァ公園」に至る。ここには長大な稜堡が保存されており、まさに感動ものだった(上写真右)。周囲の土壌堆積と外堀の埋め立てのためか、稜堡壁はとても低い印象だった。
また、壁面には欧米らしいスプレーの落書きがあり(下写真)、非常に残念だった。。。

オロモウツ

稜堡壁の先端部まで至ると、かつての外堀であったムリーンスカーの小川に出る。ここから、南に公園道を下っていく(下写真の二人の地元民がいる辺り)。

オロモウツ

オロモウツ

この崖下の城壁面も圧巻だった。
聖ヴァーツラフ大聖堂の教会壁と城壁面とが接続された箇所も見学でき、城郭都市時代も、こうした家屋や教会の外壁をうまく連結させ(下写真)、城壁面が構成されていたのだろうかと想像を膨らませる。
オロモウツ オロモウツ


この城郭都市オロモウツで最も高い丘(聖ヴァーツラフの丘)に、かつてオロモウツ城が築城されていた。

キリスト教の普及と軍事力の二本立てで勢力拡大を図っていた、プラハ を王都とするプシェミスル朝ボヘミア王は、歴代にわたってカトリック教会を庇護したことから、双方の癒着関係は非常に根深いものとなっていた。その象徴が、この城内に建立された司教のための大聖堂であり、また司教のための宮殿であった。ボヘミア王が基本的に王都プラハで生活したため、ボヘミア王のためのオロモウツ城や王宮に、司教らが住み着いた、と解釈できる。

こうして丘上は、有名なロマネスク様式の窓のあるズディーク宮殿(中欧で現存する唯一のロマネスク様式の宮殿で、実質的にオロモウツ司教の邸宅を兼ねたことから、司教宮殿と俗称される。「ズディーク」とは、司教インジフ・ズディークのこと。後述)、ゴシック様式の聖ヴァーツラフ大聖堂(オロモウツ大司教座の本拠地)、過去にオロモウツ大司教及び司教の選挙の場として使用されたという聖アンナ礼拝堂、フレスコ画が美しい聖ジョン・ザ・バプティスト礼拝堂、井戸のある「天国の中庭」など、王城跡でありながら、教会関係の観光名所ばかりとなっているわけである(1962年よりチェコ政府の指定史跡となる)。現在、ズディーク宮殿(司教邸宅跡)はその名も「大司教管区博物館」となって、一部が一般公開されている。

この城塞が宗教遺跡となっていく経緯は以下の通りである。
もともとオロモウツにはローマ帝国軍の駐屯基地が開設されており、以降、モラヴァ川沿いの植民都市として発展していったと考えられている。当時、モラヴァ川河畔の低地エリア(現在の旧市街地の南郊外にあるポヴェル地区 Povel)が中心部となっていた。6世紀中葉にスラヴ系民族の大移動があり、この地のローマ人らが追放されると、そのまま旧ローマ軍の開拓地が継承される(この低地エリアが、そもそも農業に適していたため)。ローマ軍の駐屯基地跡であった、ポヴェル地区 Povel が、当地の支配者層らの居城に転用されたと推定されている。 810年、同じモラヴァ川流域で台頭したスラヴ系民族の大モラヴィア王国に併合されると、古代開拓都市は完全に破壊されてしまう(ポヴェル地区 Povel で大規模な火災跡の地層が発掘されている)。
続いて、大モラヴィア王国により、聖ヴァーツラフの丘上に新たに城塞集落の建造が着手されるも(キリスト教文化を受容しつつ、封建体制の浸透が図られた)、907年にハンガリー民族の侵入を受けて王国は崩壊し、城塞都市は再び灰燼に帰してしまうのだった。9世紀後半に至ると、再びキリスト教文化を主軸とする城塞都市が急速に再生されるも、 1000年ごろにポーランド王ボレスワフ 1世(966?~1025年)が襲来し、 1018~19年には プラハ王城 を本拠地とするプシェミスル朝ボヘミア王のオルドジフ(975~1034年)が侵攻を企て、最終的にボヘミア王国の支配地に組み込まれることとなる。以後、対ポーランド王国に対する前線基地として、大規模に城塞都市が整備されていく。

このオロモウツ城に関する歴史上の記録は、コスマスによって執筆された年代記が最初とされる。
その最初のエピソードは、ボヘミア王ブジェチスラフ 1世の治世時代(1035~1055年。下系譜図)、王子であったヴラティスラヴが兄弟のスピティフネヴから逃へるため、ハンガリーへ落ち延びる最中にオロモウツ城に立ち寄り、自身の拠点と定めて妻子と共に移住するも、父ブジェチスラフ 1世崩御直後の 1055年、スピティフネヴがボヘミア王位を継承すると(在位 1055~1061年)、ヴラティスラヴは妻子を当地に残したまま、さらに北へ逃亡したという逸話が記録されている。

これ以降、オロモウツ城はプシェミスル朝ボヘミア王の第二行政府として認識されることとなり(モラヴィア地方の首府へ格上げ)、ボヘミア王(プシェミスル家)や、これに庇護されたカトリック教勢力が多分に関わっていくこととなるわけであるが、この最初の年代記を記したコスマスの息子が、オロモウツ城塞を教会勢力と一体化させることに成功した、オロモウツ司教インジフ・ズディーク(1126~1150年)なのであった。

オロモウツ

ボジヴォイ2世(在位:1100~1107年)の治世時代、王子スヴァツプルクによって大聖堂の建設工事が着手される(1104~1107年頃)。スヴァツプルクは従兄を廃位し、1107~1109年の 3年間のみ国王に即位するも、その死後、従兄のヴァーツラフ 1世が即位して(在位:1109年 - 1117年)、建設工事を続行させたのだった。この国王ヴァーツラフ 1世が遺言として、オロモウツ司教に工事の完遂を託すこととなる。こうして全権委任された司教は大聖堂の工事や王城管理で独自采配を振るうこととなり、司教インジフ・ズディーク(1126~1150年)の時代、未完成のまま 1131年に聖ヴァーツラフ大聖堂の除幕式が強行されるのだった(ヴァーツラフ 1世の末弟で、次代国王ソビェスラフ 1世の治世時代。上系譜図)。その直後、司教座の本部を聖ペトル教会から移転させ、王に代わってオロモウツ城内に君臨し、司教座を機能させることとしたわけである(大聖堂自体は最終的に 1141年に完成する。この北に隣接した宮殿に司教座が入居した)。

以降、オロモウツ城それ自体が実質的に司教本部となり、城内は次第に宗教的建築群に浸食され、もう王宮か、宗教拠点なのか、区分が分からないぐらいに一体化されることとなった。その後も、度重なる改築工事が手掛けられ、特に 1265年の大火の後、大聖堂がゴシック様式へ全面改装される。
この時、2つの塔を正面に有する大聖堂が、ほぼ現在の姿を現す。南側の 3つ目の塔は高さ 100.65m もあり、モラヴィア地方で最も高く、チェコ国内でも 2番目に高い塔となって、今も君臨している(19世紀末、建物内外は共にネオ・ゴシック様式に全面改装されている)。

オロモウツ

1306年8月4日、最後のプシェミスル家出身のボヘミア王ヴァーツラフ 3世(16歳。1289~1306年)が、ポーランド遠征の途上(上地図)、このオロモウツ城に滞在するも、このズディーク宮殿内で不可解な形で暗殺されることとなる(父のヴァーツラフ 2世が 1300年よりポーランド王も兼務していたが、群雄割拠状態のポーランド統治は困難を極めていた。 1305年6月に父が急死すると、息子がそのままボヘミア王とポーランド王を継承していた)。 こうしてプシェミスル家は断絶し、ヴァーツラフ 3世の妹エリシュカが結婚したルクセンブルク王家がボヘミア王を継承することとなり、その子に名君カール 4世が誕生するわけである

1767年12月頃、ウィーンから移動し、オロモウツ城内の司教座に滞在中であったモーツァルト(当時 11歳)が、『交響曲第 6番』を作曲した場所とされており、また近代以降では、マザー・テレサ(1910~1997年)や、ローマ法王ヨハネ・パウロ 2世(1920~2005年)の訪問も記録されている。




そして再び、駅までの直線道路「マサリコヴァ・トジーダ通り」に戻る。
先程の歴史博物館で発見したことだが、この路面電車が走る寂れた風情の通りは(下写真左)、第二次大戦中にナチス・ドイツに併合された際、その都市開発計画に基づいて敷設されたもので、当時は駅前メイン・ストリートだったという。
駅前の真正面に設けられた大きな自動車道路「トジーダ・コスモナウトゥー通り」は、後世になって開通されたという。

この由来から、駅前メイン・ストリートが聖ヴァーツラフ大聖堂下に至る先端部分に、当時、豪奢を極めた最高級宿「オーストリア・ホテル」が開業されていたのだった。現在は、ホテル・パラク(Hotel Palác。下写真左の右端)と改名され、安い中級宿に成り下がっている。

オロモウツ オロモウツ

オロモウツ駅には、16:30ごろに帰り着けた(上写真右)。
駅員に ブルノ 行きの列車時間を確認すると、次は 17:06発という(ブルノ到着予定は、18:40)。

オロモウツ オロモウツ

時間があったのでオロモウツ駅内をウロウロしていると(上写真左)、「アリババ」というケバブ軽食店を見つけた(上写真右)。中国電子商取引大手の会社と同じ名前だった。なお、アリババの語源は、イスラム世界に知られる民間の物語『アリババと 40人の盗賊』の主人公の名前で、その意味は「アリの父さん」といい、親しみを込めた愛称であった。

その店前から、駅ホームに直接、入れた(下写真左)。検札口のない欧州ならではの開放的な駅ホームで、ホーム脇に自動車が二台駐車している光景にもびっくりさせられた(下写真右)。

オロモウツ オロモウツ

オロモウツは、ポーランドが誇るユネスコ世界遺産都市「クラカウ」 よりも、よっぽど見応えのある城郭都市遺跡だったが、万人受けするシンボル的な建造物がないためか、実態よりも評価が低いように感じた。また、複雑な歴史もあって、一般客には理解しづらい土地柄にも思えたが、もっと観光アピールに力を入れれば、さらなる発展可能性を感じずにはいられない古都だった。

オロモウツ

16:55に列車がホームに入ってくる。
16:00台に列車が無かったせいか、乗客の数は多かった。それでも、4人席を二人で大胆に使用している人も多く、後続の駅で乗車してくる客らが席を探していても、誰も座席スペースを空けてあげようという雰囲気はなかった。筆者は最初から座って帰路に就いたわけだが、駅に停車する度に乗客らが物々しい音で乗ってくるので、車内で居眠りしづらかった。なんとか無事に、ブルノ中央駅に帰着すると、駅前の立ち食いアジア料理屋で腹を満たしてホテルに戻った


本当は、さらに北西郊外の都市オパヴァ(Opava。かつてシュレージエン公国の主要都市の一つで、チェコで三番目に大きいというシュレージエン地方博物館を有する。旧城郭都市時代から残る旧市街地も必見という)や、モヘルニツェ(Mohelnice)なども見学したかったが、そもそもブルノ出発時間が遅かった上に、電車の本数も少なすぎて、個人旅行では到底、見学不可能だった。




 オロモウツ市の歴史

現在、チェコ国内で第 5位の人口規模(約 10.5万人。郊外を含めた経済圏は 48万人)を誇るオロモウツは、同国で二番目に早く大学が創設されたことでも有名で、今でも大学の町として国内外で広く知られている(大学生数は 25,000人)。

古代より、チェコ東部のモラヴィア地方の中央を流れるモラヴァ川や、ビストリツェ川などの大小の河川による豊富な水資源と、3つの大きな丘を有し、肥沃な土地と適度に起伏のある地形に恵まれたオロモウツは、何世紀にも渡って人々を惹きつけ、その集落を拡張させる原動力を与えてきたのだった。その絶頂期は、スラブ系民族のモラヴィア王国の王都として、同地方に君臨した 9世紀後半であった。しかし、そのモラヴィア王国も南から侵攻してきたハンガリー人によって滅亡に追い込まれ、最終的にそのハンガリー勢力を駆逐した、プラハを王都とするプシェミスル朝ボヘミア王の支配地に組み込まれる(907年)

このプシェミスル朝 統治時代の 1235年、オロモウツの町もモンゴル帝国軍の攻撃を受けるも、無事に撃退した記録が残されている。ポーランド、チェコ北部のシュレジエン(シレジア)地方を席巻したモンゴル軍は、レグニツァの戦いでドイツ・ポーランド連合軍を大破した後、一部の部隊がモラヴィア地方にも侵入したと考えられており、その時に小競り合いがあった可能性がある。下地図。

オロモウツ

14世紀初頭~ 15世紀中葉にかけて、モラヴィア地方の中核都市として台頭し、宗教都市、自由市民都市(1343年~)の地位と栄光を謳歌するも、フス戦争(1419〜1436年)初戦の敗戦、および、30年戦争(1618~1648年)末期のスウェーデン軍による軍事占領を経て、終止符が打たれることとなる。

特に、最初の宗教戦争となったフス戦争では、2度、フス派の占領を受ける。王都プラハ城下で新教徒フス派が台頭する中、当地のカトリック司教(カルトゥジオ修道会出身で、ドラニ修道院を牙城とした)は新教徒派を断固拒絶する姿勢を貫き、カトリック派の貴族らの強力も得て、1420年4月にフス派に宣戦布告する。新教徒ら自らが武器をとって戦線に繰り出したフス派と異なり、カトリック派は傭兵に依存した旧来型の戦闘に終始したため、戦意の差から各地で敗退を重ねる。そして、1425年にはオロモウツ自体も占領され、司教の牙城であったドラニ修道院を差し押さえられてしまう。オロモウツ市民らは高い賠償金を支払って買い戻しさせられることとなった。また、1427年にも再占領を受けて大損害を被るも、最終的に1432年、オロモウツ北郊外の要塞シュテルンベルク城を奪還してポーランドからの援軍を招き入れ、ようやくフス派勢力を退けたのだった。

さらに大規模な宗教戦争が勃発した 30年戦争下、新教徒派に組したスウェーデン軍の攻撃によってオロモウツは陥落し、 1642~1650年の 8年もの間、スウェーデン軍の占領下に置かれ、カトリック教会の関連施設は徹底的に破却され、また城壁や市街地も大きなダメージを受けることとなる。この時、オモロウツから ブルノ へ移転してスウェーデン軍に抵抗を続けたカトリック司教は、結局、最後まで落城しなかったブルノに戦後もそのままに留まったことから、両者の逆転が始まるのだった。

オロモウツ

スウェーデン軍の撤退後、城塞都市オロモウツの復興がスタートされると、続く 100年の間に、都市は大変貌を遂げ、現存する大学校舎や聖三位一体柱などが次々と建設されるとともに、城壁や城門、さらに外周防衛網の拡充が図られることとなった。特に城門部分が攻撃を受けやすいため、稜堡という当時の最新技術によって出丸が増設される。1655年には早くもバロック様式で、初期の稜堡「王冠フォルト」が整備されている(最終的に女帝マリア・テレジアによって、 1754年に大改修が行われ、1755~56年ごろに現在の姿となる)。

1526年よりオーストリア帝国(ハプスブルク家)の版図下にあったボヘミアやモラヴィア地方であるが、後にプロイセンが台頭し、国境を接するようになると、1740年代以降、オロモウツの町は 3度もプロイセン軍の攻撃を受けることとなる。

その最初の脅威が、オーストリア継承戦争初期のプロイセン軍による軍事侵攻であった(1741年)。このとき、新米の女帝マリア・テレジア(1717~1780年)はシュレージエンとボヘミア地方の一部をプロイセンに割譲することで、何とか休戦協定に至る。プロイセン勢力と国境を接するようになったモラヴィア地方の防衛が急務となる中、その最大都市であったオロモウツに 1,000万グルデン(現在価値にして、1兆円超)もの国費を投じて、大規模要塞化が図られることとなった。大工事は 1742年5月に着手され、1757年9月ごろに完成を見る。完成後、100年以上にわたり、北モラヴィア地方の軍事拠点として機能することとなる。

この大工事に際し、最初に邪魔となった民家、商業地や軍事用地などを、城郭都市の市城壁から約 800mの距離分、退去させる。土地は買い上げられて、もしくは別の土地を与えられることで、10以上もの村落や郊外集落が立ち退きに追い込まれたという(それ以上の補償は、一切行われなかった)。この工事期間中、広範囲のエリアから滑車などが集められて土地を削ったり、高地を作ったりと、大規模な土木工事が進められたのだった。新たに水路が掘削されて水流が修正され、また盛り土が整備されるなど、地形の大改造が手掛けられたという。
昔から籠城戦の弱点であったたことから、1750年、真っ先に都市の西面に稜塁が新築されている。

1752年には西面と南面の稜塁(「フォルト」と通称された。クジェロフ・フォルト、ラディーコフ・フォルトなど)工事がほぼ完成される。 1755年にバロック様式の稜塁化が完成されると、北と西からの攻撃にも対応できるようになる。
同時に、南東面の主工事が集中的に進められ、王冠フォルトも完成される。翌 1756年、モラヴァ川沿いの整備が完了すると、川沿いに 4出丸要塞が誕生されたのだった。こうして、四方を稜塁群(要塞リングと通称された)に完全に囲まれた、チェコ史上でも唯一無二の武装都市となる(城郭都市の城門は 4箇所に削減された)。

オロモウツ

完成直後の翌 1758年、プロイセン軍が侵攻してくる。 5月11日に先遣隊がオロモウツに到着すると、町を完全包囲した後(上絵図)、 5月27日夜から翌 28日にかけて、最初の砲撃攻撃を西面から開始されるも、戦果なく撃退される。
周辺の都市グントラモヴィツェやドマショフ付近での攻防戦も同時並行で進める中、オーストリア本国からの援軍がかけつけたことから、プロイセン軍は 7月2日夜に包囲を解き、西へ撤退することとなる。こうして 5週間もの包囲戦を持ちこたえた翌 7月3日、町は歓喜に湧いたという。このオルミュッツ(「オロモウツ」のドイツ語読み)包囲戦での勝利は、当地の勇名を全国に轟かせ、以後、オーストリア帝国内でも最強の軍都と称されるようになる。

下地図は、中世におけるオロモウツと、周辺の城塞都市の様子(1627年)。

オロモウツ

下地図は、18世紀後半のもの。

オロモウツ

19世紀初頭、フランス革命を期にナポレオンが台頭すると、オーストリア帝国と全面戦争となり、王都ウィーンを占領された皇帝フランツ 1世(1768~1835年)は要塞都市オロモウツに避難する。ここにロシア皇帝アレクサンドル 1世(1777~1825年)も合流し、1805年12月2日にフランス軍と全面戦争となり、オロモウツ郊外のアウステルリッツでの敗戦となるわけである。都市は直接、戦火に巻き込まれることはなかったが、その後、フランス軍の占領下に置かれる。1815年にナポレンが失脚すると、再び、オーストリア帝国領となり 1820年代を通じて、要塞都市のさらなる強化工事が進められることとなった。

しかし、時代は城郭都市の占領そのものよりも、最新タイプの装備を有する敵軍部隊の殲滅戦へと移行しつつあり、要塞リングで囲まれた市域は、逆にその発展を大きく阻害する要因とみなされるようになる(1841年10月には、城塞都市から離れた現在地に鉄道駅が開設される。当時、外周リンクから 1.5kmの敷地内は建物の建設が禁止されていたため)。しかし、その最強城塞都市&宗教都市は、最後の最後までオーストリア皇室に頼られる形となり、1848年10月の民主革命時、先の皇帝フランツ 1世(1768~1835年)の子で、次代皇帝となっていたフェルディナント 1世(1793~1875年)が王都ウィーンを脱出し、当地に避難している。事態収拾のため、最終的に同年 12月にフェルディナント 1世が退位し、甥のフランツ・ヨーゼフ 1世(1830~1916年)が即位することとなるのだった。

このフランツ・ヨーゼフ 1世により、1860年、いよいよ城郭都市の武装解除が決定されると、 1866年7月のプロイセン軍によるオロモウツ侵攻直後(この侵攻作戦では、強固な城塞都市への攻撃を避けたプロイセン軍が最終的に撤兵する)、まず城門撤去と道路敷設が進められ、 1876年以降には、稜塁の撤去工事も集中的に進められる。さらに 1886年3月9日、オロモウツ議会の承認により、市城壁の完全撤去も決定されると(1880年当時の都市人口は、20,176人)、1889年にかけて最後の武装解除が行われ、近代都市への道が切り開かれたのだった。ただし、つい最近の 1970年代にも、稜塁の一部が残存していたという。

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