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江蘇省淮安市 ~ 人口 565万人、 一人当たり GDP 55,000 元


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  山陽県城(楚州城、淮安軍城、淮安路城、淮安府城)
  淮陰県城(清河県城): 前漢建国の功臣・韓信の出身地
  盱眙県城(盱台県城、盱眙郡城、招信軍城、臨淮府城、泗州城)
  東陽県城
  淮浦県城(安東県城、漣水県城): 後漢末の名行政官・陳登の出身地
  射陽県城
  富陵県城



【 淮安市の歴史 】

戦国時代下の紀元前486年、父の宿敵であった越国を撃破し、さらに北へ勢力伸長して、黄河流域にまで威信を拡大しようとはかった呉王の夫差は、将来、中国最大の京杭運河の一部を成すことになる、長江ー淮河間の運河掘削を手掛けている(揚州から楚州までの間、下地図)。この水運を使って、黄河流域方面への影響力拡大を図ったのだった。
以後、淮安市エリアは重要な水運ルートの沿線上に位置し、春秋戦国時代を通じて、呉国(紀元前473年、滅亡)や、越国(紀元前334年、滅亡)、楚国などの列強がその支配権を競い合うことになる。
淮安市

秦の始皇帝が中原を統一すると、全国に郡県制が導入される。
当エリアには、淮陰県(今の淮安市淮陰区碼頭鎮の南東部)、盱眙県(今の淮安市盱眙県の中心部の北側)、東陽県(今の淮安市盱眙県馬壩)などが設置された。

紀元前210年に始皇帝が死去し、秦朝の治世が一気にほころびを見せると、全国各地で農民反乱が勃発する。淮安市一帯の人々もこれに同調し、多くが決起に参加した。
この戦禍の時代、大将軍として立身出世を遂げ、前漢建国の第一人者となる韓信が出身地・淮陰県より世に出ることとなったわけである。

前漢朝時代、淮安市エリアでは淮浦県(今の淮安市漣水県の西部)、射陽県(今の淮安市の南東部)、富陵県(今の淮安市内の洪澤湖に水没)などの諸県が増設される。下地図。

淮安市

この秦朝、漢朝の治世時代、灌漑設備の有無が、農業生産高に大きな影響を及ぼしていた。

後漢末の200年、広陵(今の 江蘇省揚州市)太守であった陳登が全長 15kmにも及ぶ大堤防(高家堰【下地図】ー 現在に見る洪澤湖大堤の前身)を建造したのがその象徴で、同時に一帯の灌漑設備が再整備され、農田の保護と開拓が積極的に実施された。
古代より、淮河や洪澤湖は度々、洪水を発生させており、その治水は常に為政者の課題とされてきた。

淮安市

あわせて後漢末には、鉄製農具と水牛を使った耕作ノウハウが広まり、戦乱の世になっても、農業生産高は大幅に増加していくこととなる。

また、秦の始皇帝が馳道を開通させて以降、順次、全国の交通ルートが整備されていった。
先述の後漢末の陳登(25歳で東陽県長官に就任し、陶謙、劉備、呂布、曹操に仕えた行政官、軍略家)は大堤防の西側に街道を整備し、長江と淮水の交通ルートを大いに発展させることに貢献している。
こうした社会基盤の発展は、手工業や商業を急速に拡大させ、この地から数多くの文化人を輩出する土壌を形成することとなった。

淮安市

後漢中期~三国時代(上地図)にかけて、淮安市域は下邳国に属し、関羽や曹豹、孫堅、歩騭、陳登ら、そうそうたる面々が当地を出身地としたり、任官の地として足跡を残している。

しかし、後漢末から西晋、南北朝時代を通じては、300年近く戦乱が続き、その主要な戦線地帯となってしまった長江と淮水の中間エリアは大いに荒廃することとなった。
こうした戦乱渦中にあった東晋時代の411年、今の淮安市淮安区の中心部に山陽県城が築城され、同時に山陽郡の郡都に定められる。


北周朝(下地図)より権力禅譲を受けた楊堅が、隋朝を建国した581年、山陽郡が廃止され、楚州が新設される。州都は、寿張県城(淮陰県城より改称も、すぐに元に戻される)に開設される。

淮安市

589年に南朝の陳朝を滅ぼし、中華全土の再統一を成し遂げた楊堅は、591年、楚州の州役所を寿張県城(淮陰県城)から山陽県城(今の淮安市中心部)へ移転する。長い間、南北朝の狭間で大きく荒廃した山陽県城一帯に、久しく長期平和の時代が訪れることとなった。

二代目皇帝として煬帝が即位したばかりの翌605年、楚州と淮陰県城が廃止されて、両者は山陽県城に吸収合併される。
この時代、大運河が掘削され、洛陽から揚州へ至る交通の要衝として大いに繁栄することとなる(下地図)。以後、清末に至るまで、淮安市には運河管理のための役所(漕運総督など)が設置された。

淮安市

3度にわたる高句麗遠征の大失敗、突厥による領土侵犯などが続き、煬帝の権威は地に落ち、その治世の後半から、全国で農民や群雄らの反乱が勃発し、全国の統治機構は全く機能しなくなる(煬帝も618年に家臣に殺害される)。こうした混乱の時代、海州(東海郡-今の 江蘇省連雲港市)を本拠地とした臧君相が江都郡下の山陽県城と安宜県城をも占領し、東楚州と改称させ、その領土に併合するも(上地図)、 621年、臧君相は唐王朝に帰順し、唐朝により624年、正式に楚州が設置され、山陽県城が州都に定められる(下地図)。

667年、山陽県から淮陰県が分離・再設置される。700年代後半の一時期、楚州は淮陰郡へ改称され、そのまま山陽県城が郡都を継承した。この頃、淮陰郡下には山陽県、塩城県、宝応県、淮陰県の4県が配されていた。

淮安市

唐代初期に入ると、今の淮安市漣水県一帯は全国でも四大塩場の一つに数えられるようになる(下地図)。
680年代後半、塩の運搬専用の塩河が掘削され、淮安市一帯は塩の運搬拠点として興誠を極める。

楚州(山陽県城ー今の淮安市中心部)と泗州(盱眙県城ー今の淮安市盱眙県の中心部の北側)は、運河沿いに発展した2大都市として君臨するようになり(上地図)、その中でも楚州(山陽県城)は詩人の白居易により「楚呉地区の人々でにぎわう当地は、淮水の南東における第一の美都」とまで称されている。

淮安市

北宋時代も、淮安市一帯は比較的に平和を享受することとなる。運河と塩の物流は引き続き順調で、さらなる発展が後押しされた。この時代、北宋朝廷により灌漑設備の整備が進められ、土地開墾が活発に進展する。

南宋と金、元王朝が対峙した時代、淮安市エリアは常に戦線の矢面にあり(下地図)、一帯は大いに荒廃することとなる。
南宋時代の1228年、楚州が淮安軍へ改称され、1276年、元朝により南宋が滅ぼされると、 1283年には淮安路へ改編されて、そのまま山陽県城に路役所が併設された。

淮安市

しかし、北宋や元朝による全国統一が成し遂げられていた時代には、その交通の重要都市「山陽県城」一帯はすぐに経済復興が成り、その都度、各地で私立の教育機関が乱立され、生活文化もすぐに復活を遂げていった。
当エリアでは、著名な文化人(蘇門四学士―張耒、衛朴、龔開、湯卮―や、蘇軾、黄庭堅、米芾、蔡襄、趙孟頫など)を数多く輩出している。

しかし、同時に、黄河や淮河、洪澤湖が度々、氾濫したこともあり、治水面では大いに苦しめられ続けたエリアでもあった。

南通市

明代、清代には、山陽県城(淮安県城から改称)に淮安府が開設される(上地図)。
明代の1400年代前半、淮安運河が再び再興されることとなり、同時に、淮安市の北西部にある清江浦もまた水運の動脈として勃興していく(下地図)。

淮安市

しかし、明代の中期以降は、再び黄河や淮河の氾濫が続くようになり、一帯の農村や漁村は壊滅的な打撃を被ることとなる。
明代、清代を通じて、朝廷は河川整備に多大な労力を継ぎ込み続けた。特に明代後期、漕運総督に就任した潘季馴(1521~1595年)により、洪澤湖の大堤の延伸が開始され、清代中期までに30kmにも及ぶ石造の巨大堤防が完成することとなった。

以後、淮安運河沿いは大いに発展し、河川交通に代わる物流の大動脈として台頭する。こうして、淮安府城(山陽県城)は 揚州蘇州杭州 と並び、運河上の四大都市の一角を占めるまでに繁栄を誇った。

淮安市

明代、清代を通じ、山陽県下からだけでも科挙合格者を200人以上も輩出しており、高度な文化先進地区となっていた。
かの『西游記』の作者である呉承恩(1500ごろ~1583年)も当地出身の一人である。

淮安市 淮安市

中華民国が1912年に建国されると、淮安府は廃止され、府都であった山陽県城は淮安県へ改称される。また、清河県は淮陰県(今の淮安市淮陰区)へ変更された。
同時に、清代まで有した運河使用権や塩業などの諸特権が廃止され、近代化に伴う交通手段の発達と長年の内戦の過程で、一帯の商工業は大いに衰退していった。


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