BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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訪問日:2018年2月中旬 『大陸西遊記』~


ポーランド レグニツァ市 ~ 市内人口 10万人、 一人当たり GDP 17,500 USD(全国)


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  ヴロツワフから レグニツァへの 鉄道移動(50分、15.6ズロチ)
  レグニツァ公の城館跡 を訪問する ~ 櫓塔、正門、中庭、古井戸、土塁
  【豆知識】ポーランド国王一族の ピャスト家が住んだ、レグニツァ公の 城館跡 ■■■
  ノミの市 ~ 冬季の早朝にもかかわらず、地元高齢者の皆さんは元気だった、、、
  (シレジア地方)ピャスト王家の 家廟を安置する、聖ヨハネ(ヤン)教会
  地元郷土資料館を 訪問する ~ 銅博物館、ナイト・アカデミー(貴族の子弟教育の学校跡)
  西城門(ホイノフスカ門)脇の 櫓塔と、西面城壁跡 を歩く
  城郭都市レグニツァの 古絵図 ~ かつて内堀、外堀の 二重堀と、多くの櫓塔 を有していた
  スロヴィアンスキー広場(スラヴ人広場)と、ソビエト兵&ポーランド兵の 友好記念立像
  レグニツァ市の カトリック総本部:聖ペトロ&パウル大聖堂 の威風
  旧市街地の 中心部(リネク地区)~ 市役所庁舎、茶色洋館、古民家群(ニシン売りの屋台)
  ビデロナ通り(南面城壁跡)と コジ公園(外堀跡)
  聖母マリア教会 ~ 市内で 最古級を誇り、地元 新教徒派の 総本部を兼ねる
  1760年当時の 古城マップ
  レグニツァ・ポーレへの 路線バス移動(旅行者利用不能につき、失敗 !!!)一律 3ズロチ
  モンゴル遠征軍、最西端の地「レグニツァ・ポーレ」 アクセス地図
  レグニツァ・ポーレ博物館(三位一体&聖メアリー教会)と 聖ヤドヴィガ大聖堂
  1241年4月9日、レグニツァ・ポーレの 戦い(モンゴル軍 8,000 vs 欧州軍 2,000~3,000)
  博物館に併設されている 5階建ての塔から、古戦場跡の大平原を 一望する
  【豆知識】モンゴル軍の ヨーロッパ遠征(ポーランド王国、ハンガリー王国の壊滅)■■■
  【豆知識】ヘドヴィック(元皇后)と ヘンリク 2世母子の 宗教的、政治的シンボル化 ■■■
  【豆知識】レグニツァの 歴史 ■■■



前日ヴロツワフ駅前から徒歩 5分強にある、ホテル・ポロニアに投宿していた
この日も朝早くに起床し、ロビー中庭で朝食を食べる。 8:10にチェックアウトし、荷物をフロントに預かってもらった。

レグニツァ

前日夕方にヴロツワフ鉄道駅の窓口で、8:21発の(Zary行)普通列車の片道チケットを購入していた(上時刻表)。
この駅カウンターは、立ち並び式(下写真左)と 座席式(下写真右)の二種類があった。前者の方がたくさん並んでいたので、筆者は迷わず後者の列に並んでチケットを購入したが、地元民の並び方から推察するに、前者の方が購入代金が安いのだろうか???
ちなみに、下写真左の左端に見える、時計下の窓口は観光案内所。

レグニツァ レグニツァ

さて、こうして購入した乗車券を握りしめ、この日 8:21発の Zary行列車に乗車すべく、⑩番ホームへ向かうも(上段の時刻表にも、Ⅴ⑩ の番号が見える)、ホーム下の通路を探し回っても ⑩番が見当たらないので、だんだん焦ってくる。地元の通行人に質問すると、1~2番ホームは Ⅰ、3~4番ホームは Ⅱ.。。。という風に、 2ホームずつが 1セットになっているようで、⑩番ホームは、つまり Ⅴ= ⑤の階段上ということだった(下写真左)。

レグニツァ レグニツァ

50分間の乗車後、予定通り 9:11に レグニツァ駅(Legnica)に到着する(上写真右)。
なお、レグニツァ駅構内のトイレは清潔で、しかも無料だった。(ヴロツワフ駅 構内は、清掃のおばさんが手数料を徴収していた。0.2ズロチ)

レグニツァ レグニツァ

そのまま旧市街地側の出口から外に出る。駅前は非常に広いスペースだった(上写真左)。
駅前の 自動車道路「ポチュトバ通り」沿いに西へ進むと、歩道橋があったので渡ってみる。上写真右は、この歩道橋上から西に広がる旧市街地方面を遠望したもの。

とりあえず正面に見える、高い尖塔がそびえ立つ巨大洋館を目指した(上写真右)。ここが、レグニツァ公の城館跡だった。下写真。

レグニツァ

正門が開放されており、中まで自由に入れる様子だったので、受付の人に顔見せして中へ進入する(下写真左)。

中庭に至ると、すぐ正面に古井戸が保存してあった(下写真右)。
また、中庭の奥には古城チャペルという形で、地元の人たち用の結婚式場が設けられていた。

レグニツァ レグニツァ

再び、先ほどの通路沿いの受付に戻り、塔に上がりたいと伝えるも、夏季しかオープンしていないという回答だった。
仕方ないので、再び正門から外に出ると、最初は気付かなかったが、駐車場脇に立つ タワー(下写真左)は古城時代の名残りを示す、櫓塔ではないだろうか??

レグニツァ レグニツァ

洋館が建つ土塁上を通過し、さらに西へと歩みを進めてみた(上写真右)。なお、この土塁下はかつて水堀が周囲を覆っていたらしい(下絵図)。

レグニツァ



 ポーランド国王一族のピャスト家が住んだ、レグニツァ公の 城館(ポーランド語:Zamek)

モンゴル軍襲来に直面したヘンリク 2世(1196?~1241年)の治世時代、防衛強化策の一環として、城塞内に聖ペトロ櫓塔と 聖ヘヴィッグ櫓塔が建造されるとともに、十角形の教会が建立されたという。
モンゴル軍が撤退した後、荒廃したポーランド王国であったが、王国の西端は無傷であったことから、戦死した国王ヘンリク 2世の跡を継いだ、実子のボレスワフ 2世(1220?~1278年)がここに本拠地を構えることとなる。それまでも、皇室ピャスト家一族がレグニツァ公として分封され居館を構えていたが(1163~1247年)、大改修が手掛けられ、ピャスト家の本家ポ-ランド王自らの居館に定められたのだった(1248年~)。以後、シレジア地方(ポーランド王国西端の穀倉地帯)を支配するピャスト家の中心地と考えられるようになる。

しかし、ピャスト家も代々に渡って一族に領地を分封し続けた結果、その領地は細分化に細分化を重ねて弱小化し、 1675年にピャスト王家の血筋が断絶すると、ついに隣の強国ボヘミア王国や オーストリア帝国の版図下に併合されてしまう。以降~1741年までは当地を支配した、ボヘミア王国 やオーストリア帝国から派遣されてきた行政官が入居する居城とされ、また 1742年以降はプロイセン王国の支配拠点に転用されることとなる。プロイセン時代からドイツ帝国、戦前のポーランド共和国時代の 1809~1945年、レグニツァ地方政府の地区事務所が入居していた。現在は教育施設として使用されているという。
この間、幾度も増改築が繰り返され、特に大火災や戦火後の 1711年、1835年、1945年などは大規模な改修が加えられたという。ただし、歴代の レグニツァ公(当地に分封された ピャスト家一族)の中で随一の名君とされる、フリデリク 2世(1480~1547年)夫妻の彫刻が上に彫られたルネッサンス様式の正門は、1533年当時のままが保存されている。



土塁を下り、水堀跡に整備された自動車道「ノバ通り」を西進していると、すぐ角にバジブニ広場があった。ここは早朝からノミの市が開かれていた(下写真左)。

こんな寒冷にもかかわらず、高齢者を中心にたくさんの買い物客らが往来していた。寒いのに家に引きこもらず、元気そうだった上に、皆さんは地元で顔見知りのようで、朝 9:00過ぎから路端のあちこちで談笑していた。こういう隣人による共存社会こそが、高齢者の生活活力や健康長寿に最も効果的であるような気がする。
しばらく筆者も露店市場を巡ってみたが、明らかに東洋系で目立ってしまうので、早々に退散する。

レグニツァ レグニツァ

そのまま ノバ通り(旧市街地に入ると、「パルティザントゥフ通り」と改名)を直進すると、聖ヨハネ(ヤン)教会が見えてくる(上写真右)。


この聖ヨハネ教会は 1714~1727年、イエズス会によって、もともとあったゴシック様式の教会がバロック様式へ全面改装されたものという。
1773年から着手されたオーストリア帝国皇帝ヨーゼフ 2世(1741~1790年。女帝 マリア・テレジアの長男)による宗教・政治改革により、1801年にイエズス会直属のものからカトリック地区教会への転用が決定されると、内部祭壇の装飾品や石棺、彫刻などが、宗教の世俗化の流れで次々と売却されていくこととなる。そうした時代の潮流にあって売却を免れたピャスト王家の家廟を中心に、内部の祭壇が ネオ・ゴシック様式へ全面改装され(1880年)、今日まで保存されているという。

レグニツァ

当教会で必見のものとされる、このピャスト王家の家廟であるが、その内部はピャスト王家ゆかりの人物やエピソードを彫ったフレスコ画や彫刻で飾られた壮麗な廟所となっている。
そもそもは、このレグニツァの地でピャスト王家最後の末裔であった当主 イェジ・ヴィルヘルムがわずか 15歳で死去した際(1675年)、その母 ルイーゼ(1631~1680年。当時、摂政として息子の後見役を担っていた)によってこの教会内部に遺体が埋葬され、廟所が建立されたことに端を発する。最終的に 1677~1679年の間に立派な家廟へ改装され、聖ヨハネ教会礼拝堂のメイン看板となって今日に継承されているわけである。



この 聖ヨハネ(ポーランド名:ヤン)教会の正面向かいに、地元で唯一の博物館があった(Muzeum Miedzi = 銅博物館。下写真中央の街路灯脇に入口が見える)。開館時間 10時~ということで、早々に入ってみる(入館料 10ズロチ。毎週火曜~土曜日開館 10:00-17:00、月曜&日曜日は休館)。

レグニツァ

受付で荷物を預けるように言われる。
1F部分は風刺画のフロアー、2F部分は地元の工芸作品や伝統家具などが展示されていた。どの部屋にも女性スタッフが貼り着き、見学者の一挙手一投足をじっと観察していた。他にやることのない アルバイト・スタッフなのだろうと思われる。共産主義時代の名残からなのか、公的セクターにしては人件費にあまりに予算をかけ過ぎている印象を受けた。

肝心の郷土史資料がないので、古城資料が見たいというと、この博物館向かいに リッター・アカデミー(Ritterakademie。下写真左)という建物があり、ここの 2Fも系列の博物館です、という。早速、向かいの正方形型の建物に入ってみる(下写真)。

この四面体の洋館 ナイト・アカデミー(騎士学校)は、1708年にオーストリア帝国皇帝ヨーゼフ 1世(1678~1711年)によって、旧ポーランド王国西部の貴族階層の子弟教育のために建立されたものであった。1811~1944年には、一般市民の子弟用の中学、高校も併設されていたという。
開校翌年の 1709年、早々と建物の全面改装計画が立ち上がり、 1728~1738年にかけてバロック様式への工事が進められ、さらに 1802年には建物全体が拡張されている。現在、レグニツァ市文化センター、音楽学校、市政府事務所、銅博物館(一部)などが入居する。下写真左。

レグニツァ レグニツァ

さて、ナイト・アカデミーの 1F入り口にもムダな要員が立っていたので、「上に上がる」とジェスチャーで伝えると、階段を指さされる。そして、ようやく地元史の資料部屋にたどりつけた。ここもたった二つの部屋なのに、二人の女性要員が貼り付いている。見学者は筆者一人だけであったが、終始、ぼさーと突っ立っているだけだった。
しかし、ここに展示されていた古城資料は非常に役立った。先の城館と城郭都市との位置関係や堀の位置などを俯瞰でき、いい事前予習になった。

見学後、博物館を出て、城壁跡を一周してみる。ナイト・アカデミー前のホイ・ノフスカ通りを西進し、グバルナ通りとの交差点に行き着くと、西城門脇にかつて立地していた櫓塔の残骸ビルを発見する(下写真左)。上写真右の ナイト・アカデミーの左端にも見える。

レグニツァ レグニツァ

ここから、グバルナ通り沿いに緩やかなカーブの道路が南北に続いており、かつて西面城壁が連なっていたことが分かる。上写真右。

なお、この 西城門(ホイノフスカ門)脇にあった櫓塔であるが(下絵図)、 15世紀に建てられた当時から城門脇の防衛用の施設で、一度も城門楼閣として使用されたことは無かったという(つまり、この 1F部分に城門空間が掘削されることは無かった)。そのまま北へ市城壁が延々と延びていた。その市城壁の断片は、隣の学校の外壁を兼ねる形で今もわずかに残存していた(上写真左の右半分)。
かつての櫓塔だった名残は、複数の矢狭間を今に残す様子から容易に推察できた。しかし、建物自体は一度破却されており、1963年に全面改装され、現在、安アパート用の建物として使用されているという。矢狭間を思わせる数多くの窓は、これらの安アパート部屋のものだった

レグニツァ

グバルナ通りをさらに南進すると、西側に地方裁判所ビルが見えてくる。正面の 大通り「グリデリカ・スカルプカ通り(東半分はビデロナ通りへ改名)」との交差点で、東へ進路を変える。ちょうど、市城壁の南東角にあたるポイントだった。

そのまま東進すると、スロヴィアンスキー広場(「スラヴ人広場」の意味)が左手にあり、中央部にソビエト兵とポーランド兵の友好記念立像が建立されていた。下写真。


この広場には、もともとプロイセン支配時代に建立されたフリードリッヒ 1世、2世父子を称える記念碑が設置されていたという。その後、1951年2月11日に第二次世界大戦で戦死した人々を慰霊する彫像が建立され、以後、1989年までポーランド軍とソビエト連邦軍が度々、戦勝セレモニーを当地で開催していたらしい。
時と共に、皮肉にもこの広場で反ソビエト運動や反共産主義運動、ポーランド愛国運動などの諸集会が開催されることとなり、集会参加者らによって両国兵士の友好記念像を撤去しようという動きが幾度も巻き起こったが、今日まで保持されてきたというわけだった。


レグニツァ

また、上写真の左端にある、仰ぎ見る高さを誇る 聖ペトロ&パウル大聖堂(Sts. Peter and Paul Cathedral)であるが、1328年に工事がスタートし、50年後の 1378年に完成した、地元民たちのプライドの結晶となった教会である。下写真左。
もともとこの地には、ロマネスク様式の 地区教会(1258年建立)が立地していたが、これをゴシック様式へ全面改修したという。以後も度々、修築工事が手掛けられ、現在の ネオ・ゴシック様式は、 1892~1894年の工事を経たものである。直近でも、1992年3月25日に修繕工事が施されている。この時、機械で生成されたレンガを積み上げて外壁が整備され、南面の尖塔も増築されたという(下写真左)。同時に、内装も一新されている。それでも内部には、12世紀当時に鋳造された彫像などが、今も保存されているという。

現在、レグニツァ教区のカトリック派本部として君臨し、 クラカウ 教区に直属する。目下、町の人口の 30.1%が、毎週末の礼拝ミサや各種行事に参列する、という信徒層の厚さを誇る。

レグニツァ レグニツァ

また、この 聖ペトロ&パウル大聖堂の正面向かいの、古めかしい 洋館(上写真左の右側)には多くの地元民たちが出入りしていたので何かと思って接近してみると、市役所建物だった。その入口前には、地元県とレグニツァ市の旗、そして EUの旗 3本が翻っていた。

そのまま大聖堂の周りをぐるりと一周、回ってみる。
この大聖堂と市役所との間には、遠くにレグニツァ公の城館が見えていた(上段写真)。この 教会裏手(東面)の広場には、教会法王らしき銅像が設置されており、「ヴィエルコポルスカ蜂起の広場」という別の名称が付与されていた。ちなみに、ヴィエルコポルスカ蜂起とは、18世紀末~20世紀初頭にかけて ヴィエルコポルスカ(大ポーランド)地方で発生した、ポーランド分割と列強支配に対するポーランド民衆の一連の武装蜂起を指す。愛国主義的な命名となっているわけである。

さらに教会の北面へ移動すると、正面に廃墟感が生々しい、古いレンガ造りのショッピング・アーケードが残っていた(上写真右の茶色建物)。ちょうど、聖ペトロ&パウル大聖堂の西正面にあり、カテロラルニ通りを挟んで位置するベスト・ロケーションだったが、商店はすべて閉店中だった。

続いて、カテロラルニ通りから教会を離れる形で北へ抜けると、旧市街地の 中心地(リネク地区)に至る。下写真。
レグニツァ

上写真中央部に、「小人の家」みたいな小さく細いカラフルな洋館が 8棟、連なっている部分がある。
このアジアでよく見かける 騎楼スタイル(下はアーケードで店舗が連なり、上に住宅がある)の建物群であるが、もともと 16世紀に建設された中産市民階級の住宅跡といい、地元では「ニシン売りの屋台」と通称されているという。それぞれ天井部は「へ」の字型の切り妻スタイルで統一されているが、その他の部分はルネッサンス様式、バロック様式、古典主義様式など、バラバラな建築様式で構成されている。今に残る 1F部分のアーケードは 1960年代に再建されたもので、目下、すべてが空き家だった。上階は現在でも、事務所やサービス店舗として利用されているという。

さて、再び聖ペトロ&パウル大聖堂の南面へ戻り、ビデロナ通り沿いを東進する。かつて南面城壁が連なっていた場所だ。すると正面にコジ公園が見えてくる(下写真左)。城郭都市時代の外堀が改造され、公園池に変身したものと考えられる。

レグニツァ レグニツァ

ここから北方向へ路地を進むと、ちょうど左手正面に巨大な聖母マリア教会が姿を現す。上写真右

この教会建物の東端にあった、アーチ状の建物が面白かった(上写真右の中央に見える、ドーム状の空間)。今ではピスクピア通りの一部を成し、市民らの日常の通路になっているが、かつては水門でもあったのだろうか。ちょうど、この教会の外周すぐに、かつて市城壁が連なっていたわけである。
ちなみに古城時代、この教会敷地は水路で城郭都市と区切られていたようだった(下の絵図参照)。


この新教徒派に属する聖母マリア教会は、シレジア地方に残る最古級の教会の一つで、ポーランド国王 ボレスワフ 4世(1120~1173年)によって、木造の小さな教会が建立されたことに端を発する。当初から聖母マリア教会と命名されていたらしいが、地元ではその地形的な立地から、低地教会とも通称されたという。しかし、完成から間もなくの 1192年、木造建てから石積みの 建物(砂岩を加工したもの)へ全面改装されることとなる。
史書によると、モンゴル軍と対峙した 1241年4月9日のレグニツァの戦い直前、ドイツ、ポーランド、ボヘミア 連合軍を率いたポーランド王ヘンリク 2世(1196?~1241年)がレグニツァに滞在中、この聖母マリア教会を訪問し必勝を祈願したという記述が残されている。また、戦死した息子を弔うべく、当地を訪れた元ポーランド王国皇后 ヤドヴィガ(ヘンリク 2世の母)も、この教会に足を運んだとされる。

しかし、1338年5月25日、町を襲った大火により、往時の聖母マリア教会は全焼してしまうのだった。1362~1386年にかけて、やや規模を拡張される形で教会建物が再建される。さらに 1417年、地元の服飾商工業者組合の寄付により、二つの礼拝堂が増設されることとなった。
1450~1468年には、地区教会の司祭であり教会法学者であった マルティン・クローマーの指揮の下、教会建物群がさらに拡張される。この時、専属の聖歌隊も常設されるようになる。それから間もなく、南面の屋上に八角形の尖塔も増築される。これ以降、教会は高さと形状の異なる二つの尖塔を、屋上に有することとなった。下絵図。

レグニツァ

時は下って、ナポレオン戦争期間中の 1813年、オーストリア軍を破り当地を占領したフランス軍により、教会施設は軍病院に転用されることとなる。その際、教会内部の装飾は大いに棄損されてしまうも、戦後すぐに復旧作業が進められ、 1815年に再び教会として再稼働する。しかし 1822年3月11日、落雷の直撃により、教会は全焼してしまうのだった。すぐに再建工事が進められ(1824~1829年)、これまでの長方形型から現在のような十字型の建物へ設計変更が加えられ、また同じ高さの二本の尖塔が増築されたのだった。

1890年8月29日には、ポーランドを代表する画家 スタニスワフ・ヴィスピャンスキ(1869~1907年)が、この教会を訪問し、その姿を描写している。

1905年1月、ドイツ人建築家 オスカー・ホスフェルト(1848~1915年)の設計の下、教会に全面的な改装工事が加えられる。この時、市内で唯一、ガス灯が導入され、また中央管理による最新型の暖房設備も設置されることとなる。早くも翌 1906年5月31日に完成を見たわけであるが、当面の間、地区教会としての週末ミサなどの諸行事は、当時、新教徒派に属した聖ぺトロ&パウロ大聖堂で代行されていたという。工事完成後の 1908年6月9日、再び新教徒派の地区本部として活動を再開する。その初回の週末ミサに、ドイツ帝国 3代目皇帝 ヴィルヘルム 2世(1859~1941年)も参列した記録が残されている。
この教会は宗教改革以来、一環して新教徒派に帰属した、レグニツァ市内で唯一の宗教施設という。



そのまま聖母マリア教会脇の ブトルワフスカ通り(北半分はザムコバ通りに改名)を北へ移動していると(ここは西面城壁の跡地に相当)、巨大ショッピングモール「Galeria」前に至る。その正面に、最初に訪問したレグニツァ公の城館跡が控えており、軽く一周巡ってしまったようだった。だいたい、かつての市城壁全体の 4分の3ぐらいの距離で、徒歩 20分強だったと思われる。かなり小規模な城壁都市だったことが分かる。
下古絵図は、1760年 当時の様子。

レグニツァ

再び、城館前のピアストフスカ通りを駅前まで戻る形で東進し、先程の歩道橋を渡って、正面にあったピザ屋で休憩することにした。
ここの店員さんはイラン出身の若者で、非常に気さくな人だった。筆者には全く解読不能だったが、ポーランド全国版の出会い系サイトなどを教えてくれた。。。。ついでに レグニツァ・ポーレ(Legnickie Pole)の行き方も Get できたのが収穫だった。

彼の案内通り、歩道橋対岸に見えていたバス停で、レグニツァ・ポーレ行の路線バスを待つことにした(下写真)。

レグニツァ

しかし、すべてが手探りだった。
結論からいうと、路線バス 26番、28番、29番がレグニツァ・ポーレへ向かうのだが、いずれも途中通過するルートが異なり、筆者が乗車してしまった 26番路線バスはかなり郊外地区を遠回りする路線だった。帰路に乗った 29番バスが、一直線にレグニツァの中心部を往来する路線だった。

さらに困ったことに、これら 3路線は、いずれも 8時間に一本しかなく、しかも、全てまとまった時間帯にだけ運行されている(下のバス停時刻表を参照 !!!)。
つまり、同じ時刻ぐらいにレグニツァ中心部を発し、また同様に同じようなタイミングでレグニツァ・ポーレをも発車というスタイルで、到底、普通の利用客を想定している運行状況ではなかった。その主たるターゲットは、レグニツァ中心部と郊外を往来する工場労働者や学生、生徒たちで、彼らの 出勤、登校、退社、下校時間にまとめて運行させている様子だった。皆、同じ時間に会社や学校に出向き、同じ時間に帰宅の途につくという、この究極に一元管理された社会生活スタイルは、共産主義時代の名残りなのだろうか??誰かが早くバスに乗って、別方向へ向かう者が半時間も待たされる、みたいな不平等が生じないよう、各ルートのバスが一斉に到着、発車するという仕組みにビックリさせられた。

このため、完全に地元目線の路線バスは、旅行者には利用不能な交通手段であった(ちなみに、バス運賃の仕組みは簡単で、一律 3ズロチのみ。どこで乗降車しても同じ)。すなわち、レグニツァ・ポーレへの往路、もしくは帰路だけ路線バスを利用することは可能だろうが、片道分は必ずタクシーなどのチャーター便が必須となるわけである。

レグニツァ


上写真のバス停は、筆者が途中下車してしまった「Nowa Wieś Legnicka」という場所である(下地図参照)。どうやら貨物列車用の鉄道駅があり、この周辺は自動車やその関連部品の工場がたくさん立地している村(人口 560人)のようだった。

なぜ、筆者がここでバスを下車したかというと、結構な数の乗客が一斉に降りたことと、この時はバス乗車運賃の仕組みを理解しておらず、どのポイントまで最初の 3ズロチか分からず、区間を過ぎていないか不安になってきたこともあった。レグニツァ中心部からこの路線バスに乗車していた時、後から検査員が乗り込んできて、乗客たちの乗車チケットを確認していたので、この地点でも検査があったら、自分の運賃が正しいかどうか自信がなかったためだった。どこかで下車したいという不安に駆られて動いたのが、このポイントだったわけである。

そこは見渡す限りの平原と、一直線の道路が続くだけの僻地で、明らかに最終目的地のレグニツァ・ポーレの集落とは異なっていた。
筆者と共にバスを下車した乗客らの多くは学生だったらしく、そのまま専門学校か高校かの校舎へ入っていった(全員が私服だった)。筆者だけポツンと路端に取り残されることとなる。
このバス乗車途中に、道路沿いで「レグニツァ・ポーレ(Legnickie Pol)へようこそ」みたいな看板を発見しており(下写真左)、この進行方向の先にあるのだろう。。。と思うも、集落らしき影はずっと先まで見えない。。。完全に道に迷ってしまったのだった。

レグニツァ レグニツァ

仕方ないので、気を取り直し付近を歩いてみることにする。周囲の 80%は草木が生い茂るだけの空き地だったが、ぽつぽつと遠くに民家や工場、物流用の巨大トラック配車場などが目に入ってくる。
それでも、このバス停から離れて、万が一、後続のバスか反対方向のバスが通過してしまっては大変なので、常に道路両方向を確認しながらの散策だった。

結局、レグニツァ・ポーレまでの踏破の不可能を悟り、再び、先程のバス停に戻る。次の路線バスが来るまで待つしかないことを覚悟する。どちら方面から来るバスでもいいので、即乗車しようと道路両側を見渡していると、上述の学校敷地から掃除婦か、教師かと思わしき、中年女性が 3人、バス停へ歩いてきた。きっと、そろそろレグニツァ中心部へ戻る路線バスが通過する時間帯なんだろうと察し、彼女たちがいるバス停側へ合流する。すると、15~20分ほどで、多くの学生たちも下校とともに出てきて、皆、同じバス停に集まってくる。

それからしばらくすると、路線バスが 26番、28番、29番と立て続けにやって来た。筆者は最初に停車した 26番バスを迷った挙句にやり過ごし、次の 29番バスに乗ってみることにした。すると、このバスは一直線に中心部まで進むルートだった

レグニツァ

このまま再び、レグニツァ中心部まで戻ってしまうと時間がもったいないので、途中でタクシーが見えたら、これに乗り換えて最終目的地のレグニツァ・ポーレに向かう決意を固める。市街地エリアに至ると、途中に ガソリン・スタンドを中心とする交差点で駐車中のタクシーを複数、発見したので、すぐに最寄りのバス停で下車する。この時点で、14:50だった。

夕方 18:00のヴロツワフ発クラカウ行の都市間バスを予約済で、何としても 16:30ぐらいにはレグニツァの中心部へ戻る必要があり、残り 1時間半ぐらいしか時間がない中で迷った挙句、ここまで来たからには絶対、訪問しなければならないと念押しで決意し、一か八かタクシーに飛び乗る。「レグニツァ・ポーレ博物館」と伝えると、初老の運転手はすぐに発車してくれた。
タクシーは先ほどの路線バスと同じルートをぶっ飛ばし、筆者が無駄に時間を過ごしたバス停をも通過して、さらに前進する。ここに至り、最終目的地のレグニツァ・ポーレはまだまだ先だったことを痛感する。上地図。



さらに先へ進み、最初の 集落地(グニエボミエシュ、Gniewomierz)を遠目に見つつ、南下を続けていると、高速道路みたいに巨大な国道 4号線をまたぐ立橋を渡って、やや丘上に位置する レグニツァ・ポーレ村に到着できた(15分程度だったと思われる)。
タクシー運転手はこの村までは分かっていたが、博物館の場所は知らなかったらしく、村の中で何人かの地元民に道を尋ね回っていた。ようやく、ある小さな教会前にたどり着くことができた(下写真左)。

位置関係 から言うと、非常に分かりやす場所に立地していた。この村で随一の規模を誇る巨大教会「聖ヤドヴィガ(聖ヘドウィッヒ)大聖堂(St. Jadwiga's Basilica。下写真右)」の西正面にあった。ちなみに、この巨大な大聖堂は、対モンゴル戦のレグニツァの 戦い(1241年4月9日)で戦死したポーランド王ヘンリク 2世の 実母(1174~1243年)を祀った教会で(1719~1729年建立)、彼女は生前に自身の全財産を教会に寄付し、夫の死後は修道院で生活するなど敬虔な信者だったことから、このシレジア地方のカトリック教会によって守護聖人に列聖された人物であった(13世紀後半~)。

レグニツァ レグニツァ

さて、博物館を兼ねる、この小さなゴシック様式の教会建物の方であるが(上写真左)、正式名称は「三位一体&聖メアリー教会」といい、伝説によると、対モンゴル戦で戦死したポーランド王ヘンリク 2世(1196?~1241年)の遺体を、母の ヤドヴィガ(ヘドウィッヒ)が見つけ出して簡単な廟所を建立した場所と伝えられている。 14世紀後半に至り、レンガ積みの教会に改装され、今日に至るという。こうした歴史上の背景もあり、当地の教会建物を転用する形で、レグニツァ・ポーレ博物館が開設されたわけである。

Muzeum Bitwy w Legnickim Polu
Oddział Muzeum Miedzi w Legnicy
pl. Henryka Pobożnego 3
59-241 Legnickie Pole
Region: (woj. dolnośląskie)
Phone: (+48 76) 858 23 98
WWW: www.muzeum-miedzi.art.pl


教会入口に、開館時間は毎週水曜日~日曜日 11:00~17:00(月曜日、火曜日、祝日は休館)と掲示され、その隣にメモ書きがあり、「この携帯電話に電話して」みたいなことが記されていた。それを指さしていると、博物館の敷地内で運動中の老婆が自分が電話するので待っていろ、と言う。
3~4分ぐらいで博物館の管理人女性が車でやってきた。こんな田舎町だし、決してたくさんの訪問者がある場所でもなく、都度、見学希望者は電話して鍵を開けてもらうスタイルのようだった。

管理人の到着を待つ間、博物館の周辺を撮影していると、地元の子供たちが珍しそうに筆者を見てくる。当地の人々にとっては、中東系の人種は少数ながらいても、東洋系は皆無なので、とても好奇の目を向けられるのを感じる(これはレグニツァ市街地、路線バス内、電車内など、至る所で感じた。。。)。
この博物館建物の裏庭には、石碑とか墓石などが保存されていた(下写真)。解説は、ポーランド語とドイツ語だけだった。

レグニツァ レグニツァ

博物館見学中、同じタクシーで復路も乗せて帰ってもらうため、ここまでの片道 49ズロチの表示金額のうち、50ズロチを先に支払っておいた。

すぐに駆け付けてくれた博物館員はとてもフレンドリーな中年女性で、非常に好感が持てた。自分はドイツ語とポーランド語しか話せないと自己紹介してくれ、筆者もつたないドイツ語で「日本から来ました。10~20分ぐらいしか滞在できません。時間がありません」と伝えると、急いで英語のパンフレットを探し出して手渡してくれた。また、英語の解説ビデオ映像を、筆者一人のために放映してくれた。最初は滞在時間も少ないのでビデオは不要ですと答えたのだが、ビデオ解説も 10分ぐらいだよ、とのことで急いで準備してくれた。至れり尽くせりの対応に非常に感銘を受け、筆者は短い見学時間だったが、かたやビデオ視聴、かたや博物館資料の見学と、濃いひと時を過ごさせてもらうことができた。一か八か、タクシーに乗り換えて当地を訪問した甲斐があった。

ここで放映された映像は、モンゴル軍 とポーランド・ドイツ連合軍との戦闘の経緯、および戦場の様子をまとめたドキュメンタリーで、非常に見応えがあった。下写真。

レグニツァ レグニツァ

①上写真左
この博物館では、モンゴル軍 8,000 vs 欧州軍 2,000~3,000 と想定されていた。
実際、本当に行われた戦地や被害数、両軍の参加人数などを示す資料は全く皆無であり、後世の研究者らが独自に見積もった兵数が発表されるだけとなっている。多いもので両軍ぞれぞれ 25,000相当が激突した、という意見もあれば、ポーランドへ派遣されたモンゴル軍総勢は 1万程度で、そのうち各地の戦闘での死傷者や支配地での駐留、輸送部隊などを勘案すると、多くて 8,000程度、場合によっては 2,000強ほどの兵力だったという説も提示されているという。
対する ポーランド・ドイツ連合軍も多くて 25,000、ただし、多くの意見は 2,000強か、7,000~8,000程度ではなかったか、とされる。この博物館では、モンゴル軍優位の意見が採用されていた。

②上写真右
モンゴル軍の常套戦法だった陽動作戦を示したもので、敵軍を陣地からより前進させるべく、自軍を後退するように見せかけている。

レグニツァ レグニツァ

③上写真左
この陽動作戦に乗せられて、欧州連合軍のうち 1部隊が前進して敵軍への追撃を始めると(4部隊に編制されていた)、モンゴル軍はすぐに反転し、機動力を活かして左右へ回り込み、いつも通りの包囲殲滅作戦を展開する。

全身を鉄の鎧で防備したドイツ、ポーランド騎士団は一騎打ちを戦闘の習わしとし、15分程度の短期決戦が前提であったが、遠巻きにして集団で騎射を仕掛けてくる軽装なモンゴル兵に完全に翻弄され、疲労が急速に蓄積される中でその餌食となっていったわけである。

④上写真右
このモンゴル軍による血祭りの戦闘を見た、欧州連合軍の別部隊が加勢のため前進してくると、その動きにあわせて、モンゴル軍の余力部隊も前進する。実際にはモンゴル軍により煙幕が張られて視界は遮られており、欧州軍は味方の敗残兵らが逃げ帰ってくるのを吸収する形で前進したと考えられる。
レグニツァ レグニツァ

⑤上写真左
総大将を務めるポーランド王ヘンリク 2世の近衛兵らを残し、いよいよ全軍がモンゴル軍に対峙する。

⑥上写真右
しかし、ここで連合軍の一角を成した、オポーレ=ラチブシュ公ミェシュコ 2世(1220?~1246年)の率いるポーランド地方部隊が、急に戦場から離脱するという異常事態が発生する。

レグニツァ レグニツァ

⑤上写真左
ここに至り、総大将のポーランド王ヘンリク 2世の近衛兵らも最前線へ前進し、モンゴル軍に対峙する。

⑥上写真右
いよいよ最後の総力戦が行われるも、個人戦法と集団戦法の差、装備の違いによる疲労の差などから、欧州連合軍は大量虐殺されるのだった。

レグニツァ レグニツァ

⑦上写真左
最終的に大敗を悟ったポーランド王ヘンリク 2世は戦線からの脱出を図り南走するも、このレグニツァ・ポーレ村の丘辺りでモンゴル軍に追いつかれて殺害され、首をとられるのだった。

⑥上写真右
その首はモンゴル軍が次にターゲットとした ヴロツワフ 攻撃の際、守備するポーランド市民の前に晒される。胴体はそのまま戦場に打ち捨てられ、後日、実母で元皇后 ヤドヴィガ(ヘドウィッヒ)により発見される、というエピソードに繋がるわけである。

レグニツァ

また、博物館の 管理人女性(下写真左で上を指さす人物)に、映画の写真みたいなものを示され(上写真)、地元民たちが当時に扮して自分たちでイベントを開催した時のものです、と解説してくれた。

なお、博物館では上記の電子映像以外にも、戦闘当時に使用されたポーランド軍とモンゴル軍の武器サンプルや、往時のイメージ絵図、戦死した国王の墓の絵画コピーなどが陳列されていた。下写真左。
レグニツァ レグニツァ

そのまま 2階部分から続く、5階建ての塔に登ってみた(上写真右)。生々しい木造の塔内には、前述の合戦イベント時の写真がずらりと掲示されていた。

塔の頂上部にたどり着くと、レグニツァ・ポーレ村の四方を一望できた。この広大な平原で戦闘が行われたことは分かっているが、その布陣跡などは一切、不明のままという。
下写真は、東方向。道路向かいには、先ほどの聖ヤドヴィガ大聖堂の一部が見える。

レグニツァ

下写真は、南方向。博物館敷地の門前に、筆者を待つタクシーが写る。その横の黒いヴァンが、博物館員の女性が乗ってきたもの。
レグニツァ

下写真は、北方向。ずっと遠方に見える都市が、先ほどのレグニツァ市街地である。博物館のスクリーン映像では、この北の平原で戦闘が行われた、という前提になっていた。

レグニツァ

下写真は、西方向。
レグニツァ

塔上は開いた窓は無かったが、隙間風がびゅんびゅん入ってくるので、相当に寒かった。

ひと通り見学後、入館料 6ズロチを支払い、博物館の女性管理人に丁重に別れを告げ外に出る。と、さっきの運動中の老婆がチップの手真似をするので、7ズロチ分の硬貨を「電話手間賃」としてあげておいた。


このレグニツァ・ポーレ村は、レグニツァ中心部 から約 10 km南東に位置し、また大都市 ヴロツワフ から西へ 56kmの場所にある。目下、村の住民人口は約 780名という。
もともとドイツ系住民が多く住むエリアであったが、第一次大戦でポーランドが独立すると彼らのほとんどは追放され、それまでの地名「ヴァールシュタット(大殺戮の平原)」から、ポーランド語名「レグニツァ・ポーレ(レグニツァ草原)」へ改称されることとなる。第二次世界大戦直後の 1945~48年の間のみ、「すばらしき草原(Dobre Pole)」に変更されていたという。

この吹けば飛ぶような無名の村が、一役、歴史の表舞台に躍り出たのは、 1241年4月9日に歴史的な大決戦が付近で行われたためであった。

当時、バトゥ(1207~1256年。チンギス・ハーンの 長男ジョチの次男)に率いられたモンゴル軍は、1237年にヴォルガ川沿いのブルガリア王国を占領し、その後、北上してモスクワを下し、1239~1240年にかけてキエフ・ルーシを席巻する。さらに西隣のハンガリー王国侵攻を進めるべく、軍を 2つに分けて内外からハンガリー王国へ迫ることとなった。直接、ハンガリー領へ侵入したバトゥ本隊に対し、別動隊を率いたのが バイダル(チンギス・カンの 次男チャガタイの第 6子)や、コデン(チンギス・ハーンの三男で、2代目皇帝となっていた オゴデイ・ハーンの次男)、オルダ(チンギス・カンの 長男ジョチの長男。バトゥの異母兄)ら、同じモンゴル帝国の皇族らであった。

別動隊は 1241年 2月からポーランド領への侵攻を開始し、瞬く間に 王都クラカウ まで占領してしまう。ポーランド王国内の多くの都市や集落では、モンゴル軍襲来前にすでに住民や貴族層は山林地帯に逃走しており、もぬけの空となっていたという。この時、ポーランド国王ヘンリク 2世(1196~1241年。ピャスト朝一族)は王都を放棄し、西部のシラスク地方で残存兵力の結集を図りつつ、西洋諸国からの援軍到着を待っていた。すでにポーランド王国の残存兵力と、西の隣国バイエルンからの 援軍(騎士修道会)や、ボヘミア の貴族、炭鉱夫、傭兵らの加勢も加わわりつつあった中、 1万にも満たないモンゴル別動隊を率いたバイダルは、ポーランド国王の兵力が強大化する前に叩くことを企図し、国王が在陣していたレグニツァ城を目指して進軍してくる。
ここに両軍はレグニツァ城の郊外、現在のレグニツァ・ポーレあたりの大平原で対峙することとなったわけである。しかし、戦闘はわずか一日で決し、国王戦死というキリスト教連合軍の壊滅的敗北で終わる。いよいよ西洋諸国に大きな動揺が走るも、モンゴル軍別動隊の兵力ではさらに西へ侵攻する余力もなく、目前のレグニツァ城の攻略も手掛けずに東へ引き下がり、 大都市ヴロツワフ を陥落させた後、ハンガリー王国に展開中のバトゥ本隊と合流すべく、南進することとなる。

バトゥ本隊は別動隊の到着を待つことなく、2日後の 4月11日、ハンガリー王国の主力と東ヨーロッパ連合軍をシャイオ河畔の 戦い(モヒの戦い)で撃破し、ハンガリー国王べーラ 4世(1206~1270年)を敗走させて、ハンガリー王国の支配を手中に収めることとなる。こうした中で翌 5月、両部隊が合流を果たす。
両軍は引き続き、ハンガリー王国中を席巻して回り、いよいよオーストリア王国の王都ウィーン侵攻へと舵を切ったタイミングで、1242年3月、モンゴル帝国からの帰国命令を受け取るのだった。前年 12月11日に第 2代モンゴル帝国皇帝 オゴデイ・ハーン(1186年~1241年。チンギス・ハーンの三男)が崩御し、これにともなう 次期国王選挙(クリルタイ)のための帰国指令であった。以後も、現在のウクライナに地にとどまったモンゴル軍は度々、東ヨーロッパ各地を襲撃するも、このレグニツァの古戦場まで再度、足を踏み入れることはなかった。以降、この小さな村がモンゴル遠征軍の最西端として、歴史に刻まれることとなったわけである。

この戦いで、モンゴル軍の恐ろしさを見せつけられた欧州軍、特にドイツ騎士団は、あまりに被害が甚大であったことから、長らく「ワールシュタット(死体の山)の戦い」と、ドイツ語で語り継いでいくこととなる。戦後、古戦場跡には墓地や慰霊碑が建立され、毎年、供養が執り行われてきたという。
モンゴルの襲来はヨーロッパ世界に大きな衝撃を与え、従来の東の隣人であったイスラム世界の、さらに東方に別のアジア民族が存在することをはっきりと認識するイベントとなったわけである。以後、この東方からの 野蛮人たち(モンゴル人)は、欧州で タルタル人(タタール人)と呼ばれるようになる。これは、ギリシャ神話に出てくる地獄からの使者(Tartaros)にちなんで命名されたという。当時、キリスト教圏では、世界の終わりの前触れとして認識され、大きな動揺を強いられたが、翌 1242年春にモンゴル軍の侵攻が休止され、謎が深まる中で九死に一生を得たのだった。

レグニツァ

なお、これだけ欧州を震撼させたレグニツァの戦いであるが、正確な戦場や両軍兵力などは一切、明らかになっていないという。驚くべきことに、この大会戦に対し、長く名前すらつけられていなかったらしい。14世紀、あるドイツ人歴史家がこの戦場跡を「ワ―ルシュタット(死体の山)」と言及したことが、最初の記録という。なんとか逃げ帰ったドイツ騎士団の兵士らが恐怖体験を語り継ぎ、特にドイツ文化圏の記憶に刻み込まれたのだった。
戦後になって、古戦場跡には慰霊のための施設や人々の往来が増えていくと、 13世紀後半に付近に集落が誕生することとなる。そのままワ―ルシュタット村と通称され出したという。

14世紀後半に至り、ベネディクト修道会が村での布教権を獲得すると、最初の本格的なレンガ積み教会が建立される。その敷地は、戦死した国王ヘンリク二世の廟所があった場所が選ばれ、この慰霊施設を全面改装する形で建設工事が進められたという(1350~1386年)。これが現在の レグニツァ博物館(三位一体&生母マリア教会)というわけであった。以後、ベネディクト修道会系の司祭が派遣されてくることとなる。
15世紀末~16世紀初頭には、文学作品でもワ―ルシュタットの戦いが題材として取り上げられるようになり、欧州全土で広く知れ渡っていく。こうした過程で、ワ―ルシュタット村はシレジア地方の歴史遺産として認識され、さまざまな逸話が後出しで生み出されたと考えられる。実母であった元皇后ヘドヴィックが自ら当地に赴き、ポーランド王ヘンリク 2世の遺体を発見したというエピソードや、慰霊の廟所が建立された、という逸話もその一環であると推察される。

この ヘドヴィック(元皇后)と ヘンリク 2世母子の悲劇エピソードは、最初は宗教的美談として、後世になって政治的シンボルとしてクローズアップされるようになっていく。

夫の国王ヘンリク 1世(1163~1238年)の死後、自身の全財産を教会へ寄贈し、さらに自身も出家して修道院生活を送っていた元皇后 ヤドヴィガ(ヘドウィッヒ。1174~1243年)は、息子でポーランド国王を継承していたヘンリク 2世の戦死を聞き及び、この戦場跡を訪問したとされる。そして、たくさんの戦死体の中から、首のない息子の遺体を見つけ出す。それは戦前、自身が送った絹のリボンを持っていたことから判明したとされる。彼女はその遺体を丁重に埋葬し、慰霊の廟所を建立したというわけだった。その廟所を全面改装させる形で、ベネディクト修道会系の教会が建設されると、特に 16世紀初頭以降、命を賭して戦ったヘンリク 2世は、キリスト文化圏を守って殉死した英雄と称えられ、その生母 ヘドヴィック(全財産を教会へ寄贈するなどしたため、1267年にすでにシレンジア地方の守護聖人として列聖されていた)はキリストの生母マリアになぞらえられて、両者は大々的に崇拝されていくこととなる。
17世紀にオーストリア帝国が当地を支配した際、カトリック派を保護したため、聖人化されていた元皇后ヘドヴィックが再クローズアップされるも、 19世紀までには宗教的意味合いがかなり薄れていく。

逆に 18世紀、ポーランド国家のために殉国した国民的英雄としてヘンリク 2世が大々的に称えられるようになる。これは、オーストリア帝国に代わって当地を支配した プロイセン王国(これに続くドイツ帝国も)が統治宣伝に利用したためで、外国勢力の脅威からドイツ民族や文化圏を守った偉人として英雄視されたのだった。ドイツ支配下にあったポーランド人にとっても、外国勢力から郷土を守った英雄として評価されるようになる。第一世界大戦後の 1918年、ポーランド共和国が独立すると、ますます英雄化されることとなった。それまでの中世的な宗教的シンボルから、近代的な政治的シンボルに切り替わった瞬間であった。

レグニツァ

1939年秋、ナチス・ドイツがポーランドを併合すると、ドイツ国民とポーランド国民とを統合する象徴として利用されることとなった。ドイツ、ポーランド連合軍が共にドイツ文化圏を守るために共闘した、歴史的逸話へとすり替えられて行ったわけである。ナチス・ドイツは 1941年6月22日にもソ連侵攻に着手することになるが、くしくも 1941年(4月9日)が対モンゴル戦の 700年周年に相当したこともあり、シレジア地方各地で大々的にセレモニーが催された直後だったという。ソ連が支配する東部には、まだまだ異国民の圧制に苦しむ ドイツ、ポーランド系の住民がたくさん存在し、彼らの解放のために軍事行動が必要であると鼓舞され、ドイツ軍のソビエト遠征が決行されたわけである。
戦後のポーランドにあっても国家を挙げて英雄化され、特にシレジア地方の人々に大いに支持される母子として、今日まで語り継がれている。



すぐにタクシーに飛び乗る。ドライブ途中に「どこへ行くのか?」と聞いてくるので、 ヴロツワフ と答えると、自分が送ってやろうか?と言ってくる。電車で帰りますと伝えると、16:05ぐらいにレグニツァ駅前に帰り着けた。往復と博物館での待ち時間あわせて、ドライバーの拘束時間は 1時間15分にも及んでいた(合計 90ズロチ)。

駅窓口でヴロツワフへの乗車券を購入し、発車時間を質問する。本当は、16:30前発の列車に乗りたかったが、なんと 15:37からこの 16時台だけは 100分間、皆無だった!(17時台は前半と後半の 2本の運行があるのに !!!)。仕方ないので 16:42発の切符を買った(15.6ズロチ)。下写真。

レグニツァ

なお、レグニツァ駅は清潔なトイレが無料で使えるのが助かった。また、駅構内は警察官が常にウロウロしており、この田舎町は共産主義時代の公務員絶対の名残が未だに根強いのだろうか?と感じた。ポーランドではバスや列車の乗車券検閲などが頻繁にあり、公務員中心の社会主義時代の名残を節々に感じた。

30分以上、時間が余ってしまったので、駅舎外観や構内など撮影して時間を過ごし、 16:30過ぎに他の乗客とともにホームに向かう。列車は 16:42きっちりに発車した。
すでに列車内の座席は満席で最初の半分は立っていたが、途中の田舎町で乗客が下車していったので、座ることができた。安心感からかウトウト寝入ってしまった。
列車はやや遅れ、17:40過ぎに ヴロツワフ駅 に帰着できた。


 レグニツァの 歴史

紀元前 10世紀ごろ青銅器文化が開花し、紀元前 8世紀前後には ルサチア(ラウジッツ)古代文化圏に属した。ドナウ川上流域の盆地エリアにケルト人が侵入してくると、レグニツァやズデーテン地方の北部丘陵地帯は、ケルト文化圏に編入される。
紀元前 1世紀~紀元 3世紀ごろ、ポーランド中南部に古代ルギイ帝国が建国されると、この勢力下に組み込まれる。7世紀ごろ、今のレグニツァや グウォグフ中心部に、ルギイ族の集落が形成され出したと考えられている。

5~6世紀にかけて北半球が寒冷期を迎えると、ルギイ族はより温暖な地中海方面へと大移動を開始する。その空地となっていた中央ヨーロッパに、スラブ系民族が大移動してくることとなったわけである(8世紀ごろ。再び温暖期がスタートしていた)。このとき、レグニツァにはスラヴ系のレヒト族が流入する。 そして、このスラヴ系文化圏下にあった 1004年、レグニツァの集落に関する記述が初めて史書で言及されるのだった(下地図)。
なお、レグニツァ城館跡の発掘調査の結果、ピャスト朝ポーランド王国の創始者で 初代ポーランド国王ミェシュコ 1世(935?~992年。下地図)の治世下、すでに初期ピャスト王朝に典型的にみられる初歩レベルの要塞集落の存在が、この城館跡地から確認されている。

レグニツァ

次に史書に登場したが 1149年の記述で、当時の ポーランド国王ボレスワフ 4世(1120~1173年。後述のボレスワフ 3世の末子)が、聖ベネディクトゥス修道院の中に教会を建立するため、多額の寄贈を行った内容を記したものという。
この頃から、シレジア地方はピャスト朝ポーランド国王一族らの分封により領土は細分化され、それぞれの封国どうしての反目と争乱が断続的に続く、不安定な時期に突入しつつあった。レグニツァの町は、ボレスワフ 3世(1085~1138年)の 長男ヴワディスワフ 2世(1105~1159年。先出のボレスワフ 4世の異母兄)の子孫が入封し、本拠を構える主要都市として君臨することとなる(1163年)。引き続き、ポーランド王国の王都はクラカウであったが、 1241年2月のモンゴル軍侵攻により王国全土が荒廃し、王都もまた焼土と化してしまうのだった

王都クラカウから脱出し、ポーランド王国西端まで撤退していた国王ヘンリク 2世(1196?~1241年)は、西洋諸国へ救援要請を出しつつ、ポーランド王国の王族や貴族らの残党を結集させ、来るべきモンゴル軍に対する迎撃準備を進めていたわけであるが、他の西洋諸国からの呼応はなく、わずかに隣国 ドイツ・バイエルン州からの鉱夫や傭兵ら、 ボヘミア から派遣されてきた一部の援軍のみが加わっただけであった。
1241年4月9日、レグニツァ・ポーレの大平原で対峙した両軍の戦闘は、モンゴル軍の圧勝で終わり、国王ヘンリク 2世も戦死する。モンゴル軍はその後、西洋へ侵攻することなく、本隊が交戦中だったベーラ 4世(1206~1270年)率いるハンガリー王国への戦闘に加わるべく、東へ引き返すこととなる。モンゴル軍はポーランドを占領地とはみなしておらず、特に占領政策も実施せず略奪と破壊だけで撤退していったという。このため、都市や村落から山林地帯へ逃亡していた住民らはすぐに町の復興を進めることとなり、特にポーランド王国の西端にあって戦火を免れた レグニツァの 町(郊外まで迫っていたモンゴル軍は、最終的に攻撃せずに撤退していた)は多くの避難民などの流入もあり、急速に発展することとなる。

レグニツァ

敗戦によるポーランド王ヘンリク 2世の死後、その長男のボレスワフ 2世(1220?~1278年)が、ポーランド王位を継承する(その領土はモンゴル軍の侵攻で半減され、今のポーランド西半分のみに縮小されていた)。しかし、1248年に実弟のヘンリク 3世(1227?~1266年)が成人し、自身の分封を主張すると、中心都市ヴロツワフ の貴族らも支持したため、ヘンリク 3世はヴロツワフを中心とする低シレジア地方の中央部に分封されることとなった(下地図のヴロツワフ公国)。これを受けて、国王ボレスワフ 2世自身はレグニツァの町を拠点とし、王国の西端スペースのみを領有するだけとなった(レグニツァ公国の始まり。以後、1675年までレグニツァ公国の王都となる)。

さらに、ボレスワフ 2世は別の弟 コンラト(1228?~1273年)とも衝突する。彼はもともとカトリック派のパッサウ司教職を予定されていた人物であったが、自身の相続配分を主張し、1251年、ボレスワフ 2世は新設した グウォグフ公国(下地図)をこの弟に分封することとなる。

モンゴル軍による破壊と殺戮により、王国内の分封体制が一新され、再び統一ポーランド王国の国王となったボレスワフ 2世であったが、弟たちにより再び分封体制が再開されると、最終的にレグニツァ公国の領主にまで身を落とし、1278年に当地で崩御するのだった。その遺体は、自身が建立した聖ドミニコ修道院の墓地に埋葬され、ポーランド国王の中で唯一、レグニツァの町に葬られた人物となる。
同年、息子のヘンリク 5世(1248?~1296年)がレグニツァ公国を継承すると、 ボヘミア王ヴァーツラフ 2世(1271~1305年)の支援を得て、従弟にあたるヘンリク 4世(1258~1290年。父ヘンリク 3世からヴロツワフ公を継承していた)との戦争に勝利し、 ヴロツワフ公国 を再併合する(1290年)。再び、低シレジア地方の中枢を成した両国を統一し、ポーランド王国の復興を目指すこととなるのだった(1311年まで)。下地図。

1296年にヘンリク 5世が死去すると、長男のボレスワフ 3世(1291~1352年)が王位を継承するも、まだ未成年であったため、先の戦争で支援関係にあった ボヘミア王ヴァーツラフ 2世が後見役を務めるという名目で王位を継承し、シレジア地方にもボヘミア王の勢力が伸張されてくる
1303年、ボレスワフ 3世(1291~1352年)はヴァーツラフ 2世の娘であるマーガレットと婚約することとなり、 1306年にプシェミスル朝ボヘミア王国が正式にポーランドを併合するに至る。そのまま間接統治の形でボレスワフ 3世がレグニツァ公国の統治を続けるも、先の戦争でせっかく統一されたシレジア地方をまとめきれず、1311年に再分割に追い込まれる。再び、レグニツァ公国のみを自領として残し、実弟のヘンリク 6世(1294~1335年)にヴロツワフ公国が分与されるのだった。下地図。
レグニツァ

さらに、レグニツァ公国のみとなったボレスワフ 3世(1291~1352年)は、末弟のヴワディスワフ 3世からも領土分与要求を受けることとなり、ついに 1329年、ボヘミア王 ヨハン・フォン・ルクセンブルク(1296~1346年。彼の子が、後に神聖ローマ皇帝となるカール 4世)に臣下の礼をとって 属領(ボヘミア王冠領)に組み込まれ、自身の領地をボヘミア王によって保全してもらう選択に出る。こうして、他のシレジア地方の公国領と共に独立王国の立場を失ったレグニツァ公国ではあったが、引き続き、ポーランド王家の末裔ピャスト家一族が代々、爵位を継承し、レグニツァを王都と定めたため、町は平和と繁栄を謳歌することとなった(実際には、ボヘミア王はさらなるポーランド現地支配を強化すべく、ボレスワフ 3世の死後、その息子らと特権継承を巡る抗争を水面下で続けたため、レグニツァ公国皇室は政治的に決して安寧ではなかったという)。この時代、1300年までには町に市議会の開設が許可され、1314年には都市自由特権が授与される。1318年に新しい市役所庁舎の建設、 1337年には最初の上水道の敷設工事が着手されるなど、都市としての地位と機能が急拡大されたタイミングとなった。
また 1327~1380年にかけて、ゴシック様式の 聖ペトロ&パウル大聖堂が建立される。もともとあった地区教会の跡地に、レグニツァの町を象徴する巨大かつ壮麗な教会施設が建設され、当地の勢いを見せつけるシンボルとされた。1345年には都市内で流通する硬貨も鋳造され、また 1374年には陶器職人らによって、シレジア地方初の ギルド(職業別組合)が結成される。この 14世紀末までには都市全体を取り囲む市城壁も築造され、一気に完成形へと突き進むのであった。

こうしてレグニツァ公国の王都として、レグニツァの町は中央ヨーロッパにおける重要都市の一角として台頭し、人口は 16,000近くにも達したという。これは王都としての地位もさることながら、レグニツァとゼロㇳレイヤの町の間を流れるカチャヴァ川内で金鉱が発見された影響も大きく、多くの商人や鉱夫らが流入した結果でもあった。しかし間もなく、都市はその収容人口のマックスに到達し、さらにこのタイミングで発生した大火により、多くの木造建築物が灰燼に帰してしまい、そのまま人口は流出し、以後、数十年もの間、都市の発展自体がストップしてしまうのだった。

レグニツァ

1419年、ヴァツワフ 2世(1348~1419年)の死により、レグニツァ公を代々継承してきたピャスト家が直系の命脈を断つと、分家筋の ブジェク公(上段地図)ルドヴィク 2世(1380?~1436年)がレグニツァ公国を相続する。 しかし、このルドヴィク 2世も男系の相続人がいないまま死去したため、レグニツァ公国は ボヘミア王 ジギスムント(1368~1437年。神聖ローマ皇帝カール 4世の子)によって 1436年、相続なしの廃領と決定され、ボヘミア王冠領に編入されるのだった。しかし、ルドヴィク 2世は死の直前、ボヘミア王の同意なしに、異母兄ヘンリク 9世(1369~1420?年)の息子たちに遺言で王位を譲渡していた事実が明るみに出、長い論争が巻き起こることとなる。

最終的に 1454年、ボヘミア王の直轄領化に反発するポーランド貴族や市民らの請願運動もあり、翌 1455年、ルドヴィク 2世の娘ヤドウィガを母に持つフリデリク 1世(1446~1488年)にレグニツァ公の継承が認められ、改めて 1469年、ボヘミア王マーチャーシュ 1世(1443~1490年)によってもその継承が追認されたのだった。こうして引き続き、ポーランド王ピャスト家一族がレグニツァ公位を維持する中、フリデリク 1世の息子であるフリデリク 2世(1480~1547年)が 1499年、レグニツァ公国を継承した際、ボヘミア王ジグムント 1世(1467~1548年)がレグニツァの町を訪問し、当地で謁見している(1505年)。1521年には グウォグフ公国(上段地図)をも継承し、フリデリク 2世の治世下で両者の統合に成功する。

この名君フリデリク 2世の治世時代の 1522年、宗教改革の波がレグニツァ公国にも伝播されると、 神学者 カスパー・シュヴェンクフェルト(?~1561年)と ヴァレンティン・クロイツヴァルトによって大々的に布教が進められ、町の住民らは急速に新教徒派へ転向していくこととなる。

その直後、 ハンガリー王兼ボヘミア王 ラヨシュ 2世が 1526年8月29日、オスマン=トルコ帝国とのモハーチの戦いで戦死すると、レグニツァ公国を含むボヘミア王家の領土全てが、オーストリア帝国の ハプスブルク家(フェルディナンド 1世)に吸収合併されることとなった
なお、この同年に新教徒派のための大学がレグニツァ内に開設されるも、 1529年には閉鎖されてしまう。また、オスマン=トルコ帝国の脅威が迫る中、フリデリク 2世(1480~1547年)は自領の防衛力強化を図り、郊外に点在していた礼拝堂や教会などを解体し、それらを王都レグニツァの城壁と城塞強化用の資材へと転用することとなる。

レグニツァ

1537年のフリデリク 2世の存命中に、二番目の妻ソフィアのいとこに相当する ホーエンツォレルン家ブランデンブルク選帝侯のヨアヒム 2世(1505~1571年)に自領の一部相続が合意されていたが、オーストリア帝国皇帝フェルディナンド 1世(1503~1564年)がハプスブルク帝国内でのホーエンツォレルン家のいかなる勢力伸長も断固拒否したため、相続契約の無効を宣言する。以後もオーストリア帝国の属領として存続したレグニツァ公国であったが、新旧の宗教対立による 30年戦争、さらに 1633年のペスト大流行、翌 1634年のオーストリア帝国軍による郊外エリアの破壊工作などが続き、都市は大いに荒廃する。
1648年に締結された 30年戦争の 講和条約(ヴェストファーレン条約)により、欧州全土での信教の自由が保証されたにもかかわず、カトリックと新教徒派との反目はその後も欧州内で存続し続けたのだった。

1668年、レグニツァ公を継承していたフリスティアンが、ポーランド・リトアニア共和国王選挙に立候補するも、翌 1669年、落選する。
1675年、フリスティアンの子で、レグニツァ公を継いでいた ゲオルク(イェジ)・ヴィルヘルム(1660~1675年。前述の)が 15歳で死去すると、ピャスト王家の血筋が完全に断絶してしまうのだった。彼の遺体は、母ルイーゼによってレグニツァの 聖ヨハネ(ヤン)教会に埋葬され、廟が建立される。その礎石に「シロンスク・ピャスト家の末裔ここに眠る」の文言が刻まれて以降、ポーランド王家ピャスト一族でシレジア地方に分封されて細分化された諸公達たちは、まとめて シレジア(シロンスク)・ピャスト家として歴史学の中で通称されることとなるのだった。

翌 1676年、その遺領はハプスブルク帝国皇帝レオポルト 1世(1640~1705年。神聖ローマ皇帝)によって、直轄地に併合される。
しかし、この領地接収は旧ポーランド王国内で大いに議論を呼び、その論戦に ブランデンブルク選帝侯(プロイセン公)フリードリヒ・ヴィルヘルム(1620~1688年)も加わって、自身の領地継承権を主張したのだった。これは、130年前の 1537年に相続合意があったにもかかわらず、ハプスブルク家によって一方的にレグニツァ公国が簒奪された、と認識し続けてきたプロイセン側の怨念をさらに根深いものにしていく。

レグニツァ

オーストリア帝国に併合されるとすぐに支配体制の強化が図られ、 1708年、レグニツァの都市内にリッターアカデミー「騎士学校」を新設し、シレジア地方の貴族層子弟らを就学させることとした。

なお、レグニツァの 町(上絵図は、1730年当時の様子)は、ポーランド王国の王都ワルシャワと ドイツのドレスデンを結ぶ主要街道二つのうちの一角を成し、交易ルート上にあって大いに賑わうこととなる。この時代、ピャスト王家の血縁ではなく、ポーランド貴族らの選挙によって任命されていたポーランド王位が維持されていたが、18世紀を通じ、ポーランド・リトアニア共和国王となっていたアウグスト 2世(1670~1733年)とアウグスト 3世(1696~1763年)父子が度々、領内移動の際、このレグニツァの地を経由したという。

さて、1世紀の時を超えて、ブランデンブルク選帝侯(プロイセン公)の執念が富国強兵に注ぎ込まれて強大化すると、いよいよ肥沃な平原地帯 シレジア(シュレージエン)の継承権を強行奪取すべく、軍事行動を起こすこととなる。ちょうどオーストリア皇室自身が後継者問題で揺れる中の 1742年、ついにプロイセン軍はシレジア地方への侵攻を開始するのだった。この第一次シュレージエン戦争で大勝を収めたプロイセン王国により、レグニツァを含む、ほとんどのシレジア地方が併合されることとなった。

煮え湯を飲まされたオーストリア帝国は、シレジア地方の再奪還を企図してプロイセン王国との間で 7年戦争を勃発させるも、1760年8月、フリードリヒ 2世 (プロイセン国王)自ら率いる軍と、将軍エルンスト・ギデオン・フォン・ラウドン率いるオーストリア帝国軍がこのレグニツァ近郊で激突し(下絵図)、プロイセン軍が劇的な勝利を収めると、 1763年2月15日、フベルトゥスブルク講和条約が締結され、シレジア地方のプロイセン支配が確定されることとなる。同時に、レグニツァ公国などの諸侯領土の、ほとんどすべての特権がはく奪されてしまうのだった。

レグニツァ

欧州での絶対王政が限界に達しつつある中、フランスでの市民革命に端を発するナポレオン戦争が欧州全土を席巻すると、プロイセン領となっていた都市レグニツァには、ウーラン部隊(サーベルや小銃などを装備したポーランド軽騎兵)が配備され、守備強化が図られるも(1807年)、同年に休戦協定が結ばれ、プロイセン王国の敗戦が確定する。
1813年、ナポレオン軍のロシア遠征が失敗に終わると、欧州各地で反ナポレオン闘争が勃発し、同年 3月、プロイセン軍もその戦列に加わるも、強大なフランス陸軍の前に敗退を重ねることとなる。同年 8月、再び反仏同盟に加わって挙兵すると、8月26日、陸軍元帥 ブリュッヒャー(1742~1819年)の率いるプロイセン軍が、ジャック・マクドナル(1765~1840年)率いるフランス軍をようやく撃破することに成功するのだった(カッツバッハの戦い)。その戦場は、ワールシュタット(現レグニツァ・ポーレ)と レグニツァとの間に流れる小さな河川沿いで行われたという。この戦いでの大勝をたたえられた将軍ブリュッヒャーは後に、ワールシュタット大公(つまり、旧レグニツァ公国の領主)を下賜されることとなる(1814年6月3日)。

ナポレオン戦争の事後処理を取り扱った ウィーン会議後(1815年)、シレジア地方は プロイセン王国(1871年、ドイツ帝国へ改編)の支配下で再編され、翌 1816年5月1日、リーグニッツ行政区が新設される。その後もレグニツァの町は成長を続け、1874年1月1日には、低シレジア地方において、ヴロツワフ とゲルリッツに次いで、第三の都市に列せられる。
第一次世界大戦後の 1918年、ポーランド共和国が独立されると、シレジア地方もドイツ帝国から切り離され、ポーランドに復帰するのだった。


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