BTG『大陸西遊記』~中之島仙人による 三次元的歴史妄想記~
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黒竜江省 伊春市 ~ 人口 115万人、 一人当たり GDP 29,000 元


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  現在、市域の大部分は森林公園が広がる。古城遺跡は特になし。



【 伊春市の 歴史 】

周王朝時代、現在伊春市域は肅慎族の勢力圏下にあった。
戦国時代から南北朝時代にかけては、貉族、扶余族、豆莫婁族(高句麗に滅ぼされた北夫余国の残党勢力)などが割拠していた。

隋代から唐代初期にかけて、靺鞨族七部(満州族の祖先)の一つである、黒水部のテリトリー下に置かれた。下地図。

伊春市

722年、黒水靺鞨の族長・倪属利稽が唐朝へ朝貢してくると、唐朝廷は彼をそのまま勃利州刺史に封じ、黒竜江と烏蘇里江との合流ポイントである 伯力(今のロシア・ハバロフスク市)に、行政庁を開設させる。

続いて 725年、唐朝廷はこの黒水靺鞨七部の地に黒水軍を新設し、後に黒水都督府へ改編する(下地図)。引き続き、地元の部落長が都督や刺史に任命される、間接統治スタイルが採用された。以後、約 815年ごろに廃止されるまでの約 90年間、黒水都督府は存続するわけだが(安東都護府に帰属)、時に中央朝廷から地方役員が 長史(副都督、副刺史)として派遣され、直接統治が採用されたこともあったという。
伊春市

契丹族が渤海国を滅ぼし(926年)、遼王朝を建国すると、女真族が北へ大規模に移住し、松花江沿いに集落地を形成していく。これらは、大きく 5か所に分布し、五国部と通称されることとなった(東京道に帰属)。

遼王朝を滅ぼし(1125年)、金王朝が建国されると、上京会寧府下の蒲与路の行政区に組み込まれた。
元王朝時代には遼陽行省下の水達達路に、明代には奴爾干都司屯下の屯河衛に統括される。

清代初期、寧古塔昂邦章京(満州語で「昂邦章京」とは、軍事司令官や頭領の意味)が最高行政庁として新設される(1662年、鎮守寧古塔等処将軍へ改称される)。当初、行政庁は 寧古塔(今の 黒竜江省牡丹江市 寧安市)に開設されていたが、1676年、現在の 吉林省吉林市 竜潭区烏拉街満族鎮へ移転される。

1683年、寧古塔将軍の管轄区の北西部に、黒竜江将軍が新設されると、今の伊春市域もこれに統括される。 1698年、黒竜江将軍の下に、斉斉哈爾(チチハル)副都統(今の 黒竜江省チチハル市 中心部)が新設されると、これに属した。下地図。

伊春市

中華民国時代初期、湯原県(今の 黒竜江省ジャムス市 湯原県)の行政区に組み込まれる。当時、大部分の土地が原生林が広がるエリアであったが、日本が満州地方を併合すると、本格的な土地開発と産業育成政策が進められることとなる。特に、鉄道インフラ整備は顕著で、1941年11月に綏佳線が開通、1942年7月には湯林線の 南岔(今の 黒竜江省牡丹江市 陽明区南岔村)ー 伊春区画が完成する。以後、日本政府により鉱山資源開発が本格化する。そんな中の 1945年春、湯原県役所が現在の伊春市中心部へ移転されると、伊春街が新設される。日本の敗戦直後の 1946年、湯原県南岔区へ改編され、1949年10月に伊春鎮が新設される。
1952年12月1日、伊春県政府が正式に成立する(松江省に直轄。1954年8月に松江省、黒竜江省が合併し、黒竜江省の直轄となる)。

なお、この「伊春」の地名であるが、湯旺河の支流にあたる伊春河に由来しており、モンゴル語で「九」を意味する、という。

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